リキニウス卿の粛清
少しずつ意識がはっきりしていく。ぼんやりとしていた視界が定まると、見知らぬ天井だった。白い清潔な布団に横たわり、これまた真っ白の服を着ている。
……病院?
それにしては心電図だの点滴だのがない。照明も、窓から差し込む太陽の光だけ。目をこすり、身体を起こして、ようやく思い出した。
ここ異世界だ。
現代日本ではなく、中世か、それより前の文明の国。
ふと、だれかの名前を呼ぼうとして、考える。だれを呼ぼうとしたのだろう。わからない。けど、この世界で名前を呼び合う相手なんてひとりしかいない。
俺はたったひとり、来てくれると確信している人間の名前を読んだ。
部屋にはいくつかベッドが並んでいるが、俺以外にはだれもいない。しかし、しばらく待っているとドアが開いた。
「おっ、起きたー?」
「見りゃわかんだろ」
「うわー、起きて早々ふてぶてし。もっと素直になれないかね」
アンはふすーっと不機嫌そうに息を吐き、俺の腕を掴む。
「やっぱもとには戻らないっぽいねー」
なにが、と聞こうとして、腕を見た瞬間。
思考がとまった。
腕はいつもの自分の腕ではなく、黒く、岩肌のようにごつごつした、鬼の腕になっていた。腕、というか右肩から先全部。
「って、なんじゃこりゃ!?」
「今気づいたの? バカなの?」
「いや、意識もうろうとしてたし寝ぼけてたし」
「まあ、それもそうか。どこまで覚えてる?」
「どこまでって、この前の戦いのときか?」
「うん。オーガと戦った時」
「オーガの首折って、そのあとぶん殴られて身体がひしゃげたとこまで」
「なるほど」
うむうむうなづいてから、アンは口を開く。
「あんとき、あんたオーガに殴られて瀕死だったんだよ。ぶっちゃけ手の施しようがなかった」
「だろうな」
たしかあのとき、右肩がもげ、背骨がひしゃげて内臓もだいぶ逝ってたはずだ。
「だから、オーガの心臓食わせた」
「いや、意味がわからん……」
「シルウィオには魔物の心臓を食べるとその魔物の力を得られるって言い伝えがあるんだよ。気持ち悪いから試す人はあんまいないけど、鬼って生命力強いし、もしかしたら回復するかなって」
そういえば、意識を失う寸前、なにか口に押し込まれたが、あれが心臓だったらしい。なんだそれ気持ち悪。
「ちなみにあのあとすぐ一個軍団が到着してオークは掃討、オーガも捕獲したよ」
「……ん? いや、ちょっと待て、オーガなら俺が倒したよな?」
「オーガはあんくらいじゃ死なないよ。すぐ回復する。けど、あんたのおかげでオーガは身動き取れなくなってたから、捕獲も簡単にできた。兵たちがあんたのこと化け物みたいに強いってほめてたよ」
「そりゃどうも」
「ま、しばらくは安静にしてな。体力が回復したらゆっくり静かな運動でその身体に慣れて、検査もしなきゃね。とにかく今は寝な」
「……つってもなぁ。もうだいぶ寝まくったぞ。どんくらい寝てた?」
「三日」
「マジか」
「うん。ほんとだよ。暇なら本でも読んでれば? 医学書ならあるし」
「っつーか、ここどこだよ」
「軍団基地がある街の病院。あたしらが住んでる街から馬車でまる一日のとこ。たしか、近くに図書館もあったよ」
「お前の頭の中には本のことしかないのか」
「失礼だね。ちゃんと実地の治療のことも考えてるよ」
「さいで」
会話が途切れると、アンはどうしたものかと視線をさまよわせ、隣のベッドに腰かけた。
「なんの話だったっけ?」
こいつ鳥なの? ワン動作挟むと忘れるの?
