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異界戦記  作者: 八神あき
3/7

黒鬼

二ヶ月足らずで帝国語の読み書きとシルウィオ語を覚えた俺は褒められていいと思う。おもに宮高さんに。しかし、

「おー、二月で覚えるとかすごいじゃん。意外と頭いいんだね、あんた」

褒めてくれたのはクソガキ小娘。ぜんぜん嬉しくねえ。あと、意外は余計だ。

図書館で借りていた詩集を閉じ、思い切り伸びをする。

「じゃ、働きますか」

「へいへい」

立ち上がり、診療所を開ける準備。アンはパピルス紙のカルテを眺め、薬を調合。俺は水瓶と暖炉の用意、それから薬の在庫確認、床の掃除。

アンは医療行為をかなり手広くやっている。基本は風邪やら腹痛やらの薬の処方だが、この前は兵舎の中にある病院に出かけて大掛かりな手術の手伝いをしていた。落馬して足を折ったとかなんとか、とにかく大怪我した男の手術だ。それ以外にも、カウンセリング的なことからクソどうでもいい事例まで。そして何気にこのクソどうでもいい事例が多い。今日も何人か来た。三人ほど例をあげると、


「妻の浮気癖が治らんのじゃ、なんとかしてくれ」

「他の男に目がいかないくらい、あんたが魅力的になればいい話だよ。次」

「うちの息子ったら変なんです。前は頭がよかったのに、最近はなんでもかんでもあべこべで、良いことを悪いと言って、怒られたら喜び褒めたら怒るんです」

「ただの思春期だよ。ほっときな。次」

「あの、アンお姉様、僕いけない子なんです叱ってくださいぃぃぃいいい!!」

「帰れ変態豚男。次!」


と、まあ、こんな具合である。最後のやつとは個人的に仲良くなれそう。

そんな感じで、午前の診察を終える。診察は午前中だけで、午後の過ごし方は日によってまちまち。

「今日は薬草とり行くから、護衛頼んだよ」

「へいへい」

いつも通り、アンの部屋で飯を食う。ちなみに隣は俺の部屋で、電気ガス水道エアコンがないことを気にしなければ快適。最後の致命傷じゃねぇか。

閑話休題。

昼食を終えると、ふたりして出かける用意。といっても、薬草を入れるカゴを持ってくるだけだが。それだけ持って、出発。

並んで街道を歩き、門番に挨拶して外に出る。出てもしばらくは敷石舗装の街道。森の中に入ってしばらくしたら、それも途切れる。

人が歩いてできた道を歩くことしばし、お目当の薬草が生えている場所に着いた。アンはしゃがんでぶちぶち草を抜き始め、俺はすることがないのでぼんやり森を眺める。

「そういやさー」

「なんだよ」

「あんた、どんなところ旅してきたの?」

「急になんだよ」

「暇だったから」

「手動かせ」

「動かしてるよ。あたしはあんたと違って器用だから、話しながらでも作業できるし、手先動かすだけの単純作業じゃ頭が暇なの」

「へー」

生返事をすると、ほら、とアンが先を促してくる。どうしたもんかねー……。

適当にでっちあげるか。いや、それこそ即興でホラ話できるほど器用じゃねーしな。いっそ本当のこと言うか。信じてもらえるかわからんが、こいつに言ったところで害なさそうだし。バカだから。

考えていると、アンはひとり鼻唄を歌い始めた。どうでもいいけど歌唱力高いなこいつ。

子守唄のような音色。綺麗で、落ち着く、澄んだ歌声。

「あー、俺さー、旅人って嘘なんだ」

「じゃあ、国外追放者?」

「もっと違うわ」

「じゃあなにさ」

「あー、なんつーか、その……」

ぼりぼりと、頭をかく。目を泳がせて、それから息を吐いて、ぶっきらぼうに言い放った。

「別の世界から来たんだ、俺」

「薬草採取はやめてすぐ診療所に戻ろう」

「ゆっくり作業してていいぞ」

「あんたの頭を診るのが先だよ。どっかで打った? あんたバカだから、階段から転んだりした?」

「転んでねーよ。つーか、お前はことあるごとに俺をバカにしてくるよな」

「だって、ほんとのことだから……」

言って、アンはふっと、伏せた目に憂いをひそませる。そんな恥じらう乙女が秘め事打ち明けるみたいな仕草で言うな。余計腹たつ。

「あー、とにかくだなー」

ぼりぼりと、頭をかきながら口を開くと、背後から物音がした。次いで、咆哮。

「ごあああ!!!!!」だか「ごおおお!!!」だかわからん叫び声に、地面をふみ鳴らしてこちらに走ってくる。振り向くと、目を真っ赤に充血させたオークが棍棒を振り上げて迫っていた。人が話してる途中に……。

