◆第45話:旅の始まり◆
洞窟の奥深く、冷たい岩壁に囲まれた暗がりの中で、ティセラは静かに横たわっていた。
金の髪は汗と土にまみれ、顔色も蒼白。
かろうじて上下する胸の動きが、彼女がまだ“生きている”ことを教えていた。
エクリナは彼女の傍に膝をつき、魔力で編んだ暗幕のような魔法を四方に張り巡らせる。
闇を濃くし、光も、気配も、音すらも遮断するように。
闇の幕の中、静寂が重くのしかかる。戦場の轟音よりも、この静けさの方が、なぜか息苦しい。
静寂の中、自分の鼓動と衣擦れの音だけがやけに大きく響く。
「……ふん。この程度で止まる我ではないぞ」
それは、己に言い聞かせるような独り言だった。
──初めての逃亡。
──初めての野営。
──初めて、命令のない自由。
それは、思っていたよりも寒く、静かで、そして……心細かった。
◇ ◇
翌朝、エクリナはそっと洞窟を出て、森へと足を踏み入れた。
朝露に濡れる草をかき分け、葉に触れ、空気の流れを読む。
不慣れな手つきでありながらも、彼女の観察眼と魔力感知能力は確かだった。
獣の痕跡。食用可能な野草。わずかに魔力を帯びた果実。
そして、岩の影にわき出る清水。
「……あれだな」
エクリナは木の枝と石を使って果汁を絞り、魔力の泡に包むと急ぎ洞窟へ戻った。
「ティセラ……今、うぬに必要なのは……これだ」
彼女はそっと、果汁を指先に取り、ティセラの唇に触れさせる。
「……ん、ぁ……」
かすかな吐息と共に、唇がわずかに動いた。
彼女の喉が小さく鳴り、指先がほんのわずかに震えた。
エクリナの胸が、一瞬だけ大きく脈打つ。
「ティセラ! 目覚めるのだ!」
叫びと共に、彼女は地面に膝をつく。
その声に応えるように、ティセラのまぶたが震え、ゆっくりと金色の瞳が開いた。
「……エク、リ、ナ……さん?」
その瞳から涙がこぼれ、光が戻っていく。
「な、泣くな……たわけ……我が……勝手に……決めたことなのだ」
エクリナは顔を背ける。
だが、ティセラは弱々しくも首を振り、エクリナにそっと抱きついた。
「ありがとう……私、嬉しい……生きてる……」
その温もりに、エクリナは何かが溶けていくのを感じた。
◇ ◇
その晩、洞窟の外に小さな焚火が灯った。
エクリナが小枝を一本くべると、火がぱちんと弾け、二人の影が岩壁に揺れた。
火の音。獣の肉が焼ける匂い。
誰も命じない、ただ“生きるため”の行為。
「……うまい、だろう?」
「はい……こんなに、味がするなんて……」
それは、戦場で口にしていた無機質な補給食にはない、“命の実感”が宿った食事だった。
ティセラが微笑みながら眠りについた後、エクリナは焚火の火を見つめたまま天井を見上げた。
「……我は、変わったのか……否。変わらねばならぬのだ」
魔哭神の非道、繰り返された実験、燃え尽きるような痛み。
そして、ティセラの涙と笑顔――
「我が誓いは、ただ一つ。”魔哭神”に裁きを下すこと。この命、すべてを賭しても、貫いてみせる……!」
その時、寝息の中でティセラが小さく呟いた。
「……エクリナさんと、いっしょに……」
エクリナはそっと彼女の頭を撫で、微笑む。
「呼び捨てで良い、我の盟友なのだから」
そう告げると、ティセラの指がほんのわずかに彼女の袖を握った。
「共に、未来を切り拓こうぞ」
◇ ◇
翌日から、二人は旅を始めた。
エクリナの記憶にある限り、魔哭神は戦線ごとに仮拠点を築き、任務が終了すればそれを捨てる。
その捨てられた拠点――“廃棄拠点”にこそ、再起の拠点となりうる資源が眠っているはずだ。
森を抜け、丘を越え、草原と岩山を踏みしめながら、彼女たちは歩んだ。
魔王と封界の少女。
命令から外れた二人の魂は、今ようやく“自らの意志”で歩き出す。
この旅路の始まりが、やがて世界を変える物語へと繋がることを――
二人はまだ知らなかった。




