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第一章 札幌編

札幌の街は、まだ3月だというのに冷え込んでいた。例年より少し早い春の気配はあるものの、夜にはぐっと冷え込み、道路の端には汚れた雪の塊がしぶとく残っている。

映司は大学の講義を終え、地下鉄南北線・北18条駅で下車すると、いつものように自転車置き場から錆びかけたクロスバイクを引っ張り出した。三月でも自転車に乗るのは、このあたりの大学生なら珍しくない。積雪が消え始めると、皆いっせいに乗り始めるからだ。

「はあ……寒い」

薄手のパーカーにコートを羽織っているが、まだ体が冬仕様のままで、ちょっとした風にも震えてしまう。通りを行き交う人々も、春らしさより冬の名残を帯びた服装だ。真新しい季節の装いに切り替えるのは、もう少し先になるだろう。

映司が住むアパートは、大通公園の少し北側にある。昔ながらの雑居ビルや、築年数不詳のアパートが多く並ぶエリアだ。実家は道東にあるが、「大学で一人暮らしをしてみたい」と希望を出したところ、両親が快く送り出してくれた。幸い奨学金とバイト代もあるので、家賃はなんとかやりくりできる。

一見、平凡な大学生活。だが、それはこの日を境に、大きく揺らぎ始めることになる。

夜。コンビニで買い物を済ませ、アパートへ戻る道すがら、映司はふと足を止めた。

街灯のオレンジ色の光が、冷え込んだ路面に反射し、昼間に溶けかけた雪が再び凍ってツルツルになっている。

「危ないな……」

手に下げたコンビニ袋の中には、インスタント食品と栄養ドリンク。それから、冷凍うどん。ちょうどクーポンがもらえたので、少しだけ得をした気分になっていた。

しかし、その小さな満足感も、次の瞬間に吹き飛んだ。

視界の端、電柱にもたれかかるようにして倒れている人影があったのだ。

「え……?」

慌てて駆け寄ると、それは見慣れない少女だった。

肩までの白い髪が、不自然なほど美しい。まるで淡く発光しているかのように、夜の暗がりに溶け込んでいる。

雪解け水で濡れたアスファルトの上に、少女は倒れ込んでいた。かすかに息をしているものの、意識は朦朧としているようだ。

「大丈夫ですかっ?」

返事はない。

高校生くらいだろうか? いや、それより少し年上かもしれない。だが、そんなことよりも、彼女の足元に映司の目は釘付けになった。

素足!?。

札幌の夜に、そんな恰好でいるなんて、どう考えても異常だ。

映司はコンビニ袋を雪の上に置き、少女の肩をそっと揺すった。氷のように冷たい。

「あの、聞こえますか……?」

そのとき。

少女がかすかに目を開いた。

深い碧色の瞳。まるで海の底にいるかのような、不思議な透明感。

「……あなたは……?」

か細くも透き通るような声に、映司は息を呑んだ。こんなに美しい声を聞いたのは、生まれて初めてだった。

「救急車、呼んだほうがいいかな? それとも、オレの部屋……いや、それはまずいか?」

警察か病院か、それともひとまず自分の部屋へ連れて行くべきか..一瞬のうちに、いくつもの選択肢が頭をよぎる。

だが、少女は力なく首を振った。

「……だめ。呼ばないで……」

苦しそうにしながらも、必死に拒む。

「でも……」

映司が迷っている間にも、少女の呼吸は乱れ、唇は青ざめていく。札幌の夜の冷気は厳しく、このままでは危険だ。

「……わかった。少しだけ、うちに来る?」

気づけば、そう提案していた。

少女は、かすかにまぶたを持ち上げた。

そこには、苦悶とともに、不思議な安堵の色が見えた。

「……ありがとう……」

それは、風に溶けるような、小さな声だった。

映司の部屋は、ワンルームにミニキッチンがついただけの安アパート。

だが暖房はしっかりしているので、寒さをしのぐには充分だ。

彼女をなんとか支えるようにして部屋へ連れてきたときには、時刻はもう夜9時を回っていた。

ベッドも一つしかないが、とりあえず「座って」と声をかけると、彼女はおとなしく腰を下ろし、壁に背を預ける。

「ちょっと待って。温かいお茶……ああ、麦茶しかないけど、レンジでチンすればいいか」 手早くカップを取り出し、電子レンジで温める。半ばパニック状態の自分を落ち着かせるために、無意識に口が動く。

