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その素顔、他のやつらには知られたくない!

きゅっと唇を結び、目を閉じる俺。


そんな俺を伏し目がちに見つめる矢吹が、ゆっくりと俺に顔を近づけてきて――。



* * *



暦の上では秋だが、まだまだギラギラとした太陽が照らす9月はじめ。


長いようで短かった夏休みは先週で終わり、ムシムシと暑い中2学期が始まった。



そして、今日の6限はホームルーム。


1ヶ月後にある文化祭のために、クラスの出し物についての話し合いだ。



「それでは今回は、先週のホームルームで決まった出し物の劇のキャストや役割を決めたいと思います」



学級委員の2人が前に立って進行する。



俺たちのクラス2年1組がするのは『白雪姫』の劇。


台本が配られたが、主要キャストは白雪姫・王子・魔女・7人の小人くらいで、あとは衣装係や大道具・小道具、照明といった裏方だ。



「この歳で劇っていうのもな〜」


「ああ。おれは、大道具とかでいいかな」



周りの男子からはそんな声が聞こえる。



「そんなの、白雪姫は愛奈で決定じゃん」


「や…やめてよ、希子。私、人前に立つの苦手なんだから〜…」



愛奈ちゃんを推す高田さんに対して、愛奈ちゃんは遠慮がちに顔の前で手を横に振って否定する。



そっか、愛奈ちゃんは劇とかは苦手なのか。


俺も白雪姫役は愛奈ちゃんしかいないと思っていたが、愛奈ちゃんがイヤなら無理にはかわいそう――。



「うわっ。しかも、ラストに白雪姫と王子のキスシーンまである!」



…な!ぬっ!?



おそらく、この教室にいる男子全員が反応したのではないだろうか。



あ…、違った。


矢吹はまったく興味なさそうだから、矢吹以外の男子全員だ。



「お、おれ、やっぱり王子役でもいいかもな〜」


「…ずりーぞ!オレだって、小学生のときは演劇で褒められたことあるんだから、やるならオレが王子かなっ」



さっきまで大道具でいいと言っていたやつらが、いきなりそんなことを言い出してきた。


あいつら…、愛奈ちゃんとのキス狙いか。



「みんな静かにー!キャストや裏方役の振り分けは、公平になるようにくじ引きで決めます」



学級委員からの提案に、クラスの男子たちは鼻息を荒くする。



もし愛奈ちゃんと俺で白雪姫と王子になれなくたって、同じ係りになれば関わる時間も増えるだろうし。


…なんとしてでも、愛奈ちゃんと同じ係りにならなければ!



――そうして決まった。



俺は見事、愛奈ちゃんと同じキャストになることができた!



…しかし。


愛奈ちゃんの役は、まさかの白雪姫に毒リンゴを渡す魔女役。



一方俺は、…なぜだか白雪姫に選ばれてしまった!



「あ、あの〜。白雪姫は、フツー女子がやるものじゃ…」


「なに言ってるの、椎葉くん!今の多様性の時代に、これは男、これは女なんていう考えは古いよ!」



と、学級委員に一蹴されてしまった。



そして、白雪姫の相手となる王子役に選ばれたのは――。


なんと…矢吹!



「えっ、矢吹が王子って大丈夫かよ〜」


「地味ダサ王子なんて聞いたことねーよ」



周りの男子たちは小馬鹿にするように笑っている。



あいつらはなにも知らないから好き勝手言える。


言っておくけど、このクラスの男子の中で一番顔面偏差値高いのは矢吹だからな?



声を大にして言いたいところだが、それが言えないのがもどかしい。



周りと違って、矢吹が王子役をすることに対して俺は違和感はないが…。



「あ、あのぉ…学級委員」


「またどうしたの、椎葉くん」


「となると、俺は矢吹とチューすることに…?」



一番気になるのはそこだった。


俺は、ドギマギしながら返答を待っていた。



すると、なぜだか学級委員が笑い出した。


プププッという声まで漏れている。



「椎葉くん、そんなこと気にしてたの?」


「…ま、まあ」


「なにそれ、ピュアすぎ。一応台本には【ここでキス】とは書いてるけど、こんなの“フリ”に決まってるじゃん」



そうだよな…!


文化祭なんかで、マジでキスするわけねーもんなっ。



こうして、それぞれの役割が決まった。



「じゃあさっそく採寸を測るので、キャストはこっちにきてー!」



そう言って、衣装係のリーダーとして指示を出すのは高田さん。


高田さんは、意外にも手芸が得意なんだとか。



衣装係には、運よく手芸部や裁縫が得意なクラスメイトが集まっていた。


それもあってか、衣装係はこのホームルームでキャストの採寸を行ったあと、次の日からすぐに衣装作りに取り掛かった。



大道具や小道具、その他の係りも文化祭に向けて順調に取り組んでいる。


意外とこのクラス、チームワークがよかった。



キャストたちによる演劇の練習も、監督を中心に実にスムーズ。



こういうときって、大抵はクラスで意見の食い違いが起きて一度は分裂するものだけど。


現に、ギクシャクしているクラスもあるようだ。



しかし、俺たちはこの『白雪姫』の演劇に本気。



というのも、各学年で最優秀賞に選ばれたクラスには景品がある。


それは、3万円のお食事券!



