第九話 獅子累々
焼けた肉の匂いと音が空腹を刺激した。肉体と精神のつり合いが取れず気分が悪くなり立ち去ろうとするとムステラが声をかけた。
「言っておくがお前たちがもし脱出出来たとしたら、死ぬのは俺たちなんだぜ。あるわけねぇと思うが万が一ってこともある、目の届くところに居てもらおうか」
振り向きもせずレオンは返す。
「戦うなんて無理だ、一人強い奴がいるんだ……勝てる相手じゃない」
「だから徒党を組むんだろ! こいつらでもいないよりましなはずだ」
「それで何人死ぬと思ってるるんだ! みんなで生き残らなきゃ意味ないだろ! 一人死んだんだ…」
二人はにらみ合う。
「だったらこいつらにも聞いてみようぜ。お前らはどうする! 俺についてくるか、こいつに付くか! どっちか決めろ! こいつに付いてありもしない希望に縋りつくのか? 俺についてきたら肉を食わせてやるぞ」
ノルベジが焼けた肉の匂いにつられて前に出る。焼けた肉を差し出されると躊躇もなく素手で掴んでかぶりつき必死に肉を喉に通す。飢えた肉体に至福の時が訪れると無心になり止まらぬ涙に思考を割く余力すらなく、その姿を責める者はいなかった。
「いいかレオン。もし俺たちで殺し合いになったら脅威なのはお前だけだ。俺に寝首をかかれないよう気を付けるんだな。生き残る道は俺についてくるしかないんだ」
レオンは何か言い返そうと思ったのだが思考がうまくできず体がふらふらする感覚がより強くなった。
「行こうレオン。戦うなんて無茶だよ」
キビアがそう言うと他の二人もうなずいてレオンを支えるように横に立ちムステラ達に背を向けた。しかし狩人の子供が声を上げる。
「ムステラ、逃げられたら困る。何人か殺して言い訳できるようにしとこうよ。自分が死んでこいつらが生き残るなんていやだよ、今度は絶対に殺される側にはなりたくない!」
弓を構える姿を見るとキビアは逃げろと叫んだ、走り出した瞬間には矢は放たれ一呼吸もする間もなく少女の背中を突き破ろうとしたがレオンが矢を掴んでそれを阻止した。狩人たちは矢を止めた姿に驚き追いかけることも出来ずに立ち止まって狼狽えていた。
「やめろ!」
ムステラは叫び、逃げるレオンにつぶやく。
「お前はどれだけ追い詰められてるかわかってねぇ……希望なんかここにはねぇんだ」
しばらく進んで息が切れて止まる。
「レオン…大丈夫だった? 追ってこない?」
「大丈夫、進もう」
「待って、これ」
ミオは剣を差し出した、死んだ子供が持っていた物を拾っていたのだ。
「レオンが持ってた方が良いよ、私は使ったことないから」
お礼を言って受け取り森を進む、頂上はもうすぐだという気持ちが体を持たせていた。夕暮れになって頂上に着いた。レオンは木に登り眼下を見回す、まだギリギリ日の光が照らしてこの時間を逃せば明日の朝まで待たなければならない。注意深くしかしできるだけ早く視線を動かす。山は崖に囲まれて逃げ場などなさそうだった……だがある所で視線は止まった、木々の陰に隠れていたが崖をつなぐ小さな橋のようなものが見え、疲れも吹き飛ぶ高揚が体に漲った。
「橋がある! きっとあそこだよ!」
レオンはそう叫びすぐさま降りると興奮して何度も伝えた。気持ちが急いて走り出そうとした足がもつれレオンは転んでしまった。立ち上がろうとしてもうまく力が入らず視界がだんだんと暗くなっていき皆が心配そうにかける声が遠くなっていく。
「大丈夫……疲れただけだよ…僕は戻って……伝え……きゃ…けない…から……」
もはや睡魔とも呼べないほど強力に意識を闇の中に引きずり込まれレオンはまぶたを閉じた。キビア達はレオンの状態を見ると顔を見合わせて相談しだした。
「まだあそこが脱出場所って決まったわけじゃない、どうする?」
「あいつらのところに行かせるなんて危ないよ。なにされるかわかったもんじゃないし……このまま連れて行こう。みんなでおぶっていけばいいよ」
キビアが背負おうとすると後ろからガサガサと草が揺れる音がして振り返った。そこにはノルベジが立っていておどおどした様子で口を開いた。
