05.やっぱり乙女ゲームに詳しくない者は迷走する
ネネシーは、この世界が乙女ゲームの世界だということを知っている。
乙女ゲームとは、素敵な恋をするヒーローとヒロイン、そしてそれらの恋路を邪魔する悪役令嬢がいる世界の事だ。
――そう前世で誰かが噂をしていた。
ネネシーには前世の記憶がある。
前世でも、今世と同じくネネシーは貧乏だった。
クラスのみんなが当然のように持っている携帯を、前世のネネシーは買ってもらう事が出来なかった。
家には、家族みんなで使うパソコンが一台あるだけだったのだ。
パソコンは家族の皆で使う物だから、誰かが一人で長時間使う事は出来なかったし、履歴が残るから迂闊にアプリも覗けない。
だから学校でみんなが楽しそうに話している乙女ゲームの話を、聞いていないふりをしながら聞くことしかできなかったのだ。
乙女ゲームの世界は噂を聞くだけでも心がときめき、前世のネネシーが憧れる世界だった。
「ヒロインを溺愛するヒーロー」
その言葉ひとつで胸が高鳴った。
クラスの女子達が乙女ゲームの話で盛り上がる度、手元の本を読むふりをしながら聞き耳を立てていたものだ。
「乙女ゲームをやりたいけど出来ない」ではなく、「乙女ゲームなんて興味ないからしない」という風に見せかけていた。
本当はすごくやってみたかったのに。
盛り上がる女子達の話の中で、前世のネネシーは乙女ゲームには外せない条件を知った。
前世の誰かが、「これって基本じゃない?」と話していたことだ。
「ヒロインと言えば髪はピンク一択でしょ。金髪碧眼のヒーローと、紫の髪の悪役令嬢、この三人がいてこそ乙女ゲームを名乗れるってものよ」
「分かる!絶対ヒロインはピンクよね!」
「金髪碧眼のヒーローなんて基本中の基本だし」
「紫の髪を見た瞬間で、悪役令嬢って分かるよね」
そう話していた。
〈ヒロインはピンク色の髪であり、ヒーローは金髪碧眼である。そして悪役令嬢は紫色の髪をしている〉
――これこそが乙女ゲームでは、押さえなければならない基本条件なのだ。
この世界での、こんなに重要な基本情報を思い出したのは、わりと最近の話だ。
最近。――それはネネシーがバイト中に、ヴェイルとサブリナが腕を組んで歩いている所を見た時の事だった。
ピンク色の髪のサブリナと、金髪碧眼のヴェイルを見て、頭の中に「これって基本じゃない?」って誰かが嬉しそうに話す声が頭の中で聞こえたのだ。
それに続いて、前世に聞いた様々な情報が頭の中に蘇ってくる。
そしてその時、ネネシーはこの世界はまさにその乙女ゲームの世界だと気がついてしまった。
「ピンク色の髪」のサブリナと「金髪碧眼」のヴェイル、ヴェイルの婚約者の「紫色の髪」のネネシー。
その色は、前世に聞いた乙女ゲームでは、外す事の出来ない基本条件カラーだった。
ヴェイルは金髪というより薄い黄色の髪色で、碧眼というにはちょっと青が濁っている感じがするが、「大まかに言うと」と条件を付ければ金髪碧眼だ。
サブリナはピンクというより、赤が薄い髪色に見えるが、薄い赤ならピンクと言ってもいい気がする。
「ヒロインは悪役令嬢と友達だったのに」という言葉も聞いた気がするから、幼馴染同士だった自分達は、友達カウントでいいだろう。
――なんという事だ。
ネネシーはいつの間にか、サブリナ主演の乙女ゲームの悪役令嬢になっていたのだ。
その事実に気づいた時、ネネシーは震えた。
乙女ゲームは婚約破棄あってこそ輝く。
「乙女ゲームには婚約破棄が付きもの」なのだ。
――そう誰かが言っていた
ああ…こうして乙女ゲームの世界に生まれ変わるなら、家のパソコンで家族の目に晒されながらでも乙女ゲームをしておくべきだった。
そう悔やまれるが、もうどうしようもない。
婚約破棄は悪役令嬢のネネシーにとって、回避できない運命だと悟った瞬間だった。
――前世の記憶。
前世で聞いた乙女ゲームの話が蘇ると共に、前世のネネシーが携帯欲しさにバイト漬けだった生活も思い出した。
登校前の早朝と放課後に、仕分け作業バイトをしていた。
毎日毎日眠たくて、フラフラしていた日々も思い出す。
途中でプツリと記憶が途切れているのは――あまり記憶の深追いをしない方が良いという事だろう。
『もしこの記憶がもっと早く戻っていたら、ヴェイル様と婚約なんて結ばなかったのに』
前世の記憶が蘇った時、そんな風にネネシーは思った。
だけどもう二人の恋は深まっているように見えたから、乙女ゲームはエンディングを迎える寸前だという事実にも気がついた。
記憶が戻るのが遅過ぎて、気づいた所でどうする事も出来ない所までストーリーは進んでしまっていた。
ネネシーに出来る事は、ヴェイルの誕生日プレゼントに用意してしまった魔剣を無事彼に渡して、その支払いを回避する事くらいの事だった。
本当は支払金をお店に預けておくつもりだったが、それをとどまれた事だけは救いだったと言えるだろう。
――そうやって迎えたのが、今日だった。
婚約破棄は成されてしまった。
悪役令嬢ネネシーの乙女ゲームは、今日エンディングを迎え、悪役令嬢役を降りる事が出来た。
ネネシーは自由になったのだ。
『そう考えると、婚約破棄イベントが終わった今の方が気楽よね。魔剣の支払いが無くなったから、貯めていたお金で新しい部屋だってすぐに契約出来るわ。
それに今日くらいは、どこか宿に泊まってゆっくりしてもいいかもしれない』
そう考えるとなんだか気持ちが軽くなる。
アパートに帰って荷物を手早くまとめる事にする。
サブリナと共同で買った物は置いていき、ネネシーが一人で買った物をカバンに詰めていく。
……部屋のほとんどの物が無くなってしまうが、平民サブリナには貴族ヴェイルがいる。
何なら今日から二人で住んでいけばいい。
荷物をカバンに詰め込むたびに、お金にルーズなサブリナの「幼馴染」という呪縛から解放されていくようで、意外なくらいにネネシーはスッキリとした気分だった。
「今日は少し贅沢しようかしら」
ネネシーは機嫌良く呟いて荷物を持ち上げる。
家財道具一式が入った荷物も、ネネシーにとっては紙のような重さだ。
ネネシーは軽い足取りで、今日の宿を探すために街へ向かった。