文化祭後の打ち上げの足しにと、俺たち2年1組は虎視眈々と最優秀賞を狙っていた。



「お食事券をゲットできるかできないかは、最終的には白雪姫と王子の2人の演技力にかかってるんだからね!」



監督にそう言われてしまったら、「はい、がんばります」としか言えなくなる。



矢吹はバイトでみんなよりも早く練習を抜ける代わりに、帰ってきたら部屋で俺と2人で練習がしたいと頼んできた。



といっても、王子は白雪姫が毒リンゴを食べて倒れるまで出番はない。


ようやく登場したとしても、俺は棺の中で眠ったままの状態。



これといって絡みは少なく、2人で練習するほどでもなかった。


それでも矢吹は、バイト終わりで疲れているというのに夜遅くまで劇の練習に励んだ。



胸の上で手を組み、棺で眠っているふうの床で寝転ぶ俺に矢吹が近づく。



「『おお、なんと美しい姫だ』」


「…で、ここで小人Cが…『王子様、どうか白雪姫をお助けください!』」



俺は眠ったフリをしながら、片手に持った台本で小人のセリフを担当する。



「『私が姫を…?』」


「小人D『はい!姫を愛する者、つまり王子様の口づけで姫は目覚めることでしょう』。続いて小人Eが『お願いします、王子様!』。最後に小人Gが『どうか…!どうか姫を目覚めさせてください!』」



俺1人で、7人の小人のAからGまで分担するのはなかなか大変だった。


自分で言ってても、わけがわからなくなってくる。



「『話はわかった。私の口づけで姫が目覚めるというのなら――』」


「おし!矢吹、完璧」



と、いつもここで中断して休憩を取る。



体を起こそうとした俺に、矢吹が手を伸ばす。


俺は微笑んで、ありがたくその手を取った。



「それにしても矢吹、実は演技うまいんだな」


「そんなことねぇよ。周りのキャストや、…椎葉が真剣にしてくれるから感情移入できるだけで」


「そりゃ、真剣にもなるよ。監督に俺たちの演技にかかってるなんて言われたら」


「だな」



俺たちは顔を見合わせて笑った。



こうして矢吹と秘密の特訓をするうちに、あっという間に1ヶ月が過ぎた。


季節は、矢吹の長袖姿も違和感のないみんながカーディガンを羽織り始める秋となった。




そして、今日は待ちに待った文化祭。



「「超カワイイ〜♪」」



女子たちのキャッキャッした声を浴びるのは――、この俺。



俺は、高田さんがこの3日徹夜して細部の仕上がりまでこだわったという白雪姫のドレスに身を包んでクラスメイトたちの前に現れた。



矢吹から弟扱いで『かわいい』と言われるのはまだ納得できるが、女子から『カワイイ』と言われるのは少し複雑な気分。


だって、男ならやっぱり『かっこいい』と言われたいから。



「わー!椎葉くん、すごく似合ってる!」



そう言ってやってきたのは、黒いローブをきた魔女役の愛奈ちゃん。



「そ、そうかな。俺がドレスだなんて…変じゃない?」


「そんなことないよ!すっごくかわいくて、もしわたしが男子だったら好きになっちゃうかも」



その瞬間、俺の胸がドキッと鳴った。


す…、好きになっちゃう…!?



ま、まあ、愛奈ちゃんに『かわいい』と言ってもらえるなら、べつにこれでも構わないか。



劇の順番が近づき、衣装に着替え終わったキャストたちはメイクも施されていく。


しかし、ここでトラブル発生。



「そ…!それは…無理だから!」


「どうして?絶対取ったほうがいいって!」


「いや、だからダメなんだって!」



後ろのほうから男女の揉める声が聞こえる。


この声は、矢吹と高田さんだ。



振り返ると、高田さんが矢吹のなにかを取り上げようとしている。



いったいなにをそんな必死になって――。



と思ってよく見ると、なんと高田さんが矢吹の瓶底メガネを外そうとしていた…!!



すでに矢吹は王子役のかっこいい衣装を着て、ヘアスタイルもいい感じに整えられている状態。


このままでは、矢吹がイケメンだということが周りにバレてしまう…!



あのダッサイ瓶底メガネだけが、本当の矢吹の姿を隠す最後の砦だというのに!