「さっさと逃げ……」

言いながら、アンのほうを向くと、そこには誰もいない。何本か手折られた黄色い花の咲く草が散らばってるだけ。

ほんと、かくれんぼうまいな、あいつ。

さて、ここからは戦闘モード。

オークを見据え、左足を半歩前に出して自然に立つ。オークが棍棒を振りかざしたのに合わせて前に進み、左前腕部ですくいあげるようにして棍棒を受け、右の掌底で相手の顎を撃ち抜く。受けに使った左腕を棍棒に絡ませ、斜め下方に引く。顎を打たれてふらついた相手は簡単に重心を崩し、前につんのめったところに前蹴りを合わせた。

みぞおち深く突き刺さり、オークは「ごはっ」と息を吐いて、数歩、下がってから息絶えた。

そこに再度の咆哮。

見れば、今のオークの後ろから別のオークがこちらに迫ってきていた。それも三体。

その場で軽く弾んで調子を整え、さっきより歩幅を広めに構える。

最初のオークの突進をかわし、その後ろのオークに蹴り。すかさず飛び込んで肘打ち。そのまま進んで体当たりし、相手を飛ばして後ろのオークにぶつけた。吹っ飛んで木にぶつかった二体のオークに、両掌を叩き込んで内臓を潰す。二体ともに崩れ落ちたオークを尻目に振り向くと、最初に避けたオークが態勢を立て直して再びの突進。スライディング気味に前に飛び込み、オークの真下に滑り込んで、片手を地面について蹴りで跳ね上がり、そのままオークの顎を蹴り抜いた。

泥を払いながら立ち上がる。そこにアンが戻ってきた。こいつが戻ってきたということは安全が確保されたということであり、つまりバトル終了である。ほんと腹たつなこいつ。

「おー、あんた、ほんとに強いねー。素手で四匹もやっつけちゃった」

「そりゃどうも」

「で、なんだっけ? さっきの話」

「あー。いや、別にもういいわ」

「ちょっと、なんだよ。その言い方」

むー、と宮高さんがやったらあまりのかわいさに血反吐吐いて死にそうな表情をする。他の女がやってもぜんぜんかわいくねぇな。

しばし睨み合い、やがて根負けして目をそらした。俺が。俺なのかよ。

「わかったよ。話すから」

言うと、ぱっとアンの表情が明るくなった。

「うん。話せ」

「へいへい」

それから、俺はクソガキの頭でもわかりやすいようにもとの世界のことを話した。

地球という星の、日本という国に住んでいたこと。そこでは鉄道網が整備され、馬はエンジンに変わり、人は飛行機に乗って空を飛びついには宇宙にまで到達したと。

「はーん。なんか、リケナ派の理想郷みたいな世界だね」

「リケナ派?」

「哲学の一派で、その学派の創始者が自分の理想の世界をおとぎ話風に書いた本があるのさ。それに出てくる世界にそっくりだ」

「はー。そういうのもあるのか」

「うん。で、そんな文化水準の高いご立派なところから、こんな異世界くんだりまでなんの用だよ」

「用っつーか、俺もよくわからんうちにこっち来てただけだしな」

「ふーん。どんな風に来たかわかんないの?」

「どんなっつーか……。こう、転んだ拍子に頭打って、目が覚めたらここにいた」

本当のことは言いにくく、適当にはぐらかすと、ぽんと肩に手を置かれた。

「やっぱり、頭は打ってたんだね」

「やめろ、なんだその優しげな目は。気持ち悪い」

「大丈夫だよ。あんたがどんなにとんちんかんなことを言っても、ちゃんと治してあげるからさ」

「そりゃどうも。なんなの突然優しくして。お前ひょっとしていいやつなの? それとも俺のこと好きなの?」

「ふざけんな。医者としてのプライド問題だよ」

ふざんけんなのトーンがマジだった。女子怖い。

「で、あんたの言う異世界って、どういう意味での異世界なの?」

「は? 意味? 意味がわからん」

「えーっと、例えばさっきのリケナ派の異世界だけど、リケナ派って、この世界は永遠に存在する考えが前提なんだよ」

「さらにわからん」

「あんたの世界はいつから存在してる?」

「世界っつーか、地球は46億年前にできて、宇宙は120億年前だったか」

「つまり、過去のある一点に世界は生まれたって考えだろ。リケナ派は世界はいつできたわけでもなく、過去永遠に存在してきて、この先も未来永劫存在するって考えるんだ。でも、人間の文明はそれほど遠くない過去に生まれたように見える。もしこの世界が永遠に存在してきたなら、あんたの世界の文明なんかとっくに追い抜いてるはずだろ」

