◆第66話:終幕の光◆
魔哭神を守護していた《三重輪〈トリプル・インスクリプト〉》が、崩れた。
断続的に連撃を受け続けていた結界術具は、ついに音を立ててひび割れ、その破片が床へと落ちていく。
「――流石、セディオス。好機だ!」
エクリナが叫び、魔杖を高く掲げた。
彼女の髪が宙に舞い、魔力が夜空の如く凝縮されていく。
その瞳には、覚悟の輝きがあった。
「空間よ、応えよ……我が闇は、もはや形を持たぬ。時間は砕け、次元は沈黙する。記憶されることすら許されぬ、完全なる消去――」
短い“沈黙”。呼吸すら止まる――宣告を待つ、一瞬。
「ここに下すは、魔王の消滅令ッ!」
「――アニヒレイト・ゼロ=ディメンション!!」
黒の魔核から放たれた一条の消滅光が、ヴァルザより新たに放たれた三重の防御結界を次々と破壊していく。
空間そのものを“無”に変える一撃――それでも、ヴァルザは嘲笑った。
「この程度では……届かんぞッ!」
彼の周囲にはなお、新たな結界が展開されていた。
異常なまでの再生力と結界重奏――その異質さは、まさしく“絶望の象徴”。
エクリナはわずかに膝をつき、魔力の消耗に唇を噛む。
「っ……魔力が……!」
だが、その時。
「ならば、俺が行く!」
セディオスが《魔剣アルヴェルク》を両手に構え、疾駆する。
左手に魔力を集中させながら、剣の軌跡に光が走る。
「禁奥義――エピローグ・ブレイド!!」
剣先から圧縮された魔力が閃光の刃となって解き放たれ、奔流のごとき断絶光波が大広間を裂き、ヴァルザを襲う。
突き破られた結界が悲鳴のような音を上げ、《律創杖剣〈レギオン・セファル〉》が弾き飛ばされた。
「ぐ……ッ! 吾の杖が……!」
動揺の色が、初めてヴァルザの表情に浮かぶ。
だが直後、嗤う。
「ぬう……うぬの力、やはり底知れぬな……!」
まだ終わらない。
「――ノワール・ブレイクアーク!!」
「――アブソリュート・レンドッ!!」
エクリナが魔力の限界を越え、同時に高位魔法を二重詠唱で放つ。
漆黒の闇柱が天を穿ち、断絶の刃が空間を切り裂いて、なお前進するヴァルザに殺到する。
「高位魔法の同時詠唱か……ふふ、ならば応えてやろう!」
ヴァルザの両手が広がる。
右手から雷撃、左手からは凍てつく波動、足元には炎の陣が広がり――同時に三種の魔法が嵐のごとく放たれる。
轟音、閃光、衝突。
大広間の石床が砕け、天井の装飾が落ちる。
「くっ――! おおおぉッ!!」
セディオスはその全てを回避し、なおヴァルザへ肉薄する。
限界を超えて魔剣に魔力を注ぎ込む。
魔核の破損も恐れず、二度と戦えなくなるかもしれない――死に至るとしても。
それでも、迷わなかった。
究極の一撃〈終ノ技〉。
長き封印を、今――解き放つ。
セディオスは剣を天へ掲げた。
天に刻まれる巨大な紋章。光が奔流となって降り注ぎ、剣へと収束していく。
刹那、剣身から“純白と漆黒の輝き”が軋むような音を立てて溢れ出す。
光と闇が裂け合い、剣そのものが“世界を断つ刃”へと変貌する。
「……我が命脈が尽きようとも――」
一歩、踏み込む。
その瞬間、玉座の間から“色”が失われた。
赤も黒も、炎も雷も――全てを無色に染める。
「――終天断! 天照に至れッ!!」
閃光ではなかった。
無音の死が走った。
剣閃が世界を斬り裂き、雷と炎を断ち割り、空間ごとヴァルザの胸を貫く。
遅れて訪れる轟音。空と大地が引き裂かれる音。
断たれた存在が、数秒の静止の後、崩壊していく――。
――“沈黙”。
衝撃の後、空間は一瞬にして息を呑んだ。
「その感情……恐怖と怒り、歓喜と哀惜……」
「――まさに“感情の極点”だ! ああ……なんと、なんと美しい……!!」
「ここまで吾を昂らせた者は、他にいないぞ……!」
血の代わりに黒い霧を吐きながら、ヴァルザは微笑む。
「……これで終わりか。“滅びを嗤う者”にふさわしいな」
最期の言葉を残すと、魔哭神は満足げな顔のまま、静かに崩れ落ちた。
その肉体は霧散し、魔力の塵となって、玉座の間を覆っていく。
――無響。
玉座の間を覆ったのは、ただ音の消えた世界。
時すら止まったかのような、凍り付いた間。
魔哭神の城に、初めて“死”が訪れた証として。
魔剣アルヴェルクがセディオスの手から滑り落ちた。
床にはじかれ、カンッ!と音が鳴り響く。
その刹那、膨れ上がった右腕から亀裂音が走り、体の奥で魔核が裂けるような痛みが炸裂する。
「ぐ……ぅあああッ!!」
魔剣を握っていた右手が砕ける寸前まで膨れ上がり、皮膚の下で魔力の奔流が暴れ狂う。
体からは蒸気のように魔力が漏れ出し、血管が赤黒く浮かび上がった。
左手で胸を押さえる。魔核が委縮し、連動する心臓までもが軋みを上げる――
命の鼓動そのものが、砕け散ろうとしていた。
「セディオス!!」
エクリナは、ふらつく体を支えるように彼の傍らへ駆け寄った。
もはや魔力も尽き、足元も覚束ない中で、彼女は必死に彼の腕を支える。
「魔核が……崩壊寸前か……! 耐えろ、セディオスッ!」
「……ぐッ……かっ……はあ……はあ……」
胸を抉るような痛みに、声が途切れる。
それでも――セディオスは血に濡れた口元を歪め、無理に笑みを作った。
「……大丈夫、だ……俺は、まだ……生きてる……」
痛みは確かに続いていた。胸を裂かれるような灼熱が、なお消えることはなかった。
だが、その瞳の奥には、揺るぎなき勝利の実感だけが灯っていた。
彼はかすかに息を整え、唇を震わせながら言葉を紡ぐ。
「……勝ったんだな、俺たちは」
「――ああ、間違いない。我らの勝利だ」
静かに、確かに。
魔王と剣士が寄り添うその姿が、玉座の間に残された最後の光だった。
――その姿に、静かなる未来の希望が、確かに灯っていた。