「ちょっと…高田さん!矢吹のメガネだけは――」



俺も矢吹を助太刀しに駆け寄ろうとしたが、慣れないドレスのせいで裾を踏んでしまい、情けなく床に転倒してしまった。



「はい、取ったー!」



そんな高田さんの喜びの声が教室内に響く。


見ると、まるで騎馬戦で相手のハチマキを奪い取った勝者かのように、高田さんは矢吹のメガネを空高く掲げる。



「「…あっ」」



その瞬間、教室内にいたクラスメイトたちが一斉に息を呑み、同時に声を漏らした。


俺も含め、この場にいる全員の視線が無防備になった矢吹へと注がれる。



「や…、矢吹くん。その顔――」



だれかがそんな声を発した。


それを皮切りに、女子たちが甲高い悲鳴を上げる。



「ええぇぇぇぇ…!!!!矢吹くん、実はめちゃくちゃイケメン!?」


「なんで隠してたの!?ていうか、隠す必要ある!?」


「ほ、ほんとにお前…矢吹か?」



矢吹の素顔を知って、女子だけでなく男子からもどよめきの声が聞こえる。


そんな中、唯一絶望していたのは俺だった。



…知られてしまった。


矢吹の隠し通してきた本当の姿が。



『矢吹の秘密は俺が全力で守ってみせるから』


――って約束したのに。



「た…たたたた、高田さん!早くメガネ返してっ…」


「なに言ってるの、矢吹くん!こんなイケメンって知って、返すわけないでしょ!」



高田さんからメガネを取り上げようとする矢吹を他のクラスメイトたちが押さえつける。



「なっ、なにすんだよ…お前ら!」


「頼む、矢吹!最優秀賞のためだ…!」


「お願い〜!それまでこのままでいて!」



というのも、最優秀賞に選ばれるには、先生たちの投票を最も多く獲得する必要がある。


各学年の出し物に対し、先生1人につき1票が与えられているが、校長先生だけは5票保持している。



校長先生は、5クラスに1票ずつ投票することもできれば、1つのクラスに5票すべて入れることもできる。


そうなると、校長先生の5票を独占したクラスはかなり優位になる。



そこで鍵となるのが、矢吹の明かされたイケメンだということにクラスメイトたちは気づいた。



実は、校長先生は自他ともに認める“面食い”。


推しのアイドルグループのライブには欠かさず行っていると、前の朝礼のときに熱く語っていた。



そして、最近気になっているのが韓国のダウナー系アイドルグループ。


それこそ、メンバーは矢吹のような雰囲気のやつばかり。



だからこそ、校長先生の5票を一気にかっ攫うため、素顔の矢吹がなんとしてでも必要なのだ。



矢吹も矢吹で、見た目によらず頼まれたら断れないタイプ。



「わ、わかったから…!劇が終わったらすぐにメガネ返してくれるなら」


「もちろん、返す返す!ありがとー!」



こうして、矢吹は隠していた秘密をすべてさらけ出した状態で劇に挑むこととなった。



時間になり、俺たち2年1組は体育館へと向かった。


一旦舞台袖に待機し、劇の始まりを待つ。



「なあ、矢吹」



俺は、周りに聞こえないくらいの声で矢吹に声をかけた。



「どうした?」



振り返った王子役の矢吹は、メイクを施されたこともあってさらにイケメン度合いが増していた。



「その…、よかったのかよ?」


「ああ、素顔のこと?」


「そうそう」



女子に騒がれると困るからと、あれだけ正体を隠していたっていうのに。



「正直、…いやだよ。正体がバレて」


「だよな…。ごめんっ。俺、矢吹を守ってやれなくて…」


「いいって、そんなこと。それに、あのとき椎葉が駆けつけようとしてくれてたのは知ってるから」



あのときの俺…、本当に不甲斐ない。


それに、矢吹の前でマンガみたいなダッセー転け方したし。



「それにしても、よく似合ってるな。矢吹」


「そうか?“王子”ってキャラじゃねぇけど」


「それはたしかに」



俺たちは顔を見合わせて笑い合う。



「ずっと思ってて言えてなかったけど、椎葉だって似合ってるよ。白雪姫の格好」


「なんだよ、お前〜。バカにしてるだろ」


「してねぇよ。椎葉はどちらかというとかわいい顔をしてるから、もともと似合うんだよ」


「ドレスが似合うって言われても、なんもうれしくねーよ」



プイッと顔を背ける俺を見て、矢吹はクスクスと笑う。


そんな俺の肩を矢吹が叩き、振り返ると矢吹の人差し指が俺の頰に刺さった。



「まあまあ怒るなよ。褒めてるんだから」


「だーかーら、褒められても困るって」


「いいじゃん。“オレだけのプリンセス”って気になるから」



そう言って、矢吹はオレに爽やかなウインクをしてみせた。


『オレだけのプリンセス』という言葉の意味が知りたくて聞き返そうとしたが、矢吹は監督に呼ばれていってしまった。




