一郎あんちゃんの嘘つき
一郎あんちゃんの嘘つき
うららかな春です。
道のすぐそばの畑では一面キラキラと輝く濃い緑色の葉っぱの方々から真紅やピンクの、それから、まだ白いイチゴの実が顔を覗かせて、美味しいよと道行く人に話しかけている様ですので、学校帰りの次郎はもうたまりません。
ごくりと喉を鳴らすと、きょろきょろと辺りを見回してみました。
誰も見ていないようです、ただ、黄色い蝶がひらひらと何だか眠たそうに飛んでいるだけです。
おなかが空いていたのです、喉も乾いていたのです、次郎は思わずふらふらと畑の中に入って、自分の手の平の半分ほどもある大きな赤いイチゴを素早くもぎ取るが早いか、もう、後も見ずに一目散に駆けだしました。
わあ、次郎が走ること、走ること、あ、こけました、すぐに立ち上がりました、また、走り出しました。速い、速い、まるで風のように、少しばかり曲がった道を、砂煙をあげて、びゅんびゅんと風を切る音を立ててすごいスピードで走って行きます。
やっと、家の近くの一本の大きなクスノキのそばまでやって来ると、どっと倒れ込んで肩で大きく何度も、はあ、はあ、と息をしますと、やっと少しばかり落ち着いて来ましたので、手のひらのイチゴを見ると、右手でしっかり握ったまま走ったからでしょう、丸々太っていたイチゴは何だかだいぶ細くなってしまっていました。
それでも鼻を近づけますと、リンゴやミカンやブドウやパイナップルを混ぜ合わせてジュースにしたような甘く酸っぱい薫りがしました。
その時です、クスノキがゆさゆさと揺れたのです。
「おい、こら、次郎」
次郎は腰を抜かさんばかりに驚いて見上げました。
そこには、一郎あんちゃんが、クスノキの枝にぶら下がってぶらんこのように、ゆさゆさと揺らしていました。
次郎は急いでイチゴを飲み込んだのでした。
あんまり急いで食べたものですから、イチゴの砂が咽喉に引っ掛かってじゃりじゃりとしていて、せっかくのイチゴの味を楽しむ間もありませんでした。
「おい、次郎、お前、イチゴを盗んで食べたな」
「うんにゃ、僕、知らん」
「嘘つけ、お前の手は、イチゴの汁で真赤じゃあないか」
次郎は急いで周りの草で手をごしごしと拭いました。
「お百姓さんはな、盗まれた時はすぐに分かるように、イチゴの数を数えて、毎日点検しているのだぞ。それに、イチゴの一つ一つに番号を付けているから、今頃は盗まれたことを知って、誰が盗んだか調べている頃だ。次郎、すぐに見つかってしまうぞ、俺は、しーらね」
それだけ言うと、一郎あんちゃんは、木から飛び降りて、さっさとどこかに行ってしまいました。
次郎は、段々と心配になって来ました。
一郎あんちゃんの言ったことは本当なんだろうか。
その日の午後は、ずっと憂鬱でした。
そして、誰かが、家を訪ねてくるたびに、びくびくッとしたのでした。
「どうしたのよ次郎、何だか元気が無いじゃないの」
夕御飯のとき、次郎の様子が気に掛かったのでしょう、お母さんがそっと寄って来て、次郎の額に手を当てました。
「何でもないよ」
次郎はうるさそうにその手を払いのけて、ご飯を黙々と食べました。
「母さん、放っておきなさい」
お父さんが、次郎をちょっと睨み付けて、たくあんを音を立てて食べながら言いました。
一郎あんちゃんは、ニヤニヤしながら、次郎の様子を眺めていました。
その夜、次郎はこんな夢を見ました。
どこか分かりませんが、とにかくとっても広い海を一人で眺めていますと、どこからか「次郎、次郎」と呼ぶ声がします。
声の方を振り向くと、何と、そこには怖い顔をしたお百姓さんが立っていたのです。
「あっ」と声をあげて、次郎は逃げ出しました。
お百姓さんは、両手を振り上げて、ワア、ワアと叫びながら、追いかけて来ます。
次郎は一生懸命に逃げるのですが、足が思うように動きません。
いくら、力いっぱい走っても、足は空中で空回りをして、地面に着きません。
また、地面に着いたとしても、いつか見たスローモーション映画のように、ゆっくり、ゆっくりとしか動きません。
お百姓さんは、見る見るうちに追いついて、次郎の肩をつかみそうになります。
いつか次郎は空を飛んでいました。
しかも、平泳ぎで空を飛んでいるのでした。
ですから、飛んでいるというよりも、空中を泳いでいるという表現の方が適当なのかもしれません。
少しでも手足を休めると、ぐんぐんと地面に向かって落ちていきます。
