親ガチャの文明論的解釈
【親ガチャ論の流行】
「親ガチャ」という言葉について、最近、広く話題になったようです。
9月7日には、少年犯罪について研究している土井隆義が、学生が「親ガチャ」という表現を使うようになったとする記事を発信しました。現代の若者達は、今の日本を、生まれによる経済的な階級社会として諦観しており、大きな成功を望まない幸福感を大切にしているといいます。そのことは、経済的な格差の不当な固定化を今以上に許していくだろうとしています。
9月9日に、テレビの報道番組でタレント達が、「親ガチャ」という言葉や考えについて、「絶対ダメ」とか「発言を後悔するだろう」などと否定的にのみ言及しました。
その文脈は、学生が親に向かって言えば、親になった時に後悔するだろう、といった趣旨だったようです。大学生になったり親になったりできる環境の人に限定された言及だったと言えるかもしれません。しかし、9月12日には掲示板に転載されて、「お前ら親ガチャSSR組やんけ」などといった批判を招きました。
そして、「親ガチャ」という言葉や考え方を肯定する人々と否定する人々の間で、発言や論争が続きました。
現代の社会における世界観の、一つの分断が表出したのだと言えます。
【自己責任論の崩壊】
「親ガチャ」が存在すると言う人々は、究極的には、虐待死の存在をもって、努力でどうにもならないほどの不運の存在を言います。
それに対して、「親ガチャ」という考え方を否定する人々は、虐待死は例外にすぎず、実際にその考え方を好む人々のほとんどは、責任感の薄い怠け者で、不都合の原因をすべて環境のせいにしようとしているのだと言います。
しかし、前者は客観的な事実であり、後者は感覚的な精神論にすぎません。
生まれの環境の格差が生涯にわたって人生の幸福の程度に影響するという現実と、(その限られた自由度の中で、)自分の幸せのために努力すべきことを努力すべきだ、という考え方とは、論理的には背反しません。
実際、「親ガチャ」といった言動を好む人々のほとんどが仮に責任感のない怠け者だったとして、社会の幸福や彼ら自身の幸福のために叱咤激励する時に、虐待死に代表されるような少数の場合についての「親ガチャ」に関する言動を封殺していいのでしょうか? このことは案外、今回の話題の本質です。
多数者について合理的に動作する考え方が歴史的には用いられてきましたが、その考え方は、少数の例外的な反例については科学的に動作しません。例えば、「生んでくれた親には感謝すべきだ」という社会的な通念が、ある人々にとっては納得感があって心地よいものだったとしても、理不尽に作用してしまう不遇な人々も現実にいます。
つまりは、歴史的な社会全体を暗黙的に覆ってきた「自業自得論」や「自己責任論」が、崩落しつつあります。
従来の自己責任論、ひいては公正世界仮説に、合理的な機能も含まれていたことは否定できません。しかし、今回の方向への変化は、以下に見るように理由のあることですから、これからも続くでしょう。
【環境格差の実在】
「ガチャ」とは、スマートフォンのゲームにおけるクジ引きのことです。これは、アイテムやキャラクターの入手について、玩具の自動販売機であるカプセルトイをガチャと呼んできたことから連想させた呼称です。
さらには、アイテムではなく親を入手するクジ引きを考えて比喩的に、「親ガチャ」と呼ぶようになりました。
つまりは、確率的な現象として捉えた対象については、何であれ比喩的に「ガチャ」と呼べます。例えば労働市場について、企業ガチャや労働者ガチャなどと言われることがあります。
確率的な現象については、クジという昔からの言葉がありますが、神社のオミクジによって運勢が占われるように、超常的な因果関係の作用が信念されることがあります。一方で、電子的にプログラムされたゲームにおいては、最大限に純粋な確率的現象であることが人為的かつ論理的に定義されています。そのため、「親ガチャ」というやや新しい言い方の新たな含みとしては、子自身の努力の影響が決して及ばないことを強調する効果があります。
生まれた環境が人生に影響することは、むしろ、遥か昔から誰しもに共有されてきた事実認識です。生まれた環境の性質の一つとして、どんな親のもとに生まれるか、ということがあります。ですから、「親ガチャ」という言葉が指し示す意味が新しい発明かというと、何も新しくはないと言えます。しかし、「親ガチャ」という言葉が現在論じられることについては、下に述べるように、極めて現代的な様々な意義を見ることができます。
