眠る種の夢
寒い。いかんともしがたく寒い。
世間は春だがわたしは冬だ。
エリコは机に突っ伏してそう思った。大きな大きなため息をつく。
「はあ」
いつもどおり授業内容などまったく頭に入っていない。いましがた教室を出て行った後ろ姿は、電脳化理論の教師のものだったろうか。
入学から半年あまりが過ぎたが、このぶんでは高校を卒業できないかもしれない。それ以前に二学年への進級すらあやうい。
でもそれも、どうでもよかった。もともと目的があって入学したわけでもない。しがらみを断ち切れずただ流されるまま、ここにいるだけだ。
何もかもが億劫だった。そして、寒い。
「ふう」
冬が嫌いなのではない。憂鬱の春や狂気の夏に比べれば、よほど冬のほうが肌に合う。追懐の秋の次に好ましい季節だ。
しかしエリコを閉じ込める寂寞の冬は、エリコ自身の中にある。
来るべき芽吹きのときに備えてじっと息を潜めるのとは違う、永久凍土の冬だ。
「むう」
気だるげに唸りながら顔を上げると、顔をしかめた数人のクラスメイトと目が合う。しかしそれも一瞬のことで、すぐ視線は逸らされた。普段どおりだ。
さして気にも留めず緩慢な動作で頭をめぐらしたエリコの、死んだ魚のような目が、突如爛々と輝く。
「ショウイ!」
目にも止まらぬ早さでエリコが駆けつけた先には、廊下を歩くひょろりと背の高い青年がの姿がある。彼は突進してくる小物体に目を剥くも、残念ながら避けるいとまも与えられなかった。
「ショウイ、ショウイー!」
先ほどまでの無気力ぶりが嘘のように俊敏な跳躍でエリコは彼に飛びついた。とっさに逃げようとした背中に負ぶさる形になる。
「会いたかったわショウイ! 焦がれて焦がれて消し炭になる前に会えて嬉しい! 偶然という名の運命がふたりを祝福しているに違いないわね!」
「離せ。つい数時間前にも襲いかかってきたことを忘れたか」
「恋する女にとっては一日千秋、ほんのひととき離れているのでも、身を引き裂かれるようなの。ああん罪な人」
「おまえは……」
うんざり、と顔に書いたショウイが絶句する。心の疲労のあまり反撃の気力もわかないのだ。
「エリリンって呼んで」
「嫌だ。う、ぐ」
引きはがそうにもエリコは恐るべき膂力でショウイに張りついている。背中のあたりで引っぱられているため、制服の詰め襟部分がショウイの首を圧迫した。
「ジンノ、助けろ」
苦しみもがきながらもショウイは隣に向かってなんとか声を絞り出した。しかし、名指しされた大男はショウイの後ろではなく前に手を伸ばした。せめて襟をゆるめて呼吸を楽にしてやろうというのである。
「違う!」
「しかし……」
ジンノは困り顔でショウイを見返した。ショウイの要求はわかっているが、彼の背中にいるおんぶおばけは、身の丈がジンノの腰の高さほどしかない幼女なのだ。ただ背が低いのではなく全身どこもかしこも小さい。エリコの正確な年齢をジンノは知らないが、高等部どころか中等部にいても周囲から浮き上がる外見であるのは間違いなかろう。見た目からすると十歳ごろだろうか。
「毎度毎度しっかりしなさいよ、ジンノの役立たず! このこましゃくれは子どもとはいえ容赦無用の変態よ、猛獣よ。あなたの苦手なか弱き者ではないわ」
そこに女生徒が割り込み、無理矢理エリコをたたき落とそうとした。間一髪エリコはその鋭い手刀から逃れ、危なげなく着地する。
「ミサキ、助かった」
「友人として当然の行為よ。大丈夫?」
ほっと息をつくショウイの肩に手を置こうとして、ミサキは妨害にあった。反対側から強く引かれたせいだった。見ればエリコがミサキの腕を掴んで威嚇してきている。
「ショウイに触らないで」
幼い顔には不釣り合いな冷たい眼光だった。
ミサキは下心を見透かされたような後ろめたさに包まれ、それをごまかそうと次の瞬間には怒り狂った。反射的に腕を振り払い、さらにその勢いで少女を打擲することをためらわなかった。
ミサキの振りかぶった手首を頭上で制したのは、ほかならぬショウイだった。
「落ち着けミサキ。やりすぎだ」
行きすぎた振る舞いを静かな声で諭す。ショウイはミサキの腕をすぐに解放したが、さすがに彼女も我に返った。呆気にとられたように生徒たちが自分を見ている。ジンノも鼻白んでいた。ミサキは怒りではなく羞恥のために頬に血をのぼらせた。
「……ごめんなさい。あなたも。悪かったわ」
まずショウイに、ついで渋々エリコに謝罪する。さぞ馬鹿にしているのだろうとミサキが少女を見下ろすと、予想とはかけ離れた笑顔で朗らかに頷かれた。
「気にしていないわ。こちらこそ挑発してごめんなさい」
まるで大人が子どもの不調法を笑って許すような、鷹揚で余裕のある態度に、ミサキは二の句が継げなかった。これだからミサキはエリコのことが嫌いだ。そして、苦手だ。