〈お待たせいたしました。次は、2年1組の演劇『白雪姫』です。どうぞお楽しみください〉



照明を落として暗がりの体育館内にアナウンスが響き、ゆっくりとステージの幕が上がった。


いよいよだ。



〈――この国には、たいそう美しい娘がおりました。名前は、白雪姫〉



ナレーションに合わせて、舞台上の俺にスポットライトが当てられる。


白雪姫役の俺を見て、観客席からは笑い声が聞こえた。



「もしかして、あの白雪姫って…椎葉くん?」


「わっ、ほんとだ!かわいい〜!」



奇抜なキャスト設定に、周りは驚いている。



そして劇は、大きなミスもなく順調に進んでいく。



「『まあ!なんて大きくて丸いリンゴなこと!』」


「『ヒッヒッヒ〜。とってもおいしいリンゴだよ。さっそく味見しておくれ』」



白雪姫役の俺は、魔女役の愛奈ちゃんからリンゴを渡される。



「『それじゃあ、お言葉に甘えていただきま――ゔっ…!!」』



俺はリンゴをかじるフリをして、そのままステージの上に倒れた。


ここで一旦、照明が落ちる。



次にステージが照らされたとき、俺はすでに棺の中で眠っている役だった。



「『…うっ、うっ。姫…、どうしてこんなことに』」


「『白雪姫がいなかったら、ボクたちはこれからどうしたらいいというんだ…!」』



棺を囲むようにして、7人の小人役のクラスメイトたちが泣き崩れている。



劇後半は俺はずっと棺の中で横になったままのため、…正直暇。


だから、練習のときもそうだったけど、この時間は度々眠くなってしまう。



〈――そこへ、王子がやってきました〉



そして、ようやく矢吹の登場だ。



「『この森に、たいそう美しい娘がいると聞いてやってきたのだが』」



スポットライトを浴びながらステージに現れた矢吹。


それを見て、一瞬観客席が静まり返った。



棺の中で目をつむっている俺には見えないが、見たこともないイケメンに観客たちがぽかんとしている顔が想像できる。



「えっ…、なにあのイケメン」


「かっこよすぎるっ。…でもあんな人、1組にいた?」



観客席がざわついている。



「まさかとは思うけど…、もしかして…矢吹くん?」


「はっ!?矢吹くん!?そんなわけ――」


「…ほんとだ!言われてみたら、…矢吹くんかも!」



みんなイケメンすぎる矢吹に驚いている。



そうだろ、そうだろ。


地味男子の鎧を剥がした矢吹のかっこよさに恐れおののけ。



俺はずいぶん前から、矢吹の本物の姿を知ってるんだからな。




劇は、王子と小人たちの会話で終盤に差しかかる。


すると、その会話が心地よい子守唄のように聞こえ、とてつもない眠気に襲われた。



な、なんでこんなときにっ…。



だけど昨日の夜、文化祭への緊張からなのか、なかなか寝付けなかったのは確か。


気づいたら夜中の2時を過ぎていて、そういえば寝不足だった。



アドレナリンのおかげなのかここまでなにも感じていなかったが、棺の中でこうして横になっていたら一気に眠たくなってきた。



ダメなのに…。



必死に眠気に抗おうとするが眠ったフリのため動くこともできず、どんどんまぶたが重たくなっていく。



うっすらと遠くのほうに小人のセリフが聞こえる。



「『お願いします、王子様!』」


「『どうか…!どうか姫を目覚めさせてください!』」



しかし、意識がはっきりとせず夢か現か判断できない俺は、目をつむったままセリフの会話を聞き入る。



「『話はわかった。私の口づけで姫が目覚めるというのなら――』」



矢吹の声も聞こえる。



――このセリフ。


ということは、劇はクライマックスを迎えようとしている。



白雪姫役である俺は、王子役の矢吹にキスをされめでたしめでたし。



そう。


キスの“フリ”を――。



そのとき、俺の頬になにかが当たった。


柔らかく、あたたかいもの。



でも、これまでの劇の練習でそんな感触を感じたことは一度もなかった。


そういえば、矢吹との2人での練習のときは、王子が白雪姫にキスする直前で休憩を挟んでいた。



クラスでの通しの練習は、矢吹が俺に顔を近づけてきたくらいだった。



だから、矢吹とはキスシーンをほとんど練習したことがなかったけど――。


さっきの感触は、も…もしかして……キス?



でもでも…!


そうだったとしたら、どうして?なんで俺に?



劇だから?


だけど、そんなことで本当にキスをするか?



だって、キスって好きな人とするものだよな?


頬だったとしても、矢吹がノリや冗談でしてくるとは思えない。



…ということは?



頭の中で何度も何度も自問自答を繰り返すが、答えなんかが出てくるわけがなかった。


こんなの、直接矢吹に聞いてみるしかねぇだろ…!