その時は、また、急いで手足をバタバタと速く動かすのです。
次郎は、すいすいと、いや、のらりくらりと、飛んでいるのでした。
ふと横を見て、次郎は、びっくりするとともに、じたばたとしました。
お百姓さんが、次郎と並ぶようにして、空を飛んでいるのです。
お百姓さんは、クロウルでした。
そして、泳ぎながら、次郎をじっと睨み付けて言うのです。
「お前だな、うちの畑のイチゴを盗んで食べたのは。言い逃れは出来ないぞ。あのイチゴは三列目の第三番目のイチゴだから、ハの3という目には見えないほど小さな番号をふっていたんだ。それに蝶々がお前の盗む様子をちゃんと目撃しているのだ。言い逃れは出来ないぞ、隠したり、嘘を吐いたりしても駄目だ。さあ、返せ、返せ、元に戻せ」
返せ、返せと言ったって、イチゴはもう食べてしまったのですから、今更どうしようもありません。
次郎は、怖くて、怖くて、たまりません。
頭が痛くなって、その上、手足はジンジンしてきて、これはもう、大変なことになってしまったものですから、「大変だあ、大変だあ」と叫びながら、めちゃくちゃに空を泳ぎ続けたのでした。
翌日、目が覚めて、次郎は学校へ出かけてきました。
その日は、三月の終わり、終業式の日でした。
明日からは、春休み、いつもならば、休みのうちに何をして遊ぼうかとワクワクしながら出かけるのですが、何だか気分が沈んで、落ち着きません。
今頃は、きっとお百姓さんが学校に出かけて、次郎がイチゴを取って食べたことを先生に言いつけているに違いありません。
学校が近づくにつれて、次郎の足は重たくなるのでした。
次郎は考えました、そして、このまま家に帰ろうと決心したのでした。
くるりと後ろを振り返って帰ろうとした時です。
「おい、次郎、急がないと学校に遅れるぞ」
次郎は全く気が付きませんでした、いつの間にか、一郎あんちゃんが、次郎のすぐ後ろを歩いていたのです。
一郎あんちゃんの行く中学校は、次郎の行く小学校のすぐ隣にあるのでした。
「こら、次郎、学校をさぼろうと思っているのじゃないか、さあ、行った行った」
一郎あんちゃんは、次郎の手を取ると、さっさと歩いて、小学校まで送り届けると手を振って歩いて行きました。
多分、校長室に呼ばれて、こってり怒られるのだろうと覚悟を決めていた次郎は、びくびくしながら、自分の机に神妙に座っていたが、何事も無く、終業式が終わったので、何だか力が抜けてしまいました。
「それでは、みなさん、しっかり春休みを楽しんで、元気にまた学校に出てくるのですよ」
先生の挨拶が終わった途端に、クラスのみんなは、急いでカバンを背負って外に飛び出していきました。
次郎は、教室に残って、しばらく何かを考えていましたが、カバンの中からノートを取り出し、その中の一ページをひきはがして、お百姓さんに次のような手紙を書いたのでした。
「前略、僕は、昨日、畑のイチゴがあんまりおいしそうだったので、一つもらって食べました。お百姓様が大切に育てられたイチゴを黙ってもらうなんて、悪いことです。もう決して、イチゴを盗んで食べるなんてことは致しません。神様に誓います。ですからどうか僕を許して下さい。草々、お百姓様へ、次郎より」
次郎は学校の帰りに、手紙をイチゴ畑の隅にそっと置いたのでした。
空ではひばりが大声で笑うようにチュルチュル、パッパ、チーチーと鳴いていました。
何だか少しばかり、気持ちが楽になった次郎は、久し振りに一郎あんちゃんと一緒に帰ろうと思いました。
その日は、確か一郎あんちゃんの中学校も終業式のはずでした。
中学校は、もうガランとしていて、運動場の隅で、一郎あんちゃんが、鉄棒にぶら下がって、懸垂をしているのが見えました。
「あんちゃん」
「おお、次郎か、お前もやってみないか、十三、十四、十五・・」
「うん」
次郎は一番低い鉄棒にぶら下がりました。
次郎は六回できましたが、一郎あんちゃんは三十回もして次郎を驚かせたのでした。
一郎あんちゃんと次郎は運動場でかけっこをし、砂場で相撲を取って遊びました。
「次郎、強くなったなあ」
あんちゃんは、時々次郎を見ながら、目を細めて、にっこり笑いながら言いました。
夕方近くなって、一郎あんちゃんが「そろそろ帰ろうか」と言った時、次郎は急にまた夢で見たお百姓さんの姿を思い出したのでした。
家に帰ったら、お百姓さんが怖い顔をして玄関のところで待ち構えている様な気がしたのです。
