第三章 網走編
雪に覆われた寒村を抜け、車の窓の外に賑やかな町並みが広がり始める。
オホーツク海に面する都市、「網走」。
雲間から覗く夕日が、白い大地を淡いオレンジ色に染めていた。
長いドライブを経て、映司とガラティアはほっと安堵する。
だが――
その背後には、まだポリュペーモスの脅威が潜んでいることを忘れられない。
「着いたよ、網走。さっそく宿でも探すといい」
ハンドルを握る“片桐アキラ”が後部座席の二人を振り返り、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「本当にありがとうございました。アキラさんがいなかったら……どこかであの男に捕まってたかもしれません」
映司は素直に感謝の言葉を伝える。
ポリュペーモスを幻惑で翻弄したあの奇妙な術。
あれがなければ、今頃どうなっていたか。
アキラは気楽な調子で肩をすくめる。
「いいってことさ。僕もちょうど網走に用事があったからね」
「……でも、この先は少し別行動にするよ」
「え?」
ガラティアが驚いた顔で尋ねる。
アキラは助手席にかけてあったバッグを取り、意味深に笑った。
「僕には僕の“旅路”があるんだ。しばらくここを離れるかもしれない」
「ま、君たちの旅が無事に進むよう祈っておくよ。あの巨漢には気をつけて」
そう言うなり、アキラは駅前の駐車スペースに車を停め、二人を下ろした。
「じゃあね、また会おう」
そう告げると、車は市街の方へと走り去っていく。
その横顔には――
どこか“神出鬼没の使者”を思わせる、不思議な色香があった。
網走駅前は思ったよりも人通りが多い。
流氷シーズンが終わりかけとはいえ、観光客の姿もちらほら見える。
「網走って言えば“監獄”のイメージが強いんだよな」
映司がそう呟くと、ガラティアが興味深げに首をかしげる。
「カンゴク……? 囚人を入れる場所、よね?」
「今はもう博物館になってて、観光名所だよ」
彼女には、日本の刑務所事情など未知の世界のはずだ。
だが――
ガラティアの目は、どこか「引き寄せられる」ように、網走監獄の方向を見つめていた。
「……どうしてだろう。なんだか、気になるの」
その夜。
宿に戻った映司が風呂から上がり、畳の上でのんびりしていたときだった。
ズシン。
突如、足元が揺れた。
地震かと思いきや――
何かが、空気そのものを歪ませている。
「……映司、何か来る……!」
ガラティアが窓辺から振り返る。
夜の闇に沈む静かな街並み。
だが――
「誰かが、いる……?」
窓の外。
微かに人影がちらついた気がした。
不意に、障子の向こうに“青白い火花”が走った。
次の瞬間、金属を擦るような嫌な音が響き渡る。
「え……誰かが外で……?」
映司が腰を上げようとしたその瞬間
バンッ!
勢いよく戸が蹴破られた。
長いマントのようなコートを纏い、漆黒の髪を逆立てた男が立っていた。
「……夜分にすまないね」
低く艶めいた声が、室内に響く。
映司は咄嗟にガラティアを庇い、「あんた、誰だ!」と怒鳴る。
男はニヤリと口角を吊り上げた。
「俺の名は……カイロス」
「君たちの噂は聞いている。“エイシスとガラティア”……いや、今は映司とガラティアと呼ぶべきかな?」
ガラティアが後ずさる。
ポリュペーモスとは全く違う――
より邪悪で“捉えどころのない”力を持つ存在。
「あなたは……ポリュペーモスの仲間なの?」
「フフ、あの単細胞な巨漢と一緒にしないでくれ」
男は、ゆっくりと懐から砂時計のような道具を取り出した。
内部で、砂ではなく青白い光が揺れている。
「俺は“時と運命”を渡り歩く旅人さ」
「試させてもらおうか……その力がどれほどのものかをね」
カイロスが砂時計を逆さに振ると、空間が歪んだ。
映司とガラティアの視界が一転する。
漆黒の闇に、囚われる。
意識がぼんやりと戻ったとき、映司は冷たい床に倒れていた。
荒い石畳、重厚な鉄格子。まるで、古い刑務所の独房のような空間。
「……ここ、どこ……?」
映司が息を整えながら起き上がる。
隣で、ガラティアが身体を起こし、狼狽した表情を浮かべていた。
「な、何……? さっきまで旅館にいたのに……」
二人の目に飛び込んできたのは、古びた木造の房舎。
裸電球のような灯りが薄暗く揺れ、年代物の鉄格子がいくつも並んでいる。
「これって……まさか、昔の網走監獄……?」
映司はゴクリと唾を飲んだ。
展示品のようなレプリカではない。
壁の汚れ、染みついた湿気の臭い、所々に刻まれた落書き 、すべてが「生の歴史」を纏っていた。
まるで、時代そのものに閉じ込められたような錯覚。
「夢……じゃないよな」
「おい、てめぇら……新入りか?」
低く、荒んだ声が響いた。
独房の奥から、男が薄暗い灯りの下に浮かび上がる。
ボサボサの髪に無精ひげ、囚人服を着た痩せこけた男。
生気に乏しいが、眼光は妙に鋭い。
「……こんな夜中に運び込まれるなんて、やっかいな罪でも犯したのか?」
映司とガラティアは、無言のまま顔を見合わせた。
これは、本当に過去なのか? それとも、カイロスによる幻覚なのか?
