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頑張ります
人生とは道である、信号や標識も無い。
ただ、笹舟の如く漂うのだ。
毎朝規則正しく起床し、鏡と向かい合い、顎髭を気遣いながら未来を憂う。
切った筈のアラームがスヌーズで鳴り響く。
植物の様に根を張って生きなければならない現代は、男にとって、少しだけ生きづらい。
梅雨らしい蒸し暑い陽の中、訪ねてくる営業マンを素気無く断る。
事務所のトイレで鏡と向かい合い、過去を憂う。
男の父は厳格な男だった、だが繊細すぎた。
あまりにもお人よしだった。
会社を潰してまで人を信じるべきではなかった。
男は呆れていたが、愛に生きた父を尊敬していた。
人は指針を持ち、我劣らじと進む事もできる。
だが、男には何もなかった。
世を厭い。
ただ、どうでも良いと言った風に、筒がなく暮らしていた。
面白くもつまらなくも無い人生。
ハズレのB級映画を借りてしまった様な感覚であり。
ふてくされ、視聴を止める様なものでも無く。
ただ、記憶にも残らず、緩やかに死んでいく作品と一緒なのだ。
だが、見つけた。
使命を見つけたのだ。
迷宮へ行こう。
彼は死んだ、居るのは異世界ジャンキーの彼だけ。
迷宮へ行こう。
その世界は何をしても良いよ。
全てが貴方を肯定する。
迷宮へ行こう。
迷宮へ。
-1-
起きろ、と脳内で言われた気がした。
ぼんやりと陶土の様な、温かさに包まれている。
まどろみの中、遠くで誰かが佇んでいた。
シルエットが黒く塗り潰されていて、良く分からない。
けどアレには愛おしさのような物を感じた。
あれは?
そう疑問を抱いた瞬間。
突然、スピーカーの目盛を間違えたような大きい音で目覚めた。
パニックになりかけたが、目を開けた時には、はっきりと意識が覚醒していた。
瞼を開けると、男であろう人間が私の顔を覗き込んでいた。
少し鼻につく、すえた匂い。
朝のゴミ収集車が横を通ったみたいな匂い。
何故だか、大学の同期や部下を思い出した。
「オメェ、…大丈夫だが?」
日に焼けた小麦色の肌と、焼けていない部分が目立つ、中年らしき男。
少し仕立ての悪い服を着ており、素材は分からない。
糸がほつれているようで、あまり裕福な人間では無さそうだ。
悪意がありそうな表情ではなく、どうやら、私を気遣っている様だった。
そして、不思議なことに、男は少し訛っていた。
しかし、日本語で喋っているように聞こえるのだが、口の動きと音が一致していない。
僅かばかりの違和感が生じる。
「喋られねんだが?」
考えを巡らせていた私は、反応が遅れてしまい、相手を不審がらせてしまった。
「申し訳ありません。あまり現状を把握出来ておらず…」
男は一瞬困惑した後。
「何言ってんだが。アンタ、探索者志望の冒険者だべ?」
私は男の言ってる事が理解出来なかったが、これ以上不信感を高めないよう相槌を打つ。
出来るだけ多くの情報を引き出せるように、愛想良く接する。
「そうなんですよ——」
そう続けると、男は私の姿をまじまじと見、会話を続けた。
こんな所で何をしているのか、武器も携えず大丈夫なのか。
職務質問のように喋っている中、ふと、思い出す。
遺跡に入ったまでは記憶が残っているが、その後の記憶がない。
何か大切な物を失った気がする。
大切な物と言っても、財布やスマートフォンの類で無い事はなぜか分かる。
家族でもないだろう。
しかし、数分ほど思慮しても思い出すことができないので、考えるのを諦めた。
男と世間話や他愛のない話を続けている間、冷静に周りを見渡す。
おかしな場所に拉致された可能性や、目の前の男が危険な可能性を考える必要がある。
泥濘に足を取られながら、服についた汚れを払い落とした。
どうやら地面に直接倒れていたらしい。
しっとりとした湿気が周りを覆い、梅雨の様な気持ち悪さを感じる。
しかし、霧が晴れると、陽を受けた山々が私を釘付けにする。
美しい刃物のような頂上と、斜面が裾まで延々と続く。
常緑樹に似た木々が雫を反射させ、きらつく。
地球で見た事のない、壮大さと美麗さに、私は深く感動した。
男が何か話しているが頭に入ってこず。
男が私に気付いたように言葉を投げかける
