異界にて
土の匂いがした。やわらかい地面に、風が木々をかき乱す音、どこからともなく聞こえてくる鳥獣の声。
……山?
寝返りを打ち、しばしぐずってから、諦めて身体を起こす。
山、というか森だった。
平坦な地面に、延々と木が並んでいる。どこまで行っても緑。
「……死んでないな。生きてる。超生きてる。……うん。むしろ超元気」
土を払って起き上がった。ていうかスーツのままだ。上着がないのでシャツだけだが。
とっさにあたりを見回す。よかった。いない。いや、いるわけないのだが。いやでもほらあれじゃん、宮高さんにこんな適当なかっこ見られるわけにいかないっていうか、いやあの人結婚したのか。いやでもそれはそれとしてやっぱり宮高さんの前では常に完璧な自分でありたいというか自意識過剰な男の子ですよ僕は、ええ。
とかなんとか考えていると、
どこからか、物音がした。足をひきずるような、ずるずると、そして時折荒い鼻息。
――イノシシ?
反射的に身をかがめる。こんなことならレンジャー訓練を受ければよかった。俺はもと自衛隊員なのだが、航空自衛隊だったので、レンジャー訓練なんてのは受けていない。
だが、山で野宿した経験はある。イノシシの気配なら知ってる。
イノシシは、というか動物全般は、基本的に人を襲うことはない。よほど空腹か、気が荒いやつかの二択だ。そして獣を相手に気配を消すなどという芸当はまず不可能。距離があるならともかく、音から察するするに、10メートル以内。これなら確実に向こうは俺に気づいている。
刺激せずにやり過ごすのがいい、のか? わからん。こんな間近でイノシシと遭遇したときの対処法とかわかんねーよ。
落ち着け。
まずは状況を整理しろ。ここは半径2メートルほどの、木々がひらけた空間。獣道らしきものは三つ。警戒するとしたらここ。そして素手のままというのはまずい。なにか武器を。
きょろきょろ探し回り、獣道からすこし離れた場所に木の棒があった。それを取ろうと手を伸ばしたときだ。
なんか飛び出してきた。
150センチくらいの背丈、二本足で立っているが、頭はイノシシ。体つきはかなりごつく、皮膚は獣の毛皮。そして木製の棍棒。
「ん? っはあ!?」
驚きすぎて素っ頓狂な声出た。これあれか、オークか。ファンタジーものによくいる。
オーク(仮称)は「うがああ」と声をあげながら棍棒を振りかざしてくる。跳びのき、距離をとって向かい合った。一呼吸置き、敵を見据える。
オークは再び声をあげながら棍棒で殴りかかってくる。それにそっと、右手で触れ、右足を斜め前に踏み込み、そのままオークのみぞおちに肘打ち。
重い手応え。
オークは唾液を垂らしながら後退し、そのまま倒れた。俺って意外と強いな。武術は習ってたが実戦経験はあんまないから自分で知らんかった。俺つよ。ぱない、神。
喜んでる場合じゃない。
まず安全確認。
あたりにオークの仲間がいないことを確認。それからしばし休み、思考にふける。
まず、ここはどこか。あの世か? それにしちゃあ死んでるって感じはない。いや、死んでるって感じがどんな感じなのかわからんが、たぶん生きてる、と思う。だとしたらここはどこなのか。たぶん地球じゃないだろう。オーク的なサムシングいるし。もしかしたらマッドサイエンティストが遺伝子操作でうんたらかんたらとかもあるのかもしれない。いや、にしてはこの森は広すぎる。さすがに東京ドーム数百個分の広さの研究室を持つマッドサイエンティストはおるまい。なら、まあ、きっと、たぶん、地球とは別の世界、なのかなぁ?