「まあ、そうだろうな」

「うん。でも、そうなってない。この世界の文明は遡れて二千年ってとこだ。じゃあなんで世界は永遠に存在してきたのに文明は二千年前にまでしか遡れないのかってことで、リケナ派は二千年前に一度、文明は滅び、それからまた新しい文明が生まれて、それが発達して今に至るって考えるんだ。前の文明が滅びたのは大津波でなにもかも流されたって書いてあるね。そんな感じでこの世界では定期的に文明が崩壊するレベルの災害が起こる。だから文明はある程度まで発達しても、そこで一旦リセットされる。だからあたしらの歴史は二千年前にしか遡れないんだってね」

「あー、いや、普通に世界は永遠に遡れても人類が誕生したのは最近って話じゃね?」

「それだとまた話がややこしくなるから、今は置いといて。で、さっきの理想郷って、前の文明の最盛期のことなんだよ。つまり、過去の世界ってこと。ちなみにその国があった場所はここからかなり西に行ったところって書いてある。あたしらシルウィオの神話だと、ここ人間世界のはるか上空に天界があって、地下には冥界があるって言われてる。これは空間的に区切られた世界って意味の異世界。で、あんたの言う異世界ってのは、どういう意味でこの世界と区切られた世界なの?」

「……んー。あー……えーっと、次元?」

「次元って?」

「いや、そりゃ、こう……四次元ポケットぉー、みたいな?」

「つまり、どういうこと?」

「ごめんなさい、わかりません」

言うと、アンは腰に手をあてこれみよがしにため息をつく。

「ちょっとボートで海に出たらあっさりあんたの国についたりしないだろうね」

「しねぇよ。俺の世界じゃ船で世界一周もできるし人工衛星でグーグルマップも作ってんの。それに、オークたらいう化け物はいない」

「ま、それに関しては信じてあげるけど。あんた自身もよくわかってないってことだね、つまりは」

「……はい、おっしゃる通りで」

「帰るあてはついてんの?」

「いやまったく」

あっけからんと言うと、アンはきょとんと首をかしげる

「帰りたくないの?」

「別に、前の世界に執着とかねぇしなぁ……宮高さんも結婚しちまったし」

「ふーん。じゃあ旅人ってのはあながち嘘でもないわけだ」

「旅人っつーか、ただの根無し草だけどな」

「そりゃ悲しいね。でもいいじゃん、今はあたしがいるんだし」

「……そういうことモテない男子に言っちゃいけません。うっかり好きになっちゃうだろ」

適当に返事をすると、なぜかアンは目を逆立てた。

「はあ!? あんたはミヤタカさん? だっけ? が好きなんだろ!? あたしは軽薄な男は嫌いだよ!」

「冗談だよ……。つーか、あの人もう結婚したしな」

「じゃあ奪い去るくらいの気概でいなよ。あたしはくよくよ情けない男も嫌いだ」

「なんでお前に怒られてんの、俺……?」

「あんたが情けないことばっか言うからだろ。とにかく、もっとしゃきっとしな。軍隊にでも入ってきたらいいのに」

「俺は元兵士だ」

兵士っつーか、自衛隊だが。まあ、実質兵士だ。

「戦士のくせに、情けない」

「悪かったよ。もういいだろ。帰ろうぜ。日が暮れちまう」

お手上げだと態度で示すと、アンはふんと鼻を鳴らして立ち上がる。

「とにかく、もっと戦士っぽく、男らしくなりな。じゃないと女はなびかないよ」

「へいへい」

宮高さん、そんな人好みかなぁ……。

釈然としない。

薬草でいっぱいになったカゴを背負い、街へ戻る。そのまま診療所へ帰るのかと思うと、アンは集会所のほうへ足を向けた。

集会所はこの街の中心にある建物で、その周辺にはさまざまな公共の施設がある。その中のひとつ、図書館の前で立ち止まった。

「なんだよ、医学書でも読むのか?」

「いや、あんたの世界についてヒントでもあるかなって。お邪魔しまーす」

アンは元気よくドアを開けた。

図書館はそれほど大きくはない。学校の図書室の倍くらいの広さ。図書館といっても、本ではなく巻物である。カウンターのような場所で司書さんが座っており、アンの声に気づいて顔をあげた。