なお、似た格差論として、2015年頃に韓国で「スプーン階級論」というものが流行しましたが、経済に注目した概念ですから、意義はいくらか異なっています。
【不平を言う意味】
生まれた環境による人生の格差はもちろん存在するが、「親ガチャ」などと言ってそれをあげつらうことは、マイナスでしかない、と考える人々もいます。
つまり、変えられないことを恨みつづけるのではなく、ネガティブな愚痴を思う暇があるなら、変えられることを変える努力をすべきだというわけです。
しかし、人生で得られる幸福の程度を決定する要因として、もしも環境の格差を完全に捨象したならば、残る要因は、才能や努力や実力といった本人の属性です。その認知モデルは、必然的に、「自業自得論」を形成します。
すると例えば、学歴の程度は本人の知力や努力の程度として直ちに対応することになりますし、職業の階層や受け取っている収入の多寡も本人の能力や実力の程度として直ちに対応すると見なせることになります。つまりは、人材の社会的な価値は、その人の経歴や肩書きによって、ステレオタイプにより、合理的に判断できるし、そう判断することが倫理的にも正当だということになります。
このことは、生まれた環境の格差を余生について固定化します。つまり、本人がどんなに賢くとも、生まれた環境によって学歴が低ければ馬鹿だと見なされますし、仕事を達成する能力が高くとも、生まれた環境によって実績が不足すれば、単純労働と低賃金に拘束されて生涯を終えます。
つまり、生まれた環境の格差を過度に捨象すれば、自己責任論の乱用を招き、それは倫理的に公正ではありません。
つまり、「親ガチャ」をあげつらうことは、自己責任論の乱用を攻撃する意味で合理的だと言えます。
つまり、生まれた環境は変えられないとしても、理不尽な自業自得論で残りの人生を潰される程度は、不平不満を言う努力によって変えられる可能性があります。ですから、親ガチャ云々と言うことには後ろ向きの意味しかありえないなどと、断罪的に言うことはできません。
しかし、自己責任論の乱用というものは、実際に存在するのでしょうか?
【ポール・ピフのモノポリーの実験】
人間という生き物は、与えられた環境の幸運を、自分自身の才能や努力や実力の結果として、ゆがめて認知するのでしょうか?
米国の学者であるポール・ピフは、モノポリーというボードゲームを用いて心理学的な実験を行い、このことを実証しました。
モノポリーでは、各プレイヤーは平等なお金を持ってゲームを始め、盤上のマス目を移動しながら、不動産資産を獲得したり、他のプレイヤーが所有する不動産にお金を払わされたりします。ポール・ピフは、実験の被験者にまずコインを投げさせて、お金持ち役と貧乏人役に振り分け、スタート時の所持金を不公平にしました。資産が資産を生むモノポリーでは、この不公平が結果に強く影響し、ゲームを進めるほど格差は開いていきます。モノポリーとはそもそも、英語で「独占」という意味です。
実験の結果、お金持ち役になった人々はゲーム中に傲慢な態度をとるようになり、また、ゲームに勝った結果について理由を問われると、初期条件ではなく自分のうまい戦略を理由としてあげる、強い傾向が見られました。
そのようにして、幸運によって強い立場を与えられた人間は、それがもたらす結果の原因を、才能や努力や実力といった自分自身の属性に帰着して解釈することが実証されました。
この傾向は、実生活における立場がどんなに低い人々をお金持ち役に選んだ時でも変わりません。つまり、ポール・ピフによれば、このことは、実生活における富裕層の人格的な短所と見なして満足するべきことではなく、人間という生き物のとても普遍的な性質なのです。
このことを踏まえると、実社会において有利な立場にある人々が、「自業自得論」や「自己責任論」を不合理に乱用しなかったならば、むしろ極めて不自然だと言えます。私達人間の社会は、有利な立場に置かれた人々に生じるこの認知バイアスを踏まえた上で設計されなければなりません。
【社会問題の深刻化と移動】
生まれの格差、あるいは行き過ぎた自己責任論は、一つの社会問題だと言うことができます。
では、そのような社会問題は、より深刻化しているのでしょうか?
