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第五話

「まずいことになったぞ、メグ」


 ある日の夕方、屋敷に戻るなりフィリップがそう吐き捨てた。ソファに脱ぎ捨てた上着を掛ける暇もなく、彼はテーブルに一枚の書類の写しを叩きつける。


「検察側が決定的な証拠を出してきた。君の父親が“私はこれが偽造品であることを承知している”と自白したも同然の書類だ。署名の筆跡鑑定も、すでに当局の手で完了している」


「嘘よ、父さんがそんな書類にサインするわけないわ!」


 メグは書類をひったくるようにして睨みつけた。しかしそこに並ぶ文字は、見慣れた父の几帳面な筆跡そのものだった。


「君とミレー氏の言葉を信じるとすればそうなるだろうね。だが公的に鑑定された証拠がある以上、法廷ではそれが唯一の真実だ。……今のままではお父上の有罪は免れない」


「……何よ、それ。私には五百フラン分の働きをしろって散々押し付けておいて。父さんの無実を証明するのが弁護士の仕事でしょ。証拠がなんだって言うのよ、自分の仕事をしなさいよ!」


 メグは吠えるように叫び、殴りかからんばかりの勢いで詰め寄る。だがフィリップは眉ひとつ動かさず、ひらりと身をかわして一定の距離を保つ。彼は乱れたネクタイを整え、冷淡で絶対的な自信を湛えた眼差しで彼女を見下ろした。


「……僕が悪徳弁護士と呼ばれる所以を知っているか」


 メグが毒気を抜かれたように立ち止まると、彼は言葉を継ぐ。


「どんなに絶望的な状況だろうと、引き受けた依頼人の利益を必ず勝ち取るからだ。証拠が捏造されたなら、それを上回る真実を僕が用意すればいい。……それより、ダンスは上達したのか」


 あまりに唐突な話題の切り替えに、メグは呆気に取られた。


「何よ、今そんなこと……」


「そんなことじゃない。言葉遣いとテーブルマナーに関してはあの晩餐会で合格点を出してやったが、明日の夜会はそうはいかない。社交界の心臓部、シャンゼリゼへ乗り込むんだ」


 フィリップは有無を言わさぬ動作でメグの手を掴み、腰に手を回した。伴奏もない静かな部屋で、彼はメグをリードしてステップを踏み始める。特訓を経てメグの動きは当初に比べれば格段に洗練されていた。しかし、フィリップの口からは容赦のない溜息が漏れる。


「相変わらず重心が野暮ったいな。まるで捕獲されたばかりの鹿だ。これでは来賓の足を踏み抜いて信用問題に発展しかねない」


「うるさいわね、これでも精一杯やってるわよ。それより一体どうするつもりなの? まさか明日、その来賓に泣きつくわけじゃないでしょうね」


 メグは踊りながらも彼を問い詰めたが、フィリップは冷ややかな微笑を浮かべたまま、彼女の体をくるりと回した。


「残念ながら僕には守秘義務があってね。依頼人以外の誰かに手の内を明かすことはない」


「私は依頼人の娘で、あんたの妻役でしょ。十分じゃない!」


「いいや、君は無関係の第三者だ。……いいかい、明日の夜会が鍵になる。君が完璧な貴婦人として振る舞い、僕の望む場所へ入り込んでくれればそれでいいんだ。余計なことを考える暇があるなら、せめて僕の足の甲を粉砕しない程度には淑女らしく舞ってみせてくれ」


 腹立たしい。何もかもを手の内で転がし、自分には「黙って踊れ」と言うこの男がメグにはたまらなく鼻についた。それでも彼のリードに合わせる自分の足が、以前よりも滑らかに動いてしまうことがなおさら彼女の神経を逆なでした。



 ◆



 シャンゼリゼ通りに面した豪華な私邸のバルコニーからは、凱旋門へと続く光の河が一望できた。ホールには電球が灯す白光と伝統的なシャンデリアの柔らかな光が交差し、ベル・エポックの社交界の絶頂を象徴するような輝きに満ちている。


「いいかい。今夜の狙いは、君のお父上の事件を担当している予備判事の補佐官、デュトワ氏だ」


 フィリップはシャンパングラスを傾け、周囲に悟られないよう静かに囁いた。


「彼は僕のような野心家の弁護士をひどく警戒している。だが幸いなことに彼は社交界でも有名な愛妻家でね。君が夫人の懐に入り、彼女に『ロダン夫人はなんて素敵な友人かしら』と言わせさえすれば、調書を今夜中に僕の事務所へ届けさせることも不可能じゃない」


「……ええ。父さんの未来が、あの奥様との会話にかかっているのね」


 メグが覚悟を決めて頷いたその時、二人の間に割って入る影があった。


「おや、これはこれは。パリの訴訟話を独占していると噂のロダン先生じゃないか。こんな高貴な空気が流れる場所で、君のような正義の味方に会えるとは」


 完璧に整えられたブロンドの髪を光らせ、自信に満ちた笑みを浮かべた男。その口から漏れ出たのは、独特のアクセントが混じるフランス語だった。


「……チャールズ・フィッツジェラルド。ロンドンでの投資ごっこに飽きて、わざわざラ・マンシュ海峡を渡ってきたのか」


 フィリップの口角が攻撃的な角度で上がる。チャールズと呼ばれた男は、ロンドンから来た投資家であり、フィリップとは旧知の──そして最悪の犬猿の仲であることは、その場の空気の凍り付き方でメグにも即座に理解できた。