「会えて嬉しかったわ、ショウイ。そろそろ次の授業が始まってしまうのではない?」
エリコの一言に、固唾をのんで一部始終を見守っていた観衆も、慌てて行動を再開する。ショウイたちも同様だった。
「またね」
手を振るエリコにショウイは返事をしなかったが、代わりにミサキが一度だけ振り返った。どこか優越感のにじむ声音で言い捨てる。
「学園長の親戚だかなんだか知らないけれど、あまり調子にのらないことね。あなたは後悔することになるわ、絶対よ」
エリコは何の感慨もなくそれを受け取った。そしてまた倦んだような面持ちで自席へ戻る。高校生用の椅子は無論ながらエリコの身長にそぐわず、座るといつも足は浮いている。
「はあ」
深呼吸に似たため息をついて、エリコは再び机に突っ伏した。
「やはりエリコ・オーエは即刻処分すべきです」
ミサキの憎々しげな主張を聞きながら、ショウイは「なんとか言ってやれ」という視線をジンノへ送ったが、ジンノは首を横に振るだけだった。荷が重いとでも言いたげだ。
しかたがないのでショウイが口をひらく。
「一体、どういう名目で?」
「不敬罪です!」
断言された。頭が痛い、とショウイは思う。こいつを自分のもとに送り込んだのは誰だ。
「一般生徒相手にそんなものが適用されるはずがあるか。だいたい相手は小さな子どもだぞ」
「しかし、ショウイさまに対するあの態度は目に余ります! 思い上がりもはなはだしい!」
「声が大きい」
授業中のため、この空き教室に人の気配はないものの、ここは校内だ。
もうミサキは宮内庁へ返却してもよいだろうか。しかしそうなると、通り魔のような例の幼女に対する抑止力がなくなってしまう。せめてジンノが騎士道精神の奴隷でなければよかった。
「そもそもあのガキがこの学園にいる理由からして不審です。本来なら入学など許されない身でしょうに」
確かに、とショウイはその点にのみ内心で同意した。
エリコ・オーエは学園の有名人だ。入学以来、もっぱら悪い評判をとどろかせている。
トウキョウ都心にほど近いブンキョウ区の閑静な住宅地にどんと鎮座まします名門校、私立オーエ学園大学は、長きにわたって各界に優秀な人材を輩出してきた。ことに魔法論にかけては世界のどの研究機関にもひけをとらない。また、自他ともに認める、魔化技術の最先端だった。
世界の理の前に人類が屈しようとしているこの時代、人智を超えた神秘的な律の中にある魔法は最後の希望といえた。
ゆえに付属の高等部への入学を認められるのは、非常に優秀な才能を持つ者に限られている。ほとんどすべての授業を寝て過ごす自堕落な生徒など、いてよいはずもない。
はじめエリコはその外見から、生徒らに大きな羨望と嫉妬の念を抱かせた。通常、高等部は義務教育を終えた十五歳の子息が入学するものと相場が決まっている。例外といえば飛び級制度を適用された場合くらいだろう。従って、初等部にいるのが相応しいような姿の彼女は人並み外れて優れた頭脳の持ち主に違いない、と思われた。
今となっては皆が鼻で笑う話だ。実物のエリコは進級すら危ぶまれる、単なる寝太郎だった。となれば残る可能性は縁故入学しかなく、彼女の姓はそれを信じさせるに充分な材料となった。反感を集めるのも無理はない。誰もがエリコと距離を置きたがった。
加えて特定の男子生徒への常軌を逸した求愛行動がある。
被害者たるショウイは彼女とは対照的にひどく影の薄い生徒だったが、繰り返される奇行は彼に対する周囲の同情心を高めた。極力人目につかないよう腐心している彼にとって、それは好ましいことでない。
エリコが何を思ってつきまとってくるのかは知らないが、彼に受け入れるつもりはなかった。自分には果たすべき役割があるからだ。
「ミサキ。おまえの話がそれだけなら、授業に戻るぞ」
つまらない時間を過ごしてしまったと苦々しく思いながらショウイは席を立つ。あとに続こうとしたジンノがふと身じろぎして、懐から小型の機器を取り出した。
「ショウイさま、通信が入っております。宮中からです」
手渡された送受話器に向かって一言二言やりとりをしたショウイの顔色が変わる。緊張が走った。
「わかった、すぐ戻る」
言いながらすでにショウイの足は部屋を出ようとしている。目配せを受けたジンノとミサキもそれに従い、三人は走り出した。
「何事ですか!」
「――鏡の森の花が枯れた」
それは、第二の前兆を意味する。
エリコは深く長いまどろみの中にいた。
彼女は器だ。時の埒外で、果てのない桎梏に小さなその身を捕らわれながら、彼女自身が牢獄でもある。
冷たい氷の中に、もうずっとエリコは閉じ込められている。外で起こるすべてを見つめていても決して手出しできない。そういう場所にいる。
「私の学園に来ないか。オーエの名の庇護を与えよう。その代わり、頼みたいことがあるんだ」
