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第四章 釧路編

第四章 釧路編

「道東なら、あと釧路ぐらいしか大きな街は思いつかないし……」

映司が、少し疲れた表情で呟く。

ガラティアは窓の外を見つめながら、静かに頷いた。

「わたしも、『海』ばかりじゃなくて『川』や『湿地』が気になるの」

「……湿地?」

「ええ。もしかすると、神話に関係する手がかりがあるかもしれないわ」

確かに、ガラティアのルーツは「海」にある。

だが、川や湿地にも「水の記憶」が宿るのだろうか?

二人は、出口の見えない焦燥感を抱えたまま、JR釧網本線に乗り込んだ。

網走駅を出発した列車が、白い雪原と林の間を進む。

映司は窓の外をぼんやりと眺めながら、思考の迷路に囚われていた。

(ポリュペーモスの執念深さ……カイロスの底知れぬ力……)

(俺はただの人間のはずなのに、なぜかいつも巻き込まれてしまう……)

対して、ガラティアは、外の景色に見入っていた。

「この辺り……不思議と心惹かれるの。大きな水が広がっているからかしら」

車窓の向こうには、ゆったりと流れる釧路川。

その周囲には、広大な湿地が広がっていた。

映司は「そうだね」と返しながらも、漠然とした不安が胸をよぎる。

(彼女は、この場所に何を感じ取っているんだろう……?)

夕方、列車は釧路駅へと到着した。

二人は市街地にあるビジネスホテルへとチェックインする。

「とりあえず今夜は休もう。明日になったらバスか列車で湿原へ行ってみるか?」

映司が提案すると、ガラティアはゆっくりと頷いた。

彼女の瞳には、かすかな期待と、不安の入り混じった光が宿っていた。

翌朝。

二人はバスターミナルから路線バスに乗り、釧路湿原へと向かう。

遅い冬の名残がまだ至る所に残り、地面は半分凍りついていた。

木道の遊歩道は閑散としており、観光客の姿はまばらだった。

「すごい……見渡す限りの広大な原野だわ」

ガラティアが、感嘆の息を漏らす。

映司も、思わず息をのんだ。

湿原が持つ、静謐で包み込むような空気。

海とも山とも違う、独特の開放感。

「ここなら……なんだか心が落ち着くな」

映司は、静かに呟く。

「誰も追ってきてないし、ゆっくり散策できそう」

だが――

湿原の奥に何が待っているのか、彼らはまだ知らない。

木道を歩き続け、やがて川の近くへとたどり着いた。

水面が穏やかに揺れ、わずかに春の兆しが感じられる。

だが、その時――

「わっ……!」

映司が、足を滑らせた。

まだ凍っている箇所と溶けている箇所が入り混じった地面。

その境目で、バランスを崩したのだ。

「映司!」

ガラティアがとっさに腕を掴む。

だが――

彼女の足元も滑り、二人揃って木道の下へと転げ落ちそうになる。

ゴトンッ!