これ以上は考えたってわからん。まずは森を抜けることだ。人に会えればなにかわかるだろうし。いや、そもそも人いんのかな。タコ型宇宙人とかいたら嫌だなぁ。あんまり仲良くできなさそう。
まあ、ここにいたって獣のエサになるだけだ。とにかく森は抜けよう。となると高台か川だな。
森を徘徊することしばし、小高い丘を見つけた。早足でそれを登る。頂上からは、周囲が睥睨できた。
森は全方位に広がっている。植生の変化は見られず、ところどころ川が流れていた。そして、夕日の方角に町。長方形の城壁に囲まれ、中には民家が整然と並んでいる。中央には教会と思しき建物。教会から十字に街道が伸び、城壁の門に繋がっている。人気は多い。
それほどの距離でもない。日が暮れるまでには着くだろう。それでもゆっくり歩いていく気にはなれない。
丘を降り、小走りで町を目指している途中、四回ほどすっ転んで、ようやく城門の前にたどり着いた。身元を探られたらどう言い訳しようかしらと考えながら、門番に話しかけた。
「あのー、すみません」
言うと、門の左右に立っていたうちの左側が反応した。甲冑姿で、左手には槍。金髪で、がたいはかなりいい。
「なんだ」
よかった。通じる。なんで言葉が通じるのかはわからないがこれは助かる。ガリバー旅行記みたいに未知の土地に漂流して言葉も通じず、よくわからんままにふんじばられるとかにはならずにすむ。
「あのー、えーっと、旅の者なのですが、入ってもいいですかね?」
「身分を証明するものは?」
「ないです」
「わかった。なら隊長を呼んでくるから、ちょっと待っててくれ」
「どうも」
会釈をすると、兵もうなずき、門の中に入っていく。
待っているうちに暗くなり、ぼけーっと星を眺めていると、さっきの兵と一緒に髭面のおっさんが出てきた。この人も金髪碧眼。どう見ても日本人ではない。俺に気づくと、軽く手をあげてきた。うすと会釈しておく。
「隊長のヴィテリクスだ」
「神谷想です」
「カミヤソウ……? 聞いたことないな。出身は?」
「東の島国」
「東か。その服も変わってるな。見たところ蛮族じゃなさそうだが」
「うちの国の正装ですよ」
言ってから、スーツって西洋の服だなと気づく。日本の正装ってなに? 羽織? まあ、今は関係ない。
「荷物はないのか?」
「ここに来る途中、なんか豚みたいな化け物に襲われて、落としました」
「そうか。それは大変だったな。街道で襲われたのか?」
「いえ、森の中です」
言うと、隊長さんは腕を組んで唸り声をあげる。
「森の中は魔物の巣窟だ。旅をするなら街道から外れないようにしなさい」
「はい。気をつけます」
「街道で襲われたなら、取られた金銭は国がいくらか出してくれるが、森の中だとそうもいかん。今日の宿は?」
「考えてませんでしたね」
「じゃあ兵舎で眠るといい。兵士用だから、娯楽のたぐいはないが、強盗に襲われることもないだろう」
「お言葉に甘えます」
言うと、隊長さんはついてこいとばかりに手招きし、門をくぐった。黙ってそのあとをついていく。
城壁の中に入ると、すぐ右手にそれと思しき場所があった。高い兵に囲まれた建物だ。これが兵舎だろう。
「何人くらいいるんですか?」
「この町の兵か? 今は五百人だけだな」
「……大丈夫ですか?」
「ここから4マイル先に軍団基地があるから、有事のときはそこに救援を頼むんだ。俺たちはあくまで見張りさ」
「なるほど」
兵舎はを囲む柵は長方形で、中に小屋が整然と並んでいる。十字に通路があり、その真ん中に少し立派な建物。そこの中に通される。
建物の内部は事務室みたいな場所だった。ただし、剣やら槍やらが置いている。文明水準はわからないが、明かりにはろうそくが使われていた。
