◆第36話:目覚めの断章◆
霊泉郷セイリョウにてリゼルの襲撃を受けてから、数日が経ったある日。
昼食を終え、テラスで小休憩を取っていたエクリナは、まどろみの中にいた。
紅茶の熱が指先から抜け、まぶたの裏で陽が滲んだ。
肩に触れぬ銀糸の髪に碧眼を宿す、誇り高き王にしてメイドの少女。
その小柄な体が、ゆっくりと意識の深淵へ沈んでいく。
誰にも語ってこなかった記憶が、静かにその輪郭を現し始める。
かつて、世界に絶望し、逃げる覚悟もない意思なき少女がいた。
あの頃の我は、まだ“家族”という言葉すら知らなかった。
◇ ◇ ◇
命令が響く――
焼けた石畳。倒れた旗。灰が風に巻き上がり、視界の先で人属が散って逃げる。
黒いローブを着た銀髪碧眼の少女の横で、浮遊する球型の魔導術具が声を出していた。
両腕の拘束具の表面が脈動し、少女の瞳孔だけがわずかに揺れた。
命じられるがままに魔力収束、標的指定、射出を繰り返す。
美しくも淡々と静かに魔法名が唱えられる。
それはあまりにも機械的で、非人属的な動作だった。
「……ナハト・シンフォニア」
命令が落ちる。喉が勝手に動き、声だけが先に出た。
黒い楽譜のような紋章が空間に浮かび上がると同時に、音もなく闇刃が舞い踊るように飛び、敵兵たちの身体を穿つ。
断末魔すら届かない、静寂の殺戮。
逃げ惑う人属をも容赦なく貫き、切り刻んでいく。
それが、魔王と呼ばれる少女――エクリナの任務だった。
光を受けて輝く銀髪と、空虚な蒼の瞳。
十代半ばに見える華奢な体躯の奥に潜む圧は、場の空気を変えるほどだった。
数多の戦場に繰り返し投入される魔王エクリナ。
魔哭神ヴァルザの悦楽のために今日も魔法を放つ。
ヴァルザが世界へ侵略を開始して、二百五十年余り――
戦域を拡張し、いつか人属に終焉をもたらすため、焦らすようにじっくりと侵略を行なっていた。
戦場は灰に染まり、瓦礫の中に積み上げられる死体。
異形の神の兵は、終わりを告げた戦場で戦利品を漁る。
貴金属、魔力を帯びた宝石、魔導術具の数々、魔法書など。
長きに渡る戦争で人属が進歩した証を集め、眺めるのもヴァルザの悦楽を得る手段の一つであった。
意思のない、魔哭神の兵たちが黙々と命令をこなす中――
浮遊する球型の魔導術具の後についていく少女が、背後を通り過ぎていく。
戦場を制圧し、戦果を挙げ続ける、神の因子を持つ『神造生命体』。
魔哭神が持つ最高戦力であり、神の兵たちの完全上位種であった。
だが――
知性のない兵たちは、その姿を畏れ、敬い、あるいは忌み嫌いながら口にする。
「……来た。魔王、エクリナ……」
意思なき兵たちは、おぼろげな本能で愚痴をこぼす。
魔王が見ているのは”人属”のみであり、命令を忠実に従い必ず討つ。
例え――人属と神の兵が戦闘を行なっていても、冷酷に魔法を放っていた。
魔王エクリナには”仲間”などいない、神の兵など視野に入っていない。
受けている命令は人属の殲滅と戦域の制圧——ただそれだけ。
命令に従うだけの空虚な”玩具”には、神の兵などどうでも良かった。
それゆえに侮蔑も込めて『魔王』と呼ばれていた。
人属が恐れおののいて放った二つ名を、神の兵たちも同様に使っていた。
意思もなく、知性もない異形の兵は、本能で語り続け、今や全ての戦域で『魔王』の名は広まっていた。
だが、その二つ名も侮蔑の声も、エクリナの耳には届かない――否、届いていても意味をなさない。
命令通りに戦い、命令通りに敵を殲滅し、任務が終われば回収されるだけ。
それを、彼女は何度繰り返してきたのだろう。
――我は、何だ。
疑問すら生まれない。
それが、兵器として設計された存在、『神造生命体』の“正常”だった。
冷酷で無感情。与えられた魔力と命令だけを頼りに、幾万の命を灰に変える。
そして今日も、命令が響く。
浮遊する球型の魔導術具は声を出し指示をする。
「センイキヘンコウ……ニシノセンセンヘ……ムカエ」
エクリナは無言で歩き続ける。
何も知らず、何も疑わず、ただ壊すだけの日々。
その無限に続くかに思えた循環に、やがて一つの“異物”が差し込まれる。
少女はまだ知らない。己の名が、真の意味で“魔王”と呼ばれる日が来ることを――。