オーエ学園理事長を名乗る壮年の男にそう持ちかけられたとき、エリコは一度断った。希望も絶望も持たない自分に庇護が必要とも思えなかったせいだ。だからその後彼女を動かしたのは、むしろ「頼みたいこと」のほうだった。
エリコは心の中で呟く。
――モーリ、フワ、オーエ、ドーマエ、シノイ。あなたたちは、この未来を予見していたのか。
かつて選ぶ権利も与えられず世界を背負わされた少女に、今度は自ら選ばせるつもりだったのか。
考えても答えは出ない。正解は遙か昔に塵と化した。そしてエリコが導き出すべきなのも、単なる回答ではないのだろう。
「ふう」
面倒だ。何も考えたくない。
畢竟エリコの思考はそこに戻ってくるのだった。
頭と両腕を机の上に投げ出して背中を丸めるエリコをよそに、教師は壇上で魔法理論に関する初歩的な話を説明し、生徒たちは時折ペンを動かしながら聞いている。その授業風景を日常ならざるものにしたのは、ひとりの闖入者だった。
「エリコ・オーエ! 来たまえ」
「理事長? どうなさったんですか」
授業を妨害されたことに憤るでもなく教師が尋ねたが、闖入者は答えず「エリコ・オーエ!」と繰り返した。
「ふあ」
大儀そうにエリコは起き上がり、しかしなかなか席を立たなかった。
「エリコ・オーエ!」
三度呼ばれて初めてエリコは理事長を見る。そしておもむろに首を傾げた。なぜ彼がここにいるのかわからない。年齢相応に皺を刻んだ顔はひどく苛々しているようだ。焦りが眉間に表れている。
「出番だ」
「ああ……はい」
エリコは椅子から飛び降り、ようやく彼のほうへ向かった。それに室内の全員が目を疑った。あの寝太郎が、ショウイもいないのに、まるで普通の人間のような速度で動いたのだ。ほどんど常に半眼状態の両瞼が心なしか、しかと見開かれている。
静かな驚きに包まれる教室をあとにし、エリコは早足の理事長のわずかに後ろをついて行った。彼の一歩に合わせるにはエリコがその間に二歩進む必要があった。
「王宮に来てもらう」
「はあ。花が枯れでもしたの?」
「枯れた。そして次々に川の水が濁り始めている。おそらく世界中で同じことが起こっているのだろう」
来たか、とエリコは思った。想像していたより冷静に受け止めている自分がいる。二度目だからなのか。
「余裕だな。なぜ笑っている?」
問われて、エリコは己の口が笑みをかたどっていることに気づいた。そして知る。
自分はずっとこの日を待っていたのだ。
人に終はりあり、人の世に終はりあり。されどかかる定めに終はりぞなかりける。太古の昔より繰り返されたるあめつちの理、これなり。
いづれのころなりしか、久しきに覚えず、はじめにひでり、次に野花たちまち枯れにけり。やがてをちこちの河にごれり。つひにまがつかみ現れて種埋めければ、黒き花咲き、いひしれぬ至高の調べあまねく響き渡りて生きとし生けるものみな倒れ伏しぬ。また不吉なる大風吹きて都鄙一夜のうちに砂塵と化せり。
さきの世の滅びしこと、かくのごときなり。
チヨダ区の王宮に到着したショウイは、大勢の臣下に出迎えられた。
「ショウイ殿下。お呼びだてして申しわけありません」
「構わない。状況は」
奥の間へ向かう足を止めないまま侍従長に尋ねる。
「内庭の川の水が薄墨色に変わりました。おそらく王宮の外でも同様のことが起きているものと思われます」
「ふん」
ショウイは皮肉げに笑ってみせた。
「いよいよ終末が近いというわけか。次は禍つ神か?」
「禍つ神は退けられます。勇者の血を受け継ぐあなたさまのお手によって」
傍らのジンノが力強く断じた。恐慌状態のミサキは宮中に入る手前で門番に預けてある。
「勇者、か」
それはこの国の祖先の別名だった。重要なのは彼らの血ではない。史実が裏打ちする確かな力の有無だ。その点でもショウイは間違いなく彼らの後継者たりえた。
――世界は幾度も滅びているらしい。
前回の世界、いわゆる前期世のわずかな生き残りによって興されたという今期世は千年の月日を経て、大陸全土をまたがる隆盛のときを迎えた。希少な記録からうかがい知れるかつての高度な文明を、人々はもはや超えたと誇ってはばからなかった。
どうやら前期世の前にも文明社会が存在したようだが、前期世と同じくほぼ全人類が死滅し終焉を迎えたことが知られている。おそらくはその前にも、さらにその前にも、世界は興亡を繰り返している。
いつから語り継がれているのか定かでない、ひとつの伝承がある。
それによればこの世は死神に植えられた終末の種の発芽をもって衰亡へ向かい、やがて咲く禍々しくも美しい花は、死への序曲たる至上の音楽を奏でる。それはときに絶望に満ちた暗黒の歌であり、ときに狂気に満ちた激情の歌であるという。
今期世は、五百年前に、終末の種を禍つ神より賜った。