「狭いがここを使ってくれ」
「ありがとうございます」
礼を言うと、隊長さんはひとつうなづく。それから食事も運んできてくれた。いい人だ。もういっそ詐欺かなんかじゃねえかってくらいいい人。急に不安になってきたぞ。
俺の不安など露知らず、隊長さんは机の上で武具の整理をはじめる。俺もいまさら疑っても仕方ないので、飯を食い、それが済むと寝床に入った。
ずっと動きっぱなしだったので気にならなかったが、じっとしていると寒い。日本だと初冬くらいの寒さ。布団一枚では心もとない。それでもわがままを言うわけにもいかず、無理やり目を閉じた。
朝になったら、自宅の布団で目が覚めますように。
自分のくしゃみで目が覚めた。
なんだかんだでしっかり眠っていたようだ。疲れはそこまでない。かじかむ手足を動かして血を巡らせ、体を起こす。
「……さっむ」
うっすらとだが、霧がかかっている。事務室の中には俺ひとり。
ぼーっとしていると、ドアがあいて隊長さんが入ってきた。
「起きたか」
「ええ、今さっき」
「起床のラッパまでもう少しある。朝餉はそれまで待ってくれ」
こくこく頷くと、隊長さんはあくびしながら出て行った。なんかもう頭は混乱したままだが、とりあえず朝の日課だ。
音を立てないように建物から出て、兵舎から離れる。音が聞こえないあたりまで来たところで、軽く地面をふみ鳴らした。
「よし」
肩幅に足を開き、腰を落として空気椅子のような姿勢になる。站椿功という練功法で、一言で説明するとパンチ力があがる。
站椿の次は形稽古だ。ずっごんばっこん震脚しながら突き、頭突き、体当たりを繰り返す。震脚はドスンと足をふみ鳴らしながらの踏み込み。震脚でコンクリ地面割りは中国達人あるあるのひとつだ。
汗ばむ程度にやって終了。これは毎日やる稽古で、たまに気が向いた時にもちっとハードなやつをする。これを毎日やってればいざというときオークに襲われても安心! そんな“いざ”想定したくもねーよ。
練習を終えてテントに戻っても、起床のラッパとやらはならない。暇なので考え事でもしよう。
まず、このあとどうするかだ。ここはあの世なのか、並行世界の彼方なのか、地球とは別の星なのか、そういったことはひとまず置いておく。一番大事なのは飯と寝床だ。ようするに職と家だ。
どうすっかなーっと考えているとラッパが高らかになり、ざわざわ兵士たちが起きてきて朝食の準備をはじめたので、俺も食うことにした。
食事をとりながらこれからどうするか考え、食べ終えるや隊長さんのもとへ向かう。が、見つけた隊長さんは部下と談笑しながら食事の最中。もう少し待とう。
二度目のラッパが鳴り、皿の片付けがはじまる。隊長さんが部下から離れた。その隙に話しかける。
「あの、ちょっといいですか?」
「なんだ?」
「三日だけここに泊めてもらえませんか? その間に街で働き口探してくるんで」
「働き口? ここで住むのか?」
「それもありかなって」
「そうか。まあ、三日くらいなら構わんぞ。それと、服を着替えたほうがいい。その格好だと目立つ。適当なものを持ってくるから、ちょっと待ってろ」
「ありがとうございます」
しばし待っていると、隊長さんが服を持ってきてくれた。麻製のシャツに、長ズボン。これがこの国の一般的なかっこうなのだろう。
もう一度礼をいい、適当な場所で着替える。それから挨拶をして宿舎を出た。まずは情報集めだ。向かうのは町の中心にある教会的な建物。十字架やらマリアさまの像やらはないので、集会場って感じか。大理石造りの建物で、南北20メートル、東西30メートルほどの長方形。土台と柱は大理石造り。中はいくつかの区画に分かれている。適当に歩いていると、壁に地図が描かれているのを見つけた。近づいて見てみる。