「へっ、名前はどーでもいい。今は“囚人番号285”で呼ばれてるよ」
男は肩をすくめる。
「この地獄の監獄から出られない身だ。……ま、そっちも似たようなもんだろう?」
映司は唖然とした。
時代劇か映画のセットに入り込んだような感覚。だが、肌寒い空気と、男の息遣いは生々しく、あまりに現実的だった。
「ちょっと待ってください。俺たちは突然ここに来ただけで、何もしてないんです!」
映司が慌てて訴えるが、285は鼻で笑った。
「んなこと、俺に言われてもな。ここに送られるってのは、大罪人か、それともよほど“運がない”ってことさ」
285の言葉に、映司の背筋が冷たくなる。
その深夜、看守が巡回する足音を遠くに聞きながら、映司とガラティアは285から話を聞いた。
「ここは北海道開拓の一環として作られた監獄で、囚人は過酷な労働と厳しい管理下に置かれている」
「脱獄を試みたら、即射殺だ」
285は淡々と語る。
だが、その言葉の奥には、微かな憤りと絶望が滲んでいた。
「……俺は無実だなんて言わねえ。でも、こんなところで一生を終えるなんて、まっぴらごめんだ」
285の眼差しには、わずかに揺れる「希望」の影があった。
ガラティアは、迷いなく彼に問いかけた。
「あなたは……本当に諦めているの?」
「……!」
285の目が、一瞬だけ揺れた。
「ここにいる全員が、こんな悲惨な状況を受け入れているの?」
「悲惨……?」
285は一瞬言葉を失い、次いで小さく笑った。
「上っ面の同情なんざ、要らねえよ」
「何度も脱獄を試みた奴がいたが、悉く撃ち殺されたり、凍死したり……。奇跡なんて起きねえさ」
しかし、ガラティアは、まっすぐに彼を見つめた。
「なら、奇跡を起こしてみせるわ」
285は、しばし沈黙した後――
「……バカめ」
そう呟いた。
だが、その声には、ほんのわずかに笑みが混じっていた。
夕暮れ時。
独房の鉄格子の向こうには、重苦しい静寂が漂っていた。
「失礼しまーす……食事を受け取る時はきちんと列になれよ!」
看守が食事を配るために独房を巡回する。
「よし……今だ」
285が低く呟く。
「うわっ、悪い! 足が滑った!」
囚人番号285は、わざと足をもつれさせ、看守の足元へと転がり込む。
「っ……バカヤロウ! 何やってんだ!」
看守がバランスを崩した、その一瞬――
ガラティアが扉口で小さく呟いた。
かすかに彼女の瞳が碧色に揺らめく。
風が、囁くように看守を包む。
「……ん? なんだ……? 眠……た……」
看守の体がぐらりと傾ぐ。
膝から崩れ落ち、そのまま意識を失った。
「すげえ……本当に魔法使いかよ、お前ら……」
285が驚愕の声を上げる。
映司は、看守の持つ鍵の束を素早く奪い取った。
「よし、行くぞ!」
「おい、囚人たちも解放するか?」
囚人仲間を一斉に解放すれば、脱獄騒ぎが拡大し、看守が総動員されるリスクがある。
285は、苦渋の表情で拳を握りしめた。
「……正直、一人でも多く逃がしてやりたいが、かえって大混乱になるかもしれねえ」
「悪いが、こっそり行こう。仲間には済まねえが……」
誰も気づかぬうちに脱獄するのが最優先。
三人は看守の詰所へ向かい、外への出入口を開けようと駆け出した。
木造の廊下を抜け、詰所付近に差し掛かった瞬間
「おい、囚人が脱走だ! 撃て、撃てぇ!」
銃声が轟いた。
映司は咄嗟にガラティアを庇い、身体を低くする。
「くそっ、撃ち殺される前にやるしかねえ!」
285が叫び、駆け出す。
パンッ!