にも関わらず繁栄の歩みを止めることがなかった歴史の陰には、命を賭して戦った五人の英雄があった。彼らは大いなる勇気と知恵をもって禍つ神に挑み、あえなく命を落としたが、その心意気に免じて禍つ神はその場を退いた。
彼らの尊い遺志を、我々は決して忘れることなく受け継いで生きねばならない。でなければ禍つ神はすぐにでも、再び終末の種を携え降臨するだろう――とは五歳児でも知る有名な教訓である。
そして今、世界はまた終焉の序曲を聴いている。
「種とやらは本当に、ここに植えられるのか?」
「伝えられているとおりなら、毎回この地のこの場所のようです」
そこは廟と呼ばれることもある、広い空間だった。天井はなく、雨風を防ぐ覆いも取り払われている今は、四角く切り取られた青空だけが見える。
「雨が降らなくなってふた月、徐々に植物は枯れていたが、唯一生き残っていた鏡の森の花も枯れ、いよいよ第二第三の兆候が現れた。まあ、これ以上待たされては禍つ神が降臨するまでもなく、全員餓死だったな」
「めったなことを……」
侍従長が諫めるが、ショウイは意にも介さない。
「聞くだけ無駄な質問かもしれないが……父上たちはどこに?」
「両陛下や他の殿下がたは、万が一を考え王宮の外へ避難していただいております」
ショウイの予想に違わぬ返答だった。
「両陛下よりショウイ殿下へ、傍にはいられないが無事を祈っている、とのお言葉でございました」
「はっ。無事もなにも、俺の命と引き替えに、世界の延命措置を施す計画なのにか」
「そ、そのような」
いまさらショウイは傷つかない。それはとうの昔から決まっていたことだった。
勇者が持っていたのは大いなる勇気と知恵よりむしろ人並み外れた魔力だった。人体が有する魔力素という物質が発見されてまだ日の浅い時代に、彼らは常人ではほとんど意識できないそれを使いこなしたというのである。
現在この国の王室は、かの勇者のうち特に強い魔力を持っていたふたりの血統を受け継いでいる。そのため王族にはごくまれに、彼らに匹敵するほどの力を生まれ持つ者がいる。当代ではただひとりのその能力者がショウイだった。
無論世界も手をこまねいて度重なる破滅を待っていたわけがない。ことに今期世は一度滅亡を免れた経験があるのだ。いつ訪れるともしれぬ再びの危機をいかにして回避するか、多くの有識者が論じてきた。勇者モーリと勇者フワの間に生まれた子は王朝を興し人民を導いた。勇者ドーマエおよび勇者シノイの子孫はその臣下となり治世を支えた。勇者オーエの末裔は脅威に抗し得る技術や力を研究するための機関を設立した。ショウイが身分を偽ってまでかの学園に通っていたのは、まさにその技術を身につけんがためであった。
「その代わり奇跡が起こって死なずにすんだら、俺は好きにさせてもらう。そういう約束だ」
「よろしいかと」
ジンノがしかつめらしく頷いた。
「なさりたいことを決めておいてはいかがですか」
どうあっても主君に追随する気でいるわりに、この期に及んでも動揺の見られないジンノを、彼の主君は頼もしく感じて笑う。
「それには及ばん。もう決まっているからな」
ショウイは高揚していた。続けた言葉に珍しく仰天するジンノをよそに、荒ぶる己の心を楽しんでさえいた。
「好きな女を探しに行く」
「は……?」
多くのものを諦めてきた。何かを手に入れることを拒んできた。それはとりもなおさず、いまこのときのためだったが、ショウイは世界を救おうなどと大層なことをはじめから考えていたわけでもない。
――なすべきことをなせばいいわ。
そう言って微笑んだ女性を思い出す。
願わくは、愛おしい人が心安らかでいられる世界が続くことを。
ショウイが初恋の感傷に浸っていたそのとき、広間の大扉が音を立てて派手に開かれた。
「あらショウイ! また会えて嬉しい! 早かったのね」
ショウイにとってその声は身構える合図のようなものだった。よってこのときも彼はまず小型爆弾のごとき衝撃に耐えるべく防御態勢をとった。我に返ったのは、いつまで経っても襲撃が来ないのを訝しんでからのことだった。
「エリコ・オーエ! なぜここに……」
そこには仁王立ちする幼女がいた。
「もう、ショウイったら。エリっちょって呼んでって言ったでしょう?」
言ったか? と律儀に首を傾げたのはジンノだけだった。
「とにかくここは危ない。どうやって入り込んだのか知らないが、さっさと逃げろ。ジンノ、連れて行ってやれ」
「心配してくれているの!? 感激だわ、今日は記念日ね。心配記念日! 『逃げろ』とあなたが言ったけど……四月八日は灌仏会!!」
奇妙なことに、侍従長をはじめこの場に集う臣下たちは誰ひとりとしてこの小さな闖入者を追い出そうとしない。それどころか、ここにいて当たり前の存在であるかのような目で見るばかりだった。
「オーエ? おまえが連れてきたのか?」
「左様にございます、殿下」
