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第三話

 あの日以来、フィリップが雇った厳格な家庭教師たちが、メグの時間を一分たりとも無駄にさせまいと詰め込まれた。彼が直接指導するのは休日のみで、それ以外は教師陣に分刻みの予定で絞り上げられる毎日だった。


「あの自信過剰な男に、“やはり無理だったな”なんて言わせはしないわ」


 悔しさをバネにしたメグの根性は凄まじかった。市場で培った記憶力を回転させ、複雑な家系図や、社交界の暗黙のルール、さらには一歩の歩幅に至るまで、文字通り泥を落とすように吸収していった。


 十日後の午後、メグは待ち合わせ場所である法律事務所の扉を叩いた。事務所の奥から、仕立ての良いスリーピースに身を包んだフィリップが現れる。彼はメグを一目見ると、値踏みするように彼女の周りを一周した。


「へえ。奇跡というものは、たまに起きるから面白いね」


「……お褒めに預かり、恐悦至極に存じますわ、ムッシュ。少しは私の学習代の元が取れたかしら?」


 メグが意識して語尾を滑らかに、扇を広げるように優雅な仕草で返すと、フィリップはわずかに口角を上げた。


「皮肉のセンスだけは家庭教師の指導以上に上達したらしい。及第点だ。ただし、歩くときに少しだけ右に重心が寄っている。まだ籠の重みが抜けていないよ」


「……っ、そんな細かいところまで!」


「さあ行くよ、マダム・ロダン。今日は君の父親の面会日だ」


 拘置所へ向かう馬車の中でも、メグは緊張で指先が震えていた。本来、債券偽造という重罪容疑がかかっている者への面会は極めて厳格だ。しかしフィリップの弁護士としての権限に加え、隣に立つメグの身だしなみと落ち着きが、衛兵たちの疑いの目を逸らさせた。


「いいか。中に入ったら、どんなに心が乱れても市場のメグに戻るんじゃない。君が泣き喚けば、お父上の立場が悪くなる」


「わかってるわよ。……いえ、承知しておりますわ、ムッシュ」


 鉄格子の向こうの薄暗い面会室、そこに座っていたのは、数週間で驚くほどやつれた父、ギュスターヴだった。


「……メグ? ああ、本当にメグなのか……? その格好は一体……」


 震える父の声に、メグは今すぐ鉄格子を掴んで叫び出したい衝動に駆られる。けれど隣からフィリップの冷ややかな視線を感じ、叩き込まれた凛とした姿勢で必死に抑え込んだ。


「ええ、お父さん。……ご心配なく。こちらのロダン先生が、すべてを解決してくださるわ。私は先生の特別なお手伝いをしているだけなの」


 メグはフィリップの横顔を盗み見た。彼はいつもの冷徹な表情で淡々と書類を広げ、父への尋問を始めようとしていた。その姿は悪徳と呼ばれていようとも、今のメグにとっては唯一の希望の光に見えた。


「ミレー氏、貴方が陥っている状況を整理しましょう。貴方は“国家新鉄道開拓計画”の担当者を名乗る男から、指定工場の条件として政府債券の購入を持ちかけられた」


「ああ、そうです……。国のために貢献できる名誉なことだと。賄賂なんて汚い真似じゃない、国が保証する正当な投資だと言われたんです」


「だが、貴方が手にしたのは精巧な“偽造債券”だった。そして貴方はその偽物を担保に銀行から融資を引き出した。検察は今、貴方を“経営難の工場を救うため、偽債券と知りながら銀行を騙した主犯”だと断定している」


 フィリップの言葉は残酷なまでに明快で、メグは詐欺師のあまりの悪辣さにめまいがしそうになった。父さんはただ真面目に働いて、工場の未来を信じていただけなのに。


「相手の名前は?」


「ジャン・ド・ラ・モット……。そう、ド・ラ・モットと名乗っていました」


「まあ、偽名だろうね」


 フィリップは無造作にそう吐き捨てると、椅子に深く背を預けた。宙の一点を見つめて考え込むその表情は、法廷という盤上の駒をどう動かすか計算する、冷徹な勝負師のそれだった。