「安静にっつっても暇だなって話だ」
「だから、本」
「漫然と本読むのって苦手なんだよ。稽古なら強くなるって目的があるけど、ただ読めって言われてもどうもな」
「ふーん。とりあえず、あんたがすっごいわがままな男だってことはわかったよ」
「うるせ」
アンはしばし考え、なにか思いついたのかぱっと顔をあげた。
「じゃああれだ、市民権でも取れば」
「は? どういうことだよ?」
「帝国の市民権だよ。身分の保証になるやつ。ないよりあるほうがいいからね。うっかり冤罪で死刑になったときどうしようもないし」
俺が解せない顔でいると、アンは説明を続ける。
「市民権持ってると、控訴権に私有財産の保護、属州勢の免除、困窮した場合には小麦の無料配布なんかが受けられるんだよ。で、市民権は基本的には世襲だけど、帝国人でなくても取得することができる。軍団に入った人間と、医者と教師。だからあたしも市民権は持ってる。ていうか、そのために医者になったんだしね」
「はー……。なんか、進んでんな」
あんまり中世ヨーロッパ感はない。むしろ近代国家っぽい。
「それ、黒人は取れないとかあんのか?」
「べつに。医者、教師でさえあれば出自、身分は問わなれないね。軍団兵は、体格とかでの制限はあるけど」
「なるほどなー。じゃあ、教師にでもなるか」
「えー。なんで? 医者じゃないの?」
「お前とかぶるの嫌だから」
「なんだよそれ! ほんっとムカつくやつ」
「悪かったな。適当に、よさげな本持ってきてくれ」
「そんくらい自分でやりな。歩くくらいできるだろ」
言うと、アンは部屋を出て行く。
図書館の場所だけ聞いときゃよかったな。もう遅いか。自力で探そう。
それからは病院での読書生活が続いた。明確な目標を立てさえすれば、それに突き進める。目標を達成するための計画を練り、頭の中を新しい情報でいっぱいにしていれば、あの人のことも忘れていられる。
とくにハマったのは魔物の図鑑と名将列伝だ。もとの世界になかった魔物の知識は新鮮だし、自衛隊出身者としてはこちらの世界の戦術戦略に興味がある。それらの本を読みふけりながら、一日一日が過ぎて行く。
一ヶ月足らずで退院することになった。病院での最後の夕食をとっていると、アンが入ってくる。
「やっほー。元気なった?」
「おかげさまでな」
「だろ。あたしの処方のおかげだね」
「今のはうちの国の社交辞令だ」
俺が突っぱねると、アンは表情を強張らせてほおをぴくつかせる。
「あんたって本当に……」
「あ? なんだよ、やんのかおら」
「いやだよ、だれがオーガ殴り殺す男とケンカなんかするか
「賢明な判断だ」
一通り軽口を叩くと、アンが本題を切り出す。
「明日退院だけど、あたしらの街ぶっこわされたから、帝都に行かない?」
「けっこう話飛んだなー。え? そんな壊れてた?」
「うん。とくにオーガが荒らした一帯はね。建物がへし折れてる。住めたもんじゃない」
「そういえばそうだったな」
俺とアンが暮らしてたマンションもぶっ壊れてたはずだ。街が再建されても家はない。
「だから、新しい家探さなきゃいけないんだけど、このさい帝都行かない? 情報が集まるから勉強もはかどるし、あたしも帝国の医学を学んでみたいし」
「いいんじゃねぇの? あんな辺境の地でまた魔物に襲われても嫌だし」
「じゃあ決まりだね。あたし荷造りしてるから。明日、退院したら出発するよ」
「へいへい」
言いたいことだけ言うと、アンは出て行く。
翌日に退院し、そのまま帝都に向けて出発。使うのは馬車だ。
アンが御者を務め、俺は車の中で悠々と読書。整備された街道を行くので道に迷うこともなく、魔物が出ることもないので、冒険ではなく本当にただの旅だ。面白みはないが、安全に越したことはない。