「ああ、アンちゃん。こんにちは」

「やっほー、おじさん。最近どう? 怪我してない?」

「怪我はないけど、ちょっと寝不足かな」

言いながら、ふあとあくび。その拍子に俺とも目が合い、軽く会釈しておく。

「あなた、たしかずいぶん前に来ましたよね?」

「ああ。こっちに来たばかり……、二ヶ月前か。来たな」

「旅人さんでしたね。今はここに滞在中ですか?」

「滞在っつーか、しばらく住もうと思って」

「うちで働いてるのさ。愛想は悪いしどんくさいけど、言葉を覚えるのだけは早かったよ」

なんだろう。褒められている気がしない。

「そうなんですか。あんまり人を荒っぽく使っちゃいけませんよ」

「なんなんだよ、みんなして。あたしをガサツ者あつかいしてさー」

ぶつくさ言うアンを横に、俺と司書さんは苦笑いを交わす。

「司書さんと知り合いなのか?」

「小さいころ勉強教えてもらったんだよ。ルース語と、字の読み書き、それから哲学、数学、天文学、歴史、地理、薬草。医者の先生は別にいるけどね」

「ずいぶんいろいろやってんだな」

「うん。あんたのとこではどんな学問が主流なの?」

「科学、かなぁ……」

「そういえばそんなこと言ってたね。ま、いいや。とっとと探すよ」

言って、アンは勝手知ったる様子で建物の中を歩いていく。それについて行くと、まず来たのは哲学書のコーナー。

「なんで哲学?」

「さっきの理想郷のもあれば、この世界についての考察もあるしね」

「はあ」

「たしか、綺麗にまとまってたのは、これかな」

アンは棚の上の段に手を伸ばすが、届かなさそうなので持ち上げてやる。巻物を取ったのを確認して床に降ろすと、アンはさっそく巻物を広げた。

「うん。これだ。まず、この世界は球体をしている。その根拠は三つ、まずひとつ、水平線からやってくる船はまず帆のてっぺん、ついで帆、そして船体と徐々に姿をあらわすこと。ふたつめは、月食のときに月に移る影が常に円形であること。そして三つ、南北に移動すると空の上に浮かぶ星の角度が変わること。ちなみに球の円周は28万スタディオンと推定される」

読み上げられる文章を聞いていると、なんか地学の授業を聞いている気になる。古代人って地球は平面と思ってたんじゃなかったっけ?

「ちなみに、あたしらシルウィオの神話では人間界のことをアスクっていうんだけど、あんたの世界に名前ってあんの?」

「地球じゃね?」

「じゃああたしらが知りたいのはアスクとチキュウの関係性についてだ。問題が明文化されてないと考えにくいからね。あんた、哲学者がなんで議論を好むか知ってる?」

「人を論破すると優越感に浸れるから」

「違う。自分の考えを言語化するためだ。これができてないとあんたみたいに、ふわふわぽわぽわな考えしか持ってないグズ男になるんだよ。これ読んどきな」

言って、アンはその書物を俺に渡し、別の場所へ向かう。なにか反論のひとつもしてやろうと思ったがうまく言葉が出ず、結局アンに言われた通りに巻物に目を落とした。

強制されてはじめたとはいえ、読んでみるとけっこう面白く、また分量も少ないこともあり、日が暮れるころには読み終えた。

達成感でいっぱいになりながら巻物をもとの場所になおすと、アンもまたこちらに戻ってくる。

「お、読んだ?」

「ああ、読んだ」

「こっちも全部覚えたから、行こっか」

「ん……? は? 覚えた? なにを?」

「本に決まってるだろ。とりあえず、帝国領土内の神話と、天文、科学関連、22巻覚えたから、帰ったら聞かせてやるよ」

「いや、借りればいいだろ! それか買うか」

「借りれるわけないだろ。こんな高いもん。買うのも論外。覚えるのが一番安上がりさ。行こ」

なんら得意がることもなく、覚えたと言い放つアン。俺の返事も待たずに外に出て行く。

……この世界のやつって、みんなこうなのか。いや、アンが異常なんだと思う。そう信じたい。信じる。

夕食は軽く済ませて、アンの部屋にお邪魔する。覚えたというのは本当らしく、アンはさきほどの本の内容をすらすら暗唱しはじめた。教師が誦する文章を聞くのがここらの教育の基本らしい。つまり、みんな記憶力おばけ。