「君たちに…ついて行けって言われて……その…それで脱出場所は見つかったの?」
「うん。君は戻って、見つかったって伝えてくれないか」
「えっ! うっうん」
罵倒されるかと思っていたが何も変わらない態度にノルベジは驚きつつ嬉しそうにうなずいた。
「あっ、後これ……一切れだけしかないけど…」
申し訳なさそうに肉を一切れ差し出してノルベジは戻っていった。ミオは剣を使って四等分し一切れの肉を葉っぱに包んでレオンのポケットに入れた。三人は肉を口に含むとほんの少し腹が満たされただけなのに驚くほど力が湧いてくる実感があった。キビアは改めてレオンを背負い気合を入れ歩み始めた。
暗くなっても歩みを止めず、できるだけ橋に近づこうとゆっくりでも三人は進む。真っ暗な山でも月明かりが微かに照らしてくれている。しばらく時間が経った頃に遠くで子供の叫び声が聞こえた。怖くなったがそれでも進み、レオンを交代で背負いながら疲れを分担する。肉体が疲弊しても気力だけは尽きなかった。しかし後ろから微かに狩人の声が聞こえた。
「探せ! ここらにいるはずだ!」
三人は黙って静かに聞き耳を立てた。
「逃げる前に殺せ! 逃げられたら殺されるのは私たちだ!」
そう聞こえると三人は走った。
「やっぱり、殺しに来た」
「このままじゃ見つかっちゃう」
「レオンをどこかに隠そう。僕たちで立ち向かうんだ!」
走っていると枯れ木の根っこにちょうどいいくぼみがあり、隠せそうな空間を見つけた。そこにレオンを入れ草で隠し子供たちは武器を構えた。
「レオンに倣った通りに使えれば勝てる。この暗闇だったら向こうも見えない、不意打ちでも何でも使ってレオンを守ろう」
声は震えていたが決心はついていた、勇ましく向かっていく彼らは希望に満ち、誰かのために戦う勇気を初めて持ったのだ。彼らは幸福にすら感じていた、それが良い事なのかはどうでもよくそれを感じられること自体が初めてのことで肉体と精神は感情のままに動くことを望みその通りにしただけなのだ。
目が覚めると日の光が草の間から差し込んでいた、レオンは驚いて飛び起きると自分が木の中にいる事に気が付き草をどけて外に飛び出して状況を確認する。どこにも三人の姿が見えずたまらなく不安を掻き立て、どうして自分を置いて行ったのか訳も分からず叫んだ。
「みんなーーー!」
どこからも返事はなく自分の声が山に消えるとレオンは無我夢中で走った……三人がどこに行ったのか方向も分からないのに、名前を叫びながら山を走った。
「おい…こっちに……来い…!」
微かに声が返ってきた、聞き覚えのある声に安堵することも出来ずそこに着くと子供たちが一人を残して倒れていた。ピクリとも動かず……その状態がどんなものかレオンは知っていた。ただ一人残ったムステラが首元を抑えながら木にもたれていた。近づいてよく見ると首を食いちぎられ出血していた、深くはないが治療できる道具もない。
「どうして……こんな…ことに……どうして」
ムステラは冷静に話す。
「来る途中に……お前のとこの肉につられた奴……そいつの死体があった。獣にやられたんだ、俺たちが殺した獣の子供だよ、そいつが襲った。それをお前らに殺されたと勘違いしたんだよ。それで殺し合いになった。俺の制止も聞かずにな」
「そんな……」
「獣の子供はずっと様子をうかがってたんだ、俺たち全員を殺す機会を……賢い奴だった…バカ共の戦いが終わりかけた直前に現れて生き残った一人を食い殺して俺にまで襲い掛かってきやがった」
ムステラは視線を外して何かを見た、レオンもその方向に目をやると獣の死体が転がっていてそれは崖下で折れたナイフを目に刺し撃退した獣だった。
「お前…何してたんだ? 殺し合いはすぐ終わったぞ」
「僕は…昨日、疲れて…気絶して……それから」
ムステラはレオンを殴った、弱々しく怒りだけが込められた拳に痛みはなかった。
「なに、呆けてんだ! ほんとに死なねぇと思ってたのか! このくそボケがぁ!」
レオンは言葉を詰まらせて涙をこぼした。