帝国は内海を中心に広がっている。内海に突き出した半島が本国で、その中心に帝都がある。領土は南と南東は砂漠まで、西と北は海岸まで、北東はレルス河という大河が国境だ。レルス河の対岸には森林地帯が広がっており、そこが魔物の巣窟。ほんの一部だけ、帝国領土の内部に森が進出している箇所があり、その一部の中にあるのがアンたちの住んでいた街。その街から南にくだり、帝都に向かう。
帝国の首都、ルースが建設されたのは約800年前。当時は一都市国家にすぎず、それが徐々に領土を広げ、現在の大帝国に成長した。今、この世界にある国は3つで、ひとつはルース帝国、もうひとつはアイリア王国、最後にラエガ王国。しかし、アイリアもラエガも帝国傘下にあり、領土的にも前者は帝国の東端にくっつく形、後者は帝国の属州の内部にあるので、実質的には帝国が唯一独立の国家といっていい。ルースは帝国といっても皇帝が治めているわけではなく、最高官職は選挙によって選ばれる執政官で、統治機関は600人から成る元老院、行政と立法の最終決定権は市民集会にある。
ここまでが馬車の中でアンから聞いた帝国の情報だ。
旅は15日で終わり、帝都に到着。適当な宿に入る。
「さすがに疲れたね」
「そうだな」
アンがベッドに倒れ込み、ごろごろぐでる。俺は帝都の地図を眺めていた。
「俺、ちょっと休んだら街見てくるから」
「それならあたしも行くよ。晩飯も適当に食べよう」
わかったとうなずき、俺も床に座る。
十分ほど休んでから、アンと二人、小銭を持って宿を出た。
帝都はそれほど広いわけではない。そのたいして広くない空間に、これでもかというくらい住民がすし詰めにされている。街の回りは城壁に囲まれて、9つの門で外と通じている。アンたちの街と違い、道並みは曲りくねり入り組んで、建物は上の階が路上に突き出している。一言でいうなら混沌。カオス。ケイオス。
「……なあ、アン、ここって何人くらい住んでんの?」
「たしか、二百万ちょい」
「二百万!?」
「っさいなー。耳元で叫ばないでよ」
あまりの衝撃に叫ぶと、アンがうざったそうに両手で耳を塞ぐ。いやしかし二百万てお前。
どおりで街道が人でごった返しているわけだ。ごった返している人々はほとんどが茶髪で、それほど背の高くない西洋人っぽい骨格の人種。あれがルース人らしい。それ以外には金髪碧眼のシルウィオ人や、ギリシア系っぽい人たち、まれにだが黒人もいる。
「アメリカ並みに人種のサラダボウルだな」
「ごめん、なに言ってるのかまったくわからない」
「帝国って、ルース人だけの国じゃないんだなって」
「そりゃあね。そもそも市民権を得るのに出自が関係ないくらいだし。都市国家だった時代から多人種他国人が移住してくるのは歓迎してたらしいよ」
「はー。ずいぶん鷹揚な国だな」
「だからここまで大きくなれたんだろうさ」
アンとだべりながら歩き、適当な場所で夕食をとる。ルースでは寝そべって肘つきながら食べるのが正式な食べ方らしいが、日本人のおっさんとシルウィオ人の小娘にそのスタイルは合わず、座って食べる。夕食を済ますと首都のさらに中心部へ向かった。
そこにはよくわからん、だだっ広い空間があった。円柱の柱に囲まれた四角い空間がいくつかあり、その中に人が集まっている。アンたちの街にも似たような場所があったから、それと同じ用途の建物なのだろう。会合場所、といったところか。
会合場所の一角に図書館があり、アンはそこで医学書を眺め、俺は司書さんから教師になる方法について話を聞く。ここの司書はシーラスという名の老人で、もと奴隷。チップをためて解放奴隷となり、その後勉強して教師になって市民権を得たのだそうだ。そののちとある元老院議員がその教養に目をつけ、国立図書館の司書になったのだという。本当に運と才能と実力次第でどこまでも行ける国らしい。
知りたいことを知り、アンと宿へ戻る。ふたりで話し合い、アンは診療所に働き口を探し、俺は住居を見つけることになった。今日は眠って身体を休め、次の日から行動を開始する。教師の勉強はひとまずお預けだな。その代わり、住居と働き口が見つかったら、俺は教師の勉強に専念させてもらう。その間の生活費は任せろとのこと。こいつはバカだが意外と生活力はたくましいので、頼っても大丈夫だろう。
