Q11 もし、高級レストランでディナーが食べられたら?
夢の様な旅行から明けて数日が過ぎた。
朝食時、梨華が話しかけて来た。
「亘宏君。この前、美味しいレストランに行きたいと言ったでしょ」
「はい。確かにこの前言いましたけど、何で急に……」
「実をいうとね……」
梨華が呼び鈴を鳴らすと、フットマンが入室して、亘宏にチラシを見せた。
フットマンが見せたのは、高級イタリアンレストランのチラシだった。そこには、ワインで出来たデミグラスソースが掛かった、黒毛和牛のシャトーブリアンを使ったステーキの画像があった。ステーキの切り口から流れ出る肉汁が、食欲をそそる。
「これ、何ですか?」
「これはね、私の行きつけのお店のイタリアンレストランで出る、一日十食限定の貴重なメニューなの」
「一日十食限定?」
「うん、とても貴重な部位の肉を使っているから、先着十食しか出せないのよ。私も以前から狙っていたんだけど、忙しくてなかなか食べる機会が無かったのよね」
そんな事を語る梨華の表情は、何だか切なかった。セレブな梨華でも、なかなか手に入らないものはあるのかと亘宏は憐れんだ。
「それで、今日は仕事も早く終わる予定だし、亘宏君もいる事だから、今日は一緒に、ディナーに行こうかなと思って」
それを聞いて、亘宏の心臓に激震が走った。
高級イタリアンレストランで、梨華と一緒にディナーを楽しめるなんて、これ以上に幸せな事なんて、あるのだろうか。
夜、レストランで都会のビルを見ながら、赤ワインの入ったグラスで乾杯をする二人。
ワインを一口飲んで、ほろ酔い気分になった後、ステーキを食べる。
「ビルが綺麗ね……」
梨華が都会のビルを眺めながら、呟く。
「いえ、そんなものより梨華さんの方が、ずっと素敵ですよ」
「本当に? 私も亘宏君からこんなに褒められると、嬉しいわ」
「梨華さん、僕は梨華さんと一緒にいると、本当に楽しいんです。よろしければ、僕とお付き合いしてくれませんか?」
それを聞いて、梨華は
「うん、良いわよ」
笑顔で応じてくれた。
「僕は梨華さんの事が好きです」
「私も亘宏君の事が好きよ」
「梨華さん……」
「亘宏君……」
そして、二人は食事を終えた後、良いムードのまま、ホテルに向かい、熱い一夜を過ごすのであった。
上手くいけば、梨華と交際出来るかもしれない。そして、あわよくば童貞も卒業出来るかもしれない。これは、海外旅行以上に期待出来る。
そう考えた亘宏は、すぐさま「行きます!」と即答したのであった。
夕刻、使用人からスーツを着せられて(梨華曰く「店の雰囲気を壊さない様にする事が、マナーよ」との事)、フェラーリの車で例のレストランに行った。
梨華の話によると、これから行くという高級イタリアンレストランは、数多くの著名人も、お忍びで通っているという。
普段の亘宏なら、緊張のあまり頭の中が不安でいっぱいになるが、梨華と一緒にディナーが出来るという喜びから、その様な緊張感は全く無く、寧ろ内心ウキウキだった。憧れの女性とのデートが決まった時と同じくらいのテンションである。
そして、二十分後。ようやく件のレストランに到着した。
外装は、煉瓦で積み上げられており、無機質なコンクリートで出来た建物なんかと比べて、ノスタルジックな雰囲気があった。
中に入ると、シャンデリアが並び、ホテルの様に煌びやかな内装が飛び込んで来た。周りには、スーツを着た男性やおしゃれなドレスを着た女性がいる。割と人気のある店である事が分かる。
店内を見渡していると、ウェイターがやって来た。
「いらっしゃいませ、こちらにどうぞ」
ウェイターは、梨華と亘宏を席まで案内していった。
案内された先は、窓側の二人席だった。ガラス越しから見える都会の夜景が美しい。
席に座り、ふとテーブルを見ると、亘宏は驚いた。テーブルの上には、大小様々なナイフやフォーク、スプーンが、左右、前方に、ところ狭しと並べられていたのである。
イタリアンレストランに行った事が無い亘宏は、こんなにたくさんの道具は一体何に使うのかと疑問に思った。
そんな事も知らず、ウェイターは説明をする。
「お客様は、黒毛和牛のシャトーブリアンのフルコースをご予約されています。サイドメニューをご注文される場合は、テーブルに置かれたメニューに書いてありますので、そちらの方をご覧になってください」
早速、メニュー表を見た。
・アンティパスト パンツァネッラ風サラダ
・プリモ・ピアット ンドゥイヤとトマトのパスタ
・セコンド・ピアット 黒毛和牛のシャトーブリアン
・サラダ トマトとモッツァレラチーズとバジルのカプレーゼ
・チーズ ブルーチーズ
・デザート オリジナルティラミス
・コーヒー エスプレッソ
日本語であるにも関わらず、書かれてある用語がどれも聞いた事が無い言葉ばかりで、ほとんど意味が全く分からなかった。 特に、ンドゥイヤ。『ン』で始まるものなんてあるのか。後で、梨華に聴けば親切丁寧に教えてくれるだろう。
