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無機質に白い天井。消灯中の電灯。一年ほぼ毎日目覚めの直後に見ている景色は、強烈な既視感を勝に与え、やがて、それは意識がはっきりするとともに確信へと進化した。そして、それゆえに生じる違和感。それは、目覚める前までの記憶、もっと言うなら眠りにつくまでの記憶が欠落していることだ。おかしなことに、自分の意思でベッドに入り眠りについた覚えがない。更に具体化すると、おかしなことに記念すべき高校生活初日の行事である入学式に出た覚えもない。だが、晴れやかな気分で家を出た自分は確かに記憶の中におり、現に勝は今自室のベッドの上で、何の面白みもない背景色を拝んでいる。これは一体どういうことだろう?
茫然自失はせずとも呆然とせずにはいられない。一体自分の身に何が起きたのか、まさかあの朝玄関を出た瞬間、タイムリープでもして時をかける少年にでもなってしまったのか、などと寝ぼけた考えを寝ぼけ眼で寝ぼけた頭の中で転がしていると――。
「勝? 目が覚めた?」
聞き覚えのある声が横から聞こえ、勝は仰向けに寝たまま、首だけを声のした方向へ傾けた。
移した視線の先には幼馴染の最高の笑顔があった。元来の彼女の気質、性格を考慮すれば気持ち悪いぐらい気持のいい爽やかな笑顔。なぜ、こんなところに彼女がいるのかという新たな疑問とともに芽生えたのは、強烈なデジャビュだった。
三秒後、全てを思い出した勝は、残されたダメージまでをも思い出すこととなった。
「さ、桜……? っあぁあ……う゛えぇ……」
「クス。起きて早々人の顔見てあからさまに苦しみ出すなんて、変な勝ね」
ラリアートの際に受けた喉への致命傷が勝の意識を刈り取り、勢いそのまま後方へ押し倒された結果生じた、コンクリートの道路に後頭部を殴打の駄目押し。常人ならば天国に旅立ってもおかしくはないその不意打ちを食らいながら、こうして無事生きていられるのも、それはひとえに勝のタフネスの賜物だ。この場合の無事の意味は、彼女の襲撃を受けておいてこの程度の後遺症で済んだ奇跡に対する感謝と敬意に他ならない。
「まったく、勝ったらぁ。せっかく人が手加減したげたのにあの程度のことでのびちゃうなんて、ホントに男の子のくせに繊細なんだからぁ。え? 何で私があんたの部屋にいるのって? やだなあ、私があの状況で知らん振りするような薄情な人間に見える? あんたが失神してから六時間つきっきりで看病してたのよ? え? じゃあ、学校はどうしたのって? もちろん、行ってないわよ? そんな気にしないでよ、楽しみにしてた記念すべき高校デビューのしょっぱなから躓いたからって、私はなにも気になんてしてないよ?(コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスブッコロスコロスブッコロス……)」
気持ち悪いぐらい気持のいい笑顔を保ったまま、一人でに棒読みで展開される状況説明に私情解説。その副音声を読み取れるのは、幼馴染ならではの特技ではあるが、この特技を身に着けておいてよかったと思えた試しは一度としてない。古来より生き物が生活環境の変化に順応するためその体の造りを変化させてきたように、その特技が身に着いたのも防衛本能とか生存本能とかその辺が陣頭指揮をとっているに違いない。幼馴染の女の子、もとい、彼女、もとい、宮崎桜とはそれほど勝にとって良くも悪くも生活環境の中枢を担っている人物なのだ。注訳しておくと、良い点は恋愛感情。悪い点は今まさに展開中だった。
「さ、桜……さん?」
「んー? 私怒ってなんかないよ?」
椅子に座りながら、足組みをして、にこにこと笑顔の桜。仲のいい友達とのおしゃべりの中で見せる無邪気な笑顔と同じものをよこされながら、勝はもはやその笑顔に見惚れる余裕も持ち合わせてはいなかった。
(思い出せ、思い出せ、思い出せ……!)
染みついた奴隷根性が、勝に全力で記憶の検索を命令する。いつ、どこで、何をして、桜の機嫌を損ねてしまったのか。なぜ今こんなことになっているのか。好きな女子と密室で二人きりだというのに、相手が桜では別な意味でドキドキすることしかできない不幸、などに思いを馳せる余裕もないのは幸か不幸か、結果、活路が開くことがないのは、勝が無実であることの証明にはなるが、何の救いにもなりはしない。
部屋にこもる時を刻む時計の秒針の音が、気まずい空気を助長する。そして――。
「――勝? 私に何か言うことないの?」
笑顔で時限爆弾の起爆装置に触れる言葉を吐き出す桜。に、ごくりと生唾を飲み込んで、勝は――。
「ぼ、僕……桜の気に障るようなこと、なにか――したかな」
――言った。