「あんちゃん」
「何だい」
「お百姓さん、今頃、怒っているだろうね」
「どうして」
「だって、僕がイチゴを取って食べたからだよ」
「一つくらい頂戴したからって、分かる筈が無いじゃあないか」
「でも、一つ一つ、番号が振ってあるんだろう、あんちゃんが、そう、言ったじゃないか」
すると、一郎あんちゃんは、ぷっと吹きだす様に声をあげて笑い出しました。
「お前、あの話、本気にしていたのか、あんなに沢山あるイチゴに番号や印なんかつけられるもんか、イチゴはな、ちぎりとっても、ちぎりとっても、この時期は、次々と実が付くんだよ、印をつけるなんて、そんなこと出来やしないよ。ああ、腹がよじれそうだ」
あんちゃんは、そう言って、まだまだ笑いが止まらいと言う風に首を振って鉄棒にぶら下がってクックッと笑い続けました。
これを聞いていた次郎は段々と腹が立ってきました。
きのうから今日にかけて次郎は、イチゴを盗んだことを後悔し、恐ろしくて、心配でたまらなかったのです。
イチゴも夜のご飯もちっともおいしく食べられなかったのです。その上、夢の中で、恐ろしい顔のお百姓さんに追いかけられて、今の今まで、心配で、心配で身のすくむ思いだったのです。
そんな僕の気も知らないで、一郎あんちゃんは、可笑しくてたまらないと言う風に笑っているのです、次郎はむかむかしていました。
「一郎あんちゃんの馬鹿」
次郎は駆けだしていました。
「次郎、待てよ」
一郎あんちゃんが呼んでいます。ですが、次郎は振り向きません。
力いっぱい駆けていつの間にか、じいさん山、のてっぺんに上っていました。
じいさん山というのは、中学校のすぐそばにある、標高三十メートルほどの丘の名前です。
じいさん山は芝生におおわれていますが、木は一本もありません。
じいさん山というのは、実は、次郎が付けた丘の名前でした。
なぜかと言うと、次郎のおじいさんの頭にそっくりだったからです。
おじいさんは、頭痛もちでしたので、いつもねじり鉢巻きをしていました。
嬉しいことがあると、良く笑い、気に入らないことがあると、毛のない頭から湯気を立てて怒りました。そして、次郎にはとっても優しいおじいさんでした。
おじいさんが死んだのは、次郎が小学校に入学してすぐの頃でした。
一郎あんちゃんが、竹を細く切ったヒゴと和紙で模型飛行機を作って遊んでいました。次郎はそれが欲しくてたまりません。でも、あんちゃんはそれを次郎に作ってくれることも、貸してくれることもしませんでした。
それを知ったおじいさんは
「よし、次郎、おじいさんが、もっと立派な飛行機を作ってあげるからな」
と言って泣いている次郎の頭を撫でました。
でも、それから暫くして、おじいさんは風をひいて、一週間ほど床に就いていましたが、そのままあっけなく死んでしまったのです。
そして、優しかったおばあちゃんもそれから暫くして死んだのでした。
丘の上から見る空は吸い込まれるほどの青さでした。遠くの西空では、赤い鏡のようなお日様が松の林の中から半分ほど顔を出して、イチゴ畑や学校からの帰り道や家々を朱色に染めてにこにこ笑っている様でした。
中学校の校舎の二階の窓ガラスにお日さまの光が当たってキラキラ輝いていました。
校門の近くの栴檀の木の下で一郎あんちゃんがこちらを向いて立っていました。
そこだけが陰になっていていました。
「一郎あんちゃんの嘘つき」
次郎は、両手を口のまわりにおいて、大声で叫びました。
すると、どうしてかわかりませんが、涙が出て来たのです。
一郎あんちゃんの話が嘘だと知って、腹が立ったのかも知れませんし、また一方で、安心したからなのかもしれません。
おじいさんやおばあちゃんとの別れを思い出したのかも知れません。
あるいは、空も山も青く赤く生き生きと輝いているのに一郎あんちゃんのいる校門の近くだけが少し暗くて寂しそうで、その中に入る一郎あんちゃんが何だか可愛そうに思えたのかも知れません。
そして、お父さんともお母さんともそして一郎あんちゃんともいつか別れのときがやって来るのだなあと思うと、何だか胸がきゅんとなるような気がしたのでした。
青い空を、白い雲や赤い雲やピンクの雲が、オタマジャクシのようにゆっくりと泳いでいきます。
「おーい、次郎、遅くなるから、もう、帰ろうよ」
一郎あんちゃんが手を振りながら呼んでいます。
次郎は、じいさん山を駆け下りて行きました。