「はい、これ……」 カップを差し出すと、彼女はおずおずと手を伸ばし、カップに口をつけた。小さく息を飲むと、ほんの少しだけ飲んでから、また置く。

「ありがとう」 ほっとしたように微笑む。その笑顔を目にしたとき、映司は妙に胸が締めつけられる感覚を覚えた。

儚く、そしてどこか神秘的。

いや、言葉では形容しがたい、不思議な魅力がある。

「ええと……そもそも、君はどうしてあんなところで倒れてたの?」 映司が恐る恐る質問すると、彼女は視線をそらした。少し迷っているようにも見える。

しかし逃げずに答えてくれた。

「わたし……どこから来たのか、よく分からないの」

「え?」

「気がついたら、あの場所に倒れていて……寒くて、動けなくて……」 言葉自体は日本語だが、微妙な抑揚がどこか外国人のようにも聞こえる。

イントネーションというより、話し方や表情がまるで日本人離れしているというか。

「名前は? 大丈夫?」

「……ガラティア、って呼ばれていた気がする。わたし自身も本名かどうか……」

「ガラティア……?」

聞き慣れない響きに、映司は瞬きする。海外の女性なのだろうか。

ただ、彼女が話す日本語には違和感が少ない。

「えーと、オレは映司。北海道大学の学生だけど……とりあえず今夜はゆっくり休んで、それから明日考えよう」

彼は手短に名乗りつつ、どうしたものかと頭を抱える。

彼女が望まないのに無理に病院や警察へ行かせるのも気が咎めるが、一方で倒れていたくらいだから体調面も心配だ。

それに、身分証明書や荷物は何も持っていないようだ。

しかし彼女は再び「大丈夫だから……」と弱々しく微笑むのみ。余計に心配が募るが、今はそれ以上突っ込んでも仕方がない。

映司はタオルを差し出して、風呂に入ることを勧める。

「体、冷えてるでしょ。風呂、狭いけど使っていいよ」

「……ありがとう。お言葉に甘えて……」 彼女はふらつきながらも立ち上がり、ぎこちない足取りでユニットバスへ入っていく。

扉が閉まると、映司はひとまず息をついた。

「何なんだろう……これ」 いきなり倒れていた謎の少女を保護している自分の現状。

それはあまりに突飛で、まるで映画かドラマのようだ。

だが彼女が見せたあの瞳や、不思議な透明感のある声、現実離れした魅力に、映司は既に引き込まれつつあった。

とりあえずの同居 湯を使い終わったガラティアは、映司が貸した部屋着をまとって出てきた。

サイズは当然合わない。Tシャツとスウェットの裾が少し長い。

それでも彼女は気にする様子なく、どこか涼やかな顔をしている。

「少し、楽になったわ」 風呂上がりのせいか、頬がうっすら桜色に染まり、髪の先には湯気が立ち上っている。

映司は目のやり場に困るが、彼女の清潔感あふれる雰囲気にほのかなときめきを感じるのも事実だ。

「何か食べる? 冷凍うどんとかあるけど」

「食べ物……そう、食べる……」 怪訝そうに呟くガラティア。

まるで「人間が食事をする」ということを、頭の中で一度噛みしめているようだ。

映司は「変わった子だな……」と思いつつも、冷凍うどんを調理し始める。

買い置きのめんつゆを薄め、おろし生姜とネギを散らせば、簡単なかけうどんが完成。

「熱いから気をつけてね」 テーブル代わりの小さなこたつの上に、湯気の立つ丼を置く。

するとガラティアは、恐る恐る箸を手にとり、口に運んだ。

「……温かい。やわらかくて……優しい味ね」 一口、二口と食べ進めるうちに、瞳に少しずつ潤いが戻ってくるのがわかる。

「おいしい?」 「うん……」 短く答えた彼女は、嬉しそうな表情を浮かべた。

映司は内心ほっとした。どうやら大事には至らなさそうだ。

しばらくして丼が空になると、ガラティアはぽつりと口を開く。

「あなたは、本当に優しいのね。見ず知らずのわたしを、助けてくれるなんて……」

「いや、普通でしょ。倒れてる人いたら……放っておけないじゃん」 照れくさそうに言いながら、何かが胸をくすぐる。

彼女が発する空気感が、この狭い部屋をほんのりと包み込むようで、映司は自分でも気づかぬうちに心地よさを覚えていた。

「ガラティア……って、珍しい名前だけど」

「そうね。わたしにも、どうしてその名が頭に残っているのかわからない。もしかすると、わたしは……普通じゃないのかもしれない」

「普通じゃない……?」 映司は目を丸くする。

ガラティアはうつむいたまま、何か言いたそうに口を開きかけるが、結局言葉にはしなかった。

「……ごめんなさい。いまはまだ、うまく説明できないの」 部屋の中に静寂が訪れる。

外からは、どこかの車のエンジン音がかすかに聞こえてくるだけ。

映司は彼女を問い詰める気にはなれなかった。

「じゃ、今夜はここで休んで。オレは床で寝るから」 「床……?」 「うん、そこのラグで大丈夫。気にしないで」 ほんの少し不安そうに見つめるガラティアに、映司は優しく微笑んでみせる。彼女は申し訳なさそうにうなずいた。

こうして見ず知らずの少女との、一夜限りと思われる同居が始まった。もちろん翌日には何かしらの手続きをして、しかるべき場所へ連絡するかもしれない 。

映司自身も、そこまでは考えていた。ただこのときは、彼女を追い出すようなことは到底できなかったのだ。

翌朝。

カーテンの隙間から差し込む白い光で目を覚ますと、ガラティアはまだ静かに眠っていた。

ベッドの端に沈む彼女の横顔は、まるで彫刻のように整っている。

(昨夜の出来事は……夢じゃないんだよな)

ストーブを点け、寝ぼけたまま水道をひねる。水道管が夜の冷え込みで凍りかけていたが、なんとか水は出た。ほっとして、インスタントコーヒーを入れる。

通常なら、彼女の意志に関係なく警察や病院に連れていくべきだろう。記憶喪失の可能性があるなら尚更だ。しかし、昨夜の彼女の「呼ばないで」という必死の表情を思い出すと、無理強いはできない気がした。