幸い、大きな落差はなかった。

だが、水溜まりの多い泥地に足を取られ、川の方へと流されかける。

「映司、大丈夫……っ?」

「う、うん……でも、靴が泥まみれだ……」

かろうじて、手を取り合いながら立ち上がる。

もし、あと一歩転げていたら――

二人は、もっと危険な目に遭っていたかもしれない。

映司は、泥にまみれた靴を見下ろしながら、小さく笑った。

「……助けてくれて、ありがと」

ガラティアは、そっと彼の手を握り返す。

「……わたし、今は少しだけ、あなたを守れた気がする」

湿原を後にし、午後には帰ろうかと考えていた矢先、天候が急変した。

雲が垂れ込め、気温が上昇し、雪解けが一気に進む。川の水位がみるみるうちに増していく。

遊歩道の管理スタッフが警告の声を上げる。「危険です! 早めに戻ってください!」

観光客たちは急いで帰り支度を始めた。映司とガラティアも足早にバス停へ向かおうとする。

そのとき、助けを求める悲鳴が聞こえた。

「誰か……子どもが……川に……!」

川辺の少し外れた場所に、地元の親子連れが取り残されていた。

小学生くらいの子どもが足を滑らせ、増水した川の際に転倒している。母親が必死に声を上げるが、水の勢いが強すぎて近づけない。

川の流れは、まるで何かに引き寄せられるように、子どもの足元を飲み込もうとしていた。

「映司……行かなくちゃ!」

ガラティアが駆け寄ろうとするが、足場が悪く、彼女の力だけでは安全に救出できるかわからない。

子どもの足元まで水が迫る。あと数秒で流されてしまう。

映司は考えるよりも先に体が動いていた。

「待ってろ! 今行くから……!」

泥と水の中を突っ切るように走り、子どもに手を伸ばす。しかし、水の勢いは想像以上に強い。

「くそ……流される……!」

必死に踏ん張るが、足が泥にはまり込んで抜けない。あと少しで手が届くのに、水流が彼の体を押し流そうとする。

(このままじゃ、巻き込まれる……!)

その瞬間——

ザパァン!

川の流れが、不自然に揺らいだ。

映司を押し流そうとしていた激しい水圧が、ピタリと緩む。

水が逆流するようにうねり、彼と子どもの周囲に“緩衝帯”を作り出すかのように流れを分散させた。

「え……?」

子どもも驚き、目を見開く。ガラティアも遠くからその光景を見つめ、「今のは……?」と息を呑んだ。

川の水が、まるで映司を避けるように流れを変えていた。

映司の体が、驚くほど軽くなった。

子どもの腕を引き寄せ、岸へと押し出す。

驚くほどスムーズに足が抜け、水と泥がまるで手助けしてくれるかのようだった。

無事に子どもは母親のもとへ走り、抱き合って泣いている。

周囲の人々が歓声を上げるが、映司はその声が遠くに感じられた。

(今……なんで水が勝手に道を開いた……? 俺が何かしたわけじゃない……よな?)

「映司……あなた、いま水を……操ったの……?」

駆け寄ってきたガラティアが、彼の腕をつかむ。

「わからない……そんな馬鹿なこと……。俺はただ、あの子を助けたかっただけで……」

気づけば、水の凶暴な流れは嘘のように収まり、先ほどの激流は勢いを落としていた。

「まさか、俺が何かできるなんて……。海の神話のガラティアとは違うのに、俺はただの大学生だぞ」

ガラティアは映司の手をぎゅっと握り返す。

「もしかして……わたしだけじゃなく、あなたも“神話”に関係あるんじゃないかしら。エイシスとガラティア……そんな伝説があったでしょう?」

「エイシス……?」

映司はその名を口にしても、ピンとこない。

ガラティアは、札幌で調べた記憶を思い返しながら説明しようとするが、周囲の騒ぎが収まらない。

(とにかく、まずここを離れよう。今は深入りして話している場合じゃない。救急車や消防が来るかもしれない……)

映司はガラティアの手を引き、湿原を後にした。

彼の中で何かが目覚めた。

それが、何なのかはまだ分からないまま——。

翌朝、釧路のローカル新聞やSNSには、前日の出来事が掲載されていた。

「増水した川で奇跡の救出劇」「足を取られた子どもが無傷で救出」

記事の内容は、まるで都市伝説のようだった。

「川が突然道を開けた」

「謎の力が働いたのでは?」

荒唐無稽な憶測は、すぐに忘れ去られるだろう。

しかし、映司にとっては「現実」だった。

(あれはいったい……なぜ俺に……?)

(ポリュペーモスやカイロスとも無関係じゃないのか?)