「……なるほど、わからん」
よくよく見れば、ヨーロッパの形に見えなくもない。真ん中の青が地中海で、下に見切れてるのがアフリカ、海の真ん中に突き出してるのがイタリア半島。地図は色付きで、イタリアは赤、アフリカはオレンジ、ほかにも何色かある。地中海周辺はカラフルだが、一定距離中心から離れると灰一色。おそらく、灰色のとこは国外ってことだろう。
だいたいの形を頭に入れ、その場を去る。建物の中をほっつき歩いていると、いろんな人とすれ違った。談笑する男女や、教師の前に椅子を並べる子供、侃侃諤諤といった様子で議論する大人たち。図書室のような場所があったので入ってみたが、文字は読めなかった。が、司書さんと話していくつか情報を得た。
まず一つ、この国はルース帝国という国で、その領土は本国と属州にわかれている。本国は先ほど見た地図の、赤の場所。それ以外の場所は本国から派遣された役人が統治する属州で、帝国には五つの属州がある。ここは北方属州の辺境地。ま
二つ、このあたりはシルウィオ族という民族が住んでいた場所であり、近年帝国に併合され、北方属州に組み込まれたばかり。
三つ、俺が今話しているのはルース人の言葉で、ここの住民と話すにはシルウィオ語の習得が必須。ただし、シルウィオ語に文字はないので、図書館の本はすべてルース語。ルース語を話せるのは帝国から派遣された役人と、司書や教師、医者などのインテリ階級、それと兵士。
四つ、ここは住民の集会場所であり、神殿は別の場所にある。多神教の国なので、神殿の数も多い。
司書に礼を言って集会所を出る。集会所の周りには小さな病院やら神殿やらといった建物が多くあり、町を十字に走る街道沿いには市場が開かれ、人で賑わっている。そこではほとんどの人が金髪碧眼。たまにブロンドや、赤毛も見かける。司書さんは黒髪だったが、あまり日本人らしくはない。黒髪の西洋人って感じだ。
町を一通り歩いて回ると、もう夕方になっていた。そういえば昼飯くってねーな……。腹減った。
1日歩き回ったことで頭の中にこの街の地図はできており、迷うことなく兵舎のある門へ向かう。すったか歩いていると、隣をすごいスピードでだれか走り去っていった。後ろ姿でかろうじて女だとわかる。その女は門を通ろうとしたところで兵にとめられ、なにやら言い合いを始めた。なにしとんのかねー、と横を歩いて兵舎に入ろうとしたときだ。
突然声をかけられた。
まったく知らない単語だったが、腰のあたりを掴まれたので俺を呼んでいるのだとわかる。振り向くと、門番と言い合いをしていた少女が睨みつけるように俺を見上げていた。
再び、なにか言うが、さっぱり聞き取れない。俺が聞き取れていないことが伝わったのか、少女はしばし首をかしげてから、三度口を開く。
「ルース語ならわかる!?」
「ん、あ、ああ。わかるけど」
「じゃあちょっと頼むんだけど、あたしと一緒に森に来てくんない!? 薬草とりに行きたいんだけど、夕方だし女ひとりだと危ないからって、通してくれないんだよ」
「はあ」
「気の抜けた返事だね。男なんだからしっかりしなさいよ!」
ばしばしと、俺の腕を叩いてくる。初対面でなんだこいつ。
その少女は、年は女子高生くらいの年。女にしては背が高く、165センチくらい。赤毛を結って後ろに垂らし、顔にはそばかす、ぶかぶかの長ズボンに、革製のわらじみたいなものを履いている。わらじといってもビーサンみたいなちゃちなのじゃなく、紐ですねまで巻きつけるタイプの、ちょっとかっこいいやつ。顔は素朴な田舎娘って感じで絶世の美女というわけではないが、かわいらしさはある。