「なあ!矢吹――」



ついさっきまで眠気は一気に吹っ飛び、俺は勢いよく棺の中から飛び起きた。


そのとき、額に硬いものがぶつかり、脳内にゴンッという鈍い音が響いた。



「…イッテ」



額を押さえて顔を上げると、すぐ目の前には俺と同じように少し顔をしかめながら苦笑いする矢吹の姿が。


その傍らには、ぽかんとした顔で俺を見つめる7人のクラスメイトたちがいる。



ずっと目をつむっていたせいで、突然視界に入った照明にとっさに俺は目を細めた。


そして、額を小突き合わせた俺と矢吹を見て笑いが起こる。



えっと、これはいったいどういう状況で――。



そこではっとした。


自問自答して矢吹のことで頭がいっぱいになってしまっていたが、今はまだ演劇中だったことを思い出す。



「『『し…、白雪姫姫!』』」



白雪姫が練習とは違い、ものすごい勢いで目覚めてきたものだから小人たちはギョッとして驚いていたが、すぐに台本通りのセリフに修正された。


俺もすぐに脳を切り替える。



「『…ま、まあみんな!こんなところに集まって、いったいどうしたの?』」


「『白雪姫が突然倒れてしまって…』」


「『でも、王子様のキスで目が覚めたのです!』」



お、王子様の…キス。



俺はおそるおそる顔を上げた。


そこには、俺を見下ろす矢吹が。



だけど、その表情はとても柔らかく、やさしいまなざしで俺のことを見つめていた。



「『姫、目を覚ましてくださったのですね』」



そう言って矢吹はひざまずき、俺に手を差し伸べる。



何度も練習したシーンのはずなのに、なぜだかこのときばかりは、矢吹のその紳士的な振る舞いに思わずドキッとしてしまった。



その手にそっと手を添えると、一気に矢吹が俺の体を引っ張り上げる。


そして、気づいたときには俺は矢吹の腕の中にいた。



こんな動きは台本にはないし、練習でもしたことがない。


ここは、ただ白雪姫と王子が見つめ合うだけのシーンのはずなのに――。



「『姫。これから先、私があなたをお守りします」』



男の色気ムンムンの矢吹に抱きしめられ、それが矢吹の演技だと頭ではわかっていても、俺は顔が真っ赤になってしまった。



〈こうして白雪姫は王子様と結婚し、小人や森の動物たちといつまでも仲よく幸せに暮らすのでした〉



締めくくりのナレーションが流れ、ステージの幕が完全に降りきるまで、俺は矢吹に抱きしめられながら見つめ合うのだった。




「よかったよー!」



劇が終わった瞬間、舞台袖に控えていたクラスメイトたちから拍手が起こる。


その拍手に包まれながら、俺たちはみんなのもとへと戻った。



「最後、椎葉くんが練習とは違う感じで起きたときはびっくりしたけど!」


「ねっ。本当はもっとゆっくり起き上がるはずが、飛び起きてたよね?」


「あ…あれは、実は棺の中でガチ寝しちゃってたみたいで。たぶん自分でも夢か現実かわかってなくて、それでびっくりして起きたというか…」


「それで、矢吹とデコぶつけてるしな!」



やっぱり、あの『ゴンッ』という鈍い音は、俺と矢吹の額がぶつかった音だったのか。



「椎葉くん、劇本番にガチ寝なんてありえないよっ」



そう言って詰め寄ってきたのは、この劇の監督を務めたクラスメイトの女子。



「す、すみません…」



自分でも反省している。


白雪姫には暇だったシーンとはいえ、まさか本当に寝てしまうだなんて。



「だけどまあ、それで観客席からは笑いが起きたし、お客さんが楽しんでたくれたのならそれはそれでよかったけど」



という監督からの救いの言葉に、俺は胸が軽くなった。



「それに、とくに最後がよかったよ。王子様に抱きしめられて、顔を赤くするところ」


「…あっ、あれは――!」


「矢吹くんも突然アドリブで行動しだすからびっくりしたけど、本当のカップルみたいで思わずうっとりしちゃった!椎葉くん、あの表情どうやったの?チークでも塗った?」



いやいや、そんなわけない。


急に矢吹が抱きしめてくるから、とっさにそういう反応をしてしまっただけで…。




こうして、各学年すべての出し物が終わり、見事2年の最優秀賞クラスに輝いたのは――。



〈2年1組の『白雪姫』です〉



その瞬間、クラスメイトたちから歓声がわき起こった。


ハイタッチを交わしたり、監督なんて感極まって涙まで流している。



俺もそばにいた矢吹と顔を見合わせた。


そうしたら、なんだか胸の中からワァァァァアとなにかがあふれ出してきて――。



「やったな、矢吹!」



そう叫んで、俺は矢吹に飛びついた。


そんな俺を足が床に着く前に矢吹が空中でキャッチする。



劇が終わってすぐにいつもの地味男子モードに戻って見た目もやしな矢吹だけど、体を鍛えていることは知っていたから軽々と飛びついてきて俺を持ち上げる。



「…し、椎葉!引っつきすぎだろ…!」


「今くらいいいじゃん。うれしいんだから」


「でもっ、周りにみんながいるから…」


「関係ねぇってそんなこと!それにほら、周りだって――」



俺は、矢吹に辺りを見回すようにと視線を促す。


俺たちだけではなく、クラスメイトたちも男女関係なく抱き合って喜んでいる。



「俺たちだけじゃないだろ?だから、せっかくだしこうさせてよ」



じゃないと、俺の今のこの喜びをどこに発散すればいいというんだ。


すると、矢吹が気だるげにため息を漏らす。



「…しゃーねぇな。今だけ特別だからな」



面倒くさそうにそう話す矢吹だけど、瓶底メガネの奥の瞳が笑っているのが見えた。




その日の夜。



「「最優秀賞、おめでと〜!!」」



ソフトドリンクの入ったジョッキを持って、乾杯を交わす俺たち。



景品の3万円分のお食事券もゲットし、打ち上げでクラスのみんなと焼肉屋へきていた。


俺はキャストのみんなで集まって座っていて、右には愛奈ちゃん、左には矢吹が座っている。



「それにしても、矢吹くんの王子様…ほんとによかった!」


「そうそう!もともと演技はうまかったし、あとはビジュアルが〜…って思ってたら、蓋開けたらものすごいイケメンで」


「校長先生、大絶賛してたもんね!」



そう。


今回最優秀賞に選ばれたのは、劇の内容が評価されたということもあるが、矢吹の素顔のかっこよさが炸裂し、校長先生が持ち票5票をすべてうちのクラスに入れてくれたというのがデカかった。



