Q1 もしセレブ美女に声を掛けられたら?-2
車に乗って十数分後、車内に沈黙が流れた。決して気まずい空気という訳ではないのだが、何だかとてつもない緊張感がある。
まさか、今日会ったばかりの美女に夕食を奢ってもらうばかりか、自分の家に住まないかとお誘いを受けたのだから。運転手の男性も、先程のやり取りをした後、一切話しかけて来ず、運転に集中している。
「す、すみません……食べ物をくれるばかりか、わざわざ家にまで住まわせてくれるなんて……」
「そんなにかしこまらなくたって良いわよ。私、困っている人を見かけると放っておけない性分だから」
「そんな、まだ名前も聞いていないのに」
「あっ、そう言えばそうだったわね。私の名前は、里山梨華。あなたの名前は?」
「は、花村亘宏です……」
「亘宏君ね、覚えておくわ」
「あ、あの……さ、里山さん」
「梨華で良いわよ」
「り、梨華さん、ありがとうございます……」
出会ったばかりであるにも関わらず、自分を助けてくれた美女に亘宏は二度目のお礼を言った。
今まで、三次元の女は二次元と違って全員クソだと思っていたが、世の中にはこんなに優しくて綺麗な女性がいるとは思わなかった。きっと彼女は地上に舞い降りた女神ではないかと思った。
もし、学生時代、自分のクラスに梨華の様な人がいたら、きっと当時の学生生活もずっと華やかなものになったに違いない。
思えば、これまでの自分の半生は、あまりにも悲惨なものだった。
花村亘宏は、貧しい家庭に育ちかつては公営住宅に両親と三人暮らしだった。
母親は料理が苦手なので、家の食事はいつも御飯とインスタント味噌汁。おかずは、唐揚げか目玉焼きで、たまに出来合いの惣菜が出る程度だった。
そんな食生活であるにも関わらず、何故か身体は痩せず年を取る毎に肥えていったので、両親からは隠れてお菓子を食べているのではないかと疑われた。
実際はホルモンの病気によるもので決して本人の責任ではないが、当事者も両親も、その事は知らなかった。
顔も、帽子が入りきらない程の大きな顔に、手入れされていない伸び放題の眉毛、一重瞼の細い目、ペシャンコに潰れた団子鼻、脂ぎった肌、たらこの様に腫れた唇、花村という華やかな苗字とは似つかわしくないブサイクな容姿であり、同世代の女子達からは気持ち悪がられていた。
おまけに頭も運動神経も悪い為、クラスでは男子からからかわれ、女子には陰口を叩かれ、教師には叱られて、彼女はおろか友人すら作れなかった。
さすがに、これではいけないと思って努力をしたが、成績を上げる為に教科書を開いても小難しい表現や単語が頭に入らず、運動を続けようにも体力が長続きせずに挫折してしまい、どちらも失敗に終わった。
その結果、努力をしても意味が無いという考えに至り、いつの間にか努力をする事自体を放棄してしまった。
その結果、学校へ行くのが辛くなり高校進学も出来なくなり、そのまま中学卒業後は引きこもってしまい、以後外に出る事は無くなった。
両親は、息子の事情を分かっていたので、当初は何も言わなかったが、反省する素振りも無く家でゴロゴロしている息子に痺れを切らしてしまった。
そう考えると自分を追い出したのは無理もないが、仮に「働け」と言われた所で職探しや仕事に行く事は出来なかった。
仮に応募したところで不採用になるだけだし、運良く採用されても周囲からは陰口を叩かれ仕事でミスをして、すぐにクビになるのは目に見えていたからだ。そう思うと、実行に移す事は出来なかった。
その結果、自宅を追い出された今となっては、そんな事を口にしてもどうしようもないのだけど。
その後は、路頭に迷って完全に絶望していたが、そのおかげで素敵な女性に出会えたとなると、今までの不幸を全てチャラにしても良いとすら思えた。
それにしても、この美女は一体、何者なのだろうか。どこに住んでいるのか、年齢は幾つか、誕生日はいつか、どんな仕事をしているのか、家はどんな感じなのか、趣味は何か、好きなものは何か、休日は何をしているのか、彼氏はいるのか、結婚しているのか、3サイズは幾つか。