「ああ...、ありゃ霊峰ソヨゴだべ、統一教会の聖地んだが。」
地元の間では公然の秘密らしい。
ここが一番綺麗に眺め見ることが出来ると男は続ける。
男の日本語に対する違和感。
ソヨゴの壮大さ。
異世界ジャンキーである私は全てを察した。
異世界なのだ、ここは。
理解した瞬間、私は言いようのない昂ぶりに襲われ興奮する。
ここが異世界。
傍から見たら変態なのは分かっているが。
股間が大きく隆起してるのが布越しに分かった。
隣の男から困惑を感じるが、構わない。
愛を叫びたかった。
最高だ。
思わず左手を突き上げ、宙に向かって叫んだ。
言葉にならない叫びだった。
-2-
霊峰を背に、荷馬に揺られながら思索に耽った。
山ほどの荷物を括りつけられた馬は、ぜえぜえと、死にそうな顔をし、歩みを進める。
男の談によると、ここから一日ほど移動した街で、探索者になる為の試験とやらが開催されるらしい。
一攫千金を夢見る様々な人間が、一同に集まるとのことで、私が黒髪黒目であっても特に違和感は無かった。
ここ周辺では黒髪は珍しいらしく男は興味津々に尋ねてきた。
「東の海を越えて来た」
そう伝えると、たいそう、男は驚いていた。
会話の繋ぎとして、大学で覚えたコインマジックを披露したところ、さらに驚いていた。
奇跡を見たような驚きぶりで、私まで釣られて笑ってしまった。
どうやら、一度街の説教で奇跡を見た事があるらしく、高位の僧であるか尋ねられたが、違うとだけ伝えた。
男は少し疑っているようで、説得に時間がかかった。
結局、根が優しいらしい。
男の親切心に便乗し、件の街まで荷馬で送って貰えることになった。
老いた馬のようで括り付けられた箱が苦しそうだ。
どうやら、村で収穫された作物を街へ売りに行く最中だったようだ。
道の横で私が倒れていたようで声をかけたらしい。
娘を村に置いてきたようで、心配そうな顔で村があるであろう方向へ、しきりに顔を向けている。
賢い子らしく、知識欲旺盛で手に負えないと男は破顔している。
そういえばと、私はポケットの奥にある財布を取り出した。
「私の国のお金なんですよ、よければ」
そう言って500円玉を手渡す。
男はびっくりした顔で金は受け取れないと、すげなく断る。
しかし、実は銅で構成されていて、高価な物ではないと伝えると、安心した顔で喜んでいた。
何故かと言われれば、子供の頃に貰った異国のお金は、 何故だか嬉しいという単純な理由だ。
なだらかな山を抜け、街までもうちょっとの所。
男は思い出したかのように喋り出す。
肝心の試験は倍率が高いらしい。
村のガイ君が意気揚々と受けに行ったが、ほどなくして自信がなさそうな顔で村に帰ってきたらしい。
冒険者は誰でもなれるらしく、食い詰めの集まりで評判は高くない。
街中でも帯剣許可等は出ないらしく半傭半賊扱いだ。
いわゆる、あまり歓迎されない人種と言う奴である。
それに比べ、探索者とやらは偉大なる塔に登る偉大な人間で、子供の頃なら誰でも憧れる存在らしい。
どうやら、色々権利を持っているらしいが、詳細は不明だと言われた。
街の壁が近づいてくると検問待ちの列が見えてくる。
見えている立派な門はあれは西門らしい。
関係者優先らしく、探索者志望の私は南門へ回れ、そしたら街に入れると言われた。
たった1日程度だったが、これで別れるとなると寂しいものがある。
「楽しかったです」
と伝えると、男は照れた顔で頭をかき、急に真顔になる。
男がジッと顔を鼻の近くまで寄せると、真顔のまま、私の眼を見つめる。
「んだなあ、オメェさん眼が良いな。ニコニコしちょるけど、眼が笑てね。そげな奴は強い」
動揺した私を傍目に、こりゃ受かったなと笑いながら歩き続ける。
「これやる」
そう言って長方形の何かの印が書かれた薄い紙を渡された。
「死にそうになったっきゃ、強ぐ握れ、一回だけなら大丈夫でな」
男の方へ向き直った瞬間、列の波に呑まれ、男は手を振りながら消えた。
判別がすぐにつかなくなり、私は困惑したまま、手に持った紙を懐に仕舞う。
何故だか、息苦しくなった。
怖いのか、寂しさなのかは分からなかった。
本当に彼は居たのだろうか?
なんだか、狐につままれたような、釈然としない感情のまま、南門へ足を伸ばした。
Tips:聖印は需要が高く、あまり市場に出回らない。