◆第10話:メイドの過去◆
エクリナは物思いに耽ることが多かった。
紅茶を片手に、液面の揺らぎを見ては、己の顔が揺蕩うのを観察していた。
すべての始まりは――『魔王』と呼ばれた少女と、一人の旅人の出会いだった。
エクリナが目を閉じれば、館の静けさの中で、胸の奥からあの日の記憶が蘇る。
カップの縁に触れると、まだ熱が残っている。その温度が、あの日の“手の温かさ”を思い出させる。
時折、平穏を甘受している自分が、少しだけ怖くなる。
また、あの時に戻るのではないかと、胸が焦げる。
◇ ◇ ◇
かつて、少女の率いる軍が、神の軍勢に立ち向かっていた。
その少女の名は、エクリナ。魔王と呼ばれ、人々を恐れおののかせる存在。
側近のルゼリアとライナ、そして親友ティセラを仲間として、神の侵攻の邪魔をしていた。
しかし――神は強大であった。
戦場を駆け抜け、神の愉悦を阻害するだけでは何も進展しない。
銀髪の少女は親友ティセラに命じる。世界を滅ぼす術具を作れ、と。
だが、その前にただ一人の旅人が立ちはだかった。
「――貴様がこの世界を壊すというのなら、その前に俺が止めよう」
男の名はセディオス。
黒ずんだ旅装と背負われた魔剣。場違いなほど静かな瞳を持つ、生きる意味を探す放浪者であった。
戦いの果てに――魔王は敗北した。
すべてが終わったと思った瞬間、差し伸べられた手は温かかった。
「……お前はまだ、世界の全てを視たわけではない」
セディオスの言葉に、エクリナの心は堰を切った。
諭すような声、掛けられたこともない言葉。
心中のすべてを吐露する魔王。敗れた姿で無様に慟哭する。
「我らは道具であり、慰みものでしかなかった……世界が我らを切り捨てるなら、いっそ滅ぼすしかないと……!」
エクリナは拳を震わせながら、嗚咽を吐き出す。
そこにあるのは、恐れられた魔王の姿ではなく、ただ泣き叫ぶ少女の声だった。
だが彼は、黙ってその涙を受け止めた。
やがて二人は旅を共にするようになった。
傷を癒した仲間、ティセラ・ルゼリア・ライナとともに魔哭神を直接討つ旅に出る。
小さな言い合いを重ね、互いの影と光を知り、少しずつ心を寄せ合う。
くだらない話をし、時には本気で衝突もした。
野営では、焚き火の匂い、暖かい食事、夜空のきらめきを感じた。
戦場しか知らなかったエクリナは、少しだけ世界を視ることができた。
そして迎えた決戦――魔哭神との最終戦。
死闘の果て、仲間たちと共に神を打倒した。
戦いの後、空虚となったエクリナは虚空へ問いかけた。
「……我は、もう、何のために存在すればよいのだ……」
神への復讐が生きる目的だった魔王は夜空を見上げ嘆く。
すると、隣に男が座る。
少女の迷いに、セディオスはただ一言を返す。
「なら、そばにいてくれないか?」
思いもよらぬ言葉。
いつも柔和なセディオスであったが、その声には少しだけ緊張が混じっていた。
自身の手を握りしめ、じっとエクリナの碧眼を見つめていた。
長い沈黙の末、エクリナは涙をひとすじだけ零し、微笑んだ。
「そうだな、それで十分だ。うぬと共に在れるのならば」
だが――彼女は妻にはなれないと、人属の指輪の儀式を断った。
愛の言葉に甘えた瞬間、自分を許せなくなると感じたからであった。
代わりに、ずっとそばにいるための役割を考えた。
それが――メイドとして主に仕える道であった。
毎日紅茶を淹れ、食事を作り、掃除をし、洗濯をする日常を護る仕事を行う。
罪の多い身でも、これならばセディオスの傍に居るのを許される気がした。
(世界を滅ぼそうとした我には、妻の資格はない)
こうしてエクリナは、メイド服に袖を通すことを選んだ。
新たな生きる目標を得て、主のために紅茶を淹れる日々が始まった。
◇ ◇ ◇
いつものようにテラスで午後を過ごすエクリナ。
主となったセディオスが隣にいる。
「考え事かい」
セディオスが、何でもない声で言う。
「ふふ……くだらぬ感傷だ」
エクリナは紅茶を差し出し、湯気の向こうでほんの少しだけ笑った。
罪は消えぬ。だが――今日の午後は、ここにある。
(……欲しかったものは手に入っているではないか)
胸に灯った不安を、湯気にまぎらわせる。
魔哭神との決戦から三年余りが経過し、信頼する家族との日々は続いている。
何気ない日常こそが、彼女が手に入れたかったもの。
かつて“魔王”と呼ばれた影を胸に秘め、今日もエクリナは静かにセディオスの傍に居るのであった。




