03.薄紫色の髪のヒロイン
お昼休みの大食堂の片隅で、ルシールがお弁当を食べていると、目の前の席に元婚約者のハロルドが座った。
「ルシール、話が―」
「すみません、アンルーズ様。私とあなたは既に他人ですので、どうぞ私の事は『オルコット』と家名でお呼びください」
ハロルドの言葉を遮って、ルシールが冷たい声で言葉を返す。
「ルシー……いや、オルコット嬢。そんな言い方しなくてもいいだろう?」
呆れたような目でルシールを見るハロルドに、ルシールは悲しそうな顔を見せて俯く。
『本当に私ったら、どうしてこんな非常識な男なんかを好きだったんだろう。
普通、婚約破棄を突き付けた女に、馴れ馴れしく名前呼びしながら話しかける?
あまり頭がよくない事は知ってたけど、本当に大馬鹿野郎だわ。
私の貴重な時間を無駄遣いしたわ……』
悲しげな顔を見せるルシールに、ハロルドは『言い過ぎたか』と反省して、優しい声色に変えた。
「ごめん。昨日の今日だもんな。気持ちの切り替えができるわけがないよな」
『また馬鹿なことを言い出したわ』
――ルシールの顔が益々悲しみを深める。
ハロルドは申し訳なさそうな顔になって、ルシールに語りかけた。
「あのさ。ルシール、誤解なんだ。あの夏祭りの日、シンディから告白を受けただけで、何も無かったんだよ。僕は婚約者がいる身で、浮気なんてしない。ルシールを裏切ってはいなかったんだよ。ただシンディとは、気持ちを通わせただけなんだ」
『他の女と気持ちを通わせた事が裏切りじゃないなんて、本気で言ってるのかしら?
こんな男を好きだった自分が悲しすぎるわ』
――ルシールの瞳に涙が溜まる。
ルシールの涙に動揺しながらもハロルドは言葉を続ける。
「あ、あのさ……昨日のカフェなんだけど。良いお店を予約してくれていたんだね。僕の誕生日のためにありがとう。
……でさ。昨日ルシール、支払いをしないままに帰っちゃっただろう?
勝手に連れてきちゃったシンディの分は、流石に僕が支払いたいと思ってるけど、予約した分の会計は立て替えているから返してもらっていいかな?」
ハロルドの言葉を聞いた瞬間――ルシールの中で何かが切れた。
『この男、馬鹿な上にたかり野郎か』
ここは痛い目に合わせるしかない。
ルシールは、静かに息を吸い込む。
「アンルーズ様、最低です!シンディとの一夜をなかった事にするおつもりですか?
それに――それに婚約破棄を突きつけた場所のお茶代まで請求してくるなんて……!」
あまりわざとらしくならないくらいの声量で、それでいて小さ過ぎず。――程よい声が出せた。
騎士道精神とは女性を大切に扱う事も指すという。
この件が噂になれば、ハロルドの騎士としての評価のダメージは大きいはずた。
ルシールは嘘は言っていない。
夏祭りの日、関係があったかどうかは知らないが、そんな事はどうでもいいのだ。
『夏祭りの日に二人が帰らなかった』、この事実が全てだ。――判断は観客に任せたらいい。
「ちょ、ちょっと、ルシール。声が――」
「もう話しかけないでください」
ルシールはお弁当箱を片付けて、スッと席を立つ。
そのまま大食堂を出ようと入り口の扉に目を向けた時、一人の男子生徒と目が合った。
深い海を思わせる青い瞳。
とても印象的な目だ。
綺麗な顔をしたその男子は、少し驚いたような顔でルシールを見ている。
「ルシール、ちょっと外で話―」
尚も話しかけてくるハロルドの声に我に返り、これ以上厄介ごとに巻き込まれないよう、ルシールは足早に大食堂を後にした。
こんな薄っぺらいたかり野郎に構ってる暇はない。
スタスタと教室に向かって歩きながら、ルシールは先ほど目が合った男子の事を思い返していた。
彼はルシールと同じクラスの男子生徒だ。
同じ魔法科のSクラスで、彼と私の関係は「最優秀と言われるSクラスの中で最も優秀な者」と、「そのSクラスの中で最も成績の悪い者」というものだ。
更には、「幅広い分野の事業が成功していて莫大な財産を持つと言われる侯爵家の嫡男」と、「極貧生活のギリギリ貴族である男爵家の一人娘」という身分的にも経済的にも対極するところにいる。
――要するに、ルシールに最も遠い人だということだ。
何の接点もないし、実際話した事もない。
そんな彼と目があったのは、私達のやり取りがあまりに醜悪だったからだろう。
彼のように美しく高尚な人は、美麗な物しか見た事がないに違いない。
お茶代をなすりつけ合うような世界は見たこともないだろう。
ルシールは知らず呟く。
「あのレベルくらいの人がヒーローになるべきよね。あれくらいのレベルがあれば、つい課金しちゃうのも納得だわ。……やっぱり乙女ゲームは危険ね」
「えっ!」
どこからか誰かが驚くような声がした。
ルシールの肩がビクッと跳ねる。
『しまった。誰もいないと思って迂闊な事を口に出してしまったわ』
慌ててその場を立ち去ろうとすると、可愛い声に呼び止められた。
「待って!そこのあなた!」
慌てたように呼び止められた声に、思わず振り返る。
そこには可愛い女の子が立っていた。
淡い紫色の、腰まで届く柔らかそうな髪。その髪色よりも少し濃い紫色の大きな瞳が、透明感のある白い肌に映えている。
それはまるで御伽話の妖精を思い起こさせるような女の子だった。
ここが乙女ゲームの世界なら、ヒロインに最も相応しいと思われる人物だ。
『もし彼女がこの世界のヒロインならば、駄作な悪役令嬢の私のエンディングと違って、妖精ヒロインのエンディングは素晴らしいものに違いないわ』
そんな事を考えながら、ルシールは目の前の少女に見惚れた。
自分を見つめるルシールに、妖精ヒロインが遠慮がちに声をかける。
「あの……乙女ゲームって……?」
――ヤバい。
やっぱり聞こえていたようだ。
『乙女ゲームとか課金とか、訳の分からない事を呟く私を、頭のおかしい女だと思ってるのかも』
ルシールはいたたまれない気持ちになる。
こんなに可愛い子に、そんな風に思われるのは流石に辛い。
『何とか誤魔化さなくては。何か、何か気の利いた言葉を――』
ルシールは内心焦れば焦るほど言葉が見つからなかった。