部屋はアパートの隣同士なので時間を気にしなくていい、ということはなく、ろうそく代がもったいないので“女の子とのよるのおべんきょう”はすぐに終わる。明日も普通に仕事だしな。

住み慣れてきた部屋、布団の中で考える。

俺って、もしかしてあいつより頭悪いんじゃないかと。

だとすると由々しき事態だ。あのアホ女より下なんて、俺のプライドが許せない。

明日から勉強だな。いつかあいつ論破して泣かせてやる。

……それはさすがに大人気ないか。やめとこう。



一念発起してから一週間が経った。

俺は力尽きていた。

床でひとり寝そべる。それまで読んでいた巻き物を横へ押しやり、腕を額にのせ、寝返りを打った。

いや、力尽きたんじゃない。単に思い出しただけだ。あの人のこと。どうしたってどうしようもない、やり場のない衝動。

異世界へ来たという衝撃が、ひとときあの人への想いをかき消していた。しかし、言葉を覚え、生活に慣れ、新しいことをはじめる余裕すらできた今、ことあるごとに思い浮かぶのだ、あの人の顔が。町で手を繋ぐ男女を見かけた時、アンがあの人と似た言動をとった時、夜中にふと目が覚めたとき。

どんなに努力したところで、どうしようもない。あの人はもう結婚していて、それでなくても俺に脈なんてなかったろうけど、可能性なんて考えたところで事実は変わらない。

あの人さえいればよかった。ほかにはなにもいらない。けど、あの人はいない。手は届かない。あがいても無駄だ。なら、努力なんてしたところで虚しいだけだ。

なんで生きてるんだろう。

そういえば死のうとしてたんだったっけか。

重い身体を引きずって、上体だけを起こす。額にかかった髪をかきあげ、足元に目を落とし、冷たい木の床をこつこつ叩いた。

再び顔をあげて天井を見たときだ。

ドアが開いた。

「やっほー。夕飯食べに行くけど、一緒に来る?」

入ってくるのはやたらうるさいクソガキ。赤茶の髪は後ろでひとつにくくり、青い目に、日本人よりは高めの身長。肉付きもいい。白っぽい皮の長ズボンに、茶色いリネンのシャツ。

「……なんの用だよ」

とっさに表情をつくろう。勉強で疲れてやつれていただけ。そんな表情。

ずっと家ではキャラクターを演じていた俺だ。他人なんて簡単に騙せる。そう思ってアンの返事を待った。

しかし、アンはなにやらこちらの顔を覗き込んでくる。

「どしたん? 元気ないじゃん」

「……別に、なんでもねーよ。ちょっと寝る時間削って本読んでただけだ」

「そうなん? それにしても覇気ない顔してるね。肉でも食えば? 元気でるよ」

「いや、ちょっと寝るわ。そのあとでな」

「ふーん。まあ、そのほうがいいならそうすればいいけどさ」

アンはそう言って立ち上がり、部屋を出て、ドアを閉める間際こちらをふり向いた。

「なんかあったら言いなよ。ここに腕のいい医者がいるんだからさ」

「さいで」

短く答えると、アンはなぜか目を見開き、半ば閉じていたドアを開く。

「ちょ、ほんとどうしたのさ。あたしが普段こういうこと言うと『だれがお前の世話なんかなるか』とか『うっせークソガキ』とかむかつくこと言ってくるクセに。なんかあったの!? またミヤタカさんのことでも考えてたの!?」

「……別に、なんでもねーよ。つーかさっさと出ろ。眠れないだろ」

「いや、でもさー」

アンはだだでもこねるように視線を向けてくる。

「話くらいなら聞くよ? 全部吐いて楽になりな」

「言い方」

「いいから。昔えらい医者が言ってたよ。健康ってのは人間を構成する諸要素が調和して成っている、だから患部だけを見るのではなく関連するすべてを見なければならないって。精神だって身体を構成する一要素。愚痴聞いてやるのも医者の仕事のうちだよ」

