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第二話

 翌朝、目覚めたメグを待っていたのは、下町の市場では一生お目にかかれないような光景だった。


「……一晩でこれだけのものを用意するなんて」


 昨夜の薄っぺらいガウンは片付けられ、サイドテーブルの上には肌触りの良い絹の下着と、驚くほど精巧な刺繍が施された上質なコルセットが置かれていた。

 数人がかりで締め上げられ、最後に袖を通したのは淡いブルーのデイドレス。上流階級の娘たちが散歩をする時に着るような、上品で非の打ち所がない一着だった。


「あいつ、一体どんな手を使ったんだか!」


 髪も高くまとめられ、鏡に映る見違えるような自分の姿に戸惑いながらも、メグはつい憎まれ口を叩いてしまった。これほど質のいい服に袖を通すと、まるで自分が自分でなくなってしまうような落ち着かない心地がしたのだ。


 メイドたちに促されるままに向かったダイニングルーム。そこには、長いテーブルの端で優雅に新聞を広げるフィリップの姿があった。


「おはよう。不機嫌な顔をしていても、服だけは立派に見える。衣装係の努力を称賛すべきだね」


 フィリップは顔を上げると、向かいの席を手で示した。メグが座るのを待って彼は淡々と話し始める。


「いいかい、メグ。市場の客は声の大きさで選ぶが、僕の顧客は君の作法を見る。……まずナプキンの広げ方だ。待て、革命家の旗みたいに振るんじゃない、膝の上にそっと落とすんだよ」


 メグは反論したい気持ちを抑え、教えられた通りにナプキンを膝に置いた。目の前には白磁の食器が並び、メイドたちが手際よくオムレツを運んでくる。


「フォークは端から。力を入れすぎだ、卵料理は抵抗しないよ。一口はもっと小さく。……いいかい、社交界での食事は会話をするための時間だ。口の中に食べ物が詰まっていたら、相手の質問に答えられないだろう」


「……そんなことまで考えて食べるの?」


「それが教養という名の不自由さだよ。でもその不自由さを優雅にこなせば君の武器になる。ほら、背筋を伸ばして。君の父親を救うのは涙じゃなく、その凛とした姿勢だ」


 フィリップの言葉は相変わらず辛辣だが、その目はただ見下しているだけではないようにメグは思った。彼女の中に可能性を見極めようとしているような、真剣な眼差しだった。


「……ウィ、ムッシュ」


「よろしい。味は悪くないだろう、今のうちにしっかり食べておくといい。次の授業は、そのお世辞にも上品とは言えない喋り方の矯正だからね」


 やっぱり腹立たしい。メグは心の中で何度目かも分からない悪態を吐きながら、冷めかけたオムレツを口に運んだ。フィリップの言う通り、味は驚くほど絶品だ。

 けれど目の前で優雅にコーヒーを啜る男の存在が、最高のスパイスを最悪の毒薬に変えている。父を救うためと自分に言い聞かせなければ、今すぐこの高価な皿を彼の鼻先に叩きつけていたところだった。


 食事が終わると、休む間もなくリビングのソファへと移動させられた。フィリップは脚を組み、テーブルの上に一冊の詩集を広げた。


「さて。君のその、市場の喧騒をそのまま持ってきたような騒がしい喋り方をどうにかしようか。試しにこの一節を読んでみて」


 差し出された本を、メグはひったくるように受け取る。


「……恋人よ……見に行こう、薔薇が……朝の……」


 フィリップは深くため息をつき、こめかみを押さえた。


「……絶望的だね。君が読むと、高貴な愛の詩が投げ売りの品書きにしか聞こえない。音節をぶつ切りにするのをやめろ。君の言葉はジャガイモのように粗野だ」


「ジャガイモですって!?」


「声が大きい。淑女の言葉は滑らかかつ明瞭でなければならない。君は語尾を投げ捨てる癖がある。自信のなさか、あるいは相手への敬意の欠如か。どちらにせよ僕の妻としては失格だ」


 フィリップは立ち上がり、メグの背後に回った。詩集を覗き込み、彼女の耳元で落ち着いた声が響く。


「言葉は君が何者であるかを定義する。君が市場の売り子として喋れば、世界は君をそう扱う。だが君が高貴な婦人として喋れば、たとえ相手が国王であっても君を侮ることはできない」


 声色越しに伝わる彼の素養と、冷徹なはずの指導に混じる熱量。メグは悔しさに唇を噛みながらも、彼が示した言葉という武器の重みを感じずにはいられなかった。

 

「……ウィ、ムッシュ。もう一回、やってやるわよ。……いえ、もう一度、お願いいたしますわ」


 メグが不慣れな言葉遣いで言い直すと、フィリップの唇がわずかに、本当にわずかにだけ、満足げに綻んだ。


「その意気だ。だが休む時間は与えない。次は……そう、その重心の不安定な歩き方だ」


 彼は棚から分厚い法学書を引っ張り出すと、容赦なくメグの頭の上に載せた。


「背筋を伸ばせ。顎を引け。君の頭の上にあるのは本じゃない、ロダン家の名誉だ。一歩歩くごとに僕のプライドを床に叩きつけるのはやめてくれないか」


 休憩も挟まない強行軍。慣れないコルセットで呼吸は苦しく、足の先は悲鳴を上げている。数歩進むたびに、重たい本が音を立てて絨毯に転がった。


「ああ、まただ。君の体幹は腐ったボートの帆柱か何かなのか。それとも、市場の床に果物をぶちまけるのがそんなに好きなのか」


 フィリップの冷ややかな嘲笑が、疲れ切ったメグの神経を逆なでする。父さんのため、父さんのため──そう念じて耐えていた堤防も、ついに決壊した。


「もう、うるさいわね!」


 メグは頭から落ちかけた本を右手で掴み取ると、勢いに任せてフィリップへ投げつけた。「あ」と思った時にはもう遅い。鈍い音とともに、分厚い角がフィリップの額を直撃した。


「痛っ……」


 フィリップは額を押さえ、信じられないものを見る目でメグを凝視する。戸惑いを宿していた瞳にも、やがて段々と怒りが灯った。


「……君。今、僕に向かって暴行を働いたな」


「あんたが、あんたがいちいちムカつくことばっかり言うからでしょ! もう知らない、自分でお手本見せなさいよ!」


 メグは叫んで、咄嗟にダイニングテーブルの向こう側へ逃げ込んだ。フィリップは額を赤くしたまま、獲物を追い詰めるような足取りでテーブルを回り込む。


「待て。教育には体罰も必要だと今の衝撃で理解したよ」


「やだ、来ないで。あんた、弁護士のくせに大人気ないわよ!」


「僕の辞書に大人気ないという言葉はない。あるのは“受けた屈辱は法、あるいは力で返す”という鉄則だけだ!」


 広いダイニングテーブルを挟んで、ドレスの裾を翻すメグと、上着を脱ぎ捨てたフィリップの追いかけっこが始まった。さきほどまでの優雅な淑女教育が嘘のように、屋敷の中にドタバタという下町じみた騒がしい音が響き渡った。

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