文化祭のMVPは、間違いなく矢吹だ。


だから劇以降、クラスメイトたちの矢吹を見る目が変わった。



しかし、俺は知っている。


それは、矢吹が望んでいるわけではないということを。



「矢吹くん、なんで戻っちゃったの?あのままでいいじゃん」


「そうだよ!劇を見た他の学年からも反響大きかったし、せっかくのイケメンなのにもったいないよ〜」



クラスメイトの女子たちが矢吹の周りに集まってくる。


中学のときの矢吹もこんなふうな状況だったのだろうか。



常に女子に集まられていたら俺だって苦手になるかもしれないし、だれにも声をかけられず1人でのんびりしたいと思うかもしれない。


矢吹が地味男子を装う意味にも納得だ。



「椎葉くん、お肉焼けたよ。このお皿に置いてもいいかな?」


「う、うん。ありがとう」



右隣の愛奈ちゃんが俺に話しかけてくれるが、正直今は簡単な受け答えすらもあまりできない。


というのも、左隣に座っていて女子の質問攻めにあう矢吹のことが心配で。



「みんな、そろそろ自分の席に戻ったら?お肉、硬くなっちゃうから」


「お肉はあとで食べるから大丈夫!」



俺が席に戻るように女子たちを促しても、軽く受け流されてしまう。



一度イケメンだとバレてしまったら、今は地味な格好をしていてももはや無意味。


これまで、矢吹に対してとくになんの興味も示さなかった女子たちが、積極的に質問したり連絡先を聞こうとしている。



「今度の日曜日、いっしょに遊びにいかない?」


「え〜、ずるい!あたしも矢吹くんと遊びたいのに〜」



矢吹もやさしいやつだから、女子からのお誘いをはっきりと断れなくて困っている。


だったら、俺がなんとかしなくちゃ…!