「ねえ、兵士さん! このおじさんさ、昨日森でオーク殴り殺してたんだよ。だからこの人と一緒なら大丈夫だろ?」
俺の返事など構わず、少女は兵士に詰め寄っている。兵は俺の顔を見て、なにか少女に言い返したが、結局は折れたらしい。外出の許可が出る。
「やった! ありがと。お礼に湿布やるよ。おじさん! 行くよ!」
かわいらしい賄賂を受け取り、兵士は微苦笑しながら俺と少女を送り出す。
「いや、てか俺行くとか言ってないんだが」
「はー? こんな可憐な少女が困ってるってのに、助けないっていうの!?」
「お前が可憐かどうかはともかく、俺は好きな人いる」
「じゃあどうせ叶わないから諦めな。さっさと行くよ、日が暮れちまう」
こんのガキ……ダッシュで帰ったろかと思ったが、あまりに大人気ないのでやめておく。怒りを沈めろ、俺。落ち着いて深呼吸だ。宮高さんは大人な男が好き、宮高さんはクールで大人な男が好き、宮高さんは結婚した。よし、大丈夫。いやなんも大丈夫じゃない。
しんどいなー、死にたいなー、と考えながら歩いていると、クソガキもとい少女は「あれだ」と指差して葉っぱをむしり始める。
「なー、そういえばお前、なんで俺がオーク殺したの知ってたんだ?」
「見てたからだよ」
「どこから?」
「すぐ近くで。オーク倒した後、私のそば通ったけど、ぜんぜん気づいてなかったよね」
「バカな……俺がこんなガキひとり気づかなかった、だと……」
確かあのとき、オークと戦った後、周りになにもいないか確認したはずだ。視界に生き物は入らなかったし、気配もなかった。
俺の表情を見て、ガキはふふんと胸を張る。
「森はシルウィオの母。森の中であたしらとかくれんぼして勝てる民族なんていないよ」
「……森に住んでる一族なのか?」
「そうだよ。男どもはよく狩りに行くけど、女だって森には入る。子供のときはみんなでかくれんぼとかしたよ」
「へー。てか、お前いくつだよ?」
「17だよ。あんたは?」
「31だ」
「ふーん。見た目通りだね」
「お前はガキっぽいけどな」
「失礼な男だね。若くてかわいいとか言えないのかい?」
「わー。ガキンチョ、かっわいー」
「だれがガキか。あたしはアンだ」
「そうか。俺は神谷想だ。よろしく」
「カミヤソウ? 変な名前」
「繋げて言うな。神谷、想だ。なんか草の名前みたいになるだろ」
雑談しながらも作業は進めていたらしく、クソガキもといアンは持っていたカゴに薬草をつめて立ち上がる。
「終わりだよ。戻ろ」
二人並んですったか歩いていると、暇だったのかアンが話しかけてきた。
「あんた、旅人かい?」
「まあそんなとこだ」
「そっか。あたしは医者だよ。どっか怪我したとこあるなら見せな」
「すげー元気だよ。ただ、金はないから仕事探してる」
「そうなんだ。じゃあうちで働きなよ。男手欲しかったんだ」
「はあ? 俺医者の仕事とかわかんねーぞ」
「医者はあたしだよ。あんたは力仕事兼、雑用兼、森に行く時の護衛」
「内容広すぎだろ。もうちょっと絞れ。コンビニ店員か。世の中が便利になっていくほどコンビニ店員の仕事は増えるんだよ」
「ごめん、なに言ってるのかわからない」
「……給料は?」
「日給、銅貨5枚でどう?」
「通貨の基準がわからん」
「1日働いたあと浴場行って酒場で騒ぐには十分な額さ」
「わかりやすい説明どうも」
「どういたしまして。で、どうする?」
「そうだな……。じゃあそうするわ」
「よし。決まりだね。今日は護衛代ってことで、銅貨二枚やるよ」
言いながら、アンはポケットから500円玉サイズの銅貨を取り出す。それを受け取ると、アンはうんうんうなずいた。
「住むとこはもうあるの?」
