二 羅城門
何度も何度も振り返って頭を下げながら、女の人は帰って行った。
その様子をどこか未練がある笑顔で、頼光兄さんが見守っている。本気で一目ぼれでもしたんだろうか。
「なあ、ツナ坊よい」
「なんですか。あの人の暮らしがまだ心配だと言うなら、簡単な針仕事でも頼んで報酬を出せばいいと思いますよ。それくらいなら角も立ちませんし」
「それはそれとしてな、見てみい、この羅城門の周りを」
平安京の南端を示す、赤い柱と緑の屋根が特徴的な羅城門。二階建ての大きなつくりをしているものの、この大きさが日陰の面積を作り出すため、日のあるうちでも不気味に薄暗い。
そこでは、雨風や日の光を避けるように、ボロをまとった浮浪者が寝起きしていた。朝だと言うのに上空にはおびただしいカラスの群れ。
生活に窮した京の住民が、いつしかこの周辺に居着くようになったのだ。住居も田畑も職も手放した行き場のない人たちが、互いに距離を置いてうずくまったり、徘徊したりしている。
台風や地震によって羅城の壁や柱はところどころ損壊し、塗料もはがれていた。夜になるとまず普通の人は近寄らない。物の怪が出るなんて噂もちらほら。僕たちが夜のうちに京に着くのを避けたのもそのためだ。
「子供ができた、体調がすぐれん、そんな理由で旦那が女房を捨てるんも、たいがいおかしいけどな。この羅城の有様、いったいどないなっとんねん。これが天下の都かいな。俺らは貴族やから、土地もあるし金もある。絹や麻の衣を着て、魚を食って酒も飲めるわ。でもここの連中はどないやねん。いったいなにを食ってんねん。そらあ、こんなとこに住んどったら、旦那は女房を捨てるし、捨てられた女房は神社でおかしな幻聴も聞くやろ」
兄さんの視線の先には、倒れこんだ浮浪者の体を、木の棒でつついている老婆がいた。
死んでいるかどうか確認しているのだ。死んでいたら、その少ない遺品を老婆が奪うのだろう。そのための竹篭が老婆の背に負われていた。
みかどや関白さまが住んでいる京の北端。そこから歩いて半日とかからない場所がこんな状態なのだ。これがおかしいと言う頼光兄さんの言葉は、至極当然のものだった。
「でも、だからってどうすればいいんですか。所詮、僕たち武士団はみかどや関白さまの番犬でしかないんです。刀を振って弓矢の鍛錬をするのは、高貴な方々を守るためにしか役に立ちませんよ。僕たちがいくら武芸を磨いても、百姓の収穫は上がりませんし、市場が栄えたりはしませんからね。まあ、物盗りや人さらいを懲らしめることはできますけど」
武士には武士の役割がある。まつりごとを根本から変えたいなら、朝廷の中枢である摂政や関白、大臣になって律令の仕組みを改良しなければならない。でもそれは藤原一族の役割であって僕たち武士の役割じゃないのだ。ずっと昔からそうなっている。
藤原氏の代わりに、税の仕組みなどを変えて地方の経済を活性化させようとした偉い大臣がずっと昔にいたらしい。菅原道真と言う人だ。でも結局は失敗して左遷されてしまった。あまりに頭が切れすぎたため、藤原氏の筆頭たちに疎まれたのだ。
道真が左遷された事件のせいで、当時の知識人たちはまつりごとに情熱を傾けることができず、そろって芸術や学問の道へ逃げたとすら言われている。そのせいか、その時代には歌詠みの天才が大量発生した。皮肉なものだ。
そういうものだと思ってみんな割り切っている。少なくとも、大昔に書かれ、今でもさまざまな人に愛されている「竹取物語」の中には藤原氏の祖先を馬鹿にするような記述がある。
とある貴族がかぐや姫に探すよう頼まれた宝石を、見つかるはずもないからと職人に命じて捏造した。結局は偽物だと発覚し、恥をかかされてこっぴどく姫に振られるのだ。この貴族は藤原氏の祖先をもとに設定された人物ではないか、と言われているのだ。
「せやから、俺が大将軍になって変えたるっちゅうとるやないか。そんときは、ツナ坊が一番でかい軍団の親分なんやから、今からもっと考えてもらわな困るで」
「ハイハイ、言うだけはタダですからね」
子供のたわごとじゃないか、まるで。
いつものことだと思い呆れていると、道行くおじさんまで笑って見ていることに気づく。
廃墟寸前まで荒れ果てた羅城の風景。
そんな場所には不似合いな、真っ白い法衣と烏帽子姿の初老の人だった。
「なんやねん、オッチャン。人の顔見てニヤニヤしよってからに」
見られていることを気にした頼光兄さんが大声で恫喝する。この人が清和天皇の直系だと、誰も思わないだろうな……。
「知らない人にいきなり悪態をつかないでください。育ちが悪いと思われるじゃないですか」
偉い人だったらどうするんだ。頭や胃が痛くなってくる。
そんな僕たちのやり取りを見て、おじさんはけらけらと楽しそうに声を上げながら近寄ってきた。
「ぬしら、酒を持ってないか? 少し喉が渇いてしまってな」
よく見ると少し顔が赤い。朝から酔っ払っているようだ。まじないの人か神官か知らないけど、もう世も末だと思った。
「酒? 確か少し余っとったわ。朝からご機嫌とは、ええ身分やのうオッチャン」
そう言って頼光兄さんは懐から竹の水筒を取り出し、男の人に放り投げた。
相手はそれを受け取り栓を空け、中の液体を一気にあおる。
「うん、うまい。さすが山崎の酒、天下の名水がなした奇跡のしずくじゃな」