「…いや、オレはそういうのは――」


「あれ?もしかして、彼女に怒られるとか?」


「え!矢吹くん、彼女いるの!?」



矢吹を助けようとしたはずなのに、つい俺も同じく聞き返しそうになった。


これまでルームメイトとしていっしょにいたが、彼女がいるような素振りは見受けられなかったから。



でもそういえば、だいぶ前に矢吹が話していたのを思い出した。



『いいんじゃね?無意識に好きな人を目で追うのは、仕方のないことだと思うし。オレもそうだからわかる』



あの言い方からすると、矢吹にはおそらく――。



「彼女はいないけど、好きな人なら…いる」



矢吹のその言葉に、それまで群がったいた女子たちが一瞬静まり返る。



「だ、だから、いろいろと誘ってくれてうれしいんだけど…。オレ…、好きな人以外とは2人きりで遊ぶつもりはないというか。その人に誤解されたらいやだから…」



これが、矢吹なりの最大限の丁寧な断り方なんだと俺は感じた。



イケメンだからと来るもの拒まずではなく、矢吹の中でこの人1人だけと決めた人がいる。


つまり、それ以外はどれだけ矢吹に近づこうとしてもだめなんだ。



矢吹はずっと一途にその人だけのことを想っている。



「だから、…なんかごめん」



そう言って、矢吹は女子たちに対してぎこちなく頭を下げた。


すると、矢吹のその姿をぽかんとしながら見ていた女子たちから声が漏れた。



「…かっこいいっ」


「矢吹くん、一途すぎじゃない!?」


「うわー、矢吹くんに想われてるその人がうらやましい」



断られた女子たちは逆上してヒートアップするのではと心配したが、意外にも落ち着いて矢吹の話を聞いていた。


その人を想う矢吹の想いの強さに圧倒されたというか、矢吹の目にはその人しか映っていないのだと認めざるを得なかったというか。



「矢吹くんは、そのコとは進展なし?」


「進展なしっていうか、その人にはすでに好きな人がいるし。だから、オレは見ているだけでいいから」


「てことはさ、矢吹くんの好きな人って、意外と身近にいるってこと?」



確信を突いた質問に、矢吹は一瞬言葉に詰まった。


それが、すでに答えのようなもの。



「あ〜、図星だ〜!」


「でも、イケメンでも恋に苦労するんだね」



それに対して、矢吹は苦笑いを見せる。



「いいんだよ。もともと両想いになれるとも思ってないから」



女子が苦手なはずの矢吹が、普通に女子と話している。


輪の中にも溶け込んでいるようで、クラスのやつらとあんなふうに笑う矢吹は初めて見る。



前髪をかき上げながら「笑いすぎて涙が出てきた」とか言って、涙を指で払うときに素顔を隠している伊達メガネを取って。



それを見て、なぜだか俺の胸がだれかに鷲づかみにされたようにギュッと痛かった。


矢吹の楽しそうな笑顔を見るたび、どんどん胸が痛く苦しくなった。




焼肉屋での打ち上げを終え、俺たち2年1組はみんなで少し歩いたところにある墓地の前にきていた。


食事中、だれかが「このあと肝試したい!」と言い出して、急遽この墓地ですることになった。



「こんな時期にって感じだけど、肝試し久々だから楽しみ」


「ね!ただもう10月だから、肝試ししなくたってすでに夜は肌寒いけどね」



みんなはなんだかんだ言いながら、ペア決めをする。


そうして俺は、偶然にも矢吹とペアになった。



「…よ、よろしく矢吹」


「おう」



ルールは2人1組ずつのペアで出発し、墓地の一番奥にある祠で折り返して戻ってくるという簡単なもの。


前のペアが帰ってきたら、次のペアが行く。



急遽決まった肝試しのため、コース途中におどかすための準備はなにもされていない。


ペアといっしょに暗い墓地を行って帰ってくるだけだ。



しかし、この墓地にはある噂がある。



それは、暑さが和らぎ涼しい風が吹く季節になる頃――。


真夜中に、墓地の中をさまよう白い着物を着た女の幽霊が目撃されている。



しかも、一度や二度ではない。



この辺りではわりと有名な話で、だからこそこの墓地が肝試しの定番の心霊スポットとなっている。



「椎葉、…大丈夫か?」


「だ、だ、だだだだだ…大丈夫っ」



順番待ちで横並びする矢吹に俺は笑ってみせる。


が、全然大丈夫などではなかった。



というのも、俺はオバケや幽霊がとてつもなく苦手…!


今でも、恐怖で足が小刻みに震えている。



それに、幽霊目撃の噂の時期と今の時期がピッタリだから、余計に俺の中で怖さが増す。



「無理だったら、べつに今からやめても――」


「…ほんとに大丈夫だから!」



だって、周りのやつらは全然ビビってない。


それに、高田さんとペアだった愛奈ちゃんも、さっき「楽しかった〜」なんて言って帰ってきたところだし。



俺だけ、「こわいからやっぱり行きたくない」とはこの場で言えるわけがなかった。



「それにもし途中でなにかあったとしても、矢吹、お前なら助けてくれるもんな…!」



なんてったって、俺のペアは不良でも蹴散らしてしまう最強の矢吹。


そんな矢吹といっしょにまわるなら、オバケなんてこわくない!