「過大解釈がすぎるだろ」

どこで理論が飛んだのか指摘しにくいところがまたタチが悪かった。俺の反対など意に介さず、アンは再びドアを閉め、俺の隣にしゃがみこむ。そのままぺちぺち俺のほおを叩いた。こんなことをされると、もしかしてこいつ俺のこと好きなんじゃねーの? とか思ってしまうが、それは違う。こいつが俺に優しいのはただこいつが優しい性格だからってだけであり、俺に優しいやつはだれにだって優しいし、俺に笑いかけるやつはだれにだって笑いかける。三度目の失恋のときに学んだもんな。

うっかり別のトラウマが発動しそうになっていると、アンはふうと息を吐く。そのまま壁にもたれ、俺が読んでいた本を読み始めた。それからは静かな時間が流れる。

ページをめくる音だけの時間をやぶったのは俺だった。

「……なにやってんだ?」

「あんたは根掘り葉掘り聞くより、黙って近くにいてやるほうが落ち着くタイプかなって」

「やめろ、そういうことをするな言うな。うっかり惚れちまうだろ」

「惚れればいいじゃん。あたしに似合う男に鍛えあげてやるよ」

「……この前と言ってること違うじゃねぇか」

言うと、アンは「そうだっけ」と微笑しながら返し、読書に戻る。俺も座ってなにかしようかと考えたが、はっきり言って気力がない。こいつの前でかっこつける必要もないだろう。もうだらけることにした。

——なにか言おうか。

なにを? なにも話すことなんてない。けれど、話すだけで楽になるというし、その通りなのだろう。なら、もう、本当にただの愚痴にしかならないだろうけど、話してしまおうか。けど――。

思考がぐるぐると同じところを回る。

唐突に、その思考は遮られた。

静寂を破ったのは、耳をつんざく咆哮と、振動を伴う轟音。

この建物の壁は厚い。外の喧騒を中に入れないためだ。その壁越しでも、この声量。

顔をあげると、アンと目が合う。

「なんの音だよ」

「たぶん、オーガだ」

問うと、アンは早口に答える。そして俺の手を掴んで立ち上がらせた。

「いい、しんどいと思うけど、ちょっと気合い入れて。たぶん、魔物が防壁を越えて来たんだと思う」

アンが話している間にも、建物を揺るがす轟音が響く。

「たぶん、この建物を殴ってるのはオーガって化物。建物揺らせるようなパワー持ってるのあいつだけだからね。それで、ここまで魔物が来てるってことは守備隊をけちらしたってことだし、かなりやばい。近くの軍団基地から応援が来るまではしばらくかかる」

それから、アンは俺をまっすぐに見据える。

「戦える?」

端的な言葉。けれど俺の言葉はなんだか言い訳がましく、あまりかっこよくはなかった。

「そうしなきゃならん状況なら、そうするしかないだろうなぁ」

俺が言うと、アンは俺のケツを叩いてきた。

「ほんっと、覇気のない男だね。さっさと行くよ」

「は? こん中にいたほうが安全だろ」

「じき建物は崩壊するよ。オーガはそんくらいやばい。それに、閉じこもってたってどうしようもない。戦わなきゃ」

すべて言い終えると、アンは俺の手を引いてドアを出る。それから階段を降り、裏口に向かった。

こいつに手を引かれているうちは、こんな状況なのに、守られている気がして、少し安心できた。


外に出ると、すべてがアンの言った通りになっていた。

街をめぐる防壁はところどころ破られ、そこから大量のオークが雪崩れ込んできている。駐屯兵がそれらを抑えつつ住民を避難させているが、なにぶん数に劣る。そしてさらに厄介なのが、黒い肌の鬼。あれがアンの言っていたオーガだろう。身長2メートル以上ある巨体は、簡単に兵たちを投げ飛ばし、殴りつけた家は粉砕する。

「あー、もー、こんなときじいちゃんか兄ちゃんがいたらな」

俺の手を引き、避難所へ向かうアンがもらす。

「だれだよ」

「だから、あたしのじいちゃんと兄ちゃん。びっくりするくらい強くて、ここが帝国の支配下に入るまではじいちゃんが族長だったんだ。兄ちゃんは剣の達人で、オーガなんて三匹まとめて斬ってたよ」

