1ー新居
一ノ瀬紗知は、これから始まる新しい生活のふわふわとした期待感の中にあった。
結婚して今年で二年目になる。転勤族である夫の仕事のことは、結婚前から理解している。夫の転勤に妻として付いていくのは当然のこと。
穏やかな日差しが気持ちのよい春のことだった。
「今日から離れに住まわせていただきます、一ノ瀬といいます。夫婦共々、よろしくお願いします」
一ノ瀬達也とその妻の紗知は丁寧に頭をさげた。
これに、母屋に住む大家が愛想よく応える。五十代前半くらいの、柔和な顔つきをした男だ。
「こちらこそ。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます。それにしても、立派なお屋敷ですねぇ」
隣に並ぶ夫の言葉につられて、紗知は軽く見回す。
大家が住む母屋は屋敷という表現に相応しく、昭和の代に建てられた大きな日本家屋といった感じだ。外には島口という大家の名字の表札がかかっている。
広い玄関内の横の壁には絵画が飾られている。天井は吹き抜けになっており、光を取り入れる窓のおかげで玄関の中は明るくなっているようだ。
「いえいえ。ただ古いだけの家ですよ」
「お庭も広くて、ツツジの花があざやかで見事ですね。さぞ色々手をかけておられるのでしょう」
「はは。そう言っていただけるとうちの家内が喜びます。家内はガーデニングが趣味でして。なにやら一生懸命やってるようですが、いろんな道具や土やら肥料やらで、物置小屋は一杯なんですよ」
やはり褒められてまんざらでもなかったらしく、大家の舌は滑らかに動いた。
そんなやりとりが耳に入ったのか、奥から大家の妻らしき中年女性が顔を覗かせた。
達也と紗知は慌てて小さく会釈する。
「あなた、そんなところで立ち話してないで、上がってもらったらどう?」
「いえ、挨拶に伺っただけですので。実はまだ引っ越しの荷物が片づいてないんです。明日からすぐ仕事なので、これで失礼させていただきます」
達也が失礼のないようにと丁重に断る。
「そうですか。何か手伝うことがあれば」
「ありがとうございます。でも妻と二人で今日中にはなんとか終わると思います」
離れに戻り、居間で引っ越しの荷物を片づける作業に入る。
母屋よりも一回り小さい造りの離れは平屋建てで、夫婦二人暮らしには充分な広さだった。
玄関口からは母屋の側面と、庭のツツジがよく見えた。赤と紫と白のツツジが目に眩しい。その奥にはコンクリート塀がそびえ、ぐるりと敷地を囲んでいる。
「大家さんが感じのいい人で良かったわ」
「そうだな。あの夫婦の他に息子が一人とお婆ちゃんが住んでいるらしいよ」
「ふぅん。それならお婆ちゃんにもご挨拶しといた方が良かったんじゃない?」
「いずれ会った時でいいんじゃないか。こっちはちゃんと挨拶に出向いたんだし」
そうね、と答え、紗知は空になった段ボールをたたみ、開けてない段ボールに手を伸ばす。
「ラッキーだったよなぁ。すぐそばの母屋に大家さんが住んでいるとはいえ、こんな離れの一軒家を安く借りられるなんて、タイミングが良かったのかな」
「賃貸アパートとたいした変わらないもの。早い者勝ちよ」
段ボールの中の物をしまおうと、紗知は居間を出て、廊下にある収納棚を開けた。
「あら? 前の人が忘れていったのかしら」
「どうした?」
達也が居間から顔を出す。
「こんなところにラジカセが入ってたの」
どれ、と達也が覗き込む。
「へぇー。ずいぶん年代物だね」
両手のひらに乗るサイズの古そうなラジカセだった。
「こういうの、どうしたらいいのかしら」
「どうもこうも。いらないから置いてったんだろ」
達也はそう言うが、紗知は、うーん、と眉を寄せた。
「でも、一応処分してもいいかどうか、大家さんに訊いてみてよ」
達也は面倒臭そうに顔をしかめた。
「じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい」
翌朝、達也は新しい職場へ出勤して行った。
ラジカセを処分しても問題ないかどうか確認するのは、結局紗知がすることになった。
「おはようございます。朝からすみません」
呼び鈴を鳴らすと、大家が玄関口から顔を出した。
「はい、おはようございます。何かありましたか」
「昨日荷物を片づけていたら、棚からこれが出てきたんです」
そう言い、持ってきたラジカセを見せた。
「もしかしたら前に住んでた方が忘れていかれたのかと思いまして」
大家の柔和な顔が、ほんの少し強張ったような気がした。
「あのぅ、こちらで処分してしまっても大丈夫でしょうか?」
紗知がそう言うと、大家はすぐに柔和な顔を取り戻し、ラジカセから視線を上げた。
「ああ、えーと、おそらく前の住人のものでしょう。わざわざすいません。私が処分しておきましょう」
いえいえ、と紗知は胸のあたりで片手をパタパタと動かした。
「大丈夫ですよ。たいした手間ではないので、買い物に出る時にでもついでに捨ててきます」
「そうですか。それは申し訳ない」
お昼を過ぎてから買い物に出かけ、帰宅した時のことだった。
「ん……?」
買い物に行くついでにごみ捨て場に捨ててきたはずのラジカセが、玄関内の上がり框に置かれていた。
「あれ? 私、捨ててきたよね……」
その場でよく見てみたが、何度見てもやはり自分が捨ててきたラジカセだった。
玄関は施錠して出かけたはずだ。夫は仕事だし、これはどういうことだろう。
その晩、紗知は帰宅した達也にラジカセのことを話した。
「買い物ついでにラジカセを捨ててきたはずなんだけど、帰ってきたら玄関にあったのよ」
「何が」
「ラジカセよ」
「は? 何言ってんだよ」
達也はネクタイをはずしながら、だるそうにソファーに座る。
「私だってわけわかんないわよ。でも、私は本当に捨ててきたはずなのよ」
「鍵かけて出たんだろ? 何かと勘違いしてるんじゃないのか?」
「勘違い~?」
紗知がムッとして抗議の声をあげる。
「じゃあ何で帰ってきたら捨ててきたラジカセが玄関にあるんだよ」
「だから、私もわかんないのよ」
「そのラジカセは今どこにある?」
「とりあえず、玄関の隅に置いてあるわ」
達也は少し考えるように押し黙った。
「……きっと何かと勘違いしたんだろ。また明日捨ててくればいいんじゃないか」
「勘違いじゃないわよ――」
「いいかげんにしてくれ。今日は新しい職場で色々疲れてるんだよ」
達也の苛々した声が居間に響いた。
「でも……」
「先に風呂入る」
達也は立ち上がり、さっさと脱衣所へいってしまった。