「おはよう……」

ふと聞こえた声に振り向くと、ガラティアが目を覚まし、じっとこちらを見ていた。

寝起きとは思えないほど整った容貌。寝癖ひとつなく、まるでそのまま雑誌の表紙に載れそうなほどだ。映司はまたドキリとさせられる。

「よ、よう。具合どう?」

「うん、だいぶ良くなった。温かい夜を過ごせたから……ありがとう、映司」

「そっか、それは良かった」

とりあえず昨夜の残りの食材で簡単な朝食を用意する。トーストと卵スープ。目玉焼きでも作ろうかと考えたが、彼女が食べられるか様子を見ながら、という感じだ。

食卓に向かい、ガラティアはゆっくりとスープをすくう。

「温かい……」

味わうように口に運び、微笑む。その仕草を見つめるうちに、映司はふと昨夜の言葉が頭をよぎった。

「もしかして、どこかから逃げてるとか?」

軽い冗談のつもりで訊いたが、ガラティアは一瞬戸惑ったように視線を泳がせ、やがて小さく首を振る。

「逃げているわけじゃない……けれど……うまく言えないの。ほんとうに何も思い出せないのよ」

その苦しげな表情に、映司は申し訳なさを感じる。

「ごめん……」

謝った瞬間、スマホが震えた。

画面を見ると、大学の友人からLINEが入っている。「今日、午後イチにサークルの打ち合わせあるから、来られるか?」という内容だった。

「わ、そうだ。サークル忘れてた……」

映司は二年生になるところで、先輩と後輩の橋渡し役も多い。

「えっと……ゴメン、少し家空けるかも」

「行ってきて。わたしはここで待ってればいい?」

「……危ないから、鍵はちゃんとかけておいて。でも、本当なら病院……」

言いかけて、やめた。

ガラティアの不安げな瞳を見ていると、強い拒絶が伝わってくるような気がした。

「わかった。じゃあ夕方には戻る。何かあったら連絡して」

と言っても、彼女は携帯を持っていない。仕方なく、部屋のWi-Fiを案内し、古いタブレットを貸すことにした。

「……不思議な小箱ね。これに触れていると、色んな声が聞こえるような……」

タブレットを手にした彼女は、画面のタッチ操作に戸惑いながら、驚いたように見つめている。

(まるで、この文明に初めて触れたみたいだな……)

映司はそんな彼女を不思議に思いながら、靴を履いた。

「じゃ、行ってきます」

「映司……気をつけてね」

その声に、なぜか胸が高鳴った。

大学のサークル棟は古い建物で、廊下は薄暗く、どこか埃っぽい。

映司が部室に入ると、すでに何人かが集まっていた。

「映司、遅いぞー」

「ごめんごめん、ちょっとバタついててさ」

あっさり謝ると、先輩の野口が笑いながら肩を叩く。

「新歓ライブの曲目、そろそろ決定しないとまずいぞ。来週頭にはビラに載せるから」

「ああ、そうだよね。曲リストは……」

打ち合わせは順調に進み、ライブのコンセプトや曲順をみんなで話し合う。

だが、映司の意識はどうしてもガラティアのことへ向かってしまっていた。

(あの子は本当に何者なんだ? 記憶喪失って……)

スマホを何気なくチェックするが、当然ながらメッセージは来ていない。

そんなとき、隣で資料をめくっていた友人のタカシがニヤリと笑う。

「おい、映司。なんかボーッとしてるけど、大丈夫か?」

「ん、ああ、ちょっと寝不足でさ」

言い訳をすると、タカシは面白そうに身を乗り出した。

「寝不足ねぇ。女の子と夜更かしでもしたか?」

「そ、そんなんじゃないって」

図星を突かれたわけでもないが、変に焦る。

「そういや、最近変な噂聞いたことない? 大通近辺で、白い髪の美少女が深夜に歩いてるとか……」

「……え?」

思わず反応してしまった。

タカシは得意げにスマホを見せる。そこには、ブレブレの写真とともに、「雪の精」「都会に現れた妖精」などのコメントが並んでいた。

(……もしかして、あの子のことか?)

胸騒ぎがする。

「ちょっと用事思い出した。悪いけど早引けさせて」

映司は席を立ち、急いで地下鉄に向かった。

部屋に戻ると、ガラティアは床に座り込んでタブレットの画面をじっと見つめていた。

まるで「見えない言葉」を読むかのように、指先で画面をなぞっている。

「ただいま。……大丈夫だった?」

声をかけると、彼女はぱっと顔を上げて微笑んだ。

「おかえり、映司。見て……これを見ていたら、不思議なことを思い出しそうになったの」

画面には、美術館のサイトらしきページ。そこにはギリシャ神話やローマ神話の彫刻、絵画の写真が並び、その中に《エイシス アンド ガラテイア》と題された作品があった。

「ガラテイア……って、ギリシャ神話の海のニンフだっけ? そういや、本で読んだことあるかも」

映司が覗き込むと、彼女はスクロールを止めて写真をじっと見つめた。

「このページを見ていると、胸が苦しくなるの。何か大切なことを思い出さなくちゃいけない気がして……だけど、思い出せない」

その瞳には、戸惑いと、得体の知れない悲しみが混じっているように見えた。

「神話……そんなのただのおとぎ話じゃない?」

映司が言うと、ガラティアは静かに首を振る。

その瞬間、部屋のチャイムが鳴った。

「誰だ……?」

映司はインターホンのモニターを確認する。

そこには、大柄な男の姿が映っていた。

サングラスをかけ、ダウンジャケットの上からもわかるほど分厚い筋肉。

(……宅配じゃないし、なんだこいつ?)