歴史的に、技術は飛躍的な発展を続けていて、希少性のある有用な財、例えば食料や衣服についても生産性は向上してきたのであって、人類はより幸福になってきたのだとも見ることができます。よって、社会問題が全体として深刻化しているという場合については、とりあえず考えなくてもいいでしょう。
しかし、社会問題が全体としては深刻化していないとしても、社会問題の重要な論点が移動していると見ることはできます。
例えば、平等性についての多くの問題が解決されてきた結果、生まれの環境や、特に親の性質についての不平等が論点として顕在化してきた可能性はあります。また例えば、法治社会や教育システムが整理されてきて、多くの問題が解決された現代において、行き過ぎた自己責任論がかえって社会問題化してきたのだとも言えます。
【不正義の最後のフロンティア】
法律によって、平等な人権を定義することはできます。
また、経済的な格差による教育の機会の不均衡については、生活保護や奨学金で支援していく流れにはなっています。
親から子への虐待についても、暴力的な虐待については、客観的な違法性を問うことができます。
しかし、精神的な虐待についてはどうでしょうか?
虐待された子供としての「アダルトチルドレン」、さらには虐待する親としての「毒親」といった議論が認知されてきたのは、比較的最近のことです。親は、子に対して、肉体的にも精神的にも絶対的な権力者であり、子供を自由に恐怖させ、好都合な価値観を強制し、カルト宗教のように洗脳することがあります。またそのために、侮辱を繰り返し、自己肯定感や、社会への信用や接触を失わせることがあります。
そのような、死に隣接した恐怖体験が日常的に継続することは、成人しても生涯にわたって治ることのない心の傷をもたらすことがあります。
例えば、幼少期に鬱病になってしまい、その鬱病が成人しても決して治らないことがあります。
そのように考えると、家庭という密室において幼児に対し毒親が行う虐待は、社会が発達したあとに残る、不正義の最後のフロンティアだと見ることができます。
つまりは、親ガチャ以外の公正性がそれなりに実現していった結果として、親ガチャの影響の重大さが顕在化してきたと言えます。
親さえ、心身を健康に育ててくれたならば、外に出て人に殴られたとしても、現代では警察が守ってくれます。一方で、幼少期に親に精神を切り刻まれたなら、助けてくれる人は誰もいません。
【核家族化と密室の発生】
親以外の大人が助けてくれる可能性は、近代化によって減少してきたのかもしれません。
都市化は、親戚づきあいを減らすと言われることがあります。また、現代の住宅は、古代の住宅よりも密閉性が高く、隣近所の暮らしの様子は感じにくいと考えることができます。
また、現代の法律が児童の労働を禁じていることは、児童が幼くして毒親から独立する手段を奪ったと見る人もいます。
そういった要因によって、児童は、特に親に悪意があった時に、他の大人などとの人間関係から切り離されやすくなっています。親に愛されなかった子供が、他の大人から愛情を注がれる機会は減っているかもしれません。
すると、人間関係における家族の比重は増え、「親ガチャ」に外れた場合に、親に人生を振り回される影響力も大きくなっているかもしれません。
家庭は、法律でプライバシーを保証されたプライベートであり、非道を行うための密室としては、先鋭化してきたと見ることができます。
親子関係は、一面では権力関係であって、親の人権と子の人権は、強い緊張関係をはらんでいると見ることもできます。虐待を見つけ、防ぐためには、従来的な親の人権を強く制約する場面が生じうるからです。
【法治国家の発達】
人類の社会は、法治国家として発達してきました。歴史的な社会は、もっと犯罪的で、暴力的で、ヤクザ的でした。
例えば、監視カメラや遺伝子検査が存在することは、犯罪を行いにくくしています。逆に、それらがなかった時代には、犯罪はずっとやりやすかったことになります。
そのような社会では、人に深く恨まれるということは、危険です。夜闇で後ろから殴られないとはかぎらないからです。ですから、どんな人に対してもある程度納得感のある振る舞いをしなければ生きていけませんから、財の分配についても公正な印象を与えねばなりませんし、人前で尊厳を侮辱することもはばかられます。
また、近代的な都市化が起こる前は、人間は流動的ではありませんでした。つまり、互いに全員、顔も名前も昔から知っているような人々と関わって生きていくことが、人生でした。そのような社会では、恨まれることは危険であり、無礼な態度は抑制されます。逆に言えば、部族的な社会であり、永遠に被差別的な弱者だと思った相手や、本当に利害の外側だと思った相手に対しては、極めて侮辱的で残忍で暴力的な場合もあります。
