引き抜く者
「まじかよ…ッ」
さきほどまで熊とけん制していたはずの鳥女はどうしてこちらに気付いた…?たしかに逃げる手順を取るためにはどうしても森の、木陰に隠れたままというわけにはいかない。走っていればいつかは視界の開けたところに出る。
走りながらに後ろを振り向くともう襲撃者と真桜との距離は4メートルもなかった。ぐわっ、と鉤爪が襲い掛かり、左肩のすれすれで空振る。だが慣性のためか鳥女は真桜を過ぎ、今度は前方から猛スピードで飛来する。さすがにただの一般人である彼にはその攻撃を躱すすべなどなくいい当たりをくらって2メートルくらい打撃の衝撃で飛ぶ。
「くっ」
「ぴるるるるるるるるる!!!!」
こちらにすぐさま相手はマウントをとり覆いかぶさる。そして喉元を食いちぎろうと牙をむき出しにして荒ぶる。鳥女が激しく暴れるため羽毛がばさばさと舞い上がり、土埃で視界が安定しない。ただ命をつなぐために必死に顎を手で止め、腹を足で蹴りつづける。もうわけがわからないよ。だが次第に理不尽に巻き込まれた怒りが彼を支配し、蹴りも強くなっていく。
「あばれるな…離れろっ」
「ぴるるるるるるるるるる!!!」
「ああ…この…!うるさいんだよおおッ!!!」
最後に強烈な蹴りがぶち当たり、鳥女がマウント姿勢から投げ出されてガクガクとその身を震わせる。さすがに女性に近い姿をしているため暴力を振るうのは真桜にとっては好まれなかったが生きるためには仕方なかった。ゆっくり立ち上がると土埃を払い、腹を抑えて後ずさりしている鳥女に近づく。先ほどは自分が襲撃者だったはずなのに、一転攻勢、地に這いつくばった鳥に勝機などなかった。よく見ると金色の髪、羽を付けた美女の姿、なるほど。これが”妖しい”ということなのか…人をおびき寄せる魔の美しさ、邪悪な芸術。
牙をむき出し、こちらを威嚇しながらも恐怖に対し多少の震えを隠し切れない生き物としての本能、俺を襲ったということは食人するようだ。だが近くに刃物などは見当たらず、もしも倒すとしてもろくに抵抗できない彼女を殴り、蹴り、そして死に絶えるまで彼女は抗うことすら許されない。現実世界との喧嘩など比較にならない恐ろしさだった。
小学生のころの道徳、あれはそういう意味も含めて重要な学問だったのか。
「ぴるるるる…」
「…」
しばらくにらみ合いが続き、俺は耐え切れずにその場を後にした。もう彼女は動けない、ろくに俺を襲うこともできない。ならばただこのまま川をくだり、下山すればいいだけの話であった。
衣服についた汚れを払いながら川を下ると開けた場所に出た。そしてそこから山のふもとの景色を一望できるらしい、俺はようやく見る世界の広大な景色を望む。
そこは広く草原が広がり、大きな都市、小さな村々が点々と存在する、まさにファンタジーの外見であった。風が強く吹きかけ、身を冷やしてはまた去ってゆく。
「そこの人の子よ」
「声が…」
突如呼びかけられ後ろを振り向くも誰もいない。
「誰です…姿を見せてください」
ぶわっと突風が吹きあれ、木の葉が竜巻のように渦を巻く。
吹きすさぶ風の渦に人影が見え、それがやむ。中には先ほど見た一人の鳥女によく似ている格好の女性が宙にういたままこちらを見ていた。
「私は見た、人の子よ。数多の輝きに包まれてそなたが山に顕現するのを。」
「…」
「そして先ほど私の眷属を下したことを」
眷属、ということは先ほどの鳥女は目の前の女性の身内なのだろうか。ゆったりとした導師服に身を包んだ人物は翼扇をで口元を隠すと微笑みながら問いかけてくる。
その容姿は美しく、同時に残忍さを兼ねていて、冷たい美がそこにはあった。
だが、真桜はその時魅入られる共に、心の内に恐怖のような感情を抱いていた。
相手は人外。気まぐれで殺されても、今の真桜に力がないことが責任となって襲い掛かるだけだ。ここにはおそらく、日本のような法の力は存在しない。力がある者が生き、弱者は死ぬ―――そんな残酷な世界が今自分の目の前に広がっていると思うと、真桜は身震いした。
「なぜ殺さなかった?」
だが、彼女がこちらに向けてきたのは、敵意ではなく疑問であった。思いがけないその行動に真桜は一瞬、どうすればいいかを迷ってしまう。
「えっと」
「私の眷属はさきほど人の子に襲い掛かった、そして返り討ちに逢い、そなたが生殺与奪をにぎっていたのだ…なぜ見逃すような真似をした?」
笑いながらなんてことを言うのか、一般人の感性からしたら到底理解できるものではなかった。だが、眷属があのようなことにあったというのにまるで敵意は感じない。むしろもっと別の感情を秘めていると思える。
「答えよ、私にその真意を」