「いや、まだだ。それも探さなきゃな」
「そうなんだ。じゃああたしの部屋の隣空いてるからさ、そこ使いなよ。家賃も安いし。あ、門番さん、おつかれー」
アンが門番に手を振ると、相手も「はいはい」と返してくる。俺も軽くうなずいておいた。
「あんた、今はどこに泊まってるの?」
「兵舎だ。だからここでお別れだな」
「ふーん。そうなんだ。いや、仕事場まで来なよ。明日ここまで迎えに来るのめんどいし」
「……別に、いいけどよ」
うなずくと、アンも「はいよー」と返事する。元気いいな。
門からまっすぐ敷石舗装の街道を進み、集会所を右に曲がってしばらく歩くとマンションのような建物があった。その一階にアンの診療所がある。診療所は高校の教室くらいの広さで、壁は一面、薬の入った棚。あとはいくつかの机と椅子、それから火鉢。
アンは着くなりさっさと奥に入っていき、洗面台みたいなとこで持ってきた薬草を洗いはじめた。よく見ると、壁から突き出した銅パイプから水が出ていた。
「って、水道あんの!?」
「ん?」
薬草を洗っていた手をとめてこちらを振り向く。
「ああ、これ見るのははじめて? あたしも最初はびっくりしたよー。井戸でもないとこから水が出てきてさ。泉から水をひいてくるんだって。帝国の技術ってすごいよねー」
警戒心も忘れて中に入り、アンの手元を覗き込む。水道は銅パイプから水が流れているだけで、じゃぐちはない。
「これ、ずっと流しっぱなしなのか?」
「うん。清潔さを保つためと、冬場の凍結対策だったかな」
「ほーん……」
そういえば、前見たテレビでローマ帝国は上下水道完備とか言ってた気がする。もしかしたらローマの片田舎にタイムスリップでもしたのだろうか。いや、でも魔物とかいたな。たぶん、二千年前のヨーロッパでも魔物はいないと思う。けど竜とかはいそう。いたら楽しい。いて欲しい。かっこいい。
作業を終えたアンは戸締りをはじめ、それも終わると俺を呼ぶ。
「こっちに階段あるから」
水道の横の奥まった場所にある階段を登ると、マンションみたいな感じで部屋が並んでいる。
「上は貸家か?」
「そうだよ。あたしの部屋は7階。一階は借りて診療所にしてる」
「なるほど」
昼間見た市場も、一階だけが店で上はマンションだったのだろう。建物は外壁はレンガ作りで、中は木造。床はなんか、グレーっぽい石材だろうか、いや、石か? わからん。
しゃがみこんでこんこん叩いてみるが、やっぱりわからん。なんだこれ。
「なにしてんの?」
「いや、この床なにでできてんのかなって」
「なにって、コンクリートだけど」
「……ん?」
「なに?」
いや、うん? ちょっと待て。コンクリートっていつからあるんだ。え? あれって最近できた建材じゃねーの?
「あんたって変なとこ興味持つよねー。やっぱ旅してるとそういうこと気になるの?」
「ああ、まあ、そうだな」
「そうなんだ。そのうち旅の話とか聞かせてよ。ここがあたしの部屋」
そう言って、手前から三番目のドアを開け、中に入る。中は真っ暗で、アンがろうそくに火をつけるとはじめて部屋の内部が見えた。
木造の床に、家具はベッドと本棚、水がめ、棚。ここには水道はないらしい。
帰るタイミングがわからず、ぼけーっと突っ立っていると、アンがこちらを振り向いた。
「なにしてんの? 間抜けな顔して」
「ああ、いや、どうしたもんかなって」
「なにが? 晩飯?」
「ああ、そういうやまだだったな。じゃあ、兵舎で食うから」
「そうなんだ。じゃあまた明日ね。日が昇ったあとで診療所に来てくれればいいから」
「おう」
手を振り、踵を返して階段を降りる。
……とりあえず、職は確保できたってことでいいんだよな?