「また、当店ではこの他にも食前酒にワインのご注文が出来ますので、メニュー表をご覧になってください」
と、ウェイターは分厚い本を渡した。
「えっ?! 何ですか、これ?」
「この中には、当店が管理しておりますワインが全て記載されています。当店には全世界のワインを管理していますので、お客様のお好みのものがあれば、是非注文してください」
と告げると、ウェイターはその場を去って行った。
ファイルに大量の紙を挟んだ分厚い本にワインのメニューが全て網羅されているのかと驚きながらも、早速亘宏はワインのメニュー表を開くとそこにはイタリア語の文字がズラリと並んでいた。一体、何て書いてあるのかさっぱりだ。
亘宏の脳内は、パニックのあまり真っ白になった。
「どうしたの?」
梨華が心配そうに尋ねて来る。
「え、えーと……こ、これ……」
亘宏が指を差したところには、こんな文章が書かれてあった。
Domaine de la Romanee Conti Grand Cru 1960
それを見て、梨華はソムリエを呼んだ。
「すみません、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ ロマネ・コンティ グラン・クリュ1960年産をお願い出来ませんか?」
梨華の言葉に、亘宏は耳を疑った。
「えっ? ロマネ・コンティ?」
突如梨華の口から発せられた言葉の意味を亘宏は尋ねようとしたが、ソムリエは
「かしこまりました」
と言って、その場を去って行った。
「ロ、ロマネ・コンティっていうんですか……」
「そうよ。名前くらいは聴いた事あるでしょ」
「あっ、あぁ……確かに、名前だけなら聞いた事があります……」
読めない文章に混乱して適当に指を差した所が、まさかワインの最高峰と呼ばれているロマネ・コンティだったなんて。
知らなかったと言って、ドン引きされるのも嫌なので、苦笑しながら誤魔化すしかなかった。
何だか、取り返しのつかないことをしでかしてしまった気がした。
「でも、値段とか大丈夫なんですか? 最高級と言われるくらいだから、やっぱり……」
「大丈夫よ。これくらいのお金なら余裕で奢れるから」
「余裕って……一体いくらするんですか?」
「大体、百二十万円くらいよ」
「ひゃ、百二十万円?!」
高級ワインの値段に、亘宏は思わず大きな声を上げてしまい、周りの客が一斉にこちらに視線を向けた。
「あっ、お騒がせしてすみませんでした」
梨華が爽やかな笑顔でフォローをしてくれたおかげで、何人かの客が食事に戻った。
「あっ、あの、ご、ごめんなさい……」
「落ち込まなくて良いわよ。初めて来たんだから、緊張する気持ちは分かるわ」
せっかく慰めてくれているのに、その言葉が余計に辛かった。
その間に、ソムリエがワインを持って来た。ラベルに書かれた文字が威厳を感じさせる。ソムリエは、ワイングラスに並々と赤ワインを注いだ。
「さぁ、一口飲んでみて」
梨華に勧められて、亘宏は早速一口ワインを飲んだ。その瞬間、亘宏はすぐさま眉をしかめ、グラスを落とした。
「何これ!? 苦ッ!!」
亘宏は、思わず舌を出して吐き出しそうになった。
「お客様、大丈夫ですか?」
「す、すみません……味が合わなかったもんで……」
ウェイターから水を貰い、すぐさま舌に残った渋みを取る。ワイン特有の渋みは、素人の口には合わなかった。
更に、店員数名が駆けつけて来て、床とテーブルの掃除を始めた。
「大丈夫?」
梨華も心配そうに声を掛ける。
「す、すいません……」
まだ、料理が出ていないのに、せっかくのディナーで梨華に度々迷惑を掛けてしまい、申し訳なくなった亘宏は、頭を下げた。
「そんなに落ち込まなくても良いわよ。初めてだから、緊張しているだけ。これから、少しずつ練習すれば良いから」
梨華が優しく慰めるが、亘宏にとって、その言葉はかえって傷口を広げるだけだった。
「じゃあ、今度は甘いワインにする?」
「お願いします……」
さすがにワイン素人に、高級ワインの良さは理解出来なかった。
梨華の注文で、ソムリエが次に持って来たのは、白ワインだった。
「何ですか、これ?」
「これは、ムートン・カデ・レゼルヴ・ソーテルヌと言って、さっきのロマネ・コンティと違って、甘いからワインが苦手な人にもちょうど良いの」
それを聞いて、亘宏は新しいグラスに注がれた白ワインを飲んだ。
「うわっ、甘くてちょうど良い」
先程のロマネ・コンティとは異なり、甘くてまろやかな味わいが口の中に広がって行くのが分かった。先程の苦みを綺麗に中和していく。
「もう一杯、飲んで良いですか?」
「良いわよ」
そう言われて、亘宏はワインをもう一杯飲んだ。上品な味わいは、ワイン素人の亘宏を病み付きにした。