「強いってレベルじゃないだろ、それ」

「だろ。あんたなんか目じゃないんだから」

ふふん、と笑うアンは得意げだ。

そうやって家族のことを誇りに思えるのは、素直にうらやましい。

避難場所は小高い丘の上にある神殿で、兵たちが周りを柵と壕で囲んでいる。

「アンとカミヤソウよ」

アンが入り口に立っていた兵に声をかける。兵はうなずくと、俺たちを中に通した。

「なんで名乗ったんだ」

「だれが避難してだれが避難してないか、兵士たちが把握するためだよ。逃げ遅れてるやつがいたら探さないといけないだろ?」

「そりゃそうだ」

中には三百人近い人がいた。この街は千人を少し超える程度だから、まだ外にいる住民のほうが多い。小さな街だと思っていたが、こうして一箇所に集まるとけっこう人いたんだなと気づく。中には見知った人もいるが、ほとんどが知らない人間だ。

どうにも落ち着かず、壁に背をつけて中を見渡せる位置につく。アンがとなりにやってきて、神殿の中を見回した。

「怪我人、けっこういるね」

「ん? ああ、そうだな」

ちょっとした切り傷からかなりの重症まで、怪我の程度はさまざま。重傷者には軍医が治療をほどこしている。

「あたし、ちょっと手伝ってくるね」

「おお、いってら」

「あんたも来るんだよ」

「いでっ」

突っ立っていると、アンに耳を引っ張られる。そのまま怪我人のもとまで来た。

「医者だよ。なんか手伝える?」

アンの言葉に軍医は顔をあげ、それならと仕事をいくつか伝える。アンはそれにうなずき、軽傷者の手当てに回った。俺はその補助。

時間がたつにつれ人も増えてくる。五百人に達しようかというときだ。

咆哮が聞こえた。

ものすごい速さで地響きが近づいてくる。

柵が壊される音、兵の悲鳴、そして轟音とともに、神殿の壁に穴があいた。そこに立っていたのは、黒い鬼、オーガ。

オーガは人を丸呑みできる口を開く。

咆哮が鼓膜を揺るがし、平衡感覚すら失わされる。悲鳴があがった。血しぶきが舞う。オーガが腕をふるうだけで人が肉塊に変わっていく。俺は走り出していた。

なんで走る。逃げるなら逆だ。そっちじゃない。

理性が叫ぶが、もうオーガは目の前。

「アン! なんでもいい、槍もってこい!」

「……え、あ、わ、わかった!」

アンが走り出し、そして俺はオーガに向き合った。

怖くて泣きそうで、勝ち目なんかなくて、それでも、身体が動いてしまった。別にいい。そもそも、死のうと思っていたのだから。

失恋して飛び降り自殺するより、人々を守るために化物に挑んで死ぬ方が、ずっと立派な死に方だろう。



俺が走ってきたのに気づくと、オーガもまた腕を前に伸ばしてこちらに歩いてくる。オーガの足を見て、片足に全体重が乗るタイミングで、その膝を踏み抜いた。

しかし、効いていない。オーガが腕を振り上げ、叩きつけてくる。それをかわし、後ろに回って全力の肘打ち。それも効かず、わずかに皮膚を凹ませただけで、まったく打撃が透っていない。薙ぎ払う起動の腕をよけ、オーガから距離をとる。

巨体相手に一番効果的なのは膝だ。格闘技のローキックではなく、膝を踏みぬいてへし折る。この蹴り方ならどんな頑丈な膝だろうが絶対に折れるはずなのだが、魔物と人間は身体の構造が違うのかもしれない。

考えている暇はない。オーガが攻撃をかけてくる。挙動を読んでかわしつつ、たまに攻撃をかけるが、まったく効かない。ため時間があれば威力があがる技とかあるといいのだが、あいにく現実にそんな技はない。

なんとか攻撃を避けていたが、それも限りがある。オーガの一撃を腹にくらった。丹田に力を込め、衝撃に耐えるが、めちゃくちゃ痛いし吹き飛ばされた。向かいの壁まで飛ばされ、頭を打って意識が朦朧とする。まったく太刀打ちできない。

それでも、俺の努力は無駄ではなかったらしい。オーガは完全に俺を敵と認識し、ほかの住民には目もくれずこちらに向かってくる。なんとか体を動かし、すんでのところで突進をかわした。オーガは壁を突き破って外へ転がっていく。ふらつく頭に気合を入れ、それを追って外に出ると、大声で呼ばれた。

