03話 その地はイーストエリア
「さあ、こちらへどうぞ」
そう言って通された部屋は、先ほどまでいた薄暗い雰囲気とは正反対の、柔らかな光溢れる明るい部屋だった。
壁の色は淡いクリーム色で、調度品はどっしりと落ち着いた木製、少しだけ開かれた窓から入るそよ風に、真っ白なカーテンが涼しげに揺れている。部屋に入るなり、快晴が感嘆の声を上げた。
「うわ~、さっきの部屋と大違い」
「快晴、それ、失礼だよ」
「そう思うんだから、しょうがないじゃん」
「思ってても、口には出さないのが礼儀だってこと」
「……つまり、嵐も同じこと思ってるってわけだ」
「当然。太陽の当たらない部屋なんて、存在じたい許されないね」
「……ま、まぁ、先ほどの部屋は特殊な儀式の時しか使われない、特別な部屋でしたから、そう思うのは仕方がありませんね。すぐにお茶も用意いたしますので、こちらでお待ち下さいませ」
やや引きつり気味な笑みを浮かべながら、老人は退出していった。
老人が出て行くのを目で見送ってから、部屋の真ん中にあるソファに、二人は座り込んだ。ゆったりと背中を預けて、天井を見上げる。
シャンデリアが釣り下がっており、電球らしきものはない変わりに、何故か石がぶら下がっていた。すべての石が乳白色で、装飾としてはやや不釣合いである。そして、周囲の壁を見渡しても明かりとなるようなものがない。
この世界には夜がないのだろうか。それとも、目に見えてはいるが、嵐にとってはそれは光源と認識されていないだけか。恐らく後者のほうだろうが、ならば、一体どれが光源となりえるのか――嵐はウキウキとしながら、一つ一つの調度品を眺めていった。
快晴は、すぐに飽きて視線を周囲へと巡らせた。わずかな風が頬に当たって、自然と顔はそちらに向き、窓の外を見る。
「うおぉっ!?」
そして、唐突にすっとんきょうな声を上げた。
ソファから飛び上がらんばかりに嵐が驚き、快晴はというと、嵐が顔をそちらに向ける頃にはすでに窓の傍へと走り寄っている。
「すげぇ!」
「どうしたんだよ」
「嵐、ここって、マジで異世界だな!」
「はぁ?」
「こっち来てみろよ、すげぇもんが見えた!」
興奮気味の快晴に、嵐は訝りながら窓に近付き、そこから見えた風景に首をかしげた。
窓から見える景色は、オレンジ色の屋根がひしめく町並みだった。そして、そこかしこにオレンジ色の間から生えているようにそびえ立つ、塔。
確かに、現代で見慣れたビルや木造住宅は見えない分、その景色は珍しいといえば珍しいが、どこかヨーロッパの西海岸あたりを彷彿させる町並みは、すっとんきょうな声を上げてまで驚くものではない。
「何がすごいんだよ?」
「あれだよ、あれ!」
嵐が指差すのは、窓から見下ろせる景色ではなかった。空を指している。その指先を辿るように空へと視線を向けた嵐は、大きく目を見開いた。
空の色は青。雲の色は白。太陽の色は金色。そこまでは良い。だが、太陽の数が問題だった。
二つ。太陽が二つあったのだ。
「な? すげぇだろ?」
「……う、うん」
「すげぇ。太陽が二個なんて、ありえるのか!?」
「実際問題、太陽が二個あるんだから、ありえるんじゃないのかな。……どうなってんだろ、この世界の環境」
「だったらさぁ、今って季節なんだろうな。冬か? 太陽が二個なら、冬の寒さは半減で、夏の暑さは二倍だったりな」
「二倍? 夏が? ……それ、人間生きてられないから」
「何言ってんだよ! エジプトは気温50度ありだろ? 生きてるよ」
「あ、そっか。……ん? 50度もありだったっけ?」
「ありだって!」
きっぱり確信を持って断言する快晴だが、嵐は今ひとつ納得出来ない部分を残しつつも、やがて、考えるのをやめた。