そのような社会においては、主観的に信念する理不尽な自業自得論を振りかざすことはできません。憎悪を買えば殺されてしまうからです。逆に言えば、都市化と法治国家の発達が、主観的な自業自得論の乱用を準備しました。
【武器や技術の発達】
非常な古代には、人類の武器は、両手のコブシだけだったと考えられます。銃のようなものはないわけです。
すると、喧嘩や戦争の時には、何よりも頭数が重要だということになります。結果として、戦争に勝って獲得した財についても、平等に分ける以外にはなくなります。
そしてやがて、固い金属で刃物が生産できるようになり、長距離から射撃する銃が生産できるようになり、壮絶な威力のある爆弾を迅速に敵地に移動できるようになりました。すると、そのような武器の所有量の不均衡が、直ちに、人間の地位の不均衡をもたらすことになります。
つまり、技術こそが、人間の社会の不平等を準備しました。そして、技術は、一方向的に発展していきます。その意味では、人類の幸福の格差は、拡大していくことが自然だと言えます。近代において平等な人権が叫ばれたことは、単純な進歩というより、そのことへの反動でした。
結局、格差は拡大することが技術的に自然であって、自業自得論は乱用されることが社会的に自然です。
【学歴社会の到来】
フランスの思想家であるエマニュエル・トッドが説くように、現代社会は、学歴による階級社会としての色彩を強めています。
その最大の特徴は、近代的な平等性の進歩した頂点として、学歴による貴賤だけが倫理的に肯定されることです。
もちろん、そのためには、学ぶ機会は可能なかぎり公正に担保されねばなりません。しかし、技術化した社会において知的才能が自然選択によって選ばれることは、良かれ悪しかれ必然であって、学ぶ機会を与えられても知的能力を発揮できず、社会の生産性に貢献できない遺伝子が、長期的には淘汰されていくことは、生物が逆らうことのできない必然として正当化されえます。言い換えれば、社会に貢献できる程度を完全に度外視してまですべての人々に平等に財を分配するほどには、人類はまだまだ到底、豊かではないということです。
しかし、学歴の付与が、人類に有用な人材を合理的に選別するか問うことはできます。逆に言えば、学歴主義への肯定は、経済的な自由市場原理への信任をいくらか前提にしています。ほとんどの人は事実上、経済的な安定を主な目的として勉強をしているからです。
生まれに関わらず、学ぶ機会が公正に担保されていることが、理想です。しかし、それは理想であって現実ではありません。
現実には、生まれる環境は、学ぶ機会や、ひいては学歴に強く影響します。深い心の傷を与えられてしまえば、自分の将来の人生設計のために勉強に取り組む意義は感じられませんし、親に面倒を見てもらうよりも、親の面倒を見なければいけない境遇では、進学どころではありません。
もしも、学歴が人生の幸福の程度を規定する意味を持たなかったならば、学歴を奪い去る環境を強いた親を呪う人々は生じないでしょう。その意味では、現代的な学歴社会が、親ガチャという論点を重視させているのだと言えます。
技術が発展した社会は、知識社会であり、専門的な知識のある人材にしかできない仕事と、数日でほとんどを覚えられるような仕事とでは、実質的な生産性が違います。言ってみれば、名門大学で博士号まで取得した人々や、大手企業の研究職で長年キャリアを積んだ人々が、現代の食料の価格の安さを他の誰よりも支えているわけです。そのため、企業による人材の獲得競争は熾烈であり、経済的な待遇の格差は増大しつづけます。ですから、学歴と収入に強い相関関係が生じることは、自然だと考えられます。そしてそもそも、学歴については、生まれた環境との相関関係が強く存在することが、自然に推察されますし、統計的にも確かに観測されています。
その一方で、現代社会はしばしば、まるで学ぶ機会がすでに理想的に公正であるかのように、才能や努力や実力の程度が社会における地位や収入の程度だと、安易に言います。中年になって、自分や家族を養う立場が築けていなければ、その人の苦しみは、自業自得と見なされて同情はされず、泣き言は甘えと見なされて嘲笑を受けます。