亘宏は、梨華ともっと話をしたいと思った。色々な事が聴きたかった。彼女の事が知りたかった。彼女と仲良くなりたいと思った。彼女の彼氏になりたいと思った。
だが、母親以外の女性とロクに会話した事が無い童貞には、何からどう話せば良いのか全く分からず、結局それ以降は一切会話する事が出来なかった。
「着いたわよ」
車で一時間後、梨華は家の駐車場に車を停めた。ようやく家に辿り着いた様だ。車窓から建物を覗くと、そこには豪邸が建っていた。まるで、ヴィクトリア朝を彷彿とさせる、おごそかで立派な屋敷である。ワインレッドを基調とした屋根とアイボリーの壁が見事にマッチしており、歴史の史料集に出て来たり、世界重要文化財に指定されたりしてもおかしくないレベルである。
「あ、あの……梨華さん、この屋敷って……」
亘宏は指差しながら尋ねると、梨華はあっさりと答えた。
「ここは私の家よ」
それを聞いて亘宏は「えぇっ?!」と、腰を抜かした。こんなに立派な豪邸に住んでいるなんて! 中が一体どうなっているのか、どんな暮らしをしているのか非常に気になった。
「さぁ、着いて来て」
梨華はそう言ってスタスタと歩いて行ったので、亘宏もその後に着いて行った。
「ただいま」
梨華がドアを開けると、そこには使用人達が左右両脇にズラッと並んでいた。まるで、漫画から飛び出してきたかの様な光景である。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
使用人達は、一斉にかしこまりながら頭を下げた。全員かなり訓練されている事が見て分かる。更に、向こうから白髪に片眼鏡を掛けた黒いスーツの老人の男性がやって来た。彼がこの使用人達をとりまとめるトップである様だ。
「彼が、お嬢様がおっしゃっていた花村亘宏様ですね」
「そうよ。彼、路頭に迷っていたから、しばらくの間、この家に住まわせてもらえないかしら?」
梨華の頼みに、執事は「かしこまりました」と礼をした。礼をする姿勢が様になっていた。
「紹介するわ。彼は私の執事の木水よ」
執事の存在は、漫画やアニメで既に知っていたが、実際にこの場で本物の執事を見るのは初めてである。現代の日本にも執事が実在しているとは思わなかった。立ち振る舞いもイメージ通り、いかにも紳士的である。
「は、初めまして! 花村亘宏です!」
亘宏は、執事を前に緊張した面持ちで深く頭を下げた。
「初めまして、私は梨華様に仕える執事・木水と申します。亘宏様、今まで路頭に迷う生活を送られたそうで、さぞお辛かった事でしょう。では、こちらの部屋にご案内します」
木水は、亘宏を部屋まで案内した。
廊下にはワインレッドの絨毯が敷かれ、壁と床はアイボリーの大理石で出来ており、いかにも洗練された高級感を漂わせていた。更に、壁にはゴッホやピカソなど有名芸術家の作品が飾られていた。これを見て亘宏は、梨華は本物のセレブなのだと改めて分かった。今まで見た事が無い光景に、亘宏は案内されている間も辺りをキョロキョロと建物内を見渡していた。
「こちらが亘宏様のお部屋でございます」
執事がドアを開けると、そこには、一流ホテルのスイートルームを彷彿とさせる部屋があった。部屋には、外国から輸入したと思われる重厚な造りの家具が置かれてあり、白に統一された、おしゃれなデザインで金色の細工が印象的だった。きっと、凄腕の家具職人が作ったものなのだろう。
天井には、豪華なシャンデリアが吊り下がっており、毎晩、天井のシャンデリアを眺めながら目を閉じたら、きっと素敵な夢を見られそうな気がした。
更に、ソファやテレビ、パソコンも置いてあり、こんな部屋を今まで公営住宅暮らしだった自分が、果たして使って良いのだろうかと思った。
「今日はさぞかしお疲れになった事でしょう。この家にはお風呂がありますので、身体を洗ってください」
そう言われて、亘宏は執事に案内され、浴室に向かった。服を脱いで扉を開けると、公営温泉並みの広さだった。しかも、浴槽には大理石が使われており、壁には芸術的な彫刻が施されている。