今、考えるべきなのはこの世界の夏場の温度のことではない。しかし、それを口にする前に快晴は窓の外から部屋の中へと視線を戻して、大きく伸びをした。
「ナントカって人、まだ来ないのかなあ。そろそろ昼飯の時間だし、俺、腹減ってきたかも。時間までに戻らないと、ばーさん怒るよな。そういや今日の昼飯何作ってくれるんだろ」
「……帰れたらね」
「え?」
きょとん、と目を丸くした快晴を見て、嵐は大きく溜め息を吐こうとしたが――ドアが開く音に、遮られた。
二人が振り向くと、そこには70代に手が届いているだろう老体の男が、部屋に入ってくるところだった。頭は見事にそり上げられた坊主頭が真っ先に目をいき、少ししてから、老人の身にまとうローブの色が白であることや、やや細身なこと、そして、その顔がひどく憂えた色を浮かべていることに気付く。
白いローブの老人の後ろには、茶色のローブを着た初老の男が続いて部屋に入ってくる。その男が、先ほど、誰かを呼びに行った人物であるかまでは、嵐も快晴も記憶には残っていない。
白いローブの老人は、窓辺で並んでたっている2人を見ると、ああ、と右手を胸元に握り締めた。
「君達が、そうなのだろうか」
「主語がなければ返事のしようがないですけど、確かに、変な儀式に呼ばれたのは僕達ですね」
「では……本当に儀式は執り行われてしまったのだな。……ああ、何ということだ」
「ミストレイン枢機卿、お気を確かに!」
絶望に落とされる者のように、ふらりと白いローブの男の身体が揺れ、咄嗟に、後ろの初老の男がその身体を支えた。
老人同士の抱擁は、当然ながら、目の保養にはならなかった。嵐と快晴は、すすす、とわずかに視線を逸らしつつ、彼が嘆くのを終わるのを待つ。そんな2人の冷めた空気が伝わったのかどうかは分からないが、ミストレイン枢機卿と呼ばれた老人は、我に返ったように倒れかけていた身体を元に戻した。
自分を支えてくれた男に短く礼を言うと、今度こそはっきりと嵐と快晴へと向き直る。
「失礼いたしました、わたくしはオーシャン・ミストレインと申します。スウェルティノ教会の枢機卿を務めさせていただいております」
「あ、俺は赤石かいせ……いやいや、こういう場合は、やっぱヨーロッパ風にカイセイ・アカイシって言うべきか?」
「ここがヨーロッパならそれでいいけどね。僕は青波嵐です。快晴に倣うなら、アラシ・アオナミです。ちなみに、名前は嵐のほうです、こっちは快晴です」
「ならば……カイセー殿とアラシ殿、でよろしいでしょうか。わたくしのことはオーシャンとお呼びください」
そう答えて、オーシャンは右手を額に当て、次に胸の中央に拳を当て、わずかに頭を前に傾ける。
行動の意味が分からず、嵐と快晴は首を傾げた。二人の疑問に気付いたのだろう。オーシャンは苦笑気味に笑うと、頭を上げた。
「ああ、そうでしたね。世界が異なれば、作法も異なりましょう。今のは、挨拶の作法なのです」
「挨拶の?」
「ええ。と言っても、スウェルティノ教会特有の、でございますが」
「あ、それじゃあ僕達もちゃんと挨拶しなきゃ」
嵐と快晴はお互いを見て頷くと、両手を膝の上に乗せて深々と頭を下げた。
「初めまして」
そして、二人同時に頭を上げると、これが自分達の挨拶の方法だと、付け加える。
オーシャンはしばらく驚いた顔をしていたが、やがて、ゆっくりと微笑むと、二人を近くのソファへと誘導するように近付いた。
「ありがとうございます、お2人方。どうぞこちらにお掛けになって――ああ、何もお出ししていないとは、とんだご無礼を」
「あ、お茶なら今用意してもらっていますから。大丈夫です」
「そうでしたか。では、まず……そうですね。わたくしからご説明するのがよろしいのでしょうね」