応答ボタンを押そうとしたとき、ガラティアが不意に顔を強張らせ、映司の腕を掴んだ。

「だめ……出ないで」

「え、なんで?」

答える間もなく、男はモニターの前で大声を上げた。

「おい、そこにいるのはわかってる。開けろ」

低く響く声。その態度は、明らかに普通の訪問者ではない。

男は拳でドアを強く叩き始める。

「……ガラティア、もしかしてあの男から逃げてきたのか?」

映司が問いかけると、彼女は震える唇で「わからない……」と答えた。だが、その怯えた瞳がすべてを物語っていた。

ドンドンとドアが乱暴に揺さぶられる。

「開けろ、エイシス! お前が“あの女”を匿っているのは知ってるんだぞ!」

「……ポリュペーモス……」

ガラティアがかすかに呟いた。

「ポリュペーモス……? なに、それが奴の名前?」

彼女は小さく頷き、怯えたように視線を伏せる。

「思い出したの。彼……ポリュペーモスは、わたしを探している。危害を加えようとして……」

「でも、なんで?」

「わからない……でも、神話では……彼は一つ目の巨人で、ガラテイアを奪おうとして……」

「一つ目の巨人? また神話の話? いやいや、そんなわけ……」

混乱する映司をよそに、ドアの向こうで男の苛立ちは増していく。

「くそっ……勝手に侵入すんぞ!」

その声とともに、ドアに激しい衝撃が伝わった。蹴りを入れているのか、安いアパートの玄関ドアが軋む音を立てる。

「やばい……」

映司は咄嗟にスマホを握る。

(警察呼ぶしかない……)

だが、ガラティアが「だめ……!」と制止しようとする。

「無理だよ、こんなのほっとけない!」

その瞬間。

バキッという音とともに、ドアが破られた。

「警察? やめろ!」

サングラスの男が部屋の中へ転がり込んでくる。

映司はスマホを奪われまいと構えたが、男は一瞬で腕を伸ばし、奪い取って床に叩きつけた。

「おい、そんな乱暴な……!」

「黙れ。そっちの女はどこだ!」

部屋の中を見回す男。

ガラティアはベッドの奥へ身を縮めている。

男はそれを見つけ、大股で近づいた。

「ようやく見つけたぞ、ガラティア! お前は俺のものだ!」

その声には、尋常でない執着と怒りが混じっていた。

映司は男の腕を掴もうとするが、まるで鉄の塊のような筋肉に阻まれる。

「離せ……!」

全力で抵抗するも、軽々と振りほどかれ、映司は壁に叩きつけられた。

「くっ……」

ポリュペーモスはガラティアの腕を掴み、引きずろうとする。

そのとき――

「……触らないで……!」

ガラティアの声が部屋に満ちた。

同時に、まるで空気が波打つような、奇妙な感覚が広がる。

冷たい風が渦巻き、蛍光灯が瞬いた。

映司は混乱しながらも、ガラティアの方を見る。

彼女の瞳は深い碧色の光を帯び、白い髪が風もないのに揺れていた。

「お、おい、なんだ……!」

ポリュペーモスの腕が一瞬緩む。

その隙に、ガラティアは力なく床に崩れ落ちた。

(……今のは、なんだったんだ?)

映司は震える手で、彼女に駆け寄った。


映司は、意識を失ったガラティアのもとへ駆け寄ろうとした。

だが 、ポリュペーモスの分厚い腕が、映司の行く手を阻んだ。

「なんだ今のは……やっとわかったぜ。お前はやはり“特別な存在”なんだな……」

男の口元が歪む。

「ふん、ここでは目立つ。とりあえず外へ連れ出すか」

そう言って、ポリュペーモスはガラティアの腕を乱暴に掴んだ。

「やめろ!」

映司は必死に男の腕を引き剥がそうとする。

しかし、相手の力は圧倒的だった。鉄のように硬い筋肉が映司を弾き飛ばし、またしても壁に叩きつけられる。

「ぐっ……」

眩む視界の中、ポリュペーモスがガラティアを抱え上げるのが見えた。

(このままじゃ、本当に連れて行かれる……!)

映司が力を振り絞って立ち上がったその瞬間――

「な、何をやってるんですか! 警察を呼びますよ!」

廊下から、誰かの叫び声が響いた。

近所の住人か、物音を聞きつけた誰かだろう。

ポリュペーモスは舌打ちし、ガラティアを乱暴に床へ放り出した。

「くそっ……チッ」

男は一瞬だけ映司を睨みつけると、勢いよくドアを蹴破り、廊下へ駆け出していく。

「あ……待て!」

映司はすぐに追いかけようとしたが、男の足音はあっという間に階段を駆け下り、遠ざかっていった。

「だ、大丈夫ですか!? 怪我してます?」

近所の住人が心配そうに声をかける。

映司は痛む肩を押さえながら、苦笑いを浮かべた。

「すみません……ちょっと、知り合いのトラブルで……」

適当にごまかし、すぐにドアを閉める。

今はそれよりも、ガラティアだ。

床に力なく横たわる彼女の手を握ると、氷のように冷たかった。

「ガラティア! しっかりして!」

肩を揺さぶるが、かすかに呼吸をしているだけで反応がない。

(ダメだ……このままじゃ……)

映司は一瞬、昨夜のことを思い出した。

冷え切った身体、ぼんやりとした意識 -まるで、あのときと同じだ。

(あの現象……いったい何だったんだ?)

蛍光灯が瞬き、冷たい風が渦巻いた。

まるで、ガラティア自身が世界の法則を書き換えたかのような、そんな、不気味な力。

「……病院に、連れて行くしかないな……」

迷っている余裕はなかった。

今度こそ、無理やりにでも病院へ連れて行くべきだ。

(でも……彼女は“人間の医療”で扱えるのか?)