大学について「Fランク」などと位が計られることがありますが、18歳の時に入学した大学の名称によって、より良い大学に進学しより良い企業に就職する人々から、生涯にわたって末長く踏みつけられ見下される人生が確定し、見通されてしまいます。自分の将来の幸せのためにいくら戦略的に思考しても、自分よりずっと頭が悪いけれど生まれた環境がずっとまともだった人々よりも裕福にはなれず、恋愛や結婚にも妥協を強いられ、馬鹿だと蔑まれ機嫌を伺いながら余生を送ることになります。環境の機会は公正ではないと思う若者が、その時に何かを言いたくなるのは自然なことです。
そのように、行き過ぎた自己責任論を攻撃する意味では、「親ガチャ」という論点は、ごく自然です。
一方で、学校の勉強は得意だが人づきあいは苦手だ、といった人材にとって、世の中は生きやすくなっているのかもしれません。そういった人材が密室で子供を生んだ時に、下に見るように、子育てに関心や適性がなく、結果的に毒親になる場合もあります。
【情報化】
歴史的な社会では、貧しい人々は、裕福な人々が食べているものを見ることもありませんでした。知人の知人の暮らし向きのイメージはあっても、知人の知人の知人の知人の暮らし向きの実感はありませんでした。また、警察力などが頼りなかったために、財産や格差を隠すことは当然の習慣でした。また、歴史に名前を残すような人々は何よりも卓越した才能によって名前を残したのだと見なされ、社会全体の統計的なデータが整理されるまでは、機会均等を何となく信じるしかありませんでした。
しかし、SNSの発達により、遠く離れた一般市民がコミュニケーションをとって主体的に世論を形成しうるようになり、また、いわゆるエリートや富裕層の生活の実態も、画像や動画で目にする機会が生じました。すると、支配階級の人々に、さほどの知性やモラルのないことが露見していきました。
人間は、まずい食事をみんなで食べている時には、そんな苦労を笑って満足することができます。しかし、いい暮らしを見せつけられて、自分や自分の家族にばかりまずい食事が強いられたり、不当に馬鹿にされていると感じると、不公正を改革する欲が生じます。
どんなに不公正な格差も、それが認知されなければ、非難も攻撃もされません。また、ノイズを展開し、合理的な問題解決方法に到達させなければ、不公正は、認知されても改革まではされません。
山奥に暮らしていても、スマートフォンを起動すれば、「親ガチャ」に成功した人々の暮らしを身近に感じることができます。そのような意味で、技術の発展による情報化は、格差についての議論や「親ガチャ」についての議論を助長しました。
【整理された人間社会】
総じて、人間の社会は非常に整理されてきているということになります。それは、世界中にマクドナルドの店舗が存在するように、ローカルな個性の意義が絶えず消滅へと近づいているということです。
歴史的にはより流動性が低かったものの、現代では人間は交換可能です。交換可能な人間は、共通する属性でなるべく自動的に区別することになります。その時、多くの人材から選別可能な企業ならば、例えば学歴フィルターを用います。美男子や美女の定義としては、俳優やアイドルが存在して、稼ぎの良さや外見の良さで男性や女性の価値は測られ、いくらかの妥協とともに恋愛は行われることになります。
時代時代の人間達にとっては、さほど意識はされないものの、人間が世界や社会を理解するモデルは、とても深刻な変化をしつづけています。人間が交換可能だというのは、哲学的にはかなり根本的な世界観の転換だと言えます。言ってみれば、私達はもう、非現実的な、論理的なラベルの行き交う世界で互いに暮らしています。グラム数の表示された豚肉を見ることは日常的でも、具体的な生きた豚を目にすることはほとんどありません。ましてやその豚の性格が人なつっこかったかどうかに、関心すらいだきません。
ひいては、人間の幸福は、物質的かつ経済的に測られることになります。そのように、価値のモデルが一元的に定義されたもとでは、学歴などによる社会の階級性は、誰しもにとって普遍的な現実です。そして、学歴や就職といったキャリア形成のために、「親ガチャ」はあまりにも影響が大きい、ということになります。
良い学校に進学できなかったのに、良い学校に進学できた人々のようなキャリアを取り戻そうとすることには、高いリスクがあります。良い企業に就職できなかったのに、良い企業に就職できた人々のようなキャリアを取り戻そうとすることには、高いリスクがあります。入学できた学校や、就職できた企業において、人生の後半において開いていく賃金の格差などを受け入れつつ、人生の尊厳をある程度は諦めることは必要です。一発逆転しようと思って、学歴や職歴のないまま難関資格を目指して独学などをして、年月のみ浪費すれば、人生の破滅にもつながります。若者が「親ガチャ」を愚痴ることは、現実を受け入れようとする作業でもあります。