眠れぬ夜を過ごし、映司はホテルの窓際で朝焼けを見つめながら考え込んでいた。

ドアの向こうから、ガラティアの気配を感じる。

彼女も同じように混乱しているはずだ。

朝食を終えたあと、ロビーの片隅で二人は向かい合った。

「映司、まだ自分が信じられないのかもしれないけど、あれは明らかにあなたの意志に反応して、水が動いたわ」

ガラティアは静かに語る。

「神話のエイシスも“川の神”になった伝説があるのよ……」

「俺が“川の神”……? 馬鹿言うな、そんなの……普通じゃあり得ない」

映司は頭を抱え、視線を落とす。

これまで「ガラティア=神話の女神」という話は半ば受け入れてきた。

だが、自分まで同じ領域にあるなど、考えたこともなかった。

しかし、昨日の出来事は、紛れもなく「普通」ではなかった。

ガラティアはそっと映司の手を重ね、柔らかく微笑む。

「大丈夫。わたしも最初は混乱していたけれど……あなたが何者であれ、一緒に考えていきたい」

「力を制御できるようになれば、わたしたちはもっと強くなれるはずよ」

映司は唇を噛みしめる。

目を逸らしても、事実は変わらない。

「わかった……怖いけど、逃げてもしょうがない」

「ポリュペーモスから逃げ回るだけじゃ、誰も救えないし……」

「もし俺がエイシスの力を本当に持っているなら、それを確かめるしかないんだな」

ガラティアが安心したように微笑む。

映司は小さく息を吐いた。

“川の力”が覚醒しかけた今、ポリュペーモスやカイロスがどんな動きを見せるか分からない。

釧路に留まれば、また騒ぎを起こしかねない。

被害を出す前に、二人は移動を決断した。

「札幌へ戻ろう」

「大都市なら、情報収集もしやすいし、大学で手がかりを探せるかもしれない」

映司の言葉に、ガラティアは静かに頷いた。

だが、映司の胸にはまだ「信じられない」という感覚が残っていた。

(俺が何かの“神”だなんて)

(そんなはず、ないのに)

しかし、子どもを救えたのは確かな事実だった。

札幌へ戻る手段として、JRもあったが、釧路から直通の高速バスの方が便利だった。

荷物をまとめ、バスターミナルへ向かい、切符を購入する。

出発までの時間、ターミナルのベンチで映司はガラティアと並んで座っていた。

「……大丈夫かな。ポリュペーモス、またバスに乗り込んでくるんじゃ……」

冗談めかして言いながらも、映司の表情はどこか不安げだった。

ガラティアは小さく笑い、肩をすくめる。

「それは怖いけど、あの巨体で高速バスに潜んでいたら、さすがに目立つわよ」

「それもそうか……」

出発時刻になり、二人はバスへ乗り込む。

乗客はそれほど多くなく、観光客や地元客がまばらに席を埋めている。

映司とガラティアは後部座席に並び、ほっと一息ついた。

「札幌まで、長いバス旅だね……」

バスがゆっくりと釧路の街を離れる。

外の景色は、雪に覆われた原野や、点在する小さな集落へと変わっていった。

しばらくして、ガラティアはウトウトし始め、窓にもたれて眠る。

映司はそんな彼女をちらりと見遣りながら、過去の記憶に引き込まれていった。

(そういえば……札幌から小樽に行ったのは、あれが最後だったな)

小樽。

札幌から電車で30分ほどの港町。

観光名所として知られるが、映司にとってはあまり良い思い出がない場所だった。

それは、映司が大学1年の秋。

札幌でのキャンパスライフに浮かれていた頃。

映司には、一人の恋人がいた。

泉。

札幌で知り合い、短期間ながらも情熱的な日々を過ごしていた。

ある日、泉は「小樽の夜景を一緒に見に行きたい」と誘ってきた。

ロマンチックなデートになると思い、映司は期待を膨らませていた。

運河沿いの石畳を歩き、ガス灯に照らされた水面を眺める。

穏やかで、美しい光景だった。

だが、突然、泉は足を止め、真剣な表情で映司を見つめた。

「ごめん……映司とはやっていけない気がする」

「……え?」

「あなたは優しいけど、何か“大切な部分”が欠けてる感じがして……」

映司には、まったく思い当たる節がなかった。

突然の別れ話にショックを受け、問い詰めようとしたが、泉は「ごめん」と繰り返し、そのまま去っていった。

映司は、冷たい小樽の夜風の中に取り残された。

(あのとき、俺が必死にすがりついたら何か変わったのか?)

(それとも、“欠けてる部分”なんて、どうしようもなかったのか……)

バスのシートに揺られながら、映司は苦い記憶を反芻する。

(今の俺は、“水の力”なんて不思議なものを手に入れかけている。でも、そういう問題じゃないんだ……)

ふと、隣を見る。

ガラティアが寝息を立てていた。

白い髪。透明感のある肌。

彼女の存在を見つめると、胸が切なく疼く。

(この子を守りたい。そう思えるのは、“欠けた部分”を埋めてくれる存在だからかもしれない)

(だけど、泉との失敗をもう繰り返したくない)

映司は、ガラティアの手をそっと取りたい衝動に駆られた。

だが、彼女を起こさぬように、じっと踏みとどまる。

窓の外に目を向けると、札幌の街が近づいていた。


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