いままでなんでもひとりでやってきたが、こういうのも案外楽しいものだ。
アンの働き口は意外とすんなり見つかり、すぐに俺も住居を定める。新しい家は前のと同じ、ひとつの建物にたくさんの住民が部屋を借りる、言ってみればマンションで、アンの仕事場のすぐ近くにある場所。今回は三部屋あり、またもうひとつ部屋を借りるのも金がかかるので、アンと同居。ただし、寝室は別にした。ガキ相手に思うところはないが、単純に寝相が悪そうでいや。
そこでアンは医者の勉強をしながら働き、俺は教師になるための勉強、たまに司書さんのところに通っては本に載っていないようなことを教えてもらう。この国の教育事情や政治、軍隊の構成、有力な元老院議員の情報といったお堅いことから、とある議員が別の貴族に奥さん寝取られたとか、劇場のチケットの安い入手法だとかいったわりかしどうでもいいことまで教えてもらう。劇とか見ねえしな、俺。
この日もいつも通り午前中の勉強を終え、昼食ついでに司書さんのところに寄って話をしていた。
「そういえば、もうじき選挙があるけど、それまでに市民権は取れそうかね?」
「あ? ああ、選挙ねー……どうだろうな。わからん」
「今回の選挙は融和派と拒絶派の戦いだから、辺境暮らしの市民たちもこぞって投票しに来るだそうだよ」
「はーん。それは大変なこって」
融和派と拒絶派。現在、元老院はその二派に分裂している。魔物との共存共栄を図る融和派と、国境に壁を作って魔物との関係を一切断ち切り、人間はその生存圏の中で暮らしていくべきとする拒絶派のふたつだ。前者は拡大主義、後者は現状維持派といったところか。
この国の政治階級は元老院だが、政府の役職は選挙で決まる。資格年齢以上の議員がその役職に立候補し、票を多く集めた者が就任できる仕組みだ。政府のトップは執政官で、それ以外にも財務官や按察官、法務官などがある。
「おっさんはだれに投票するんだよ」
「執政官にかい?」
「そうだ」
「私はリキニウス卿だよ。家族が辺境暮らしなんでね。早く防壁を作って魔物から守ってもらいたいものだ」
「なるほど」
現代日本人が国境に壁を、とか聞くと某アメリカ大統領しか思いつかないのだが、難民ではなく魔物を退けるための防壁なら需要は多いだろう。むしろ、いままで作られなかったのが不思議なくらいだ。
「リキニウス卿とやらは勝てそうなのか?」
「どうだろうね。国境沿いに住んでる人は拒絶派を推しているけど、内陸の住民や貴族たちは領土拡大の可能性がある融和派を支持しているから」
「で、選挙場にこれるのは首都近くに住んでる住民だけと」
おっさんがうなづくと、俺も苦笑いを返す。
それから30分ほど話し、図書館を出る。選挙は三日後に行われたが、予想以上に辺境から首都の投票場までやってきた市民が多く、執政官にはリキニウス卿が選ばれた。リキニウス卿は任期が始まるや防壁作りのため、北部属州へ向かい、首都の行政は法務官のひとりに任された。帝国での土木工事は軍団兵が担当する。武将としても一級品のリキニウスは兵たちを使って効率的に作業を進め、防壁作りは順調に進んでいた。
一方、俺も教師になるための勉強を続け、今日は試しに司書さん相手に授業をした。一通り終えると、司書さんの評定がはじまる。
「武将の逸話と魔物の知識なら豊富。幾何、算術、論理は及第点、ただルース語の文法がおぼつかないね。まあ、なれるにはなれるが、あとは生徒との接し方次第ってとこだね」
「はーん。で、どうしたら教師って認められるんだ?」
「按擦官からの認定をもらい、生徒に教え始めれば。今から按察官の役所に行くかい?」
「そりゃ今日行けるなら行きたいが」
「よし。それじゃあ、これを飲んだら行こうかね」