そんな疑念が、一瞬だけ頭をよぎる。

だが、そんなことを考えている場合じゃない。

映司は、彼女をしっかりと抱え上げた。

そのとき――

「お、おい、大丈夫か!? 救急車、呼ぶぞ!」

廊下の外から、さっきの住人が再び声をかけてきた。

「すみません、お願いします……!」

映司はそれだけ叫んだ。

そして、ガラティアの冷たい体を抱きしめるようにしながら、救急車を待った。

(頼む、早く来てくれ……!)

やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

救急車の中、ガラティアは酸素マスクをつけたまま、かすかに呼吸を繰り返していた。

体温は少し戻ってきているものの、依然として冷たいまま。

窓の外には、静まり返った冬の札幌の街が広がっている。

(本当に大丈夫なのか……?)

映司はガラティアの顔をちらりと見つめながら、答えの出ない疑問を抱えていた。

あの瞬間、確かに彼女の周りで空気が揺らぎ、不可解な力が解放された。

ポリュペーモスでさえ戸惑い、一瞬怯んだほどの“何か”

それが何なのか、映司にはまだ理解できない。

やがて救急車は、市内の総合病院に到着した。

夜間でも慌ただしく動き回るスタッフの間を抜け、ガラティアは処置室へ運ばれる。

映司は待合スペースに通され、ロビーの椅子に腰を下ろした。

廊下の蛍光灯が、やけに眩しい。

背筋を伸ばした途端、先ほど投げ飛ばされた肩がズキリと痛む。

(骨にヒビでも入ってたりして……いや、今はそれどころじゃない)

映司は、震える手で顔をこすった。

数十分後。

「川上さん」

看護師に名前を呼ばれ、映司はすぐに立ち上がった。

担当の医師は五十代くらいの年配の男性で、疲れた表情を浮かべながらカルテをめくっていた。

「彼女の状態ですが……とりあえず脳に大きな異常は見られません。ただし、いくつか検査結果が出るまで様子を見る必要がありますね」

「脳に異常なし……?」

映司は少しホッとする。

だが、医師は眉をひそめながらカルテを見つめていた。

「……ただ、少し奇妙な点があってね」

「奇妙な点?」

「血圧や心拍数が、人間の通常値よりも極端に低い。でも、命の危険があるほどではなく、むしろ安定しているんです」

「安定……?」

「ええ。むしろ、これは“異常な安定”と言うべきかもしれません」

医師はカルテを閉じ、腕を組んだ。

「まるで深い冬眠状態にあるような、そんな印象を受けるんですよ。衝撃や痛覚刺激にも反応が鈍く、しかし臓器には異常が見られない――医学的に説明がつかないケースです」

映司はゴクリと唾を飲み込んだ。

「……そんなこと、あるんですか?」

「正直、初めて見ましたね」

医師は苦笑しながら続けた。

「もちろん、他にも可能性は考えられます。例えば……何か特殊な体質か、もしくは過去に特別な治療を受けていたとか。ただ、現時点ではどれも推測の域を出ません」

(特殊な体質……?)

映司は、先ほどの“異様な現象”を思い出す。

「……それって、普通の人間とは違うってことですか?」

「うーん……断言はできませんが、少なくとも医学的には“普通”ではないですね」

医師はカルテをめくりながら、ふと映司を見つめた。

「彼女は外国籍の方でしょうか? 身元を確認したいのですが……」

「ええと……身分証明書やパスポートは持っていないみたいで……正直、よくわからないんです」

映司の言葉に、医師は一瞬考え込む。

「そうですか。警察への届け出も考えましたが、本人の意思も確認しないといけませんね」

「警察……」

映司は頭を抱えた。

(もし警察沙汰になれば、彼女の“謎”がさらにこじれることになるかもしれない……)

だが、入院するなら手続きは避けられないのも事実だった。

(でも……仕方がない。彼女の命に関わるなら、きちんと治療を受けさせるべきだ)

待合スペースで数時間が過ぎ、夜が明け始めていた。

映司は何度かうとうとしながらも、肩の痛みのせいで浅い眠りしか取れない。

「あ……」

肩を叩かれ、目を覚ますと、看護師が立っていた。

「ガラティアさん、意識が戻りましたよ」

「本当ですか!?」

映司は急いで立ち上がり、処置室へ向かう。

ベッドの上には、酸素マスクを外したガラティアが横たわり、瞳をかすかに開いていた。。

「ガラティア……大丈夫か?」

「……映司……」

弱々しい声。だが、その碧色の瞳は確かに意識を取り戻していた。

「病院だよ。昨夜、倒れたから救急車で運ばれたんだ。わかる?」

ガラティアは、しばらく天井を見つめたまま沈黙する。

やがて、少し泣きそうな顔をして、小さく頷いた。

「……あの男に襲われて……それから、何かが……おかしくなったの」

「うん。でも、もう安心していい。倒れた君を見て、本当に心配だったんだ」

映司はベッドの脇に腰を下ろし、そっと彼女の手に触れた。

冷たい。

だが、昨夜までの“まるで氷のような”感触とは違い、確かに人肌の温もりが戻りつつあった。

「痛いところは?」

「大丈夫。ただ……すごく、疲れてる……」

「それならいいけど……しばらく入院して治療してもらうかもしれない。でも、どこの国の人かとか、警察にも話さないといけないし……」

「……それは、嫌」

ガラティアは突然、はっきりと首を振った。

「ここに長くいるのはだめ。あの男……ポリュペーモスがまたきっと来る。わたしを、連れ去ろうとする」

「でも、ちゃんと治さないと……」

「だめ……わたしは、病院にいたら……また人を巻き込んでしまう。」

ガラティアは、静かに震えていた。

「……でも……」

映司は言い淀む。

映司の沈黙を察したのか、ガラティアは儚く微笑んだ。

「映司、ありがとう。あなたが助けてくれなかったら、わたしは……もう、この世界にはいなかったかもしれない。でも、これ以上……あなたを巻き込みたくないの」

「そんなこと、関係ない。俺は勝手に助けたいって思ったんだし、危険なら一緒に考える。君を置いて逃げたりしない」

映司の声が、思った以上に張っていた。

(俺は……なんでこんなに必死なんだ?)

