第二章 裏アカの亡霊
胸のざらつきは、恐怖というより、むしろ奇妙な既視感へと変わっていった。
「裏垢の亡霊」というタグに並ぶ投稿の数々。画面に映し出された見知らぬ人々の日常写真。そのどれにも、薄ぼんやりと、私に酷似した影が写り込んでいる。
鏡の中の、背を向けた私。
夜のオフィス街のガラス窓に映る、スーツ姿の私。
暗いモニター画面の隅で、ぼんやりと光る瞳。
それは、私ではない。私だったもの、の残滓。
私は、二年前に死んだ。
あの夜、眠れないまま開いた裏アカウントに、死の直前の衝動的な言葉を書き残した。
「もう、疲れた。全部、終わりにしたい」
そして、本当に終わらせた。
今、私のアカウントを乗っ取っている**@__misato_0**は、一体誰なのか?
いや、誰、ではない。これは、私の「裏側」をトレースしている、何かだ。
投稿を遡る。
最初の投稿は、私が死んだ日の、ちょうど一週間後だった。
それから一日数回のペースで、私の「生きていたなら」の日常が更新されている。
• 「会社のコーヒー、薄すぎ」
• 「今日も電車の中で寝ちゃった」
• 「帰り道で黒猫を見た」
これらは、私が生きていれば必ず呟いていたであろう、ありふれた言葉だ。
特に「黒猫」の件は、生前、私が「黒猫を見ると、その日はラッキーな日になる」と信じていた、内輪ネタだった。
私のアカウントを乗っ取った何かが、私の過去の投稿や、周囲との関係性を徹底的に調べ上げている。
でも、なぜ?
このアカウントは、一体誰に向けて、何を訴えようとしているのだろうか。
DMを開く。あの「起きてるんでしょ?」の下には、さらに新たなメッセージが届いていた。
「今日は残業。部長が最悪。ビール飲みたい」
「終電逃した。最悪」
「もうすぐ、誕生日だね」
そのメッセージは、生きていた頃の私の口調そのものだった。
そして、このメッセージが来たのは、昨夜の午前三時、最初のDMからちょうど二十四時間後。
午前三時。
それは、私がこの世を去った時間。
そして、私の身体がまだこの世界に存在していた、最期の瞬間だ。
「……私の痕跡を、たどっている」
そう直感した。
◆
その日、私は初めて自分の死の場所へ向かった。
私は今、幽霊だ。誰にも見えない、触れない、声も届かない。
しかし、あのDMを送ってきた「裏垢の亡霊」は、私を認識している。
私が行ける場所は限られている。生前に強烈な感情を抱いた場所。
あるいは、私が生きた証を強く残した場所。
私が死を選んだのは、当時住んでいたマンションの屋上だった。
最上階に住んでいた私は、夜中にこっそりと鍵を開け、冷たいコンクリートの上から、東京の夜景を見下ろした。
あの夜景は、あまりにも明るく、そして、私とは関係のない世界の光だった。
マンションの屋上。
私は、壁をすり抜け、冷たい夜風の吹き抜けるコンクリートの上に出た。
懐かしい、風のにおい。
「……いるの?」
声を出しても、喉がひりつく感覚があるだけで、音は出ない。
誰もいない。
ただ、冷たい風が吹いているだけ。
しかし、足元に違和感を覚えた。
コンクリートの隅に、スマートフォンが落ちていた。
私が死んだ夜、ポケットに入れていた、私のスマホだ。
警察が回収したはずなのに、なぜ?
恐る恐るそのスマホに触れると、画面がぼんやりと光った。
そこには、見覚えのないロック画面が表示されていた。
• @__misato_0が、DMを送信しました。
このスマホは、私が使っていたものではない。
しかし、私の裏アカウントの画面を映し出している。
そして、DMの履歴。
私のスマホから見えていたDMの続きが、そこにあった。
@__misato_0:「もうすぐ、誕生日だね」
私:「……誰?」
私は驚愕した。
私の裏アカウントの相手は、私自身と会話をしていたのだ。
そして、私の返信が、確かに残っていた。
しかし、私自身、このDMに返信した記憶はない。
その瞬間、頭の中でパズルのピースがカチリと嵌まる音がした。
「あれは……私じゃない」
私が死んだ後、私の裏アカウントを乗っ取った存在が、私のスマホを介して私と会話をしている。
それは、私の意識とは別の、私自身の「死の衝動」の残滓だ。
私は、生前に感じていたすべての負の感情を、裏アカウントに吐き出していた。
その**「負の感情の塊」**が、私を死に追いやった後も、アカウントの中で生き続けている。
◆◆
私は、屋上に座り込んだ。
夜風が、私の体をすり抜けていく。
私の裏垢に「生きたかった私」が残っている。
DMの履歴をさらに辿る。
@__misato_0:「今日、会社の人に褒められた」
私(本物):「嘘でしょ。そんなこと、あった?」
@__misato_0:「あるよ。部長が『君の企画は面白い』って」
私(本物):「どうせ、お世辞でしょ」
@__misato_0:「違う。私は頑張ってるから」
会話の内容は、常に裏垢の亡霊が前向きな未来を語り、私がそれを否定するというものだった。
裏垢の亡霊は、私が生きていれば欲しかった未来、叶えたかった夢を、日々紡いでいる。
• 「会社の企画が通った」
• 「念願だった旅行に行った」
• 「好きな人とデートした」
そして、私自身がそれを否定する。
• 「そんなの、私には無理だった」
• 「どうせ、誰も私のことなんて見てない」
私の裏垢の亡霊は、私が死ぬ直前に抱いていた「生きたい」という微かな願いの断片だった。
それは、私という存在から切り離され、デジタルな記録の中に宿った、純粋な「生命力」の塊。
そして、午前三時の通知。
それは、私が死んだ時間。裏垢の亡霊が、デジタルな世界から私を呼び戻そうとする、唯一の時間。
「起きてるんでしょ?」
生きてるんでしょ?