至極落ち着いた物腰でやってきた学園長が答える。わけがわからないでいるのは、ショウイとジンノのみらしかった。エリコは彼らをおもしろそうに眺めている。
「待っていたって、禍つ神なんか降りてきやしないわよ、ショウイ」
「どういうことだ」
「種を運んでくるのはね、黒い竜巻なの。不吉なる大風というのがそれ。昔の人はその影を見て恐ろしい死神が来たと思ったのでしょうね」
ショウイは息をのむ。未だ事態は飲み込めないが、朗らかな口調にそぐわない少女の話は信用に足るはずだった。なぜなら、常識を聞いているような態度を周囲の人間が崩さないからだ。
「それなら、俺は一体何をすべきなんだ。竜巻を止めればいいのか」
「五百年前の英雄譚には、語られない事実があるの」
ショウイの問いを無視してエリコは切り出した。
「聞きたい?」
「……聞こう」
ショウイは腹をくくった。終末の種が植えられようというこのときに、学園きっての落ちこぼれ幼女が呼ばれたのには理由があるらしい。ならばその話を聞くことにも意味があろう。
ふふ、とエリコはにっこり笑った。どこか投げやりな、それでいて強い意志を秘めている表情だと気づいたのは、つい先ほど同じ笑みを浮かべていたショウイだからこそなのだろうか。
「五百年前、終末の種は蒔かれなかったことになっているけれど、実際は違うのよ。だって禍つ神なんていないんだから、持って帰れるはずもないでしょう。種は確かにこの世界にもたらされたのよ。そして今は、眠っている。ふわあ」
話の途中でエリコがあくびをもらした。
「眠くなってきた。ごめんなさいオーエ、続きを頼んでもいい?」
「いいでしょう」
信じがたい緊張感のなさに驚愕するショウイをよそに、オーエが言葉を継いだ。
「救世主は勇者五人のほかにもうひとりいました。英雄というより生け贄ですが。当時存在した小国の巫女が差し出されたんですよ、禍つ神への供物として。ところが既にご存じのように種を運ぶのは竜巻の仕業です。かくして勇者たちの戦うべき相手は禍つ神から竜巻へ変わり、巫女は供物ではなく容れ物になった」
「容れ物……?」
黙って聞いていたショウイがつい言葉をもらす。なにかひどく嫌な印象を受けたからだ。
「種の容れ物です。竜巻を鎮めた勇者たちはあらん限りの魔力を絞り出して、終末の種を巫女の身体に収め、発芽を阻止する処置を施し、息絶えました」
「その巫女ってもともとは花畑に捨てられていた孤児を、神殿が引き取って生け贄として育てたんですって。地に埋もれかけていた子どもだったからなのかなんなのか、やけに種との相性がよかったみたいよ。世界的ラッキーだったわよね」
あくびをかみ殺しながらエリコが補足する。ショウイは頭を整理した。いろいろと衝撃的な事実をつきつけられて冷静でいるのは難しい。
「その巫女はどうなったんだ」
「上!」
ショウイが尋ねた瞬間、エリコが鋭く叫んだ。広間にどよめきが走る。頭上遠くの空の中に黒い渦が出現していた。
「竜巻か!」
なるほど不吉なありさまだ。徐々に近づいてきている。尋常の竜巻とも思えない。
「陣をはれ!」
ショウイは叫んだ。ここにはジンノを始めとする世界有数の魔力保持者が揃っている。今や彼は悟っていた。長年禍つ神を食い止めるために研究と研鑽を重ねてきた防御の術が、実際はあの黒い渦に対するものであったのだ。
彼らは己が体内を循環する力の素へ働きかけ、外界への干渉を始めた。もっとも強く眩しい力のある場所へ全員の意識が集中していく。ショウイは彼らの魔力が自分の手の中で混合し練り上げられていくさまを全身で感じ取っていた。気を抜いた途端に失神しそうなほど強烈なめまいに襲われる。頭が破裂しそうだった。
青い風が凄まじい勢いを伴ってショウイを包む。周りを取り囲む者はみなたまらず目を閉じ、床に伏した。それゆえに誰ひとり、爆風をものともせずに直立し、風の渦の中心にいる青年を見据えるエリコに、気づかなかった。
「今だわ」
少女のその声が聞こえたかどうか定かでないが、室内に収まりきらないほどの大きさに成長した風はショウイのもとから離れ、天を目指して飛び立っていった。ショウイはがくりと膝をつく。意識は朦朧としているようだ。
その後上空で繰り広げられた光景は、見る者がエリコのみであったことが惜しく思われるほど幻想的なものだった。青い風に取り込まれた黒い渦はあっと間に相殺させられ、色も勢いも失いながら最後には消え去った。あとに残ったのは竜巻を飲み込んだにも関わらず、なぜかいっそう勢いを増した青い渦巻き状の風だった。ただしこの渦は竜巻であって竜巻でない。魔力の管理下から外れていない証拠に、いつまでもそこに留まっている。
「すごいわ。ここまでうまくいくなんて。モーリたちは竜巻を消すので精一杯だったのよ。研究の成果ありね」