不思議なくらい、彼女の存在が大きく感じられる。

「ありがとう……でも……」

彼女がさらに言いかけたその時

「おや、もう起き上がって話せるのかい?」

背後から、医師の声がした。

医師は脈拍を測定しながら、映司に向き直った。

「検査結果はまだ出揃っていないが、一時的な低体温症と何らかのショック状態だったのかもしれない。本人が元気なら、今日中に退院の判断をしてもいいが……どうする?」

「退院、できますか?」

映司が思わず聞き返すと、医師は少し考え込むように首をかしげた。

「うーん……ただね、血液の値にいくつか奇妙な点があるんだ」

「奇妙……?」

「できれば精密検査を受けてほしい。命に関わるレベルじゃないが……」

医師は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「普通の人間とは思えない特徴的な数値なんだよ」

その一言に、映司の心臓が跳ねた。

(“普通の人間とは思えない”……?)

映司が横を見ると、ガラティアは視線を伏せ、どこか切なげな表情を浮かべていた。

「ま、最終的にはご本人の意思次第だ。健康保険の問題や警察への届け出も含め、きちんと話し合おう」

医師はそう言い残し、カルテを手に処置室を出て行った。

ガラティアは、まるで何かを決意したように、病室の天井をじっと見つめている。

「映司……わたし、ここを出たい。今すぐにでも……」

「……わかった。でも、無断じゃまずいし、ちゃんと相談して……」

「ごめんなさい。あなたの言う通りにするべきだってわかるの。でも、わたしには時間がない気がするの。ポリュペーモスが追ってくる。……それに、わたしの中で何かが“呼んでる”の」

「呼んでる……?」

「北海道のどこかに……わたしが行くべき場所がある。それを早く見つけないと、取り返しのつかないことになる気がするの」

彼女の声には、確かな確信が宿っていた。

映司は息を詰める。

「……わかった。とりあえずここを出よう」

そう答えながら、映司は彼女が本当に“この世界の人間”なのかどうか、考えることをやめられなかった。

「退院はおすすめしませんが……本人の強い希望があるなら、責任はそちらで負ってもらう形になります」

医師の言葉は冷静だったが、その背後には「本当に大丈夫なのか?」という疑念がにじんでいた。

映司は強く頷いた。

「はい。俺が責任を持ちます」

ガラティアの方を見ると、彼女も小さく頷いている。

「……ありがとう、映司」

最終的に医師は渋々承諾したものの、「後日、必ず検査を受けに来ること」という条件がついた。

さらに――

「警察にも事情説明が必要だ。何せ、身元不明の外国人女性が倒れていたんだからね」

映司の胃がきゅっと縮まる。

「……それは」

「今すぐとは言わないが、病院としても何かあったときのために正式な記録を残さなければならない。なるべく早く、話を通してくれ」

医師の言葉は至極真っ当だったが、映司の中には強い警戒心が芽生えた。

(もしガラティアが「普通の人間ではない」とバレたら……?)

不安を押し殺しながら、「わかりました」とだけ答える。

金銭面の問題もあった。

「彼女の身元や保険証はないんだよね? そうすると医療費は全額実費になるけど……大丈夫かい?」

映司は財布を確認する。

(当然、足りるはずがない……)

仕方なく、クレジットカードを取り出した。

「なんとか、します」

家賃や学費のやりくりが厳しくなるのはわかっていたが、今はそれよりもガラティアを連れ出すことが最優先だった。

退院手続きを終え、ナース服の女性が「よかったら使って」と貸してくれたスウェットパーカーに、ガラティアはゆっくりと着替えた。

彼女の身体はまだどこか危うく、消えてしまいそうに儚かった。

病院の外に出ると、昼近くになっていた。

映司はそっと彼女に上着を差し出す。

「……寒い?」

「大丈夫。でも、病院の中にいたから、外の空気が余計に冷たく感じるわね」

小柄な体を震わせながら、彼女は映司の上着をぎゅっと胸元に抱く。

映司は肩を痛めていることもあり、タクシーを拾おうと考えた。

だが――

(今の俺の財政状況で、これ以上無駄遣いはキツいな……)

クレジットカードで支払った入院費の額を思い出すと、これ以上の出費は極力避けたい。

とはいえ、地下鉄やバスでの移動もガラティアの体力を考えると心配だ。

「……まあ、距離もそんなにないし、しんどかったらすぐタクシー乗ろう。ごめん」

「いいのよ。歩こう」

二人は歩きながら、これからのことを話し合った。

映司のアパートは、ポリュペーモスの襲撃でドアが壊されてしまった。

「……そもそも、またあそこに戻るのは危険すぎるよな」

ポリュペーモスが再び襲ってくる可能性は高い。

ガラティアも同じ考えのようだった。

「……あのアパートに戻るのは、まずいわよね」

「そうだな。でも泊まる当てもないし……俺は安いビジネスホテルなら思い浮かぶけど、そこも安全かどうか……」

「ごめんなさい。わたしがいなければ、あなたが巻き込まれることはなかったのに」

彼女は申し訳なさそうに俯く。

「いいって。そんなの、いまさら言ってもしょうがない。それに……正直、君がいなくなるのは俺が嫌なんだ」

これが映司の本音だった。

ガラティアは驚いたように映司を見上げる。

「映司……どうしてそこまで……?」

「あ、いや……。まだ君のこと、ほとんど何もわかってないし。だけど、放っておけないんだ」

自分でも驚くほど、素直な言葉が口をついた。

ガラティアは、その瞳を伏せ、切なそうに微笑んだ。

「……ありがとう。でも、わたしは……」

続きは聞けなかった。

突如、通りの向こうで警察のパトカーがサイレンを鳴らしながら走り去っていく。

映司の表情が険しくなる。

(夜中の騒動の件で、警察が動いているのか……?)