弾丸が壁を貫き、木片が飛び散る。
「うわっ!」
一発が285の袖をかすめ、血が滲む。
「285!」
映司が駆け寄るが、幸いかすり傷程度らしい。
(この状況……どうにかして看守たちを無力化しなきゃ)
ガラティアも風の力を使おうとするが――
「ダメ……この状況じゃ、うまくコントロールできない……!」
「ククク……さあ、見せてもらおうか。君たちの底力を」
突如、周囲の空気が歪んだ。
カイロスの嘲笑が、耳元に響く。
「ふざけんな!」
映司が叫んだ、その瞬間――
バリーンッ!
廊下の奥の窓が砕け散った。
強烈な吹雪が吹き込み、看守たちの視界を奪う。
「な、なんだ!? 嵐か!?」
看守たちの銃口が揺れる。
「今だ、行くぞ!」
映司たちは、一気に廊下を駆け抜けた。
285が鍵を使い、出口の扉を開ける。
駆け込んだ先は――
凍てつく北風が吹き荒れる、雪原だった。
夜の網走監獄。
明治時代のその姿は、街灯もなく、ただ闇と寒気に包まれていた。
「寒い……! こんな装備じゃ凍死しちまう……!」
285が歯を鳴らす。
後ろからは看守の怒声。
銃声が再び鳴り響き、雪原に弾痕が舞う。
「逃がすか! 撃ち殺せぇ!」
映司が周囲を見渡す。
(どこか、隠れられる場所……!)
285が遠方を指差す。
「あっちに川がある。橋を越えりゃ森に入れる!」
三人は雪深い地面を蹴りながら、必死に走った。
看守たちの追跡。
カイロスの嘲笑――
まさに、死と隣り合わせの脱獄劇だった。
吹雪の中を駆け抜ける三人。
森の奥に、奇妙な“光の裂け目”が見える。
「なんだ、あれ……?」
285が息を呑む。
映司とガラティアは、直感した。
「……カイロスが作り出した“時空の扉”だ」
「多分……あそこを越えれば、俺たちは元の時代に戻れる」
だが、285の運命は――?
「お前らについて行ったら、俺はどうなんだ? 未来とやらでまともに生きられるのか……」
「わからない。でも、このままここにいたら、また看守に捕まる」
ガラティアが差し伸べる手。
285は、震える指で、それを握った。
「……クソ、もう腹ぁ決めた!」
光の裂け目へ――
三人は、飛び込んだ。
時の牢獄からの、解放を信じて。
――バッ!
鋭く息を吸い込み、映司は目を見開いた。
雪の感触。冷たい夜の空気。
現代の、静かな網走監獄。
観光客のいない時間帯。
閉館後の博物館の敷地に、三人の影が倒れ込んでいた。
「……戻ったのか?」
映司は荒い息を整えながら、辺りを見回す。
電灯の支柱。
観光案内の看板。
そして、駐車場に停まる車――
間違いなく、現代の設備だ。
ガラティアが胸を撫で下ろす。
「……285、あなたは……」
映司とガラティアが振り向く。
明治の囚人服を着たまま、285が雪の上に横たわっていた。
呆然とした表情で、ゆっくりと周囲を見回す。
「ここ……なんだ? こっちの方が、まっとうな街の香りがするが……」
彼の声は、かすかに震えていた。
まるで、すべてが現実なのか、夢なのかを確かめようとしているかのように――。
「お前ら、本当に“未来人”だったのか?」
そう言いかけた、その瞬間。
285の足元から、青白い光が滲み出した。
「……な、なんだ……!?」
映司とガラティアは、息を呑む。
285の身体が、ゆっくりと霧のように透け始めていた。
「……俺、消えるのか?」
285の目に、初めて「恐怖」が浮かんだ。
「まさか、時空が修正されていくってこと?」
映司が、思わず前に出る。
「あなたは本来、ここには存在できない……?」
ガラティアの声は震えていた。
285の肉体は、淡い光に包まれ、次第に薄れていく。
「やっぱり……俺なんざ、未来に来られるわけねえってか……」
彼の声は、どこか納得しているようでもあった。
映司が手を伸ばす。
「……待てよ。せっかくここまで一緒に……!」
だが、285はゆっくりと首を振った。
「白鳥由栄だ……」
「ん?……」
「俺の名前だよ、覚えておいてくれよ…」
最後の言葉とともに、彼の姿は完全に消えた。
まるで、最初から存在しなかったかのように――
白鳥由栄=285という名の男は、この世界から消失した。
映司とガラティアは、ただその場に座り込む。
冷たい雪の上に、彼がいた形跡は何も残っていなかった。
彼の存在は、「歴史の矛盾」として消されたのか。
あるいは、そもそも彼は「幻」だったのか。
「せめて彼が、過去の世界でほんの少しでも救われていれば……」
そう願いながら、ガラティアは涙を浮かべた。
脱獄劇は成功した。