「そうだな。椎葉はオレが守るから」



頼り甲斐のある矢吹の言葉に俺は大きくうなずいた。



そして、ついに俺たちに順番がまわってきた。



「椎葉くん、がんばって〜!」


「う…うん!行ってくる!」



ビビっていると悟られないように、俺は満面の笑みで愛奈ちゃんに返事をした。



おどかし役がいるわけでもないから、ただただ墓地をまっすぐに歩いていくだけ。


しかし、進むにつれて徐々にひんやりとした空気に変わっていく。



「あ〜、涼しい」という爽快なものではなく、いやに体にまとわりつくというか。


まるで、冷え切った手で体をなでられているみたいだった。



この嫌な雰囲気をどうにかしたくて、俺は文化祭の話題を振る。



「そ、それにしても今日の文化祭、まさか最優秀賞を取れるとは思わなかったな」



こうしていたら気も紛れる。



「そうだな。でも、みんな演技うまかったし」


「それもあるかもだけど、とにかく矢吹が大絶賛だったじゃん」


「ん〜…。オレ、そんな評価されるようなことしてないと思うけど」


「いやいや、とくに最後!審査員の先生たちみんな言ってたじゃん。本当にキスしたみたいでリアルって――」



と言いかけた俺だったが、あのときのことを思い出したら突然胸がすごい速さでドキドキしてきた。



…そうだ。


本当にキスしたみたいとかじゃなくて、棺の中で眠る俺の頬に柔らかくてあたたかいものが触れた――。



ような気がしただけで、実際はどうだったのだろう。



正直…、あのときの俺はガチ寝していた。


だから、なにが触れたのかもわかっていないし、本当はなにも触れてないのかもしれない。



寝起きで記憶もうろ覚えだし、あのときの真相を知っているのは矢吹だけ。



「…なあ、矢吹。劇の最後、白雪姫にキスするところって、…あの…その。俺の頬にキスしたりなんか――」


「してねぇよ」



俺が言い終わる前に、俺に背中を向けたままの矢吹が言った。


表情はわかるないが、迷いのないその口調に俺はそれ以上は聞けなかった。



やっぱり、そうだよな。


俺の思い過ごしだよな。



…でも、どうしてだろう。


がっかりと少し落ち込んでいる自分がいるのは。



矢吹はすでに俺が怖がりなのをわかっているようで、常に俺の一歩前を歩いてくれる。


その矢吹の頼もしい後ろ姿といったら。



ところがここで、俺は見てはいけないものを見つけてしまう。



…なんと、矢吹の背中の向こう側にある木の上に、白いヒラヒラとしたなにかがなびいていた。


まるで、俺たちを出迎えるようにヒラリヒラリと波打っていて――。



「や…やややややや…矢吹っ」


「…どうした、椎葉?」


「あ、あれ…」


「あれ?」



プルプルと震える手で俺が指さすほうへ矢吹もゆっくりと顔を向ける。


そして、矢吹も見つけてしまったようだ。



「椎葉、もしかしてあれって…」


「…間違いねぇよ!白い着物を着た女の幽霊だ…!!」



自分の声にもさらに驚き、恐怖がピークの俺は失神寸前。


そんな俺の手を矢吹が握った。



と思ったら、突然ものすごい速さで無言で走り出した。


俺は足をもつれさせながら、そのスピードになんとかついていくので必死。



あっという間に祠にたどり着き、一気に折り返した。


さっきの白いヒラヒラを見た木のそばも一目散に通り過ぎ、気づいたときには向こうのほうにクラスメイトたちが待っているのが暗がりでも見えるところまで戻ってきていた。



そこでスタミナが切れ、呼吸を整えるためにその場に座り込む。



「はあ…、はあ…、はあ…」



あんなにガチで走ったのは久々で、深呼吸しても呼吸の乱れが治まらない。



「し…椎葉、大丈夫か?」


「あ…、ああ。…なんとか」



俺に背を向ける矢吹も肩で息をしているのがわかる。



「…それにしても、なんでいきなり?もしかして、ビビる俺のために早く通り過ぎようと――」


「違ぇよ」



暗闇に響く矢吹の低い声。


そして、ぎこちなく振り返った矢吹がこう言った。



「オレも、…幽霊とか苦手なんだよ」



その言葉に、俺はキョトンとする。



「…へ?」


「だ…、だからぁ。オバケとか幽霊とか、そういう類の話とかスポットとかが、めっっちゃくちゃ苦手なんだよ…!」



…ええええーーー!!!!!


ケンカが強くて、不良相手にもバチバチにやっちゃうあの矢吹が――。



まさかの、オバケが苦手…!?



「で、でも、全然そんなふうには…」


「だって、ずっと痩せ我慢してたから」


「…痩せ我慢?なんで?」


「決まってんだろ。怖がってる椎葉に、『実はオレもすっげー怖くて』なんて言えるわけねぇだろ」



そう…だったんだ。


ビビる俺をさらに怖がらせないために、矢吹は平気なフリをしてくれて。



なんだよこいつ、どこまでいいやつなんだよ。



「今だから言うけど、足は震えないように我慢してるけど、本当はずっと歯は震えてるからな」


「…マジ?」


「大マジ。それに、さっきの白いヒラヒラのせいで心臓なんて今でもバックバク」


「いやいや、俺でもさすがに落ち着いてきたっていうのに、それは言いす――」


「ほら」



そう言って、俺の手を取った矢吹が自分の胸へと導いた。


矢吹のドキンドキンという心臓の鼓動が、俺の手のひらを通じて伝わってくる。



「…ほんとだ」


「だから言ったろ」



矢吹は口を尖らし、恥ずかしそうに顔を背ける。


その仕草がなんだかかわいく見えて、矢吹の顔を間近に見つめる俺は思わず頬が赤くなった。



「でも、あんなに強い矢吹が幽霊が苦手だっとは…」


「だって、幽霊にパンチもキックも効かねぇだろ?対処の仕様がねぇものと、どうやってやり合えっていうんだよ」


「それは…たしかに」



とつぶやいて、ここであることに気づいた。


いつの間にか、矢吹の顔から伊達メガネがなくなっていた。



「矢吹、メガネは?」


「ん?…ああ、もしかしたらさっき爆走したときに落としたのかもな」



あのダサい瓶底メガネはなく、思いきり走ったせいで風で前髪がかき上げられ、今の矢吹は本当の姿のダウナー系になっている。



「メガネ落としたこと、全然気づかなかったわ」



そう言って笑う矢吹を見て、また胸がギュッと苦しくなった。


この感覚は、さっきの焼肉屋で矢吹が女子たちといっしょに話しているときと同じだ。



べつに、なに女子にチヤホヤされたんだよとか、そういう嫉妬などではない。


矢吹がクラスメイト、とくに苦手だったはずの女子と仲よくしている姿を見て、よかったなと素直に思った。



ただ、無意識に矢吹は本当の自分が出ていた。


矢吹にとっても、他の人に対して素の自分が出せることはいいことなんだろうけど――。



『だから…。オレの秘密、みんなには内緒な』



矢吹の秘密は、俺だけのものだったのに。



今日でみんなに知られた。


もう、“俺だけ”の矢吹じゃなくなってしまう。



矢吹の笑った顔も、怒った顔も、恥ずかしそうに頰を赤くする顔も、全部全部俺しか知らない矢吹だったのに――。



でも、矢吹がオバケが苦手だということは俺だけの秘密。



矢吹が見せる初めての顔は、全部最初は俺がいい。


もっともっと俺が知らない矢吹を知りたい。



そして、他のやつらには知られたくない。


矢吹は、俺だけの矢吹なんだから。




…って、あれ?


この気持ちって、いったい――。

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