「お願いします。僕達、何となく、異世界に来たってことは分かるんですけど、それ以外のことが何も分からないから」
嵐は頷いて、隣に快晴が座り、テーブルを挟んだ反対側のソファにオーシャンは座った。
そこにお茶を持って、老人が現われる。オーシャンがいることにやや驚きの表情を浮かべたものの、予想はしていたのだろう。お盆の上に用意されていたカップは3つある。
老人はそれぞれ嵐、快晴、オーシャンの三人の前にあたたかな湯気の立つ紅茶のような液体の入ったカップを置き、テーブルの真ん中にはクッキーらしきお菓子の乗せたお皿を置いた。そのお菓子に目を輝かしたのは、快晴だけではない。嵐も14歳の、食べ盛りの子どもなのである。
回収されないままの短剣は、抜き身のままなので、テーブルの上だった。オーシャンはその短剣に目をやると、さっと表情に影が差した。
そして、嵐と快晴に目を向けると、気を引き締めるように表情を改めた。
「まず、初めに……アラシ殿の仰られる通り、この地はあなた方から見れば、異世界という場所になるでしょう。そして、この大陸は”イーストエリア”と呼ばれております」
「やっぱ、聞いた事ない名前だ」
「そして我々があなた方お2人を呼びしたのは、伝説にある”救いの者達”を、召喚するためなのです」
「その”救いの者達”って何ですか?」
「言葉通りの、この国……いえ、この大陸・イ-ストエリアを救った偉大なる者達の事です。300年前に、この大陸が災禍に襲われ苦しんでいた時代、光と共に現われ、大いなる奇跡を起こして人々を救ったと、伝えられています。そして、二振りの剣を作らせると、300年後に再びこの国は災禍に見舞われる事、そして自分達ももう一度降り立つことを予言されたのです」
そう言って視線を向ける先には、抜き身の2本の短剣だった。
快晴が珍しそうに、まじまじと短剣を見つめて、感嘆の交じった声を上げた。
「へぇ~、これが300年前の物なんだ……」
「じゃあ、今年がその300年目って事なんですね」
「はい。そして、予言の通り、この大陸は今、最悪の災いに覆われようとしています」
「最悪の災い? それって、どんなものなんですか?」
「魔物の侵攻です。魔物はその起源を大地の澱みと、あらゆる負の感情とします。それゆえ、決して絶える事のない存在なのですが……その魔物が異常に増え、そして、人の暮らしを脅かしているのです」
「もしかして、魔王とかがいたりして?」
「魔王……と呼ばれているかどうかは分かりませんが、本来なら群れを為すはずのない魔物達が群れ、それを指揮する存在はいるようです」
「うわ、ほんと王道シチュエーションだよ。良かったなぁ、俺達”救いの者達”じゃなくってさ」
「……え?」
オーシャンが不意を突かれた顔をして、二人を戸惑いの目で見た。
「僕達、どうやら間違って呼ばれたらしいです。あのくそハゲじじいがはっきりとそう言ってましたから。えっと、剣が反応しないとか」
「”救いの者達”では、ない……と。そうですか……儀式は失敗だったのですね」
ほう、とオーシャンは大きく溜め息をついた。
「残念でしたか?」
「……え?」
「嵐?」
不意に声を発した嵐の顔は、無表情で、真っ直ぐに射抜くようにオーシャンを見つめていた。
その眼差しの強さに、オーシャンはわずかに身を下がらせる。相手は子供だというのに、完全に気圧されたのだった。
嵐は僅かに眉根を寄せた。確かに今、嵐は怒りと探りを込めてオーシャンを見た。しかし、たかが14の子供の視線など大した効果などあるはずない。にも関わらず、オーシャンは明らかに威圧されたような反応を見せたのだ。