もしポリュペーモスがまだ札幌にいるなら、こちらを追っている可能性もある。

「……まずは、しばらくホテルかネットカフェでも見つけて身を潜めよう」

映司はそう提案した。

「そんで……君の言う“行くべき場所”について、手がかりを探してみない?」

ガラティアは小さく頷いた。

「……うん、そうね」

真冬の雪景色ではないとはいえ、まだ路肩には雪解けの水たまりが残り、冷たい風が吹いている。

やはり徒歩で移動するのは厳しいと判断した映司は、結局途中でタクシーを拾うことにした。

「すみません、大通まで」

運転手に告げると、タクシーは静かに走り出す。

窓の外、札幌の街並みが流れていく。

隣に座るガラティアの横顔をちらりと見る。

彼女は、ぼんやりと外の景色を見つめながら、何かを考えているようだった。

(北海道のどこかに、彼女が“呼ばれている場所”がある……)

映司の胸には、静かな緊張が広がっていた。

「何かが始まる。」そんな予感とともに。

午後も遅くなりかけた頃、映司は大通公園近くの古びたビジネスホテルにチェックインした。

狭い部屋に置かれた簡素なベッド、剥げかけた壁紙。

唯一、ユニットバスだけは清潔そうだった。

「ごめん、こんなとこしか空いてなくて……」

「ううん、構わない。すぐに出ることになるかもしれないし……」

ガラティアはそう言ってカーテンを開けた。

夕暮れに染まり始めたすすきの方面の街並みが広がっている。

ビルの谷間に日が沈みかけ、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。

すぐに出ることになるかもしれない。その言葉が、やけに現実的に聞こえた。

映司はフロントで受け取った部屋の鍵をテーブルに置き、肩に湿布を貼り直す。

打撲か捻挫か――とにかく痛みはひかず、じんじんと鈍痛が続いている。

「ちょっと、俺の友達に連絡してみるよ。アパートのドアも修理頼まないとだし、全然連絡してなくて怪しまれてるだろうし……スマホ壊されちゃったしな」

「……そうね」

ガラティアは遠くの景色を見つめたまま、小さく呟く。

彼女はずっと、どこか遠い場所に意識を向けているようだった。

映司はホテルのWi-Fiを使い、タブレットからSNSにアクセスする。

「家のトラブルでしばらく大学行けないかも」

友人のタカシやサークルの先輩にざっと送ると、すぐにメッセージが返ってきた。

「大丈夫か?」

「何かあった?」

当然、みんな心配している。

(まだ詳しくは言えないな……)

映司は最低限の返信だけして、アパートの大家にも修理の件を伝えた。

「映司……わたし、少し休むわね」

振り返ると、ガラティアはベッドの端に腰掛け、静かに目を閉じていた。

その姿はどこか儚く、まるで溶けかけた雪の精のように見えた。

「うん、ゆっくり休んで。俺はちょっとコンビニ行って、飲み物とか食べ物買ってくるよ」

「行ってらっしゃい……」

弱々しく微笑む彼女を見届けて、映司は部屋を出る。

エレベーターに乗っている間、映司の胸には妙な違和感があった。

(このままじゃ、いつポリュペーモスが襲ってくるかわからない……)

ガラティアが「何か」に狙われているのは確かだ。

だが、それはポリュペーモスだけの話なのか?

映司は、エレベーターの小さなモニターに映る自分の姿を見つめながら、ふとそんな疑問を抱いた。

外へ出ると、すっかり夜の気配が濃くなっていた。

街灯とビルの明かりが札幌の夜を彩る。

大通公園にはまだ観光客が多く、雪まつりの余韻が漂っている。

(こうして見ると、いつも通りの街並みなんだけどな……)

人の流れに紛れながら、映司はコンビニへ向かった。

おにぎり、パン、ジュース――

必要最低限のものを手に取り、レジで会計を済ませる。

コンビニを出ようとした、その瞬間。

映司の背筋に、冷たいものが走った。

(……なんだ?)

ガラス越しに、何かの視線を感じた。

ビルの影に、黒いシルエットがある。

じっとこちらを見つめているような気がした。

(気のせい……か?)

映司は振り返り、もう一度確認する。

……しかし、そこにはもう誰もいなかった。

ざわりと背中に悪寒が走る。

(ポリュペーモス……? まさか、もう近くにいるのか?)