外壁ごと吹き飛んだその空間のさまは無残なものだったが、ただひとりそこに立つ少女の姿はそれ以上に異様だった。エリコが青い風に向かって手を差し出す。すると風は意思あるもののように彼女へ近づき、その掌に小さな粒を落とした。
「ふふ、ありがとう。さすがにこの身体は王族の魔力と親和性が高いのかしら、手間が省けて助かるわ」
「それは……?」
後ろからかけられた声にエリコは少なからず驚いた。
「まあショウイ。じっとしていたほうがいいわよ、たぶんそのうち立てるようになるから」
「……それは終末の種か? どうする気だ」
息も絶え絶えににらみつけてくる。エリコは首をすくめた。
「こうするのよ」
言うが早いかエリコは一寸のためらいも見せずそれを飲み込んだ。青年の驚愕の面持ちは見ものだった。
「な、飲ん……!?」
「これにて任務完了。じゃあね、ショウイ。元気で」
少女はひらりと青い風に乗った。なぜそんなことができるのか、どこへ行く気なのか、謎ばかりがひしめくショウイの脳内が選んだのは引き止める言葉だった。
「待て、エリコ! 説明してくれ!」
「えー、けっこう一刻の猶予もないんだけど……種が発芽しちゃうわ」
「そうでもないだろう。エリコ、きみが一番わかっているはずだ」
そこに学園長が現れて口を挟んだ。抜け目なく避難していたらしい。
「殿下、ご無事そうで何よりです」
「オーエ、どういうことだ」
「ショウイ、這いつくばって睨んでも迫力は皆無よ」
エリコがいちいち半畳を入れる。
「言葉どおりです。エリコの体内にある限り、種は時間を止められています。発芽の危険性は低いでしょう」
一向に表情をゆるめないショウイを見下ろし、オーエは薄ら笑いを浮かべた。
「話の続きをしましょうか。かつて黒き竜巻を沈静化させた勇者たちは、勢いあまって種を飲み込んだ巫女に対して時を止める魔法を施しました。もちろんとんでもない大技ですからね、勇者は残らず命を削って削り尽くしたのですが、巫女だけは生き残りました。時を止められたまま、生き続けました」
「勢いあまったとは失礼ね。むしろモーリたちのほうが勢いあまってわたしを幼児化させたんじゃない。思うにオーエの仕業よ、あいつは幼女趣味だったに違いないわ」
オーエの子孫は聞こえないふりをした。
「その巫女が……エリコどのなのですか……?」
「あらジンノ、いつの間に。おはよう」
力尽きていた者たちが、起き上がれないまでも徐々に意識を取り戻しつつあった。
「そうなのよ、時が止まっているものだから、起きているくせに身体が冷凍睡眠状態というか、まあそんな感じ」
「五百年も……ひとりで生きてきたのか!」
悲痛な問いはショウイのものだ。それにエリコはつい微笑む。彼の優しさが好ましかったからだ。変わらないな、と思った。なぜ事の真相を彼が教えられていなかったかといえば、理由はこの優しさにあった。なお、ジンノに関してはいかにも隠し事が苦手そうだからである。
「というわけで、もういいかしら」
「どこへ行く!」
「お空の彼方へ。あのねショウイ、五百年も経つとさすがにモーリたちの魔法も切れるおそれがあるの。長年の研究の結果、青空のさらに向こうまで行けばこの世界への影響下から抜け出せるんじゃないかという仮説が生まれてね。わたしの中の時が動き出す前に、行かなきゃならないの」
「なぜおまえが犠牲にならねばならない!?」
ショウイは必死に問いかけた。どうしても納得できない。
「それをあなたが訊くの? 勇者の後継者」
「それは……」
「気にしないで。と言っても難しいかもしれないけれどね。わたしは充分生きたのよ」
本当はそのようになど思っていない。彼女はずっと生きていなかった。エリコは世界に何も期待していない。五百年もの間、脆弱な子どもの身体で、たったひとり無為に時を過ごしてきた。彼に、会うまでは。
「ああ、わたしにかかっている魔法と同じものを上書きしようなんて考えないでね。もうそろそろ、疲れたの」
そんなことをされては困る。五百年前とて彼らはエリコに禁断の術ともいえる魔法を使ったが、本来その必要はなかったはずなのだ。今回と同じように、エリコを世界の外へ放り出してしまいさえすればよかった。にも関わらず彼らは命を捧げてまでエリコを生かそうとした。あのとき一緒に死んでしまえればどんなに楽だったろう。五百年間そう思い続けた。けれど悟ったのだ。彼らの子孫を守るため、いまこの瞬間のためにエリコは生き長らえてきたに違いない。
「それでは改めて、ごきげんよう」
高度を上げたエリコは、くい、と下から引っぱられるのを感じて眉をしかめた。ショウイが彼女の手をしかと握っていた。
「行かせない」
エリコは困ったように笑った。
「ショウイ、だだっ子みたいでかわいいけど離しなさいな」
「嫌だ! 民を犠牲になんかできない」