良い学校に進学して、多く稼ぐことが人生の幸せの定義だとするなら、深く考えれば考えるほど、個人の人生について「親ガチャ」こそがすべてかもしれません。
【ロールズの正義論】
どうする「べき」だとか、何が正当だとか不当だとか、善良だとか邪悪だとか、正義だとか悪だとかいった言説があります。
ほとんどの人々は、こういった「べき論」を、その人その人の主観的な信念だと思っているようです。
しかし、現代社会については、一応、倫理的な正当性の定義はあります。
その定義は、近代社会思想における功利主義であり、最も代表的なのは、ジョン・ロールズによる「無知のヴェール」モデルです。
生まれる前の世界があって、裕福な権力者に生まれる者のイスや、平凡な市民に生まれる者のイスがあります。人々は、好きなイスを選んで座ることができます。しかし、すべてのイスはヴェールで覆われていて、どのイスに座ればどのような環境に生まれることができるのか、明らかではありません。この時に法律を書こう、というのがロールズのアイデアです。つまり、一部の権力者にのみ有益で大多数の人々に不利益な法律が書かれるわけはありませんし、多数者にとって合理的であっても、少数者に巨大な苦痛を強いる法律が書かれるわけもありません。そのようなものが、「公正」の定義だというわけです。大雑把に言い換えれば、弱者を含めた他者の立場に共感してフェアに論じることが、正義の定義だというのです。
ロールズによる実際の議論は詳細で難解ですが、「無知のヴェール」といったそういった議論が必要なのかどうか、そもそも問うことはできます。
例えば、道で困っている人とすれ違った時に、少し手助けをしてあげることは、倫理的に正当でしょうか? それは、歴史的な通念においては、世界的に普遍的に正義だと言えますが、近代的な法理に照らして正当性を言う論理は、どのようになるのでしょうか? 「無知のヴェール」というモデルによれば、自分がその時、手助けをされた側の人に生まれる可能性もありますから、そのような手助けは、社会全体の幸福の生産性を合理的に増加するものとして、正義の属性を備えることになります。しかしそのような議論は、やや回りくどく作為的にも感じられます。キリスト教が、自らの心身のように他者をいたわることを、愛や神と呼び、倫理的な価値の定義としたことに比べれば、作為的であって、本質を遠ざかっています。しかし、法学は、議論の土台として共有しやすい客観性を必要としますから、やむをえません。
ですから、例えば、行き過ぎた自己責任論は是正される「べき」だということを、現代社会に共有された正義の定義に基づいて言うことはできます。
なぜなら、「親ガチャ」の実在を不合理に軽んじる、行き過ぎた自己責任論は、「親ガチャ」に外れた人々に理不尽な苦しみを強い、自分達の既得権益の維持を図っているという意味において、ジョン・ロールズの「無知のヴェール」による正義の定義にしたがって、倫理的に不当だからです。
【岡田式AC判別法】
虐待問題を専門的に研究してきた岡田ユキによるモデルとして、人間を「人間力」の程度によって大雑把に、「50%」、「100%」、「200%」に分ける考え方があります。
人間力100%の人々とは、多数派の人々であり、自分の面倒を自分で見る責任感があって、それ以上に特別な正義感まで持たない人です。
人間力50%の人々とは、自己中心的で甘えた人々であり、機会があれば親切な他者に面倒を見てもらおうとする人々です。
人間力200%の人々とは、他人の人生の幸せについてまで責任感を感じ、倫理的に人並み以上でなければ生きがいを感じられない人々です。
現代では、平等な人権が言われていて、他者の苦楽に共感する知的能力を生まれつき持たないような発達障害の夫婦でも子を生むことができます。そのような場合には、親が子供の面倒を見るというより、子供が親の面倒を見るという側面が色濃く表れる場合があります。そのような子供は、自分個人の幸せや楽しみというものを重視するのではなく、周囲の人々の精神的な苦楽に配慮し心づかいして生きていきます。また、人間力50%の人々に目をつけられて消費的に利用されたり、生んだ子を甘やかして人間力50%の人にしてしまうこともあります。
つまり、ほとんどの人が人間力100%である社会において、人間力50%の人々と人間力200%の人々とは、少数派として互いが互いを生む近縁関係にあるというのです。