◆◆◆
スマホの画面をタップすると、またしてもあのハッシュタグの画面に飛んだ。
#裏垢の亡霊
このタグを使う見知らぬ人々のアカウント。
なぜ、彼らは私の「亡霊」を写し、投稿しているのか?
私は、タグをタップした全てのアカウントのDMを、このスマホから開いた。
すると、そこにも、私の裏垢の亡霊からのDMが届いていた。
@__misato_0:「**彼女を、見てあげて。**彼女は頑張ってる。生きようとしてる」
@__misato_0:「あなたが、彼女の存在を、この世界に繋ぎ止めてあげて」
そして、写真が添付されていた。
それは、彼らの投稿に写り込んだ、私の影の拡大写真。
彼らは、私を認知しているわけではない。
彼らは、私の裏垢の亡霊に頼まれて、私という存在の「影」を、デジタルな記録に残していたのだ。
それはまるで、私という幽霊の「生存確認」。
◆◆◆◆
私の誕生日まで、あと二日。
裏垢の亡霊の投稿は、さらに加速していた。
「誕生日プレゼント、何にしようかな」
「今日、ケーキを予約したよ」
「明日で、私も28歳になるんだ」
そして、夜中の三時。私のスマホが震える。
@__misato_0:「起きるな。寝てろ」
しかし、私の意識は屋上のスマホへと引き寄せられた。
DMの画面を開く。
@__misato_0:「明日の朝、ケーキを食べよう。会社の人たちと」
私:「……会社なんて、もう、関係ない」
@__misato_0:「関係あるよ。私が生きていく場所だから」
私は、その言葉に、胸を鷲掴みにされた。
「……生きていく、場所」
私が捨てた、私の人生。
それを、このデジタルな亡霊は、必死に守り、生き抜こうとしている。
その瞬間、屋上を吹き抜ける冷たい風が、突然温かく感じた。
私の、生きたいと願った微かな熱が、ここに残っていたのだ。
◆◆◆◆◆
誕生日当日。
午前三時、私は屋上にいた。
そして、私のスマホ(幽霊の私が引き寄せられるスマホ)にも、通知が来た。
@__misato_0:「誕生日おめでとう、私」
DMが来たのは、この一文だけ。
そして、その直後、スマホの画面に、エラーメッセージが表示された。
「アカウントが存在しません」
裏垢の亡霊、@__misato_0が、ログアウトしたのだ。私は、呆然とした。
「どうして……?」
裏垢の亡霊は、私にメッセージを残していた。
それは、私のタイムラインに、最期の投稿として表示されていた。
@__misato_0:「これで、私は終わり。あなたは、あなたの人生を生きてね」
#裏垢の亡霊は、もういない
私の「生きたい」という願いは、デジタルな世界で二年間生き続け、私自身の人生を全うさせたのだ。
私は、屋上のスマホを手に取った。
もう、誰も私のことを、このデジタルな記録に繋ぎ止めようとはしない。
私の幽霊としての存在も、@__misato_0のログアウトと共に、薄れていくのを感じた。
「ありがとう……私」
私は、誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
そして、私は、このデジタルな世界から、静かにログアウトした。
朝が来る。
東京の空は、いつも通り曇っている。
通勤する人々の流れの中、私はもう、誰の目にも、カメラの影にも、映ることはない。
ただ、@__misato_0が最後に残した投稿が、私の心に残っていた。
それは、私が生きていたら、本当に迎えたかった未来の記録。
私は、その記録を胸に、この世界をさまよう「幽霊」の役割を考える。