その後、前菜やパスタが出された時も亘宏はワインを嗜みながら食事を進めた。今までは、頻繁に酒を飲む方ではなかったが、ワインと料理、両方とも味が良かった事もあり、本人も気付かないうちにかなりの酒を飲んだ。
そして、
「お待たせいたしました。シャトーブリアンです」
遂に待ちに待った、シャトーブリアンのおでましである。
「おぉっ! 待ってました!」
ワインに夢中になっていて、すっかりステーキの存在を忘れていたが、メインディッシュを目の前にして、亘宏はかなり興奮した。
「よーし、それじゃあ早速頂いちゃうぞー」
早速、ナイフとフォークでステーキを切って、ステーキを一口食べた。すると、口の中で肉がとろけて無くなっていく感触が舌に伝わった。肉は、こんなに柔らかいものだったのか。肉汁も旨味があって、まさに高級と称されるだけの価値があると庶民の味覚でも分かった。
「それにしても、こんなに美味しい料理とワインがあると、とても進みますよねー」
お酒が入って、亘宏は普段より気分が高揚していた。
「あのね、亘宏君。ワインに夢中になるのは良いけど、あんまり飲み過ぎない方が良いと思うわよ」
梨華がワインに酔っている亘宏を諭すと、
「……そ、そんな……梨華さんは僕と一緒にいるのが楽しくないんですか?」
「えっ、何もそこまでは……」
「うっうっ……どうせ、僕は頭も弱くて運動もダメで喧嘩も弱い、貧乏育ちで低学歴のブサイクですよーだ」
梨華から口出しされたせいで、傷心した亘宏は愚痴を吐き始めてしまった。
「何で、僕はいつも上手くいかないんだー! 僕だって今まで散々努力をしてきたのに! 何で周りは認めてくれないんだよ! 皆、僕の事を馬鹿にして! 『人に迷惑を掛けるな』って言いながら、皆だって周りに迷惑を掛けているだろ! 僕は何も悪い事はしていないのに、いっつも叱ってばかりでさー! 何で僕ばかりがこんな酷い目に遭うんだー!!」
過去の事を思い出してしまい、亘宏は泣き叫びながら八つ当たりしていた。完全に酔い潰れてしまっている。
「お客様、店内で暴れるのは止めてもらえないでしょうか?」
ウェイターが亘宏に注意をしてきた。
「なぁにぃ~? お前も、アイツらの味方をする気にゃのかぁ~?」
亘宏はウェイターを睨みつけた。
「アイツらは、自分達の事を棚に上げて僕だけを除け者にして、無能な癖に生意気でムカツクとかどんだけ人に迷惑を掛ければ気が済むんだとか、お前らの方がよっぽど迷惑だってぇの!」
酒に酔って暴れる亘宏を眼前にして、店員が客に被害が及ばない様に避難させていた。
酔っている他、元々非力なのでそこまでの攻撃力は無く、ガラスを割るとかテーブルをひっくり返すといった問題行為は起こしていないものの、やはり見ている側からすれば、危険である事に変わりはない。
中には、その場から逃げる様に店を出る客もいた。
亘宏は、その後も酔っ払いながらも文句や愚痴を吐きながら、おぼつかない足取りで店内を歩き回った。
そんな時、観葉植物が植えられた植木鉢に、何かを見つけた。
「あれぇ……何、これぇ……?」
亘宏が見つけたのは、カメラだった。葉の中に上手く溶け込む形でカメラが仕込まれていた。何で、こんな所にカメラが仕込んであるのか。しかし、こんなカメラは、前にもどこかで見た事がある気が……。
どうにか記憶を思い出そうとしていたその時、突如何者かが背後から亘宏の後頭部を思い切り殴った。そして、亘宏の目の前は真っ暗になりそのまま意識を失った。
目を覚ますと、天井には豪華なシャンデリアがあった。それを見た後、身体を起こそうとしたら、頭にズキンと痛みが走ったので、再びベッドに寝込んだ。寝ながら辺りを見渡すと、そこは自室である事を理解した。
その時、ノック音が聞こえた。
「はい」
亘宏が声を掛けると、梨華が入って来た。
「良かった。意識が戻ったみたいね」
梨華は亘宏の意識が戻ったのを見ると、安堵の表情を見せた。
「大丈夫ですけど、どうして僕はここにいるのですか?」
「亘宏君、お酒を飲んで悪酔いしちゃったから、すぐさま木水を呼んでここまで連れて帰る事にしたわ」
「悪酔いって……もしかして僕あの店でお酒に酔い潰れて倒れちゃったのですか?」
酔っていて、その時の記憶がほとんど無かったが恐る恐る尋ねる亘宏に梨華は答えた。
「今後、二度とお酒は飲まないでよね」
どうやら、正解の様だ。
亘宏は申し訳なさそうに布団で顔を覆いながら、
「何か色々とご迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい」
と、謝罪した。
レストランで大失態をやらかしてしまい、せっかく楽しみにしていたレストランを台無しにしてしまった。店から出入禁止にされても、おかしくないだろう。
やはり、庶民に高級レストランは十年早かった。
当分、高級レストランに行く事は避けて、梨華の言う通りお酒も二度と飲まないでおこうと亘宏は思った。
レストランでのトラブルには気を付けましょう。お酒は特に。