第六話
「見たか、チャールズのあの顔。暴れ鹿をリードするのは、大英帝国の負債を整理するより骨が折れるだろう」
それから数日の間、フィリップは終始ご機嫌であった。椅子に深く腰掛け、淹れたてのコーヒーを楽しみながら、時折思い出したように鼻歌まで漏らしている。
「あれは全部、私があの場で必死に踏ん張ったおかげでしょう。頼りにならない夫役のせいで、私がどんなに冷や汗をかいたと思ってるのよ」
「まあ落ち着け、マ・シェリ。君のその地を這うような安定感が、我が事務所に最大の利益をもたらしたんだ。感謝しているよ」
メグが苛立ち紛れに食ってかかると、フィリップは悠々と手で制した。彼は机の下から重厚な書類鞄を引き寄せ、中から一通の厳重に封印された厚手の封筒を取り出す。
「これを見てごらん」
メグが訝しげに封筒を覗き込み、中身を引き出した瞬間、彼女の息が止まった。
「……これ、まさか父さんの事件の証拠書類? どうしてあんたが持ってるのよ」
「デュトワ氏と、何よりあの賢明な夫人の計らいだよ。君が夫人とあの日テラスで意気投合してくれたおかげで、彼は僕を信頼に足る相手だと認めた。重要証拠の原本の、ほんの短時間の貸出を認めるくらいにはね」
「貸出って……。こんなことしていいの?」
「いいわけないだろう。露呈すれば僕の弁護士資格は剥奪だよ」
「この悪徳弁護士……」
平然と言ってのけるフィリップにメグは毒づくしかなかった。しかし、これで父を助けられるかもしれない。
「借りられるのは一晩だけだ。明朝には検察の証拠品庫に戻っていなければならない。メグ、その目が節穴じゃないのなら、この書類をもう一度洗うんだ」
フィリップはランプを引き寄せ、テーブルの上に数枚の書類を広げた。中心に置かれたのは、あの忌まわしい自白の署名が入った原本だ。
二人は顔を寄せ合い、交代で拡大鏡を覗き込んだ。メグは瞬きも忘れて、父の署名を凝視する。線の太さ、筆圧、癖の強い払い。どこをどう見ても、それは父の字だった。
「……筆跡は本当に父さんのものよ。うっかり文面を読まずに書いたって言われたら、信じてしまいそうなくらい」
メグは焦燥感に駆られながら、何度も何度も書類を読み返す。指先で紙の質感をなぞり、インクの粒子を凝視していた時、ある違和感が彼女の背筋を走った。
「……ねえ、変だわ。この自白書類の署名、他の書類と比べて、ほんの少しだけ……青みが強くないかしら」
「何?」
フィリップが拡大鏡を奪い取るようにして覗き込む。彼は数枚の関連書類を並べ、署名の部分だけを交互に拡大した。
「確かに僅かに彩度が違うな。だが誤差の範囲と言われればそれまでだ。君はどうしてそう思う?」
「父さんは変なところが頑固なのよ。インクは市場の角にある文房具屋の特製しか使わない。もしこの書類にサインしたのが父さんで、いつもの万年筆を使ったのなら、インクの色が違うなんてありえないわ」
「……インクの銘柄か」
フィリップは署名を手袋越しの指先でなぞった。彼の口角が、獲物を仕留める直前の肉食獣のように吊り上がる。
「これで父さんを助けられる?」
「いいや。これだけじゃ“たまたま別のペンを使った”で片付けられる。だがこれだけ杜撰な真似をする犯人だ。証拠品そのものの真正性を疑い、公判で再鑑定を申し立てるだけの価値はある」
「でも……いいの? こっそり手に入れた証拠品で見つけた粗で、異議を申し立てたりして。どこで見たんだって、あんたが疑われるんじゃない?」
「僕は弁護士だ。手続きを踏めば、検察側の資料室で原本を閲覧する権利は持っている。……ただ本来なら一週間は申請が必要で、カビ臭い部屋で監視付きでやらなきゃならない。僕はその過程をほんの少し省略して、快適な自宅で君という優秀な助手を雇っただけのことだよ」
「持ち出しさえバレなければ、見ること自体は正当な権利ってわけね……」