「ごっことは失礼な。私は野蛮な大陸の法律に、文明的な投資の光を当てに来ただけだよ。……ところで、隣にいらっしゃるのは? パリの法律事務所には、ヴィクトリア朝のレディも顔負けの気品を育てる秘密の温室でもあるのかい?」


 言葉こそ紳士の装いだが、その声に冷ややかさが混じっているのをメグは咄嗟に感じ取った。フィリップは迷うことなくメグの腰を抱き寄せ、所有権を誇示するように一歩前へ出る。


「霧の街で目を悪くした君に、僕の妻の価値を理解できるとは思えないが。百年戦争の延長戦を始めるつもりならいつでも相手になるぞ。結果がどうなったか、義務教育を受けた君なら覚えているだろう?」


 チャールズは鼻で笑い、大袈裟に肩をすくめてから、メグに向かって恭しく芝居がかった礼を捧げた。


「失礼、レディ。貴女の夫は、私が貴女を口説き落としてロンドンへ連れ帰るとでも怯えているようだ。無理もない、このシャンゼリゼの輝きの中でも、貴女の瞳は格別に……そう、少しばかり野生の光を湛えていらっしゃる」


 この男、見抜こうとしている。メグの背中に嫌な汗がひと筋伝った。精巧に作られた偽物を嘲笑うように、ドレスや教養の下に隠した市場の娘の正体を暴き出そうとしているのだ。


「……お褒めに預かり光栄ですわ、ムッシュ。ですがあいにく私は、ロンドンの方々が好むような冒険譚の主人公ではありませんの。今夜のシャンゼリゼが放つあまりの熱気に、博識なあなたの瞳も幻をご覧になったのではありませんか」


「なるほど、熱気、ですか。では、その熱を少しばかりダンスで冷ましませんか? 貴女の足取りが、貴女の言葉と同じくらい優雅なのか……ぜひ確かめさせてほしい」


 チャールズは拒絶を許さない紳士の所作で、メグへ向かって右手を差し出した。周囲の視線が集まる。フィリップはメグの腰に添えた手に、一瞬だけ祈るような、あるいは呪うような力を込めた。


 中央へと引き出された瞬間、ちょうど楽団が華やかだが意地の悪いほどテンポの速いワルツを奏で始める。チャールズのリードは一見すれば完璧な紳士のそれだったが、不慣れなメグにとっては複雑なステップを強いる意地の悪い罠の連続だった。

 強引に引かれた拍子に、メグの視界が揺れる。ドレスの裾が足に絡みそうになったその時、彼女の脳裏に響いたのはフィリップのあの忌々しい言葉だった。


 ──重心が野暮ったいな、捕獲されたばかりの鹿だ。


 メグは瞬時に機転を利かせた。あえて自らよろけたフリをして、身体の全重心を一点に預けたのだ。フィリップとの地獄の特訓で染み付いた、倒れまいとする必死の踏ん張りと、市場の石畳を力強く蹴ってきた強靭な脚力。


「っ……!?」


 チャールズの顔から余裕が消え、陶器のような肌が瞬時に蒼白へと変わった。メグの尖ったヒールは、逃げ場のない正確さで彼の足の甲を真っ向から踏み抜いていた。フィリップの足を粉砕しかけた、あの市場仕込みの一撃である。


 チャールズが微かに体勢を崩したのを見計らい、メグは彼が完全に立ち止まる前に、その腕を支えるようにして顔を近づけた。


「あらムッシュ、大事ございませんこと? ……まあ、お顔の色が。長旅の疲れが溜まっておいでなのね」


 メグは労わりの微笑みを浮かべて彼を見つめた。周囲からすれば、不慣れなダンスでよろめいた夫人を、英国の紳士が支えきれずに無様に足をもたつかせたという図にしか映らない。


「……失礼。少々、目眩がしたようだ」


 チャールズは紳士の体裁を保つため、力なく微笑みを返すしかなかった。


 曲が終わり、フィリップのもとへ戻ろうとしたメグの背後から、控えめながら凛とした声が掛かる。


「……見事な一歩でしたわ、マダム・ロダン」


 振り返ると、そこにいたのは真珠のネックレスを揺らしたデュトワ夫人だった。夫人は周囲に聞こえないほどの小声で、けれど確かな感銘を瞳に宿して囁いた。


「あのようなリードをこれほど寛大な心で受け流されるなんて。女性をエスコートする術も知らないような無作法な男には、相応の教育が必要でしたのよ。ねえ、テラスで冷たい飲み物でもいかが? 貴女のような骨のある方と、ぜひお話ししたいわ」


「光栄ですわ、夫人。……ムッシュ・フィッツジェラルド、お大事になさって」


 メグは勝利の余韻をドレスの裾に揺らして夫人の隣へ歩み寄った。遠くでワイングラスを片手に持ったフィリップが、信じられないものを見るような目で固まっている。メグは彼に向かって、今夜一番の野生の光を湛えた笑みを送ってからテラスへと消えていった。

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