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第一話

 雨のパリは、ドブネズミの死骸と安酒の匂いがする。


「お願いです、先生! 父さんは、父さんは何もやっていないの!」


 弁護士事務所の重厚なマホガニーの扉を蹴破らんばかりの勢いで、メグ・ミレーは叫んだ。

 ずぶ濡れの髪から滴る水滴が磨き抜かれた床に無遠慮なシミを作っていく。彼女が握りしめているのは、ぐっしょりと濡れて文字の滲んだ一通の起訴状。そこには彼女の父、ギュスターヴ・ミレーが“債券偽造の主犯”であるという、真っ赤な嘘が記されていた。


 部屋の奥、山積みの法学書に囲まれた机で、一人の男がゆっくりと顔を上げる。フィリップ・ロダンは手にしていた万年筆を置くと、不快そうに眉を寄せた。


「……今は掃除婦の募集はしていないはずだけど」


「ふざけないで! あんたが悪徳だろうが悪魔の代弁者だろうが構わない。父をあの不潔な牢獄から出してくれるなら、なんだってするわ!」


 メグは机に身を乗り出した。労働で荒れた指先が、高級な書類を汚すのも構わない。フィリップは冷めた目でその指先を一瞥し、鼻で笑った。


「なんだってする、か。残念だけど、下町の娘が口にする言葉の中で最も価値のない安売りだ。着手金は五百フラン。払えるのか?」


「それは……」


 メグの言葉が詰まる。市場の売り子として、朝から晩まで声を張り上げて果物を売っても、一日に手にできるのは数フラン。五百フランなんて、彼女にとっては一年かかっても拝めるかどうかの大金だった。


「ならここまでだ。同情は無料だが僕は扱わない。必要なら教会を紹介しよう。神様なら無利子で話を聞いてくれる」


「待って! ……あそこに、さっきの男が置いていった封筒があるわね」


 メグは咄嗟に、部屋の隅のゴミ箱に捨てられた開封済みの封筒を指差す。


「それがどうかしたか」


「差出人はド・デュラン男爵。消印は三日前。でも切手の位置がわずかに右に寄ってる。……さっき入口ですれ違った男は、その男爵の使いじゃないわね? 歩き方が軍人特有の歩幅だった」


 フィリップの瞳に、初めて鋭い光が宿った。彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、獲物を定める獣のような足取りでメグに近づく。至近距離で見下ろされ、メグは息を呑んだが、その視線は逸らさなかった。


「存外目が利くじゃないか」


「市場でお客を待ってる間、ぼーっとしてるわけじゃないわ。誰が昨日と同じ服を着ていて、誰が懐のコインを数えてため息をついたか。それを覚えておかないと商売にならないもの」


 フィリップはメグの両頬を片手で掴み、品評するようにその顔を左右に振らせた。泥に汚れ雨に濡れてはいるが、骨格は悪くない。そして、意志の強い瞳の輝きは隠しようがない。


「いいだろう、売り子娘。君の父親を救うチャンスをやる」


「チャンス?」


「上流の依頼人は保守的でね。有能な弁護士よりも身を固めた紳士を好む。独身の僕には、彼らの大事な秘密を預けるだけの信用が足りないらしい」


 彼はメグの汚れた頬を、まるで高価な陶器のひび割れでも見るような目で眺めた。


「三ヶ月、君には僕の妻になってもらう。下町の泥を落とし、教養を詰め込み、誰からも疑われない完璧な貴婦人として僕の隣に立つ。成功報酬は父親の無罪判決だ」


「……はあ?」


「淑女教育だよ、マダム。まずはそのドブネズミのような喋り方から矯正してやろう。地獄へようこそ、メグ・ロダン夫人」



 ◆



「この娘を浴室へ叩き込め。少しは人前に出せるようにしてくれ。明日から礼儀作法を仕込む。僕の偽りの貴婦人になってもらうためにね」


 フィリップが無造作に鳴らしたベルの音に応じて、数人のメイドが音もなく現れた。夕闇が迫る広い屋敷の中、メグは抵抗する間もなく彼女たちに囲まれ、迷宮のような廊下の奥へと連行されていく。


 メグはあれよあれよという間に服を剥ぎ取られ、熱い湯の中に沈められた。陶器の浴槽に立ち込める薔薇の香りの湯気と、容赦のないメイドたちの手。市場の魚や果物の匂いを根こそぎ落とすかのように、硬いブラシと香油で肌を磨き上げられた。


 一時間後。浴室から連れ戻されたメグは、肌に吸い付くような上質なシルクのナイトガウン一枚を着せられていた。冷え冷えとした書斎で、フィリップは優雅にブランデーのグラスを傾けている。


「……こんな格好させて、何させる気なのよ!」


 メグは今にも殴りかかりそうな勢いで、赤くなった顔で叫んだ。下町の粗末な綿に慣れた身には、服というより裸でいるのと変わらない心細さだった。


「……やめてくれ。君のその貧相な体に興味があるなどという、おぞましい勘違いは」


 フィリップは不快そうに顔をしかめる。グラスを置くと、メグを頭の先から足の先まで、まるで腐った果実でも見るような冷ややかな目で一瞥した。


「ムーラン・ルージュを知っているか? あそこへ行けば極上の女たちがごまんといる。わざわざ君のような娘を相手にするほど、僕は退屈していない」


「あんた、最っ低ね」


「おお、言葉には気をつけろよ。君のその下品な叫び声一つで、父親は永遠に牢の中だ」


 メグは言い返そうとしたが、今はこの男に従う他に道はない。ここで彼を怒らせれば、父を救う唯一の道が断たれてしまう。


「悪いが、この屋敷ではそれが一番マシで、一番面積のあるものだったんだよ。文句があるなら君に相応しいボロ布を拾い集めてきてくれ」


 フィリップは心底退屈そうに言い放つと、手元の書類に視線を戻した。メグは薄いシルク越しに伝わる夜の冷気に身を震わせながら、拳を固く握りしめた。


「……わかったわよ」


「返事は“ウィ、ムッシュ”だ」


「……ウィ、ムッシュ!」


「よろしい。……さあ、下がれ。明日からはその根性を叩き直してやる。覚悟しておくんだね」

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