ジンノやオーエたちもどうしたものか決めあぐねた様子で、ただふたりを見ている。幼いころから諦念を知り覚悟を迫られてきた王子が、これほど聞き分けのない子どものような態度をとるのが極めて珍しかったせいもある。
「その民を救うためにわたしが行こうとしてるんだってば」
「認めない! 俺はかの勇者たちの後継者として、なすべきことをなす」
エリコの目が丸くなった。ついで相好を崩す。ばかね、と小さな声でこぼした。
「あれはそういう意味じゃないのよ、愛しい子。なすべきことをなせと言ったのは、役目を全うして死ねということではなく、モーリとフワが命がけで守りたいと願った命に連なる者として人生を謳歌してほしかっただけなのよ」
そう囁かれてショウイは息をのんだ。まさか、彼女は。
そのとき唐突に、エリコのまとう雰囲気ががらりと色を変えた。そばにいるだけで息苦しくなるような、威圧的な、威厳に満ちた少女がそこにいた。
「頑固な娘だ。だがおもしろい」
少女の高い声が一変して重々しい女性の声になった。唖然として見つめてくる面々を、エリコの姿をした何者かは権高に睥睨した。
「さきほどから聞いていればどうも話がおかしな方向へいっているので、つい我慢できず首を突っ込んでしまったぞ」
一番はじめに頭の切り替えに成功したのはオーエとショウイだった。どう考えても徒人ではない存在に対し、いかに口を聞いたものか悩みつつ、学園長は恐る恐る尋ねることにした。
「あの、あなたさまのお名前をうかがっても……?」
「わたしは種。名はない」
間違いなく全員が度肝を抜かれた。その内心はもっぱら、種って人格あるの、だ。
「前回の種と今回の種は対になっている。融合して本来あるべき均衡を取り戻したため、こうして一時的にだが表に出られるようになった」
初めて聞く話ばかりだ。実は裏へ追いやられただけで意識を奪われてはいないエリコも、表に見えないところで仰天していた。
「つ、対?」
「世界は鏡。うぬらが見た、聞いた、触れたと思ったものがそのまま世界になる。うぬらが心に抱く喜怒哀楽もまた、世界に蓄積されていく。それらがバランスを崩し、凝り固まって、ひとつの種子となる。うぬらが終末の種と呼ぶものだ。この世の場合はふたつだったが、種はあちらこちらに生じる。ひとつひとつは不安定なものだ。ゆえに単一で地にあっては災いとなる。点在する種を統べて、初めて世界の分身といえよう」
「……むう」
ショウイはうなった。
「つまり均衡を取り戻した今回の種に関しては、世界を滅亡させる恐れはないと考えてよいのだろうか?」
「そうなる」
途端にその場の張り詰めた空気が弛緩する。彼らにとってもっとも重要な点を確認できたからには無理もないことだった。ただひとり厳しい顔のままでショウイが質問を重ねた。
「種はエリコの中に今後も留まったままなのか」
「いや。おそらくわたしは彼女の子どもとして生まれることになるだろう」
「は!?」
世界の分身たる子ども。それはいったいどれほど常識外れの人間であることか。
「なに、たいしたことでもない。うぬらは例外なく皆、いわば世界の分身なのだから」
言いたいことを言って種人格はエリコの表面から去った。もののついでとばかりに青い渦風を消去し、「このままでは母上に産んでもらえぬではないか」などとエリコ自身に何やら施していた。
こうしてエリコは身体の自由を取り戻したわけだが、肉体的精神的疲労と、事の収拾にあたるのが面倒だという打算から、眠りにつくことにした。五百年間ひたすら寒さばかりを感じていた冷たい身体が、妙に熱く感じられたせいもある。
エリコは夢を見た。世界を揺るがしかねない存在となって以来、処分すべきだの刺激せず観察を続けるべきだのといった大論争の渦中に置かれ、もっとも希少価値のある危険な研究対象として軟禁状態を受けていたころの記憶から、その夢は始まっていた。
何もかもどうでもよいとしか思えなかった。生まれてすぐ捨てられ、生け贄として育てられ、初めて優しくしてくれた勇者たちには置いていかれ、死ぬことも生きることもできない体質になった。自分はいったい何者なのだろうかと自問することすら億劫だった。
オーエについて王宮へ行く気になったのはほんの気まぐれだった。八歳になった王子が勇者以来の強い魔力の持ち主に生まれついたと聞いて、少し関心が湧いた。
彼はぼんやりした子どもだった。その割に自身にのしかかった重責の大きさを理解しているような達観した瞳の持ち主だった。来るべき五百年目の危機を救う宿命を生まれながらに背負わされ、家族からも意図的に距離を保たれ、たったひとり鏡の森の花畑に立ちすくんでいた。その後ろ姿を見てエリコがつい親近感を抱いてしまったのは、ごく自然ななりゆきだったと思う。
顔を見て驚いた。数世代を経てなお、モーリとフワの容姿をきれいに半分ずつ受け継いだかのようだった。懐かしさがこみ上げた。