司書さんはしわくちゃの指でカップをとる。その中には甘く味つけした温かい牛乳に、卵黄とほんの少しアルコールを混ぜたもの。ミルクセーキと卵酒をフュージョンさせたみたいなやつだ。アンが「身体にいいよ、おじいちゃん」とか言って作り方を教えていたやつだ。シルウィオ族の家ではよく飲まれているものらしい。
「アンちゃんは元気かい?」
「ああ、毎日くそうるせえ」
「いいじゃないか。うちの家内なんて無愛想なもんでね。君たち、結婚はしないのかい?」
「なんで俺があれとくっつかなきゃいけないんだよ。鳥肌立つわ」
「そこまでいやかね……」
じいさんが目を丸くしていた。いやだってアンだしなあ……。まあ、アンは所詮アンですし。あいつにヒロインルート昇格などという未来はない。ある意味落ち着く。安心安全のアンちゃんなのだ。なにをいってるんだ俺は。
ミルクセーキ酒を飲み終えると、じいさんは立ち上がり、図書館を出る。俺もあとに続いた。
按察官の役所は会合所内の一角にある。そこに向かう途中、なにやら慌ただしい一団とすれ違った。
「……あれは、クリオか?」
「知り合いかよ?」
「ああ。最近元老院の議席を取得したばかりの、ケンカっ早い小僧だ。融和派で、リキニウス卿を嫌っとる」
「はーん。じゃあこの一年間はつまらんだろうな」
帝国の役職は財務官以外、すべて一年任期だ。財務官は戸籍調査や税金管理など、長期にわたって作業する仕事が多いため、実質的な任期はなし。
俺の言葉に、じいさんは心ここにあらずといった様子でうなづく。それでも足は動き、やがて役所が見えてきた。そのとき、悲鳴が聞こえた。
怒号があがり、やがて静かになると役所からさっきすれ違った一団が出てくる。その中にいた、俺と同年代の男がこちらに気づいた。
「クリオ! なにやっとるんじゃ!」
「シーラス! 革命だ! 革命を起こす!!」
それだけ言うと、ぽかんと口を開ける俺たちを置いて、若い議員の一団は別の場所へ駆けていく。彼らが腰にしている短剣の鞘からは、まだ新しい血が流れ落ちていた。
翌日、正式な発表があった。
執政官リキニウスが首都を不在にしている隙をつき、融和派の中の、過激な若い議員たちにより、リキニウス卿シンパの議員たちが殺された。彼らは元老院で演説を行い、そこでリキニウス卿は防壁建造の名目で正規兵を集め、それらを私兵化して帝国の軍事力を手中にし、独裁者になろうとしていると説いた。議員たちの賛同を得た彼らはリキニウス卿を国家反逆者とし、執政官の地位を剥奪した上で、執政官選挙でリキニウスの次に票を集めていたカテリナを新たな執政官に任命。謀反人リキニウスを討つための討伐軍を編成し、北へ向かわせた。
元老院は非常事態を宣言し、役所も必要最低限以外の通常業務を休業。俺の教員免許取得は無期延期となった。お上騒動で迷惑を被るのはいつだって下々である。やはり世界はクソだな。
帝都が騒然となったのも数日の間で、市民たちは一通り騒ぎ終えると普段の生活に戻った。それでも想像力はとめられないのか、さまざまな憶測が飛び交う。
この事件の真の首謀者は執政官となったカテリナではないのか。リキニウス卿は討伐軍に反抗するのか、降参するのか。あるいはクーデターを起こした若者たち自身が独裁者になろうとしているのではないか、などなど。
噂をする程度には余裕のある市民たちと違い、俺の問題は切実だった。非常事態宣言が解除されなければ教師になれない、教師になれなければ金が稼げない、金が稼げなければアンに頼るしかない、小娘に頼りっぱなしじゃ気が済まない。
ようするに俺はイライラしていた。
生徒にナメられないようにと、図書館でシーラスと弁論の訓練をしていたが、それも飽きてくる。
「なー、シーラス」
「どうした。気の利いた反論でも思いついたか」
ちなみに、弁論では、俺はいつも一方的にボコられていた。なあなあで済ますことには定評のある日本人に弁論とか無理やて。
「噂、どれが本当だと思う?」
「噂は真実じゃないから噂なのだよ。私の意見でいいかい?」