翌日、朝食を終えると、隊長さんに挨拶をして兵舎を出る。服は洗っていてくれたらしく、森の中でついた泥が取れていた。ついでにシワも綺麗に伸びている。良妻力たかい。それを着て、早朝の街をアンの診療所へ向かった。
いまだ朝霧が晴れぬ中、診療所の入り口を遠慮気味にノックする。返事がない。もう一度、少し強めに叩くと、「はいはーい」と壁越しにくぐもった声。
待っていると、横の小口が開いた。
「ここから入れるよ」
それだけ言って、すぐに首を引っ込めた。それを追って中に入る。中は暖炉に火が入っているので明るい。アンは壁にしつらえられた引き出しを開けてはお茶っぱみたいなのを取り出し、秤にかけ、混ぜ合わせ、湯を沸かし、質の悪い紙の巻物になにごとか記す。
「ちょっと待ってね。すぐ片付けるから」
「おお」
アンはどったばった鳴らしながら作業を進める。早朝にこんな騒音出していいんかいと思うが、外では勢いよく荷馬車が行き交っているので、この程度の騒音かわいいものだろう。てか馬うるせえ。
ぼけーっとっ突っ立っていると、片付けを終えたらしい。アンが椅子をこちらに蹴飛ばしてくる。
「座りな。あんた、薬には詳しい?」
「詳しいわけあるかよ」
「なんだ、使えないねー。旅人なら知ってなよ。怪我したとき便利だよ」
「悪かったな」
「うん。悪い。あとで本貸すから、基本的なことは覚えといて。字は読める?」
「無理だ」
「はー……まったく」
アンはやれやれと首をふる。うわー、イラッとくるー。
「シルウィオ語もできないんだよね?」
「ああ、無理だ」
「ならほんとに力仕事だけだねー。それじゃ、薬しまってる場所とか教えるから、来て」
立ち上がり、アンは部屋の奥に向かうので、それについていく。奥には昨日も見た水道があり、そのさらに向こうには中庭がある。水道の左右には空間があり、そこに木箱が積まれていた。
「これが薬ね。干した薬草とか、保存がきくやつ。あと、そっちが水瓶」
言って、アンは水瓶を水道の下に置く。
「これがいっぱいになったら仕事場に持ってきて。薬草が少なくなったら部屋から持ってくるんだけど、今日はいいや。あたしは向こうで他のことしてるから」
うなずくと、アンはすったか歩いていく。ぼけーっと水がたまっているのを眺めるだけの時間。
……暇だ。
水が注がれているさまを延々見ているだけの簡単なお仕事。なんか悟りとかひらけそう。
心の中で般若心経を唱えていると、7周目の途中でようやく水が溜まる。それをかかえ、えっちらおっちらアンのもとまで運んだ。
「ここでいいか」
「うん。あとは、じゃあ、えーっと、あたしの部屋に薪があるから、何束かもってきて」
「あいよ」
薪を運んでからも、あれ取って来いだのこれ持ってけだの簡単な力仕事が続く。いざ診察がはじまると、言葉がわからない俺は完全にのけ者で、てんやわんやのうちに昼になった。この国では仕事は午前中に終わらせるものらしく、昼食後に働くことはない。なんてホワイトな社会。
店じまいを終え、アンの部屋にあがって昼を食べる。メニューはパンと肉とスープ。ここに来てからというものパンばっかりだ。米が食いたい。
もっしゃもっしゃ食べていると、アンが話しかけてきた。
「あれだねー、やっぱ言葉わかんないと不便だねー」
「だな」
「さっさと覚えなよ。教えてやるからさ」
「おお、サンクス」
「その前にまずはルース語の読み書き覚えたほうが便利かな。本も読めるし」
「そうかもなー」
ぽつりぽつり、言葉を交わしながらも昼食を終える。それからアンはどこからか筆記具のようなものを持ってきた。
「これ、帝国の品なんだけど、使い方わかる?」
「いや、わからん」
見せられたのは、ノートサイズの黒板っぽい板と、シャーペンより少し長いくらいの、先が尖った
棒。
「この板、ろうが塗ってあって、このペンでひっかくと跡が残るの。これで字が書ける。使い切ったらまたろうを塗る。わかった?」
「へえ、便利だな」
「だろ。じゃあこれに、アルファベットを書くので……」
かりかりごりごり、アンはインクのないペンでろう板を削る。
「できた。これがa、次がb、次が……」
合計21文字、すべての文字の発音を教わる。
「とりあえずこれ、覚えといて。あたしは大家んとこ行ってあんたの部屋借りてくるから」
「いや、じゃあ俺も行くよ」
「シルウィオ語わかんないんだろ。来たって邪魔なだけ。家賃はあたしとおんなじだから、ちゃんと毎日働いたら払えるよ。じゃ、行ってくる」
それだけ言って、アンは診療所を出て行く。ひとり残された俺は黙々と字を覚える作業をはじめた。
……なんだろう、このやるせない感じ。や、そりゃ行ったってなんもできないけどよ。自分の無力さがつらい。
さっさと読み書き覚えてシルウィオ語も話せるようになろう、そうしよう。