そして、目元の違和感。痒いわけでも痛いわけでもない、奇妙な違和感を目元に感じていた。
だが、そんな違和感は些細な事だと考えた。視線を固定させたまま、口を開く。その声音は、自分でも分かるほどに硬い。
「僕たちが”救いの者達”じゃなくて、あなたも、ガッカリじゃあサヨナラ?」
「……そ、そんなことは」
「別にいいですけどね。無事にもとの世界に帰りさえすれば、どうせ無関係になるわけだし」
「……」
「で、どうなんですか。僕達、元の世界に帰してもらえますか」
「嵐、何怒ってるんだよ」
「別に怒ってなんかいないよ。ただ、大切なことを聞いているんだけ。まさか、笑って踊って聞くわけにもいかないだろ?」
「まぁ、そうだけどさ。ほら、そんなケンカ腰じゃビビっちゃうだろ。ね、……あー、ええと、名前なんでしたっけ」
身を乗り出しかけた嵐は、快晴の言葉に、睨みつけた。
が、オーシャンの名前を思い出そうとしている快晴はそれに気付かない。そしてすぐに、
「あ、そうだ。マクドナルドさんだ」
嬉しそうに、自信満々に言い切った。
オーシャンは困ったように首を振る。まったく違っている。性も名も、かすりもしていない。
「あの、わたしはオーシャン・ミストレインですが……」
「あれ?」
嵐が乗り出しかけていた身体を、ソファに戻して、半眼になった。
快晴を見る目には、もう怒りではなく呆れの色を宿している。
「どこがマクドナルドだって? てゆーか、それ、ハンバーガーだろ」
「えーだって」
「だいたい、あの名前からどうやってマクドナルドが連想できるんだよ」
「えー、オーシャン、はないから……あ、そっか。ミスドサンからドーナツ思い出してさ、そんでもってバーガー食べたいなぁって」
「ミスドサンじゃなくて、ミストレインだろ……」
「ま、まぁいいじゃん。結局名前は分かったんだしさー」
「まったく。快晴といると、色んな事が全部お笑いになっていく気がするよ」
「それ、誉めてないだろ」
「誉め言葉に聞こえるんだったら、耳鼻科に行くことをオススメするね。歯医者よりは怖くないからいいんじゃないの」
「ムカつくー!」
「まぁ、快晴はほっといて、話を元に戻しましょうか。えーと、ミストレインさん」
「オーシャンで構いませんよ。そちらの名は、ずいぶんと呼び辛そうですし」
「じゃあ、オーシャンさん。僕達は、家に帰ることは出来ますか」
改めて名を呼ぶ嵐は、先ほどのような硬い声音はしていない。
オーシャンはほっと胸を撫で下ろしたが、すぐに首を横に振った。
「……いいえ、我々にはその方法はありません」
「ないって……え!?」
「向こうの世界から呼ぶことは出来るのに? 僕たちを元の世界に戻すことは出来ないんですか?」
「はい。……そもそもが、召喚の儀式でさえ、300年前の救いの者が残していったものなのです。本来の我らには、召喚の技は持ちえぬ力です」
「じゃ、じゃあ300年前の人達って、どうやって元の世界に帰ったんだよ!」
「伝承は何も残っておりません。”救いの者達”がこの世界に降り立った理由も方法も、定かではないのです。そして、その姿が消えたのも……記録には、彼らは自らの意志で帰還していった、と」
「元の世界に帰れなかったってことはないんですか?」
「それはありません。現に、予言で”今一度この世界に降り立つ”と明言しておりますし」
「そんな……じゃあ、救いの者達って人は、自分で来て自分で帰ったってことかよ?」
「そうなるね。そして、間違って呼ばれた僕達は、」
「元の世界に帰れない!?」
「そうなると思う。ですよね」
そう言って真っ直ぐに見据える嵐の瞳には、どんな嘘も通じないように思われた。