メグは一瞬絶句したが、それから目の前の男の悪徳の底深さに、今日一番の晴れやかな笑みが浮かんだ。
「やるじゃない、この悪徳弁護士!」
ばしっ、と景気のいい音が部屋に響いた。メグが賞賛を込めて、フィリップの背中を思い切り叩いたのだ。フィリップは「ぐっ」と短い悲鳴を漏らし、前のめりに机に突っ伏した。
「……メグ。君のその、市場仕込みの腕力を加減することを学ばない限り……僕の治療費が、君の働きを上回るかもしれないぞ」
◆
「……何よ、その目は。敗北宣言でもしに帰ってきたの?」
食ってかかるメグの言葉を、フィリップは受け流す気力すらないようだった。彼は無言のまま泥のようにソファへ沈み込み、長い指で強く瞼を押さえた。
「あれだけ大口を叩いておいて、結局それ? 私はあんたに言われた通り、窮屈なドレスを着てテリーヌを食べて……一日中ここで、あんたの帰りを待ってたのよ!」
メグの怒りは不安の裏返しだった。『君は今、僕の妻として社交界に顔を売っている。その正体が被告人の娘だと知られれば審理は無効だ。いいか、絶対に外へ出るな』今朝そう厳命され、唯一の希望として託したのが、父が大切にしていた万年筆だった。
「……インクの違いは指摘したさ」
フィリップが掠れた声でようやく口を開いた。瞼を押さえたまま、彼は苦い毒を吐き出すように続ける。
「だが検察はそれを逆手に取った。後で言い逃れをするため、被告人があえて別のインクを使ったのではないか、とな。筆跡が本人のものである以上、これでは反論を覆せない。再鑑定の結果が出たところで、事態が好転する保証はないな」
メグはフィリップの前に、冷えたシェリー酒のグラスを叩きつけるように置いた。
「あの自信はどこへ行ったの? 悪徳弁護士なら、もっと汚い手を使ってでも勝ちなさいよ!」
「メグ、法廷では奇妙な真実よりもっともらしい嘘が勝つんだ。……僕たちには、インクの違いを説明するための背景が足りない」
フィリップは力なく天井を仰いだ。完璧主義者の彼が、ここまで露骨に挫折を露わにするのは初めてだった。
「ジャン・ド・ラ・モットは? あいつの正体を突き止められないの?」
「名前も住所も何もかも偽物だった。王室を揺るがした首飾り事件の首謀者の名を騙るとは、いかにも詐欺師らしい不敵なセンスだな」
「でも、父さんは言ってたわ。上品な身なりで、自信に満ちた喋り方をする男だったって。パリ中を探せば、どこかに……」
「……パリ中を闇雲に探し回るつもりか? 闇市の骨董品の中から本物のフェルメールを探すようなものだ」
メグは父から聞き出した“ド・ラ・モット”の身体的特徴を書き留めたメモを握りしめ、彼を睨み返す。
「……だがな、メグ」
フィリップはゆっくりと身を起こした。疲弊した眼差しの中に、知性の光が僅かに戻る。
「奴が演じていたのは巨大な国家事業の代表だ。その役を完遂するためには、一等地の邸宅を借り、一流の仕立て屋でスーツを新調し、最高級のヴィンテージワインで獲物を酔わせなければならない。……何よりシャンゼリゼを走らせるのに相応しい、紋章入りの馬車が必要だ」
「そうよ……。そんな贅沢な暮らし、父さんから騙し取った端金だけで賄えるはずがないわ。どこかにその莫大なお金を吐き出している財布があるはず」
「その通りだ。どれほど完璧に変装し、名前を変えても、金の流れだけは嘘をつけない。ド・ラ・モットという男の背後には、彼を代表者に仕立て上げることで利益を得る、本物の黒幕がいるか……あるいは、彼自身がどこかの大富豪になりすまして資金を回しているかだ」
フィリップは立ち上がり、壁に貼られたパリの地図の一点──金融街と高級ブティックが立ち並ぶエリアを指差した。
「一流の店は客を選び、客の記録を執拗に残す。特に、支払いが滞りなく行われるかどうかをね。マダム・ロダン、君の出番だよ」
「……ふん、最初からそう言えばいいのよ」