「この先に…橋があるんだ! そこが脱出場所のはずなんだ! もうちょっとでみんな脱出できたのに……」
「連れていけ…現実を見せてやる」
レオンはムステラを背負い走った、時間はそうかからなかった…そう遠くない距離なのもあったが何より歩幅を合わせる必要がないのが理由だった。吊り橋は思っていたよりボロボロで長年整備されていないことは一目瞭然だった。
「こんなところから脱出するつもりだったのか…そこで見てろ! 動くんじゃねぇぞ」
「いっ…一緒に行けばいいじゃないか!」
「見てろって言ったんだ!」
ムステラの気迫にレオンは黙って固まった。
「人を助けたいなら悪魔どもを殺せ、俺の代わりに奴らを殺せ……俺たちの事を覚えてられるのはお前だけだ……いなかったことにするな」
「ムステラ…」
一歩一歩弱った体を引きずるように渡っていくムステラを落ちないでくれと願い、震える心と反対に強張る肉体に引き裂かれそうになりながらも見守った。しかし進むごとに橋のロープは悲鳴を上げるように音を立て、半分も進んだ頃……ついにはぷつりと切れてムステラは宙に浮いた。
谷底に落ちていく姿がはっきりと目に映る、破裂音が谷底に響き静寂が訪れるとレオンの叫びが谷にこだました。レオンは現実に嘲笑され、無能だと罵られるように残ったものは何もない。土埃と枯葉が風に舞って咎めるようにレオンにぶつかる。
「ムステラ…死んだ……みんな」
レオンは翌日になって元の場所に戻って来た。服は土にまみれ、血と土に汚れた剣を握りしめて大人たちの前に姿を現した。彼らは拍手喝采でレオンを出迎え褒めたたえる。
「教授の言った通り君だけが生き残った。素晴らしい! 良ければ今回の事で学んだことを教えてくれないか? 君はもう自由だが、せっかく君のために子供たちを生贄にしたんだそれぐらいは教えてくれたっていいだろう」
レオンは顔を上げ、集まった人々を見回し段々と呼吸に力が入る。大人の声など耳に入らず目の前の人間は別の生き物のように見え、もはや人とは思えなかった。一人の男がレオンの近づくと肩に向かって手を伸ばした、レオンは飛び上がり大人の背面に着地すると男の首はゆっくりと血を噴き出しながら床に落ちた。
怒りと共に剣を振るう瞳には涙が流れていた。大人は逃げまどい護衛を呼びながら次々と切られていく。廊下は真っ赤に染まりばつんと照明の明かりが落ちた。
暗闇の中で護衛が現れ、レオンを探すが姿は見当たらず警戒しながら辺りに散開する。一人ががしゃんと剣につまづき、その横に転がった死体を確認しようとしゃがむ。死体を見れば腹がバッサリと割れ血だまりができて男は直視できず顔をそむけたが突然かっと首が熱くなって熱いものが首から流れ出た、恐る恐る男が確認すると死体の腹から手が伸びて首にナイフを突き刺していた。
男は絶命する前に見た、もぞもぞと腹の中から這いだしてくる怪物になった少年を。
「絶対に許さない」
レオンを止められるものはもうその館には居なかった。教授もしっぽの男もどこにもおらず姿を消していた。
全員殺し終えるとその目はすっかりすさんで疲れ切っていた。全身に浴びた血を洗い流すために見つけたシャワー室に足を運ぶと脱衣所に服と手紙が置かれていることに気付いた、差出人は教授だった。
『レオン、君のように強い子の存在は私にとっての天啓に等しい事だ。きっとその強さで私を追い、足掻くのだろう。君が困難に抗い立ち向かう様が私の心を沸き立たせ、存在すらしないと思っていた感情が……私を恍惚とさせ体を静まらせない。この沸き立つ感覚をもっと感じさせてくれ。何度でも立ち上がる様を見せてくれ……そのためなら私は何もかも犠牲にしよう、君に堕ちてもらうために……苦痛の底まで』
鏡には穢れた自分が映っていた。血まみれの姿は人ではなく怪物だった……自分はどこに行ったのだろう? レオンは考えたが失ったものは戻らないことを悟るばかりだった。
レオンは身支度を整え剣を背負い館を出る。拾った手帳に犠牲者の子の名を書き記しけっして忘れないように刻み付けて……暗くなった瞳を携えたまま地図に記された街に通じる道を行く。