子供だから、と気休めや慰めを言おうと思っていたオーシャンはわずかに逡巡したが、すぐに諦めた。今この場でそんな事をしても、やがては確実に二人は真実を知り、絶望を知ることになるのだ。大きな溜め息が一つ、口からこぼれた。
「その通りです。我々は、あなた方を元の世界に戻す術を持ちえていません」
「それって、俺達大ピンチって事だよな?」
「ピンチどころじゃないと思うけど、まぁ、人生最大の大ピンチじゃない?」
「って事は、明日の高校生探偵のスペシャル、見れないって事だよな!?」
「……はあ?」
「前に見れなくて、今度こそって思ってたのに! あー! ちくしょー!」
「家に帰れないって時に、真っ先に心配するのがアニメってどういう思考回路してんの!」
「けっこう重要だぞ、俺にとっちゃ」
「もっと心配することあるだろ! おじさんやおばさんとか!」
「じーさんとか? 心配は心配だけどさ。……うん、大丈夫って気がする」
「……寝ぼけてるなら、一発殴ろうか?」
「いやいや待て待て。俺はばっちり目は覚めてるってば。って拳上げるのストップ!」
拳を今にも振り下ろさんばかりの嵐と、頭を両手で庇い守りの体勢に入る快晴の様子は、オーシャンにはじゃれあう少年達の姿にしか見えなかった。
お互いに本気で殴ろう、殴られるとは思っていない。ただのフリだけだ。
その証に、嵐は振り上げた拳を、快晴の腕へと振り下ろことはなかった。おまけに、二人はお互いの顔を見て、笑っている。それがいつものやり取りだと言わんばかりに。
オーシャンは戸惑いを覚えた。異世界に呼ばれた少年達。見たところ、14、5の子供だ。
親元から唐突に引き離された子供が見せるのは、こんな陽気で軽快な空気なのだろうか。いや、違うはずだ。先ほど嵐が見せた、真っ直ぐに射抜くような眼差し。そして、怒りと罵倒もしくは悲哀。それが、本来なら一番表に表れるのではないのだろうか。
だけど、この二人は。――笑っている。
「まったく、快晴の能天気さにはいっそ尊敬するね」
「それ、少しは誉めてるか?」
「オーシャンさん、この世界に耳鼻科ってあります? 耳の医者のことですけど」
「は、耳専門という医者はおりませんが……」
「ってどーゆー意味だよっ!」
「言葉のまんまだよ」
「ムカつくー!」
「そういや、また話がそれましたっけ。ええと、元の世界に帰れないとして、僕達どうなるんです?」
やや呆然としていたオーシャンだったが、嵐の言葉にすぐに我に返ったように表情を引き締めた。
そして、背筋をピンと伸ばす。
「もちろん、わたくしが責任を持って保護いたします。まずは、落ち着く場所へと移るのが良いでしょう。ここは王都です。儀式が行われたことや、君達が呼ばれたことが公けになれば、混乱は免れないでしょうし、良からぬ考えを持つ輩も出る可能性もあります」
「良からぬ考え?」
「お二人を、偽りの救世主と祭り上げることです。もしくは、儀式の失敗を公けにして教会を陥れるか。その場合、お二人の命を保証しかねる時が出てくるかもしれません」
「うわ。権力争いってやつだ。どこの世界もあるんだな」
「そんなので殺されるのは、絶対にごめんだね」
「そのため、身を隠していただくことになります。ここより南にセルトフォームと呼ばれる街があります。そこで司祭を務める者は、わたくしの信頼する者。ひとまずそこへ行かれるのが良いでしょう」
オーシャン・ミストレンは周囲を見渡し、壁に地図が掛かっていることに気付くと、立ち上がり近付いた。
そして、地図のほぼ真ん中を指差した。当然、文字が読めない二人には何と書いてあるのか分からない。
「まず、ここが王都となります。セルトフォームは、ここより南の……こことなります」