このモデルは、いわゆる毒親を持ったハンディキャップが、深い人間愛や倫理観や責任感への成長を促して、アドバンテージにもなると告げている意味で、画一的な物質主義とは異なります。毒親からは逃げるべきだという物質主義的な助言では、ハンディキャップを広げないことはできても減らすことはできませんが、このモデルでは、毒親育ちは、まとも親育ち以上の人材にもなりえます。
一方で、このモデルは、人間力50%の人々のうちに、先天的な知的欠陥が主な原因になって鬱病などの精神障害を発症する人々が存在することを、視野に含んでいます。このことは、ポリティカル・コレクトネスの観点などから、ほぼほぼ禁忌であって、このモデルは広くは知られていません。
「親ガチャ」をあげつらう人々の中に、自分自身の短所が実際には主な原因であるような人々が、いるかいないかと言えば、いるでしょう。どんな人間でも、社会や親から愛される資格があるのでしょうか? 自己中心的で、自分自身の幸せにしか関心がない異常な人格を、社会や親は、際限なく愛する責任を負っているのでしょうか? そのことは少なくとも、行き過ぎた自己責任論とは別の議論でしょう。不都合を他者のせいにすることは簡単です。行き過ぎた自己責任論も、行き過ぎた他者責任論や他責思考も、主観にとって気持ちがいいだけで、社会の合理的な協調を乱します。
ですから、親ガチャ論に対するその点への批判は、正当な部分があると考えられます。
【超越主義と倫理】
現代社会の既得権益は、物質主義や拝金主義や学歴主義によって固められた一元的な価値観に基づいたアイデンティティを備えています。
そして、自分達にだけ好都合な理不尽な自業自得論によって、実際には「親ガチャ」に外れた人々を努力不足だと罵り、生涯にわたって奴隷化しようと努めます。
それに対して、彼我の地位の格差は実際には「親ガチャ」の影響が大きく、行き過ぎた自業自得論は不当だと言うことは、ロールズの定義により正義です。
しかし、だからといって、一元的な価値観まで受け入れてしまえば、物質的利己主義に染められていくことになります。
ならば、むしろ、「親ガチャ」に成功した既得権益層は、いわゆる毒親によく似ています。彼らは欺瞞にすがる愚者であって、そのような愚かな人々に心づかいをして現実に世話をしているのは、「親ガチャ」に外れて踏みにじられている人々です。ですから、社会の低い地位を強いられるほど、自己欺瞞は旨味がなく、現実への視野は広がって、よりフェアで高級な人間性へと進歩できます。
その意味では、「親ガチャ」に、素朴な意味で外れることこそかえって、より本質的な意味においては、当たりです。
虐待と呼べるような過酷な境遇を強いられたことが、むしろSSR、スーパースペシャルレアだと言ってみることも、不可能だとは言えません。
過酷な生まれを強いられたならば、単純労働と少ない賃金によって、趣味を持てず恋愛を体験できず子供を残せないうちに人生は終わってしまうかもしれません。ならば、そこには絶望しかないかもしれません。しかし、利己主義に染まったモラルのない人々を心から尊敬できるでしょうか?、心から愛せるでしょうか? 利己主義に満足する人々が、いかなる学歴や経歴を備えていたとして、真の意味で少しでも知的だと言えるでしょうか? 人類社会から公正を喪失していく人々が、本当に「有能」でしょうか? 世俗から超越への成長を志すならば、生まれによって生きがいが閉ざされていまうことなど、ないと考えることもできます。
世俗的な安寧によってこそ、精神が成長する機会は閉ざされてしまうと考えることもできます。古く、貧しき者は幸いなり、と言われたようにです。
【いくつか】
知的な程度の低い典型的な主張がいくつか世間には見られるので、触れておきます。
親が先に存在するのだから、「親ガチャ」という概念には違和感があり、むしろ「子ガチャ」と捉えたほうがしっくりくる。といった主張があります。しかしそれは、相手の論点に共感せず、ただ直観的な感想を放っているだけです。自閉症スペクトラム障害といった方向性の知性の不足を感じさせます。世間は、生まれの格差について話しているわけです。話を逸らして相手を侮辱することは、反論にはなりません。
高校や大学まで卒業させてもらったなら十分に親に恵まれているとか、日本に生まれただけで恵まれている、といった主張があります。しかし、それによって「親ガチャ」をあげつらうことを全面的に否定することはできません。親に虐待されて心にトラウマを負い、大学を卒業してから自殺する日本人もいます。大金持ちの子だったとしても、同じことです。ある属性をあげて、だから自分よりも恵まれている、などと言うことは、主観にとって気持ちいいだけの、普遍的ではありえない、想像力も共感もない残忍な思考です。同様に、自分にとって好都合な自己責任論は、いかに立場の低い弱者であっても乱用します。俺は片親だったから両親がいた奴なんて恵まれていて、不満を言う資格などない、とか、自分に好都合な属性をあげた主張は、明らかに事実ではありません。簡単な想像力を持てないほど頭が悪いということになります。
