◆第13話:始まりは小さな鍋の音から◆
神の侵攻も、魔王の影も――いまは遠い過去となりつつあった。
世界が静けさを取り戻してから、すでに二年以上が経つ。
人々は日常を取り戻し、街には活気が戻りつつあった。
彼女たちはあえて喧騒を避け、郊外の古い館でひっそりと暮らしていた。
だが、沈黙が続く世界の裏で、かつての因果は静かに息を潜めていた。
◇ ◇ ◇
その日、館の朝は、いつにも増して騒がしく始まった。
「おぉっ!? イケるイケる! 今日は激甘スパイシー、僕特製の“激辛はちみつシチュー”だよっ!」
厨房の中で、ライナは大鍋を前にノリノリだ。
水色の髪に澄んだ青い瞳の無邪気な娘は、左手にはハチミツ、右手には唐辛子ペースト。という危険極まりない組み合わせを、まったく躊躇なく鍋に投下する。
その刹那――
「……ライナ。鍋の温度が高すぎます」
静かな声が背後から響いた。扉の影から現れたのはルゼリア。
緋色の眼で見つめる館付きの魔法書書庫官は資料を小脇に抱え、冷ややかな目で鍋を見つめている。
「へへ、大丈夫大丈夫! 僕、こういうの得意なんだから――あっ」
次の瞬間、鍋が爆ぜた。ぶしゅっという音と共に、濃厚ソースが四方へ飛散。その雫が飛んだのは……よりにもよって、ルゼリアの抱えていた資料だった。
「…………」
「え、えへ……ご、ごめん……っ」
無言で資料を拭うルゼリア。その手元には、茶色に染まった猫の写真集も含まれていた。
「“得意”と“できる”は、別です。――次は、もう少し周囲を確認してから調理してください」
その言葉を口にしながら、ルゼリアの視線がほんのわずかに揺れた。
(また、強く言いすぎたかもしれませんね……)
「…………っ」
ライナはしゅんと肩を落としながら、胸の奥に小さな棘のような違和感を覚えていた。まるで、自分が何もわかっていない子供のように言われた気がして。
「……何事だ?」
厨房の奥から、エクリナが現れる。
銀糸の髪と碧眼が煌めく、王にしてメイドが不安そうに顔を出す。
二人の間に漂う空気を感じ取り、視線がわずかに揺れた。
「いえ、エクリナ。些細な事故でございます。私が片付けますので」
「ふむ、そうか」
その短い会話に、ライナはまたひとつ、理由のないざらつきを覚えた。王様はいつも公平で、だからこそ、かばってくれなかったことが――少しだけ、寂しかった。