身体を洗った後、亘宏は湯船に浸かった。温泉ではないので、身体的効能は特にないが、お湯はとても温かく心が和らいだ。これだけ広い温泉に一人でいると、何だか少し寂しい気もするが、今の亘宏はこれで十分満足だった。
「亘宏様、お風呂の湯加減はいかがですか?」
お湯に浸かってリラックスしていると、扉の向こうから使用人らしき人物の声が聞こえた。若い女の声である。
「うん、凄く気持ち良いよ」
すると、女性から声が返って来た。
「よろしければ、お背中を流しましょうか?」
それを聞いて、亘宏の期待が膨らんだ。
「お、お願いします」
亘宏が声を掛けると、「では、失礼します」の声と共にドアが開き、メイドが一人、入って来た。年齢は二十歳前後。黒いボブヘアーにぱっちりとした瞳、透き通る程の白い肌で、アンティーク人形の様に、小柄で愛らしい女性である。
「初めまして、亘宏様。私、この家に仕えるメイド・鳴海加奈と申します」
加奈は丁寧にお辞儀をすると、袖をまくって、タオルで亘宏の背中を丁寧に洗った。子供の頃に母親から身体を洗われた時を除き、女性から身体を洗ってもらうなんて生まれて初めての体験だ。しかも、こんなに可愛らしい女性に洗ってもらえるというギャルゲーにしかないシチュエーションを実際に体験出来るのは、願っても無い幸せだ。
女性がタオルで背中を優しくこする。鏡越しで眺めるその光景は、何とも心地良い。
欲を言うなら、一糸まとわぬ身体にバスタオルを巻いて登場して欲しかったけど、それでも立派なご奉仕である。
「それでは、お背中を流しますね」
背中が洗い終わると、加奈は亘宏の広い背中をシャワーで洗い流した。
「綺麗になりましたよ」
後ろから聞こえる可愛らしい声が、高揚感を増した。
風呂から上がり、肌触りの良いシルクの生地で出来た寝間着に着替えると、亘宏はベッドに寝転んだ。マットは、ふかふかとしていてとても柔らかく、布団とシーツの手触りも非常に滑らかで、このまま眠りに就いてしまいそうなくらいに、心地良かった。
その時、扉の向こうからノック音が鳴った。
「入っても良いかしら?」
梨華の声だ。亘宏が「どうぞ」と声を掛けると、梨華と木水が入って来た。
「どうだった? 私の家は」
「うん、とても良かった。使用人の人達も皆優しいし、こんなに良い所だとは思わなかったよ」
数々のおもてなしに亘宏は満足気に答えた。
「良かったー。合わなかったらどうしようかと思っていたけど、気に入ってもらえてとても嬉しいわ」
梨華の顔からは満面の笑みが零れた。こんなに素敵な笑顔が見れると、こちらも嬉しくなる。
そこへ、木水が口を挟んで来た。
「亘宏様、今日から我が邸宅にお住まいになりますが、その上でお願いがあります」
「えっ、お願いって?」
「一つは、この自宅には地下階に続く階段があるのですが、そこには決して立ち入らない事。二つ目は、梨華様からの許可なく、お一人で外出しない事。三つ目はこの家で周りに迷惑を掛ける行為はしない事。この三つを厳守していただければ、ご自由になさって結構です」
それを聞いて、亘宏は若干躊躇した。何故、こんな事を守る必要性があるのかが分からなかったからだ。
学校の校則も、教師が生徒を都合良く拘束する為の詭弁としか思えず、教師に叱られて癇癪を起こした事もあった。無論、これは自分が校則を守れなかった故の責任の押し付けではあるが。
でも、三つだけならどうにか守れるだろうし、断ったら追い出されると思い、亘宏はこれ以上深く考えずに「分かりました」と承諾した。
「じゃあ、今日は色々とあって疲れたでしょうし、早く寝ましょう」
「分かった。それじゃあ、お休み」
梨華と木水が部屋を出た後、亘宏は電気を消して、そのままベッドで目を閉じた。しかし、突然訪れた幸運に未だ興奮が収まらず、なかなか眠れなかった。
これから先、どんな生活が待っているのだろう。そんな思いを馳せながら、亘宏は眠りに就いた。
一話分が長かったので分割しました。