分からない、当たり前じゃないか、殺人はいけないことだと。
例え人外でも、相手に感情が、言葉が話せずとも意思が疎通できるのなら、殺人にまでは至らなくてもいいのではないか―――、甘い考えと否定されるかもしれない、しかし、この時真桜にはそんな考えが頭の内を占めていた。
人殺しがなぜ悪いかなんて誰にも明確な答えはない、でも俺はあの場で、もし刃物を持っていたら彼女を切り刻んだのだろうか。だからこそ、「わからない」と答えるしかなかった。
「わからない…?」
女性はそれを聞くなり、破顔してふふふ、と笑いしばらくするとふっと翼扇を仰いだ。すると目の前に地面に刺さった剣が現れ、女性はおれに「これを抜いてみよ、」と言う。
瞬間、何かが背中を押したような気がした。俺は剣の前まで歩み寄ると柄を握る。
「なんだこれは…妙に手になじむ…剣なんて握ったことなんてないのにどうして」
「その剣はかつて”仁”の名に元に命を賭し、剣を振るったある一人の男の剣。人の子はそれを引き抜けるかな?」
「さあ…そんなの俺には分かりませんよ、でもわかる…なんだろうな、この気持ちは…」
得体のしれない何かは剣を通して真桜に語りかけていた。我を引き抜け、そう剣が俺に言っているように思えた。
意を決して柄に力を込める。すると刺さった箇所が光、辺りにまた風が吹きすさぶ。
「くっ…おおおおおおお」
「やはり…剣は選んだ、いや…待っていたのだ」
導師服の女性はその光景に胸を熱くしつつもただただ真桜を凝視していた。
「この世界を変えるきっかけを」
剣が半ばまで抜かれ、刀身があらわになる。
「私がいままで生きてきたことは無駄ではなかった」
真桜の耳に賢者の声が響く。それはどこか悲しみに染まり、悲願をようやく達したという、儚い喜びが含まれていた。
「ふふ…、これでようやく…貴方の元へ逝けますね…ウィル様…」
賢者は掠れた声で何者かの名を呼ぶと、頬を伝う一筋の涙を拭った。自身の役割はまだ終わっていない、そう思い、今にも崩れそうな体勢で踏ん張っている真桜の元へと降下する。
「ぅう…っ、このままじゃ…」
必死に体を剣とつなぎとめている真桜であったが、背後に温かい温もりが生まれ、姿勢が安定する。
そう、いままで上空で静観を決めていた妖鳥の賢者が舞い降り、彼の体を背後から支えていた。
「人の子よ、あきらめるな。私も支えよう…」
「賢者さん…!」
轟々と吹き荒れる豪風が次第に収まっていく。剣の刀身が後半半ばまで見え、引き抜くのも時間の問題だと、この時真桜は思った。それが賢者の力で確信に変わる。
そして、剣が引き抜かれ―――、それは完全に人の子の手の中に納まった。
「ふふ…、よくぞ引き抜いた」
「あなたは一体…」
剣を引き抜き、女性を見ると彼女はひどく衰弱した様子で片膝をついていた。この間にいったい何があったというのか。
「人の子よ、それはお前の力だ…その剣で己の道を進むといい…」
「どうしてこのような真似を」
「私は待っていた、この剣が選ぶ選定者を…かつてはるか200年前から、待っていたのだ、我が主が亡くなり、世が乱れ、衰退の道を変える、人物を」
「私のことは放っていけ。…この山を下り、南にいくのだ…そうすればお前の道は始まる…さあ、いけ…」
それから賢者は真桜を優しく抱き寄せると、愛おしそうに頭を撫でた。
耳元で優しくささやかれるのは、真桜に対する激励の言葉、そして謝罪の言葉だった。
「…新たな所持者よ、よくぞ引き抜いてくれた。ありがとう…しかし、この剣を引き抜いた以上、人の子よ、汝は並よりはるかに逸した宿命を歩むことになる…しかし、私はそれを一番…後悔している…、再び、この剣が目覚める、必要となってしまう世を変えられなかったことを…だから、本当に、すまない…」
彼女は最後に真桜の顔をまじまじと見つめ、真桜も彼女が哀しみを浮かべ、珠の涙を流していることに気付いた。
どうすればいいか分からなかった。
しかし、次の瞬間、二人を隔てるように今まで以上の豪風が吹き荒れ、真桜は思わずしk氏を閉じた―――ようやく風が収まり、気が付くと俺は剣を握ったまま草原の真ん中に立っていた。
「さっきの人は一体…それにこの剣は…」
”南に行け…さすればお前の道は始まる…行くのだ…お前の道は無限にある…”
頭に先ほどの賢者の声が響き、掠れて、…消えた。
―――あれ…?なぜだろう、わけのわからないうちにいろいろなことが過ぎ、そして道は標された。でもなぜ、俺は泣いているのだろう…?
風に涙はそっとふれて、そこには一人の足跡が刻まれていった。
異世界は衰退の道をたどっていたようです
導師服を着た、女性の賢者の正体は…