 その隙を突くようにギュスターヴが身を乗り出し、震える手で格子の隙間からメグの袖を掴んだ。フィリップに聞こえないよう、消え入りそうな小声で絞り出すように囁く。


「……メグ、すまない。本当に、不甲斐ない父親で……」


「お父さん?」


「分かっているんだ。父さんを助けるために、お前がどんな……どんな代償を払ったか。あんな若くて傲慢な、だけど力のある男が、ただの善意で動くはずがない。お前、あの方の……愛人になったんだろう?」


「ち、違うのよ! そういうんじゃなくて、私はただ……」


「隠さなくていい。その服も、その振る舞いも、ただの娘が手に入れられるものじゃない。……おれのために、お前の未来を売り渡すなんて。ああ、神様……!」


 父の目から大粒の涙が溢れ、メグは慌てて言葉を探した。だが、偽物の妻を演じているという事実もまた、この敬虔な父にとっては汚れた代償と大差なく映るかもしれない。


「そこまでだ。密談の時間は終わったよ」


 その時、フィリップの冷ややかな声が二人を切り裂いた。彼はいつの間にか立ち上がり、手際よく書類を鞄に収めている。


「ロダン先生、どうか、どうかメグを……!」


「貴方の娘の処遇は、僕が……そう、僕の責任で決めることだ。貴方は自分の心配だけしていればいい。行くよ、メグ」


 フィリップはメグの肩に、拒絶を許さない強さで手を置いた。ギュスターヴが絶望に顔を歪めるのを背に、メグはフィリップに半ば引きずられるようにして面会室を後にした。



 ◆



 拘置所の重い鉄門が背後で閉まった瞬間、メグはフィリップの腕を振り払った。夕暮れ時の冷たい隙間風が、不釣り合いに豪華なドレスの裾を激しく揺らす。


「どうしてあんな言い方したのよ! 父さん、私があんたの……愛人か何かになったって、本気で思い込んでたじゃない!」


 メグの瞳には悔しさと怒りが混じった涙がたまっていた。自分を責めて泣いていた父の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。フィリップは立ち止まり、懐から取り出したシルクのハンカチで自分の袖口を整えた。そしてメグの激昂などどこ吹く風といった様子で、冷淡な視線を彼女に向ける。


「誤解を解く必要がどこにある?」


「あるに決まってるでしょ! 父さんは真面目だけが取り柄の人なのよ。あんな悲しそうな顔……」


「……おめでたいな、君は」


 フィリップは鼻で笑い、メグの目前まで一歩踏み込んだ。


「いいかい、ミレー氏が今一番恐れているのは何だと思う。死罪か? 財産の没収か? ……違う。“自分が無力なせいで娘を路頭に迷わせた”という罪悪感だ。ならば君が力ある男に囲われ、上等な服を着て飢えの心配もない場所にいるという状況は、彼にとってある種の救いになる。たとえそれが、不道徳な関係の上にあると信じ込んでいてもね」


「そんなの、理屈じゃないわよ……」


「理屈だよ。絶望している人間に必要なのは潔癖な真実ではなく、自分を納得させるための物語だ。娘は代償を払ったが、安全な場所にいる。その残酷な安心感こそが、あの人を獄中で生きながらえさせる糧になるんだよ」


 フィリップは襟元を指先で直し、メグを置いて再び歩き出す。


「それに、僕が慈悲深い聖人だと誤解されるよりは、冷酷な色好みだと思われている方が仕事がしやすい。君の父親を救うのは僕の悪徳だ」


「……最低。あんた、本当に心がないのね」


「そんな安っぽい臓器は法廷に持ち込む前に捨ててきたよ。さあ、無駄口を叩いている暇はない。馬車に乗れ、メグ」

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