◆第45話:旅の始まり◆
洞窟の奥深く、冷たい岩壁に囲まれた暗がりの中で、ティセラは静かに横たわっていた。
金の髪は汗と土にまみれ、顔色も蒼白。
かろうじて上下する胸の動きが、彼女がまだ“生きている”ことを教えていた。
エクリナは彼女の傍に膝をつき、魔力で編んだ暗幕のような魔法を洞窟の入り口に張り巡らせる。
闇を濃くし、光も、気配も、音すらも遮断するように。
誰が、何が来るか分からない。安息が必要な今、最大限の警戒が必要であった。
追跡の球型術具が一つでも近づけば、暗幕は破られる。
耳を澄ませるほど、遠い滴の音さえ――敵に渡ってしまいそうだった。
闇の幕の中、沈黙が重くのしかかる。
戦場の轟音よりも、この無音の方が、なぜか息苦しい。
その無音を割るのは、自分の鼓動と衣擦れだけだった。
「……ふん。この程度で止まる我ではないぞ」
それは、己に言い聞かせるような独り言だった。
──初めての逃亡。
──初めての野営。
──初めて、命令のない自由。
それは、思っていたよりも寒く、静かで、そして……心細かった。
エクリナは無意識に隣で眠るティセラの手を握る。
すると、ティセラの指がかすかに力を返した。
体温が低い。だが生きている――その重みだけは確かだった。
二人とも、不安だった。
明日がどうなるか分からなかったからだ。
疲労で瞼が落ちる。不安と希望を胸に、エクリナは目を閉じた。
◇
翌朝、エクリナはそっと洞窟を出て、森へと足を踏み入れた。
朝露に濡れる草をかき分け、葉に触れ、空気の流れを読む。
不慣れな手つきでありながらも、彼女の観察眼と魔力感知能力は確かだった。
獣の痕跡。食用可能な野草。わずかに魔力を帯びた果実。
そして、岩の影にわき出る清水。
「……あれだな」
「運が良かった……魔力を外部から摂取できれば……」
エクリナは木の枝と石を使って果汁を絞る。
「魔力不足ならばこれで多少はマシになるはずだ……ふん。携行食の残りもない今、贅沢は言えぬな……」
連日連夜の戦闘と逃亡――多少眠ったとはいえ、魔力も体力もまだ回復しきっていない。
エクリナがこの状態なら、さらに消耗しているティセラは窮地だ。
絞った果汁を魔力の泡に包むと、急ぎ洞窟へ戻った。
「ティセラ……今、うぬに必要なのは……これだ」
彼女はそっと、果汁を指先に取り、ティセラの唇に触れさせる。
「……ん、ぁ……」
かすかな吐息と共に、唇がわずかに動いた。
彼女の喉が小さく鳴り、指先がほんのわずかに震えた。
蒼白だった頬に、薄く血が戻る。魔力が、体の奥でやっと巡り始めた。
エクリナの胸が、一瞬だけ大きく脈打つ。
「ティセラ……目覚めるのだ……」
優しく起こす、助けると誓った少女を見つめる。
その声に応えるように、ティセラの瞼が震え、ゆっくりと金色の瞳が開いた。
「……エク、リ、ナ……さん?」
その瞳から涙がこぼれ、光が戻っていく。
「な、泣くな……たわけ……我が……勝手に……決めたことなのだ」
エクリナは顔を背ける。
だが、ティセラは弱々しくも首を振り、エクリナにそっと抱きついた。
「ありがとう……わたし、嬉しい……生きてる……」
その温もりに、エクリナは何かが溶けていくのを感じた。
◇
その晩、洞窟の外に小さな焚火が灯った。
火は小さく、煙は岩肌に這わせる。目立てば終わる――その加減が、今の状況だった。
エクリナが小枝を一本くべると、火がぱちんと弾け、二人の影が岩壁に揺れた。
火の音、獣の肉が焼ける匂い。
エクリナが初めて仕留め、初めて行った料理。
捌き方も適当で、ただ焼いただけ、味付けなんてものは知らない。
自由の身になるため——生き足掻く行為の全てが初めて、今はそれだけで十分だった。
「……うまいだろう?」
「はい……こんなに、味がするなんて……」
それは、戦場で口にしていた無機質な携行食にはない、“命の実感”が宿った食事だった。
ティセラが微笑みながら眠りについた後、エクリナは焚火の火を見つめたまま天井を見上げた。
「……我は、変わったのか……否。変わらねばならぬのだ」
魔哭神の非道、繰り返された実験、燃え尽きるような痛み。
戦場での虚しさ、神の兵への憎しみ、そして救ってくれない世界への憎悪。
これまで押し込められていた感情が心を駆け巡る。
そして、護れたのはティセラの涙と笑顔――
何処までも続く闇と眩く星々を見るエクリナ。
戦場以外で見るのは初めてだった。
目を閉じて考える、これから何をすべきかと。
完全に自由になったわけではない二人、これからも世界は味方になってくれないのだから。
ゆっくりと目を開いたエクリナ。
「我が誓いは、ただ一つ。ヴァルザに裁きを下すこと。この命、すべてを賭しても、貫いてみせる……!」
魔哭神ヴァルザに造られ、玩具として遊ばれ、兵器として利用され、在り方自体が世界の理に反している少女たち。
うんざりだった、もう宿命を終わらせたかった。
その選択の結末が悲惨なものになろうとも成し遂げると決めた。
隣のティセラは食べ終わったのか、既に横になり眠っていた。
寝息の中でティセラが小さく呟いた。
「……エクリナさんと、いっしょに……ずっと、いっしょに……」
寝言で自身の願いを告げていた。
エクリナはそっと彼女の頭を撫で、微笑む。
「呼び捨てで良い。我の親友なのだから」
そう告げると、ティセラの指がほんのわずかに彼女の袖を握った。
「共に、未来を切り拓こうぞ」
翌日から、二人は旅を始めた。
エクリナの記憶にある限り、魔哭神は戦線ごとに拠点を築き、任務が終了すればそれを捨てる。
その捨てられた拠点――“廃棄拠点”にこそ、再起の拠点となりうる資源が眠っているはずだ。
森を抜け、丘を越え、草原と岩山を踏みしめながら、彼女たちは歩んだ。
魔王と封界の少女。
命令から外れた二人の魂は、今ようやく“自らの意志”で歩き出す。
この旅路の始まりが、やがて世界を変える物語へと繋がることを――
二人はまだ知らなかった。