「ああ」
「リキニウス卿の身は潔白だよ。クーデターを起こした若者たちも私利私欲でやったんじゃない。彼らはみな、本気で国の行く末を憂いていたんだろう。リキニウス卿は防壁を築くことで、融和派は人類の領域を広げることで、帝国の未来を切り開こうとした。ただ、法的に正式な立場を持っていたのはリキニウス卿で、執政官の資格年齢に達するまで十年待たねばならない彼らは若さゆえの焦りと視野の狭さで過激な手段をとるに至った。まあ、こんなところだね」
「はーん。難しい話はよくわからん」
「いや、教師志望ならこのくらいわかってくれ。そういえば、今日はアンちゃんは?」
「アンちゃんは普通に仕事だ」
「そうか……こんな小僧じゃなくめんこいお嬢ちゃんと顔突き合わせて議論したいよ。目が疲れる」
「ケンカ売ってんのかじじい」
「はははっ。やはり若い子はケンカっ早いねぇ。わしもそうだったがな」
一通り話し、俺は何冊か本を借りて図書館を出る。
非常事態といっても、民衆にはあまり実感はない。そのことを思い出させるのはまれに会合所に張り出される、リキニウス討伐軍の経過発表のみ。
リキニウス卿は国賊に指名されたことを知るや、防壁建設を切りやめ、率いていた兵士たちにリキニウス個人への忠誠を誓わせる。その後、国境線を南下し、自身の別荘に向かった。この国の有力者の別荘はただの別荘ではなく、小さな農村とも言うべきもので、屋敷の周りには畑が広がり、家畜も飼っているので自給自足生活が成り立つくらいだ。さらに、国境付近の別荘は魔物の襲撃から守るための自衛戦力を保持している。神出鬼没の魔物を相手にするため、自衛戦力はほとんどが騎兵だ。そのため、別荘の主人が所有する戦力は騎士団と呼ばれる。リキニウス卿が別荘に向かったのもこの騎士団と合流するためだ。
数ある騎士団の中で、リキニウス卿所有のバレルタ騎士団は帝国の最強戦力と呼ばれている。騎士団との合流を果たしたリキニウス卿は街道を南下し、北方属州の南端部で、北上してきた正規軍と相対した。
このときの正規軍の戦力、5個軍団に騎兵千騎。
対するリキニウス卿は防壁工事用に連れていた3個軍団に、バレルタ騎士団7700。一個軍団は六千人だから、正規軍3万1千に対し、リキニウス卿は2万6千。
激戦と呼べるほどの戦闘にはならなかった。勝敗は実にあっさりと、短時間でついた。
このときの両軍の死者、正規軍2万7千。リキニウス卿の手勢、23人。
リキニウス卿の完勝だった。
正規軍壊滅のニュースは首都を騒然とさせたが、それも二度三度と続くと慣れてくる。
新たに編成された討伐軍がリキニウス卿に蹴散らされても、市民たちは「ああまたか」と嘆息し、軍部のお偉いさん連中をバカにし、俺ならこうこうこうやってリキニウス軍を破るだの、俺ならここで足止めしてそのうちにリキニウスの首をとるだの、“ぼくのかんがえたさいきょうせんじゅつ”を披露し合う。民衆が愚劣で無能なのはどの世界も変わらないのだろう。
俺はといえば、昼間は図書館に入り浸り、勉学にはげみときどき司書さんとだべる。家に帰るとアンと口喧嘩したりしなかったりで、ようするにいつも通りだ。教師の資格が取れないことを除けば、俺の日常は大過なくすぎていった。
そしてとうとう、首都の城壁を望む平原で行われた会戦でリキニウス卿が勝利し、城門は開かれ勝者リキニウスは首都に入り、融和派の粛清をはじめた。
リキニウスは融和派に連なる者の名簿を作り、そこに名が乗った者は必ず処刑すると宣言し、実際にその通りになった。それからは毎日のように元老院も貴族も市民も関係なく、融和派に連なる人間が殺された。その処刑は一週間立った今日も続いている。
俺は今日は図書館には行かず、間借りしたマンションの一室で本を読んでいた。アンは朝から病院へ勤務。
ひとり巻物をたぐっていると、ドアがノックされる。俺もアンもここへ来て日が浅い。訪ねてくる人間など限られている。
