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第十話

「……というわけで、チャールズは今頃、自身が蔑んでいた泥の中を這いずり回っているよ。あの指輪とエドモンの証言が決定打となり、詐欺、有価証券偽造、司法妨害……あらゆる罪状で起訴された。再起の芽はないだろう」


 ホテル・エルゼのメインダイニング。クリスタルのシャンデリアが眩い光を落とすテーブルで、フィリップは上等な鴨のコンフィを口に運びながら、事務報告でもするかのように淡々と告げた。

 三ヶ月に及ぶ法廷闘争は、チャールズの逮捕と父の無罪判決という、これ以上ない幕切れを迎えた。父の工場の差し押さえは解かれ、明日、メグは“フィリップ・ロダン弁護士夫人”としての役目を終える。


「……ねえ。ずっと気になってたんだけど。三ヶ月が終わって、私が急にいなくなったらどうするつもりだったの? 弁護士の新妻が霧みたいに消えたら、社交界の連中が不審に思うでしょ」


 メグがいつもの、飾り気のない市場の娘の口調に戻って問いかけた。それは心配や名残惜しさなどではなく、単にこの完璧主義の男が用意していたであろう帳尻の合わせ方に対する、純粋な好奇心だった。


「ああ。それなら、妻は元々体が弱く、医師の勧めで空気の良いところで療養しているとでも言うつもりだったよ。誰も疑いはしないし、数年もすれば皆忘れる」


 いかにも彼らしい冷徹な手際に、メグは「あっそ」と鼻を鳴らす。しかしフィリップはそこで言葉を切らず、椅子の背に預けていた身体をゆっくりと起こした。


「……だが、その言い訳も必要なくなるかもしれない」


「はあ? 急に何言い出すの」


 メグが怪訝そうに眉を寄せ、フォークを止める。フィリップは上着のポケットからベルベットの小さなボックスを取り出し、彼女の前で開いてみせた。

 そこおさまっていたのは、一粒のダイヤモンドがあしらわれた繊細な意匠のプラチナの指輪──偽装のためにあつらえたものとは、放つ輝きの強さがまるきり違う本物の名品である。


「契約ではなく、僕の意志として乞いたい。……僕の麗しの貴婦人、どうか本当の妻として、隣にいてくれないか」


 ホテル・エルゼの給仕たちが息を呑む。窓から差し込む月光までもが彼に味方し、周囲の客たちはまさに絵画のようなプロポーズの光景に熱い視線を注いだ。完璧な演出、完璧な指輪。フィリップの人生において、これほど勝利を確信した計算はなかっただろう。


 メグは花が綻ぶように微笑み、差し出されたフィリップの、あの真実を引きずり出す泥塗れの腕を優しく握り……。


 そのまま、力いっぱい振り払った。


「お断りよ」


「……何?」


「聞こえなかった? あんたみたいな、冷酷で、傲慢で、悪魔に魂を売ったような男の妻なんて願い下げだって言ってんのよ、この悪徳弁護士!」


 メグは立ち上がり、音もなく椅子を引く。その動作には、この三ヶ月で叩き込まれた貴婦人の優雅さが皮肉なほど完璧に宿っていた。彼女はフィリップを見下ろし、これ以上ないほど晴れやかな、勝利者の笑みを浮かべる。


「あんたの完璧な計算の中に、私の心まで入れられると思わないで。さよなら、ムッシュ。報酬はたっぷりいただいたわ!」


 メグは呆然とするフィリップを置き去りにして、メインダイニングの扉を意気揚々と押し開けた。背後でようやくざわめき出した周囲の視線が、完璧な弁護士に敗北を突きつけているのを感じる。


「本当の妻として隣に? 冗談じゃないわ。私は私の行きたい場所へ行くのよ」


 迎えの馬車を素通りし、メグはあえて賑やかな夜のラ・ペ通りへと歩き出した。高級な絹の靴音を石畳に響かせながら、彼女の心はすでに、煤煙と活気に満ちた愛すべき路地裏へと駆け戻っている。

 フィリップ・ロダンの作り上げた麗しの貴婦人は今、自らの意志でその虚飾を脱ぎ捨て、自由な一人の女として、絢爛たるパリの夜へと溶けていったのである。



 ◆



 パリの胃袋と謳われるレ・アルの中央市場。威勢のいい掛け声は三ヶ月前のメグにとっては日常であり、今の彼女にとっては最高の自由の象徴だった。


「はい、おばさん。今日のは格別甘いのよ、おまけしとくね」


 袖をまくり上げ、土のついたリンゴをエプロンで拭くメグの姿は、あのホテルのメインダイニングにいた貴婦人と同一人物だとは誰も信じないだろう。しかしその喧騒を切り裂くように、明らかにこの場にそぐわない異物が姿を現した。


「……また来たの? よっぽど暇なのかしら」


 高級な仕立てのフロックコートに、周囲の荷車を避けようともしない態度。メグが腰に手を当てて呆れ顔を見せると、フィリップは腕に抱えた薔薇と百合の見事な花束を差し出す。


「メグ、今日こそは言わせてもらいたい。僕の元に戻ってきてほしい、どうか、もう一度……」


「あらムッシュ、声が小さいわ。そんなんじゃ隣の魚屋の声に負けちゃうわよ」


 メグは不器用すぎるアプローチを繰り返す男を見て、冷やかすように目を細めた。花になびくような娘じゃないと、三ヶ月も一緒にいて学ばなかったのか。この育ちの良い坊ちゃんは、真心を示す手段をこれ以外に知らないのだ。


「待ってくれ、僕はより建設的な提案を……」


「あとその靴。鏡のように磨き上げた革靴でこのレ・アルを歩こうなんて、傲慢もいいところだわ。やり直しね」


 メグが人差し指をぴっと立てて言葉を遮ると、フィリップは不服そうに眉間に皺を寄せた。しかし言い返そうと口を開きかけた彼に、メグは手にしたリンゴを一つ、彼の口元へ突きつけて制する。


「返事は“ウィ、マドモワゼル”よ」


 フィリップは虚を突かれたように言葉を飲み込んだ。かつて自分が彼女に強いた、従順な淑女としての完璧な返答。それを今、市場の泥の中で、立場を逆転させて突きつけられている。


「……ウィ、マドモワゼル」


 パリ中の悪党を震撼させる冷徹な弁護士は、リンゴの甘い香りに包まれながら、降参だと言わんばかりに実直な声で答えた。

 メグは満足げに笑い、彼から花束をひったくるように受け取ると、代わりに土のついたリンゴを一つ、彼の高価な上着のポケットに突っ込んだ。


「よろしい。じゃあ今日の授業料として、そのカゴの葡萄も全部買っていってね、ムッシュ」


 フィリップは一切の躊躇なく、瑞々しい果実が山盛りになったカゴを腕に抱える。去り際、彼はもう一度だけ振り返り、メグの姿を瞳に焼き付けるように見つめた。明日も、その次も。彼はこの喧騒の中へ、何度でもやり直しに来るつもりだった。




 了




 最後までご覧いただきありがとうございました。

 本作は一本のクラシック映画を観終わったような読後感を目指して執筆したので、そんな雰囲気が伝わっていたら嬉しいです。

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