ああ、守りたい。気づけばそう思っていた。
「誰?」
エリコは警戒顔で誰何された。歳に似合わぬ沈着ぶりだった。それには答えずエリコは尋ね返した。
「あなたはこの世界が好き?」
少年はきょとんとしつつも即答した。
「うん」
「なぜ?」
「僕の先祖が守った世界だ。英雄たちが命をかけて慈しんだ、美しい世界だ」
どういうわけかエリコは涙が溢れるのを止められなかった。五百年間、一度もこんなことはなかった。
「そう。それは、素敵ね……ありがとう」
滂沱の涙を流す年上の少女に少年は大いに動揺していたが、構わずエリコは彼の頭をなでる。気遣わしげな視線を向けられた。
「大丈夫。守ってあげる。わたしがあなたを守ってあげるから、どうか安らかでいて」
少年は丸い目をさらに見開いてエリコをまっすぐ見返した。おそらく初めて言われた言葉だったのだろう、かすかに縋るような色が黒瞳にのぞく。それを見て取るや、エリコは彼をぎゅっと抱きしめた。彼に必要なのは英才教育より救世精神の植え付けより前に、無償の愛情ではなかろうか。明らかにエリコは己の幼少時に彼を重ねて見ていたが、あながちひとりよがりな感傷ではなかったと信じたい。なにしろ彼はエリコの背に小さな腕をまわし、渾身の力でしがみついてきた。
「わたしが守ってあげる。だからあなたは安心して、なすべきことをなせばいいわ」
以後エリコが彼に会いに行くことはなかったけれど、その代わり世界防衛対策にあたる関係者としてよりいっそう、あくまで当人比なので異論はあろうが、献身的になった。オーエからの学園入学の誘いにも乗った。彼の頼みとはあの少年の身辺警護だったのだ、乗らない手はない。もっとも蓋を開けてみれば彼には護衛がふたりもいて、特にエリコに役目はなかった。だからそれは、オーエ学園長のちょっとした親心のような親切だったのかもしれない。悪ガキだったオーエが大きくなったものだ。
「わたしも歳をとるわけよね……」
呟きながら目覚めたエリコはすぐ違和感に気づいた。長い長い付き合いになった小さな身体が、遠い記憶にあるころの状態に等しくなっている。当時エリコは十六歳だった。
「よ、よかった!」
まずは感涙にむせぶ。
「いきなり実年齢相応のミイラになって一瞬で老衰死なんてしていたら目も当てられなかったわよ、本当によかった!」
「第一声がそれか」
「あら、オーエ」
ひとしきり感激したあとで、エリコは自分を取り囲む人々を見やった。オーエやショウイやジンノ、なぜかミサキもいる。どうやらここは宮中らしい。
「な、なんなのこの女は! これがまさかエリコ・オーエだっていうの!? 嘘でしょう!」
事の経緯を聞いただけのミサキなので、まだ事実を受け入れられないようだ。それよりエリコは自らに注がれる熱い視線が気になった。
「ショウイ、風邪? 顔が赤いわよ」
「エリコ……きみだったんだな」
ベッドから起き上がったエリコの言葉を無視して、ショウイが彼女の手を握る。彼の目は熱情に潤んでいた。
「そうとも知らず俺はなんということを……ああ運命の人よ、再びめぐり逢えた奇跡に感謝したい」
「どうしたの、頭がぷっつんしちゃったの? あなた際限なく変よ」
エリコは視線をずらして他の面々を見た。オーエは生温かい笑顔を浮かべるばかりで、ジンノに至っては「殿下、ようございました……!」などと感極まっている。鬼の形相のミサキがエリコとショウイを引きはがしてくれたが、今回だけはありがたかった。愛しいショウイがいまは別人のぷっつんにしか見えなかったからだ。
「何これ」
エリコは首を傾げた。
「結局、五百年後にまた種は落ちてくるのかしら」
「いえ、当分はないみたいよ。次は早くて一万年後だろうと言っていたわ」
「ミサキ、どうしてそんなこと知ってるの」
「先日あなたが爆睡している授業中に種人格が出てきて、いろいろ話してくれたから」
「えええー……フリーダムな種だわね」
あれ以来、なぜかエリコとミサキは仲が良くなっている。ショウイが変な人になったきり戻る気配がなく、追うショウイと退くエリコという立場の逆転が起きたため、ミサキがエリコの心証はよくしたほうが吉と判断したせいだ。
エリコは今のショウイについてこう評価する。
「えー、だってショウイ、わたしの体目当てっぽいんだもの。成長した途端あの態度、って明らかにそうでしょ」
ミサキはほくそ笑んだ。
「まあまあ。殿方とはそういうものよ。どこまでも肉欲に忠実で、恋愛の情熱なんか色情を正当化せんがための方便にすぎないのだから」
初恋の少女を見つけた男の純情を知りつつ事実のすり替えを行い、エリコを洗脳しようと日々ミサキは努力している。
「エリコ!」
「あ、ぷっつんショウイが来た。いつ戻ってくれるのかなあ」
何はともあれ、世界は平和だった。
おわり