ドアを開けると、そこには見慣れた人物。帝都の大図書館で司書を務める、元奴隷の老人、シーラスが立っていた。
俺が声をかけようとすると、シーラスは廊下の奥へ手招きする。
「こっちです」
だれかいるのかといぶかしんでいると、がちゃがちゃと金属が鳴る音。あらわれたのは、鎧に身を包んだ兵士だった。
「カミヤソウだな」
「繋げていうんじゃねーよ。なんかの草の名前みたいになるだろ。神谷、想だ」
「リキニウス卿の名簿に名が乗った。来てもらおう」
「は?」
俺が間抜けな声をあげると同時、数人の兵が中に入ってきた。反射的にぶん殴った。
鎧はひしゃげ、五人の兵がまとめて肉塊と化す。
ここに来てから、魔物化した右手は布で覆って隠している。アンにこのことは秘密にしておいたほうがいいと言われたからだ。しかし、全力で殴ったことで、その布も破れた。中から黒い、岩肌のように変化した腕がのぞく。それを見たシーラスが目を輝かせた。
「ほらっ! 言ったろ! あいつは魔物だ! 人の形をした魔物なんだよ! 賞金くれるんだよな!? え、融和派に連なる者を密告すりゃあ銀貨300枚って今朝発表されたよな!?」
年甲斐もなくはしゃぐシーラスを押しのけ、さらに十人前後の兵が入ってくる。殴って頭を飛ばし、蹴って胴体を寸断し、頭を掴んで握りつぶす。
鬼のパワーがあれば、技術など必要ない。見た目が変化しているのは右腕だけだが、中身はほぼ全身が鬼だ。皮膚も刃を弾くほど硬い。
配下の兵がやられたのを見ると、隊長格の男は逃げ出す。俺はそばでわめき散らしているシーラスを殴って肉塊に変えてからそのあとを負った。
ここはマンションの7階。本気で地面をければひとっ飛びで追いつくだろうが、床が崩れたら面倒だ。
気づけば頰が緩んでいた。狂気が沸き起こってくる。あえてゆっくりと走り、あいつとの鬼ごっこを楽しんでから、いたぶって殺そう。
階段に到達する手前で、兵の足が鈍った。ついで、聞き慣れた声。
「ソウ!」
アンは必死の形相で俺の名を呼んだ。兵は驚き、腰の剣を抜いて、怒号とともに斬りつけた。
首元を切られて血が吹き出すアンを突き飛ばし、兵は階段を転げんばかりの勢いで降りていく。それを追う足は、とまっていた。
アンは虚ろな瞳でこちらを見上げていた。
何か言おうとしたのだろうか、口元が動く。ぎこちない動作で腕をこちらに伸ばし、そして最後にやさしく微笑んだ。
静寂。耳の奥がつんとする。血だまりが広がって足を濡らした。
アンの身体を抱き上げると、意外と軽い。
俺は走った。階段を駆け下り、帝都の門を突き破り、街道を北へ。
走りながら、考えた。
あいつは懸賞金だとか言っていたが、俺はそれを知らなかった。なら、今朝発表されたばかりで、部屋にこもっていた俺は知ることができなかった。俺はあいつには自分のことを話した。弁論の訓練のとき、魔物と人間の違いについて議論している途中、熱くなって、自分の身体に起きた変化を話してしまったのだ。だからあいつは、銀貨欲しさに話をでっちあげた。俺の身体は半分が魔物で、だから融和派に近い存在で、俺と一緒に住んでるアンもまた、融和派に与する人間だと。
銀貨三百枚。知り合いを売るには十分な額だ。
鬼の脚力で走れば、馬よりも早い。見る間に帝都の城壁は見えなくなり、本国の端までくる。北方属州に入り、森林地帯も見えてきた。帝国内にいる限り、リキニウス卿の手から逃れることはできない。なら、魔物の巣窟にでも逃げ込むしかない。
ふと、思い出した。
リキニウス卿の別荘があるのはこの辺りだ。たしか、国境に沿って行けばあったはず。
国境は幅一キロ以上あるレルス河だ。これに沿っていけば、その別荘は見つかるはず。
月明かりだけが照らす夜道、河の流れる音だけが響く道を走っていると、遠間に屋敷が見えてきた。周囲を柵と壕で囲まれ、敷地の中には畑と、小屋が点々と建っている。
見回りの兵がこちらに気づき、なにやら声をあげる。無視して突っ込み、柵を乗り越えた。
