自我、超自我、超超自我
自我とは、私のこと。
何かを思考したり、触れ心地を感触したり、或いはそうして得た情報を纏め上げるもののこと。
超自我とは、外に見せている私のこと。
善悪、或いは恥を感じて考えられる全ての行動の九割を自制する私のこと。
超々自我とは、中から外に働きかけようとする私のこと。
私がより良い私へと進化するために時に善悪や恥を超越する私のこと。
心理学を専攻していないからこそ、好きに言葉に意味を与えられる。
それが社会的に共通の認識ではないと思うからこそ、こうして私は各言葉を説明する。
社会的に共通の認識でないことは社会的に通用しない認識ということではない。
モラルや規範というのはその時々の状況や直近の歴史的イベントに左右される。情報の流動が加速した今ならなおさら。そこでこそ、既存のモラルにしがみつく超自我という考え方は絶対的ではなくなる。超自我は平和で協調できる安定した社会を構築するための私だ。
中学生に思春期を迎えた時、不安を感じてしまうのは初めて芽生えさせた超自我という私が何をよしとし、何をあしとすべきかのデータがまっさらだから。周りを見回し、先生や先輩のことを、それゆえ、簡単に受け入れられる時期でもあり、親などの自分びいきな存在に対して反発する時期。
反抗期というのはインモラルな時期ということではない。
その反対にもっともモラルについて考える時期だ。
自分の中の善悪と社会の中の善悪が混ざって、反発して、折り合いをどうつけていいか分からなくなる。
道徳的な心と道徳を破ってでもすべきことをしようという倫理的な心に二分されていく。
そして、超自我が固まると倫理的な行動というのは成りを潜めやすい。社会は落ち着いた方がいい。ここは各地域や国柄によっても違うところだろう。社会的善悪VS個人的善悪の対立軸ととってもいいし、個人的善悪を基に既存の社会をブラッシュアップするドライバーだと考えてもいい。
ともかく、超自我は額縁とか価値観とかに例えられる。
超超自我は今の私を壊してより複雑な思考や価値観を得るために私が理想する私。
理想的な私に向かおうとするための自我だ。
私には自我も、超自我も、超々自我もなかった。
自分だけの世界を構築して、自分が欲しい情報だけで自分を作り上げて、それだからただ大人しく人の顔色をうかがう私。踏み込みもしないし、悩みもしない。だって、自分のしたい行動や情報を取捨して自分の世界を崩しかねない辛い選択や未来を忘却している。
代わりに決めてもらって、
有耶無耶に流して、
大丈夫と信じられる情報を集めて、
私は私をはみ出さないようにしている。
スマホも、ヘッドフォンも体のいい目隠しと聴力潰しだった。
ブレインロットという言葉がある。
私はブレインロット。生粋のブレインロット。中学生から小説を書いている。その前もずっと妄想に耽っている。理想的な世界で理想的な行動はできても、現実の世界ではまるで錆びたブリキ人形のようにぎこちない。
理想の世界で理想的な動きや考え方をしてきた。
その架空の経験が現実とのズレを感じさせて肉体をこわばらせる。
オリンピックで陸上競技の金メダルを白人としては数十年ぶりにとったイタリア人がいた。
その人は空気抵抗のない状態で走る練習をして肉体に空気抵抗のないより速い走りを刻み込んだ。たったそれだけのことで肉体はリミットを解除して、金メダルを取るにいたった。
世界に合わせて私も変わる。
その私を変える世界を産み出すのが超々自我。できないと思わない、希望を信じる自我。
私はそうなれるだろうか。
私は自分が羽ばたく姿を想像できるだろうか。
そして、脳を溶かしていない自分が何をしているか、思い出すことはできるだろうか。
私がスマホのない時代に生きていたのは10年もないだろう。
その頃を思い出すしかない。
幼少期を思い出して、大人の技術、子供の心で挑むしかない。
大人の技術、子供の心。
まるでパブロ・ピカソのように。超・超自我。