す、と指を真下に動かし、ある一点で止まった。地図の上では10センチほどしか移動していない。
地図の尺度がまったく分からない二人には、その場所がここからどれほど遠いのか、まったく予測もつかなかった。
「早急に旅の支度を整えましょう。もちろん、護衛となる者もおつけいたします。……そこの者、ジェード・グリーンに至急連絡をし、わたくしの執務室まで来るように伝えなさい。しかし、事は内密に」
オーシャンは、ドアの付近にいた老人の一人へと目を向けた。老人は心得たように頭を下げると、部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送ってから、オーシャンは嵐と快晴を見る。
「本日は我が管理棟で夜を過ごしていただく事になります。準備が整い次第に出発していただく事になりますが……恐らく、明日にでも可能となりましょう。不便をおかけしますが、どうぞ、お許しを」
「急な展開だなぁ」
「しょうがないよ。僕らは予定外なんだから」
「では、わたくしもここで失礼させていただきます。部屋を整い次第、迎えの者を寄越しますので、それまでこちらでお待ち下さい」
言うなり、慌しく退出していったオーシャンを見送って、嵐と快晴はテーブルの上に手付かずのままだったお菓子へと手を伸ばした。
さくりとした食感は、クッキーとよく似ていた。運ばれたお茶はすっかり冷めてしまっていたが、もとが良いものなのだろう。味は決して悪くはない。二人はお茶とお菓子をすっかり平らげて、ソファに背中を預けてくつろいだ。
そして、ぼんやりと天井を見上げていた嵐が、ふと、思い出したように快晴に顔を向ける。快晴は腹が満たされたためか、うつらうつらと舟をこぎ始めていた。
嵐が苦笑に近い笑みを浮かべていると、気配に気付いたらしい快晴が、眠そうな顔そのままに嵐に向く。
「にゃんだよ」
「舌が回ってないよ、快晴」
「眠いんだよな。お菓子で腹いっぱいになったし。おいしかったな、クッキーみたいなやつ」
「まぁね。ほんと、快晴はノンキだよな」
「悪かったな。どうせ俺は、能天気だよ」
「……そんな事ないよ。さっき、僕がキレそうになったの、止めてくれただろ」
「そっか?」
「ああ。おかげで、……いや、何でもない」
「ふーん?」
快晴はさほど興味がなさそうに頷くと、再びこくりこくりと舟をこぎ始めた。この様子だと、本格的に昼寝に突入しかねない。
嵐はしばらく快晴の顔を眺めて――ふと、微笑んだ。
「ほんっと、能天気だよなぁ」
「……お互い様だろー」
「まぁね」
「それに、これって滅多にないチャンスじゃん。おまえ、いっつも言ってるだろ」
「……僕が? 何を?」
「世の中、楽しんだ者勝ち」
快晴の言葉は、嵐にとって不意打ちだったらしい。大きく目を見開くと、まじまじと快晴の顔を見る。
その間にも快晴は、今にも本格的に舟を漕ぎ出そうとしている。
「……そっか。そうだね。僕の人生の目標は”名前のごとく、波乱万丈に”だし」
「物騒だけどなー」
「人生はそれくらいがちょうどいいんだよ」
「それに付き合わされる俺の身にもなれってー」
「本望だろ? 退屈からの脱却」
「……うん……けっこう、楽しい」
快晴の言葉に嵐は満足気に頷くと、窓の外へと目を向けた。
その間にとうとう眠りに落ちたらしい快晴の寝息を聞きながら、嵐は小さく呟いた。
「ありがと」
そう呟いてから、そっと自分の目元に触れる。目元の小さな違和感は、すでになくなっていた。
嵐はしばらく考えてから、
「ま、確かに今考えても仕方がないってこと、あるよな」
そう呟くと、ソファに深く体を沈めたのだった。
そしてオーシャンの迎えの者が現われる頃には、二人共しっかり眠りの中へと落ちていた。




