第四話
「ウィ、ムッシュ」と言い返すのにもメグが飽きてきた頃、ついにその日はやってきた。
車窓の外を流れるのは、ガス灯と電球の明かりが混じり合う、黄金に輝くパリの夜景。今夜の会場となる壮麗なホテルの明かりが近づいてくる。
メグはこれまでにないほど締め上げられたコルセットと、贅を尽くしたシルクのドレスに身を包んでいた。かつての市場の売り子の面影は、鏡のどこを探しても見当たらない。
隣に座るフィリップは夜会服を完璧に着こなし、懐中時計を眺めながら無機質に告げた。
「さて。一ヶ月という短い猶予で、僕が君の食費と教育費に投じた金額は、並のパリジャンの月収を優に超える。今夜はその投資が賢明な判断だったのか、それとも僕の人生唯一の計算違いだったのかを、君に証明してもらうよ」
「……計算違いに終わったら、高いワインでもその頭に浴びせてあげればいいのかしら?」
メグが精一杯の皮肉で返すと、フィリップは怒るどころか、面白そうに鼻で笑った。
「残念ながら、そのワイン一瓶で君のお父上の工場の機械が一台買える。浴びるにはいささか高級すぎるね。それよりも……」
彼は懐中時計を仕舞うと、身を乗り出してメグの瞳をじっと覗き込む。
「今夜の晩餐会には、僕が狙っている外務省の事務次官候補も出席する。彼は熱狂的なオペラ好きだ。君が暗記したはずの“フィガロの結婚”の批評、もし一言でも間違えるようなことがあれば、僕は明日から君をこの車の運転手として雇うことにするよ」
「運転手ですって?」
「ああ。ハンドルを握って、毎日僕を事務所まで運んでもらう。弁護士報酬を返済し終わるまでには、およそ十年ほどかかる計算だが」
「本当に嫌味な男ね。十年もあったら、あんたの不名誉なスキャンダルを新聞社に売り飛ばしてさっさと完済してやるわ」
「それは楽しみだ。だがその前に、その不敬な言葉遣いをましなものに変えてくれ。返事は“ウィ、ムッシュ”、いや、今夜は“ウィ、モン・シェリ”だろう」
フィリップは涼しい顔で言い放つと、自慢のルノーが停車したことに気づき、すっと表情を消した。そこにはいつもの傲慢な笑みではなく、愛妻家の若きエリートという仮面が張り付いている。
「行くよ、メグ。フォーブル・サン=トノレの夜は、嘘を真実に変えるには絶好の舞台だ」
差し出されたフィリップの手に、メグは心の中で力いっぱい呪いながら、最高に優雅な動作で指先を重ねた。
◆
「……さあ、あそこに立っているのが、例のオペラ狂の事務次官候補、ヴァランティーヌ氏だ」
ホテルのエントランスに足を踏み入れると、フィリップが穏やかな微笑を顔に張り付かせたまま、腹話術のような器用さで囁いた。メグの心臓はドレスの胸元を突き破りそうなほど激しく鳴っているが、フィリップはためらいもせず、自信に満ちた足取りでその男へ近づいていく。
「ヴァランティーヌ氏、お会いできて光栄です。今夜はなかなか顔ぶれが揃いそうですね。席次を見て少し楽しみにしていました」
フィリップが淀みない動作で一礼すると、恰幅の良い、いかにも一筋縄ではいかなそうな男が振り返った。その眼光は鋭く、すぐにフィリップの隣に立つメグへと向けられる。
「おや、ロダン君。……然る伯爵家の外孫を妻に迎えたと噂には聞いていたが、これほどの貴婦人を独占していたとは。……マダム、失礼ながらどちらの家のご出身かな?」
ヴァランティーヌ氏はメグの正体を値踏みするようにじろじろと見つめた。メグは一瞬、市場での癖で「何見てんのよ」と言いそうになるのを必死で飲み込み、ピアノの旋律が響くフロアの方へゆったりと視線を流した。
「……ヴァランティーヌ様」
メグはフィリップに叩き込まれた通り完璧な角度で首を傾げ、慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
「私の古い家系図など、この素晴らしい夜を彩る椿姫のプレリュードに比べれば、さしたる問題ではございませんわ。偉大な旋律を遺したヴェルディについて、彼の出自だけを語る者はおりませんでしょう?」
ヴァランティーヌ氏は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに愉快そうに口髭を揺らして笑い声を上げた。
「ヴェルディを引き合いに出されるとは! 血筋よりも魂の調べ、というわけか。ロダン君、君の奥方は法律よりもずっと本質的な真実をご存知のようだ」