「おーい! ソウ、槍!!」

見れば、馬に乗ったアンが槍をかかげて走ってくる。俺の姿を認めるやぶん投げた。それを取り、オーガに対峙する。これもしアンの手元狂ってたら俺が串刺しになってたなとか、お前馬乗れんのかよとかいう突っ込みはあとだ。今はオーガに集中。いや、やっぱ許せねえな。槍を投げて渡すんじゃない。

が、怒る時間は本当にない。態勢を整えたオーガがこちらに向かってくる。

ふっと、息を吐き、槍を振るって狙いを定めた。そのまま一気に体重を乗せて突く。穂先は寸分違わずオーガの目を貫いた。

「があああああああああ!!!!!」

オーガは叫び、腕を振り回す。少し下がってオーガの手足を斬りつけた。怒り心頭に発したオーガは片目で俺を睨んで突っ込んでくる。ここでもうひとつの目も潰そうと、槍を構える。しかし、それはならなかった。

迫り来る鬼の気迫に、身体がこわばり、槍を落とした。呼吸がつかえる。

「ソウ!!」

アンの声が耳に届き、ようやく我にかえる。オーガの突進を避け、落ちていた槍を拾った。こちらを振り向いたオーガに投げつける。見事にもう片方の目に突き刺さった。

相手の視覚をつぶし、ほっと安堵の息を吐いたところで、アンが横にくる。

「大丈夫!?」

「ああ、いや、悪い」

「いいって。ほれ」

馬の上から、アンは剣を渡してきた。目に刺さった槍はオーガがへし折ったので、ありがたく受けとる。

「悪いね、槍は一振りしか手に入らなかった。これで我慢してくれ」

「素手よりマシだ」

使い慣れない両刃の剣を手に、オーガに向かった。


オーガの爪に剣が当たると、硬質な音を鳴らす。視覚を失ってがむしゃらに攻撃してくるオーガだが、それでも十分手強い。腕力は失われていないし、なによりこちらの攻撃が通じない。どれだけ斬りつけても厚い皮膚には傷一つつかない。

視力のない戦いに慣れてきたのか、オーガの攻撃に無駄がなくなってくる。時間が経てばこちらが不利。こうなったら賭けだ。

剣を捨て、オーガの腕に自分の腕を絡ませる。そのまま手探りで相手の骨格を把握し、逆技をかけた。武術の逆技は関節技と投げ技が合わさったもので、多くは相手の腕や足を折るものだ。

オーガの腕は硬く、折ることまではかなわないが、わずかに関節が歪んだ。オーガが悲鳴をあげ、反対の手で殴りつけてくる。それを交わし、胴に肘打ち。わずかに体重を崩した相手に、さらに体当たりを食らわせた。よろけたオーガの腕をとり、もう一度、逆技をかける。

今度こそ、雷が大樹を割るような、ものすごい音を立てて、オーガの腕がへし折れた。

「ぎゃああああああああああ!!!!!」

耳元で悲鳴をあげられ、鼓膜が破れそうになる。それでもしっかと相手を見据え、再び膝を蹴りぬいた。今度はへし折れ、膝が反対側に曲がる。再び、オーガの悲鳴。

一度の接触で相手の関節の構造を読み取れるかの賭け。うまくいった。これで勝てる。

膝をついたオーガの背後に回り、背中に足をかけて登り、相手の首をとる。そのままねじり、折った。

180度回転したオーガの首と目が合った。オーガはひゅうひゅうと、壊れた喉で呼吸をし、身体を痙攣させる。四肢はだらんと垂れ、それでも目に殺意は宿ったまま。

オーガの身体が揺れ、倒れていく。それを見て、背を向けた途端、ぐしゃっと音がした。

なにが起きたかわからなかった。

身体が潰れている。背骨が真ん中から折れ、右肩から先がなくなり、足も使い物にならない。

地面に倒れ、すぐ目の前に転がっていたオーガの死体と目が合う。それが、ほんの少し、笑った気がした。黒い鬼は死んだはずなのに、さっきと腕の位置が違う。そこでようやくわかった。最後の力を振り絞ったオーガに殴られたのだと。それだけで、俺の身体は破壊された。

意識が飛ぶ。視界が白く染まってきた。耳元でアンの声が聞こえる。完全に意識が途絶える間際、口に生暖かいものが詰め込まれた。

なんだ、これ…………。まっず。

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