背後でラッパの音。にわかに屋敷が騒がしくなり、門が開いて兵士が飛び出してくる。アンを抱えたまま、体当たりと蹴りだけで相手をする。矢が飛んでくるが、鬼の皮膚には通じない。ゆっくりと歩いて屋敷に近づき、壁を蹴った。それだけで穴が開く。とりあえず、この屋敷は壊そう。
その前に外の兵が邪魔だ。引き返し、兵の相手をする。ほんの少しつついただけで、鎧は陥没し、兵の胴に穴が空いた。
しばらく兵の相手をしていると、馬のいななきと共に騎兵が突っ込んできた。だが変わらない。
馬も人間も、一蹴りで潰れる。
このまま全員殺してしまおうと思ったときだ。
喉元を冷たいものがかすめた。
考える余裕などない。魔物となって強化された反射神経と、武術家の本能だけで避ける。だが、その距離は一瞬にして詰められ、二太刀目が肩を切った。
血が噴き出した。
とっさに地面を蹴り、数十メートル後方へ。その騎士を見据える。
奇襲で時間がなかったからだ、兜はつけていない。月光が白く照らす顔立ちは端正で、今この状況すら忘れて、ため息ついてしまうほど、美しかった。長い黒髪の少女は飾りっ気のない鎧に身を包み、片手で手綱を握っている。年の頃はアンより少し上くらい。
怜悧な瞳に射抜かれ、身体が硬直する。その隙を彼女は見逃さない。
気づけば槍が足を貫いていた。槍を投げた少女はなんのためらいもなく剣をこちらに向ける。
再び、跳躍。土煙を上げ、空高く飛ぶ。片足だからコントロールは効かないが、それでも少女から離れられた。槍を引き抜き、足を無理やり動かして森を目指す。レルス河を渡って、ようやく腰を下ろせた。
大樹にもたれ、アンの死体を抱き寄せる。
ぼーっとこの世界に来てからのことを考えて、もとの世界のこととか、もしかしたらあったかもしれない未来のこととかも、空想が頭の中を駆け巡る。
そのままの姿勢で、朝を迎えた。アンの死体は死後硬直もとけ、柔らかく、とても冷たい。
「……なー、アン、これからどうすればいいと思う」
ここへ来てから、ずっとアンの言葉に従っていた。教師にだって、こいつの勧めだ。こいつが目標を決めてくれたから、俺はそれを達成するために頭を使って、だから、嫌なことも考えずにすんで、こいつと暮らし日々は、楽しかった。
朝起きて、互いに寝起きの顔のひどさを笑いあって、朝飯のときはケンカを一時休戦して、それが終わると仕事に出て、帰ってきたらまた口ゲンカして、軽口叩いて。
——悔しいなぁ。
なにも思い通りにいかない。負け組で、負け犬で。
俺はもとの世界にいたときから負けっぱなしだった。親に負け、教師に負け、同級生に負け、恋は戦というなら、それにも負けて。
この世界では、 リキニウス卿に負け、バレルタ騎士団の少女に負け、アンを失った。
——世界が変わったって人は変わらない。
つまらない。
くだらない。
一度の勝利も掴めない、自分なんて大っ嫌いだ。
頰を涙が伝う。悔しくて悔しくて仕方ない。なんで勝てないんだ、なんで俺はこんなに弱いんだ。
何度も何度も考えたことを、また考える。考えたって仕方ないけれど、考えられずにはいられないから。
宮高さんを好きになったとき、今度こそ勝ちたいと思った。この人さえいれば、いままでの敗北も失敗も、すべて忘れられる。いままで失ったもの、手にできなかったもの、そのすべて、どうでもよくなる。この一勝で、すべて覆る。
けれど、ダメだった。
この人さえいればほかには何もいらないと思った。だから、この人がいないならほかのすべては無意味だ。
いまさらだれかを好きになるつもりなんてない。なにかを大事に思うつもりもない。いまさら、勝利なんて望まない。
だから、これはただの八つ当たりだ。弱い自分は嫌いだけど、こんなくだらない世界は、それと同じくらい嫌いだから。
――だから、こんな世界は壊してしまえ。
朝日が網膜を焼く。アンの死体を置いて、森の奥深くへ。今はまだ、力が足りないから。