「妻は感性で語るほうでして。……では、そろそろホールへ。今夜のジビエは、ヴェルディの楽曲にも劣らぬ力強さだと聞いております
フィリップは相変わらずのポーカーフェイスだったが、エスコートするメグの腕を彼にしては驚くほど優しく引き寄せた。
「……やるじゃないか、マダム・ロダン。今の切り返しは五百フラン以上の価値があったよ」
耳元で囁かれた低く冷ややかな、けれど確かな賞賛の言葉に、メグは勝ち誇ったような笑みを唇に湛えた。
晩餐会のメインホールには、銀食器とクリスタルグラスが整然と並ぶ長いテーブルが設えられていた。メグはフィリップの隣に背筋を伸ばして座る。コルセットの圧で呼吸をするのもやっとだが、ここで姿勢を崩せば一ヶ月の地獄が水の泡だ。彼女はフィリップの視線を感じ、教えられた通りカトラリーは外側からという鉄則を指先に言い聞かせた。
「マダム・ロダン。先ほどは感服いたしましたよ。まさか法律家の奥方が、これほど芸術に造詣が深いとは。先週ガルニエ宮で上演された“フィガロの結婚”はご覧になりましたかな?」
ヴァランティーヌ氏が前菜のテリーヌを口に運びながら再び話しかけてきた。フィリップは優雅にワインを一口含み、その様子を横目で観察している。メグは今朝暗記したばかりの知識を、あたかも昔からの持論であるかのように滑らかな声で紡ぎ出した。
「ええ、ムッシュ。召使いのフィガロが、その機知によって主人を鮮やかにかわしていく様は、まさに人間賛歌ですわね。目まぐるしい変装や入れ替わり……あのおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかさこそ、自由で華やかな喜劇の醍醐味でしょう」
メグが淀みなく、かつ完璧な気品を湛えて答えると、ヴァランティーヌ氏は「おお、やはり」と頷く。隣でワイングラスを持ち上げていたフィリップの口角が、ほんの少しだけ上がったのをメグは見逃さなかった。愛犬が教えた通りの芸を披露したのを見守る飼い主のような、鼻持ちならない表情が、メグの中に眠る負けず嫌いな根性に火をつけた。
「……ただ、あまりに愉快で、少しばかり背筋が寒くなりましたけれど」
「おや、背筋が寒くなる? 喜歌劇を見てそんな感想を抱くとは珍しい」
「はい。……力を持つ者が“自分の下にいる相手が、自分より賢いかもしれない”と気づかないこと。その傲慢さが足元を掬われる瞬間は、少々残酷な警鐘にも思えましたの」
フィリップの手元のフォークが、カチリと無作法な音を立てた。彼が教えたのは、彼女が純粋で無害な人形に見える至極無難な解釈だったはずだ。それが今目の前の女の口から、彼自身への当てつけのような毒に変わって放たれたのだ。
「……なるほど。では夫人、最後に伯爵が夫人に跪いて許しを請う、あの和解の場面はどう思われる? 巷では愛の勝利だと絶賛されているが」
試されている。メグは脳裏に、今の自分を支配しているフィリップの傲慢な横顔を思い浮かべた。
「……あの伯爵の謝罪は心からの反省ではなく、その場の体裁を整えるために過ぎませんわ。本当に恐ろしいのは、彼を許した夫人の方です。夫人は許すことで、伯爵に一生消えない負い目という首輪をはめたのですから。……女の寛大さほど、高くつく貸しはありません」
暗記した言葉ではない。市場で客の嘘を見抜き、一スーの損得を争ってきた彼女だからこそ見抜ける、人間関係の損得と支配であった。ヴァランティーヌ氏は呆気に取られたようにメグを見つめていたが、次の瞬間、テーブルが震えるほどの笑い声を上げた。
「素晴らしい! ロダン君、君の夫人はモーツァルトの楽譜の裏側に隠された、毒入りの知恵を理解していらっしゃる」
彼はメグの手を取り、恭しく口づけを落とした。
「ロダン夫人、今夜の主役は間違いなく貴女だ。君のような賢い夫人を持つ男は、よほど身を律しないといつの間にか首輪をはめられていることになるな」
嵐が去った後、メグは優雅にフォークを口へ運ぶ。隣に座るフィリップは氷のような気配と焦燥を浮かべ、その目は笑っていなかった。メグに身を寄せて、誰にも聞こえないほど低い声で囁く。
「……女の寛大さは高くつく貸しだと? 君の教育課程にそんな不穏な哲学を教えた覚えはないが」
「不合格かしら、モン・シェリ?」
メグが勝ち誇ったように見上げると、フィリップは視線を逸らし、ポケットの中で自慢のルノーのキーを弄んだ。
「……及第点だ。だが僕に首輪をはめるつもりなら、市場の安物ではなく、プラチナ製を用意しておくんだね」




