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「僕、桜の気に障るようなこと何かしたかな?(私のことおちょくってんの? ふーん、そんなに死にたいわけ?)」
勝の質問をそっくりそのまま再生し、ちょこんと可愛く首を傾げて見せる桜。そして、自らの台詞をそのままリピートされて、背筋に冷汗の伝う勝。時限式の爆弾を何とかしようとあらん限りの勇気を吐き出し爆弾に手を出した結果、点滅速度が倍速してびっくり仰天! なまさにそんな心境で勝はもはや笑うしかない。
「え、えへへへへ……」
「なにがおかしいの?(一生笑えなくすんぞ、こら)」
――開き直ることも許されはしなかった。
熟練の職人しか持ち得ない感覚が如く、勝にしか聞き取れない桜の言葉の副音声。それは言葉自身が意味を持つのではなく、これまで勝が経験してきた惨事から得た教訓というものだ。不良殺し、などという物騒な通り名を持つ女子高生が過度な自己中であればその良心を問うのもおこがましい。野に解き放たれたバーサーカーに世の道徳を説く馬鹿がどこにいる。
平穏。そう。その一言を尊重するならば、決してしないと勝が人知れず胸の内で固く誓って早数年。
――無事でいたいなら、決して桜の機嫌を損なうことなかれ。その誓いが今まさに勝の命運を道連れに崩れ去ろうとしているこんな時に、なぜ自分はその理由も分からずベッドの上で正座の格好を取っているのだろうか、などとは考えないようにする勝だった。免罪事件の被疑者の気持ちが今の勝には痛いほど理解できた。
巨体と形容しても過言でない体を委縮させ、ベッドの上で静かに正座へシフトする病み上がりの怪我人は見事に笑顔でスルーされ、桜は床を蹴って椅子ごと勝に接近した。床の上を椅子が滑り、ベッドの横っぱらにぶつかり動きを止める。笑顔を作る頬がかすかに痙攣しているのは、ただの顔の筋肉の引きつり過ぎが原因なのだとしたら、未だ笑顔の続行されるその真意はなんなのか。今まさに、その答えが出ようとしていた。
まるで、この紋所が目に入らぬかと言いたげに勝の目の前に突き出されたのは、最新機種のオニューの携帯電話だった。五年もの歳月をかけ、免許皆伝の引き換えに手にしたそれはまさに、桜の汗と涙と努力の結晶であることは、とりあえず勝も理解している。何の話かと言えば、桜の特技が拳法であるというここだけの話だ。
とにかく、こちらにおわす御方をどなたと心得るうんぬんと聞いてもいないのに勝手に語りだす便利な従者もいない以上、御老公自ら素性を名乗ってもらうほか術はないのだが、桜は何も言わず相変わらずにこにことピンクのコーティングがまばゆい便利アイテムを見せびらかすばかりで、話は前に進まない。それが何のフリかも分からないまま、勝にできることと言えば、悪役よろしく「ははー」とその場に控えるのみだった。
「なぁに土下座なんかして、変な勝。それより、見てよこれ。ねえ。見ろって(ぶっ殺されたくなかったら)」
副音声かっこ本性かっこ殺気がこぼれ落ちるのを感知しながら、顔を上げるしかない哀れな勝の眼前に突き出されたディスプレイ。目をパチクリしつつメール受信画面に浮かんだ文字群は、件名から喧嘩を売った代物だった。
自称女の子→性別メス(分類・猛獣)なあなたへ。――以下省略。
「あんたよね?」
矢継ぎ早に紡がれる理不尽な台詞に、勝の背筋が凍りつく。つまり、その一言が今現在の状況の元凶であり、勘違いという名の生贄に自分が捧げられていることを知った勝は――。
「……はい?」
とにかく、聞き返してみた。
「このふざけたメールを昨日の晩私に送りつけてきたのはあんたよね。そうよね。だって、私のメアドまだあんたにしか教えてないんだから、間違えようがないわ。あ・ん・た・よ・ね?」
つまり。昨日買ってもらったばかりのお気に入り、使い慣れない携帯電話に舞い込んできた受信メール第一号が不幸にも迷惑メールだったが、不幸にもメールの送り方もよく分からない桜はそのメールの送り主が、唯一自分の携帯電話のメールアドレスを知っている勝であると不幸にも勘違いしての、不幸づくしのサプライズ――とようやく全ての事情を理解した勝は。
「ま、待っ――」
「嘘つけっ!」
――つく暇もなかった。
有無を言わさず繰り出されるラリアートは、正論に聞く耳持たず空を切る。反射的に頭を抱え土下座の形で身を伏せた勝は、致命の一撃の回避に無様に成功した。だが、次の瞬間勝が気付いた時には、もう桜は勝の上に馬乗りにのしかかり、マウントポジションを奪っていた。
下腹部に密着する人肌の感触と温もり。拳を鳴らす仕草。至近距離で香る芳香。乾いた音。火傷しそうなほど注がれる熱を帯びた瞳。冷酷に歪む唇。
幸福と絶望の混同したシチュエーションの中で、まるで時間の止まったような錯覚の支配に呑まれながら、半開きの窓から入り込んだ生暖かな風に揺れる桜の黒髪が、その細い肩先でたなびき、錯覚の支配を解き解す。そして、瞬きした直後、桜の拳が音もなく眼前に迫り――。
間の抜けた着信音が、錯覚よりも強固に部屋の中の時間をフリーズさせた。