さらに言えば、まっとうな人格を備えていて愛情を注いでくれる両親のもとで育ったとしても、辛い病や事故にあう可能性はあります。ですから、「親ガチャ」に成功すれば、それに失敗した人よりも幸せだとは言えません。親ガチャが人生の幸福を決定する、とは、完全には明らかに言えません。
上では、精神的な虐待などの存在をもって、「親ガチャ」の実在を認めてきました。しかし現実には、財力や容姿や才能についてしばしば、「親ガチャ」という表現が用いられます。
様々な理由によって経済的には貧しくても、まっとうな人格を備えた親は、もちろんいくらでも実在します。それを、親ガチャに「外れた」と表現するのは、拝金主義的で反社会的だと思います。進学などへの影響は大きいと思いますが、愛すべき親は愛すべきです。他者の笑顔一つのために死ぬとしても、そこに人生の意味と満足はありえます。
容姿や才能などについて、親ガチャに外れた、と言うことは、自分に求める属性が備わっていないと感じることを、血統や遺伝子という原因に帰着して考えているということになります。実際、流行にほど遠い顔立ちに生まれて、アイドルとして成功することはできないでしょう。しかし、現代の芸能人には美容整形が横行しています。間抜けな人々の間抜けな価値観に巻き込まれないだけ、得しています。美貌や美術の才能がなくても、人格的に立派な親はいくらでもいます。それを「外れた」と表現するなら、やはり倫理主義的な人格主義の観点から、反社会的だと考えられます。
血統を呪うならば、親の親を呪うことにもなり、ひいては、人間や生物に生まれた事実を呪うことにもなります。必然的な運命論によって構成されているこの宇宙のこの位置に自我を生じた苦しみを呪うということになり、決定論的な世界観に立って恣意的な基点を設置しているにすぎず、もはや親がどうという議論としては受けとめられません。
【むすび】
「親ガチャ」論は、何らかの分断をより顕在化していくでしょう。
なぜなら、毒親が心理的に決して罪を認めないと言われるように、公正世界仮説によって自尊心に快楽を得ている人々が、その公正世界仮説を手放すことはないからです。既得権益を手にしている人々の自発的な良心によって、社会の格差が是正された例は歴史的にありません。
ならば、社会を公正へと改革する手段は、説得よりも力であって、顕在化すべき分断は顕在化すべきだと考えられます。
その本質的な目的は、人間という生き物が相対的な権力を手にした時に必然的に振りかざしてしまう自業自得論について、客観的な現実に適った批判によって掣肘することです。
「親ガチャ」あるいは同じ意味の概念が広く常識的に共有されたならば、環境の格差が人生に強く影響することはほとんどの人々に了解され、行き過ぎた自己責任論の居場所は縮小されるでしょう。つまりは、立場の弱い人々から尊厳や幸福が不当に盗まれることも減ると考えられます。
一方で、「親ガチャ」そのものをなくすことは、行き過ぎた自己責任論を攻撃することよりも重要だとは考えられません。「親ガチャ」をなくせた、と思えば、実際には残っている環境の不平等によって、理不尽な尊厳の剥奪が場所を変えて繰り返されるだけです。空間的な不平等のみならず、時間的な不平等だってあります。同じだけの才能と努力と実力があれば、同じだけの人生の幸福を保証する、と言うことは、そもそも不可能であり、事実上ナンセンスです。
人類は、大いに過酷な自然環境の中に置かれて、各々の状況に合わせて柔軟に人生の楽しみを見いだし、今まで世代を重ねてきました。貧しかったり、孤独だったり、短かったりしても、そんな人生に楽しみを見いだすことは不可能ではありません。
「親ガチャ」論を言うことは、より良い社会を実現しようとする意味では、楽しみがあります。しかし、一元的な価値観に洗脳されて、「親ガチャ」論に自分自身が縛られてしまう必要はありません。物質的には見通しのない状況に置かれても、人は自由に思うことができます。過酷な生まれに人生を壊されても、一歩ずつ心を癒していける可能性はあって、主観的な幸せを感じられる可能性はあります。
いわゆる毒親のもとに生まれることが、常識を相対化する視点をもたらし、普通以上の広い視野をもたらすこともあります。
哲学は本質的な自由であり、自由は本質的な幸福です。