映司は思わず足早になり、ホテルの方へ急ぐ。

何度か振り返るが、やはり人影は見当たらない。

ただの勘違いかもしれない。

でも …「そうではない」気がする。

(とにかく、早く戻らなきゃ……)

小走りでホテルへ戻り、階段を駆け上がる。

部屋の前に立ち、鍵を開ける。

そして――

「ガラティア……?」

彼女はベッドに座ったまま、小さく震えていた。

「どうした? 誰か来たのか?」

ガラティアの顔は、真っ青だった。

「わからない……でも、すごく嫌な気配を感じたの。あなたが出ていった後、部屋の前を誰かがうろついているような音がして……」

映司の心臓がドクン、と大きく鳴る。

「やっぱり、つけられてるのか……」

映司は持ってきたコンビニ袋をドアの内側に置き、施錠をしっかり確認した。

直接ドアを叩かれた形跡はない。

だが、それが「安心材料」になるわけではなかった。

ポリュペーモスか、その手下か。

あるいは、まったく別の「何か」か。

(いずれにせよ、ここも安全とは限らない……)

映司は唇を噛みしめた。

「彼女を守る」と決めたのなら、もっと慎重に行動しなければならない。

部屋の隅で小さく震えるガラティアを見つめながら、映司は強く誓った。

(絶対に、もう誰にも奪わせない――)

映司は一旦ほっと息をつき、テーブルに飲食物を並べた。

おにぎり、サンドイッチ、ホットスープ――

「食べなきゃ体力持たないよ。俺も腹減ってたし」

「……ありがとう」

ガラティアはまだ落ち着かない様子だったが、映司が温めたスープを啜るうちに、少しずつ顔色が戻ってくる。

それでも、どこか不安げな表情は消えなかった。

「映司……わたし、このままじゃいけないと思うの」

「ん?」

「この状況を解決するには、もっと“神話”を知らないといけない気がするの」

ガラティアはスプーンを置き、じっと映司を見つめる。

「“エイシスとガラティア”……ギリシャ神話の物語よね」

「うん。それに、ポリュペーモスも出てくるやつだ」

「そう……“一つ目の巨人”と呼ばれる怪物が、わたしを追いかけて、そして……愛したの」

ガラティアは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

「それを、わたしは拒んで逃げた。その先で――映司、あなたと出会った」

映司は思わず息を呑む。

「神話では、“エイシス”っていう少年が登場する。でも、俺の名前は映司……ただの偶然だと思うんだけどな」

そう言いながらも、心の奥底でひっかかるものがある。

(偶然にしては、できすぎている……)

ガラティアは目を閉じ、一瞬考え込むように沈黙する。

「わたし……自分が“人間じゃない”のかもしれないと思うの」

映司の背筋がゾクリとした。

「……どういう意味?」

「神話に出てくる“ニンフ”……あるいは、海に住む精霊。そんな存在なのかもしれないわ」

彼女の言葉には、冗談めいたものは微塵もなかった。

「でも、そうだとしても、今はこうして“現実”の世界にいる。それはどういうことなんだろう?」

「わからない。でも、わたしがここに“呼び戻された”のには、理由があるはずよ。何か目的があって、わたしは姿を得ている」

「……目的?」

ガラティアは小さく頷く。

「その答えを探すために……神話のことをもっと知らなければならない気がするの」

映司はふと思い立ち、手持ちのタブレットを取り出した。

「じゃあ、もう少しネットで詳しく調べてみよう。ガラティアに関する神話のいろんなバージョンとか、関連する伝承とか……」

二人で検索をかけると、ヒットするのは主に古代ギリシャ神話の解説や、美術館の所蔵品、音楽やオペラに関する情報ばかりだった。

北海道との関連など、もちろん見つかるはずもない。

「うーん……なかなか直接的な手がかりはなさそうだな」

「でも……」

ガラティアがふと画面を覗き込む。

「その検索結果を見せて。どうしても気になる一節があるの」

彼女の目が止まったのは、あるマニアックな学術サイトだった。

《欧州の水辺に伝わる妖精伝承と、地球規模の異界伝承との比較》

「……なにこれ?」

映司がリンクを辿ると、膨大なテキストが表示された。

学者が書いた専門的な論文のようだ。

「神話の水の精は、その国ごとに呼び名や性質が違うけれど、共通する部分も多い……とか書いてある」

ガラティアは画面をスクロールしながら、何かを思い出そうとしているようだった。

「こういうの、何か参考になるかも」

映司が論文をざっと眺めると、ある項目に目が留まる。

“世界各地の水系神話における鍵となる場所”

「日本にも、水に関する神話は多いよな。河童とか海神とか……北海道だとアイヌの伝承もあるし」

「アイヌの伝承……アイヌ語で『カムイ』と呼ばれる神々がいるって聞いたことある」

ガラティアは、眉を寄せながら呟く。

「わたしには、あまり関係ないかもしれないけど……でも、この“川”や“湖”にまつわる伝説が気になるわ」

“大いなる水の聖地”

“水と氷の交わる場所”

「北海道で“水と氷の交わる場所”……冬ならどの湖や川でも氷結してるけど、そんな大げさな呼び名がある場所なんて……」

映司はタブレットを弄りつつ地図検索を試みる。

「……屈斜路湖とか摩周湖とか、有名だけど何か神秘的な伝説があったような……」

「屈斜路湖……摩周湖……」

ガラティアは名前を口に出し、目を閉じる。

「……何かぞくりとする響きね」

その声には、微かな震えがあった。

「でも、もっと身近なところにも川はあるわよね。札幌市内だって豊平川が流れているし……」

「まあ、それだけじゃなんとも言えないけどな」

映司は一旦タブレットを置き、肩を回す。

「とりあえず明日、外に出て調べられるところを当たってみない? 本屋や図書館で文献を探すとか、大学の先生に聞くとかさ」

「……それしか手がかりがないなら、やってみる価値はあるわね」

二人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。

手探りでも、進むしかない。

何もしないよりは、ずっといい――

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