山崎と言うのは、京から僕たちの本拠地、摂津に至る中間地点だ。三本の川が合流して淀の大川になる、景色のとてもいいところである。
たしかにこの酒は山崎の清水で作られたとは思うけど、どうしてこのおじさんがそのことを知ってるんだろう。
「おお、いけるクチやなオッチャン。全部やるから遠慮せんと飲みや」
「げしゃしゃしゃしゃ、源氏の若君だけあって、気前も酒の趣味もいい。先ほどのおなごには振られたようじゃがの。ま、世の中の半数は女じゃ。気を落とすでないぞ」
「なんやオッチャン、見とったんかいな。放っとけっちゅうねん」
やっぱりそうだ。この人は僕たちのことを、いや頼光兄さんのことを知っている。だから酒を造ったのも京と摂津の間で、名水を生むと知られる山崎と予測できたんだろう。
美味しい酒を飲んでさらにご機嫌になったおじさんは、兄さんの顔を間近でじろじろと見始めた。無精ひげを生やした二十五歳の顔が、そんなに楽しいのだろうか。
「ふむ。やはりおぬし、いい相をしておる。たとえるなら満月じゃな。先ほどのおなごも心配なかろう」
「なにを意味のわからんこと言っとんねや。俺の顔が丸いっちゅうんか」
酒臭いおじさんに接近され、兄さんは居心地が悪そうにしていた。
「いやいや、ワシはあのおなごを知っておるのじゃ。ぬしが助けた、身重の女をな。少し前に半狂乱の有様で、神社を詣でておったからの。あれは放って置けば鬼の道に堕ちておったぞ。いよいよとなればワシが払ってやらねばならんと思っていたんじゃが。ぬしの輝きがそれを救ったんじゃ。まことにめでたい男じゃな」
さっき別れた女の人の話だ。このおじさんは、どうやら僕たちが一緒に羅城の手前まで来るところ辺りから見ていたらしい。
「川から助けたのは俺やないで。そっちにおるツナ坊、俺の弟分や。あの姉ちゃん、宇治の橋に近いところで身投げしようとしとってな」
「川? 川に入っておったのか、あのおなご。それはいかんな。鬼の心を持ったまま水死などしては、その付近で水難を呼ぶ悪鬼と化してしまうところじゃった」
見知らぬおじさんはほっと安心したように胸をなでおろし、やおら僕の手を握ってきた。
「ぬしが都で噂の若き剣聖、渡辺綱どのじゃな。そなたは頼光公を守り支え、これから京の都を照らし続ける星となるであろう。くれぐれも体には気をつけることじゃ。秋の宇治川は冷たかったじゃろう」
「え、あの剣聖だなんて。僕もまだまだ修行中の身ですし。あとすみませんけど、顔を寄せないでもらえますか」
口が臭い。すごく臭い。でも不思議と、衣服からはちょっとしたいい香木のような匂いがする。着ている衣も絹だな。
「ぶしゃっしゃっしゃっしゃ。これはすまん。ではまた会おう」
おじさんは僕たちから離れ、酒を飲みながら立ち去ろうとした。その背中に頼光兄さんの声がかかる。
「オッチャン、また会うもなにも、名前を聞いてへんぞ。あと俺は妖怪とか怨念とか、その手の話にまったく興味が持てへんねん。次もそんな話を聞かされるんはごめんやからな」
「ふむ。ぬしは人の力を信じておるのじゃな。それもよかろう。じゃがそれでもどうにもならんときは、わしのところを訪ねてみるのもいい。気休めくらいの術は持ち合わせておるでな。京は堀川一条、安倍晴明と聞けば付近の住人なら誰でも知っておる。一条戻り橋のすぐ近くじゃ」
勝手なことを言って、安倍と名乗るおじさんは消えていった。
京の一条、みかどのお住まいからすぐ近くに住んでいるなんて、やっぱり偉い人なんじゃないか! まじないかぶれの酔っ払い、としか思えなかったけどなあ。
「けったいなオッチャンやったのう。俺が月で、ツナ坊が星か。要するに平安京はこれから黄昏を過ぎて夜になるっちゅうことやないか。まあわからん話でもないけどな」
僕たちをそのように比喩した安倍晴明。それを受けて、これからの時代は闇だと解釈した兄さんの言葉は、おそらくは正しい。
平安京はもちろん天下の都であり、みかどや関白といった偉い人がここに住んでいる。そして、この都を維持する金品や居並ぶ貴族に与えられる俸給は、地方から届く税収によってまかなわれている。
ならば、地方の政治を監督する国司と言う役職。これはどういった人たちが務めるのかというと、人事権のすべてを握った藤原氏の人物か、もしくは藤原氏に協力的な氏族から選ばれるのが現実だ。
選ばれた国司は京に送る税を、その地方の民から徴収する。もちろん自分たちが蓄えるための財産も、地方の民から吸い上げる。正当な税を集めるならともかく、自分たちが京の藤原一門へ送る賄賂の分まで貪り尽くす。土地の人々は重なる税の負担によって、餓えて暮らすか、盗賊になるかの選択を迫られる。そうして地方の労働力と生産量は減少し、さらに治安が乱れる。
完璧なまでの悪循環が、そこに成立していた。
その縮図が今の平安京にも如実に現れている。みかどがお住まいになる京の北端、一条や大内裏。そこから九つの大通りを南下し、目の前に広がる南端、羅城の崩壊ぶり。
同じ都の中に天国と地獄が並存している。足元に毒虫が這っているような状態だ。
僕たちのような武士団が結成されたのも、そのように京の内外で発生する大規模な盗賊団や反乱を制圧するため、という歴史がある。
「ツナ坊。俺はちょっとオヤジに会ってくるわ。先に摂津に戻っとってくれや」
なにかを考えるような面持ちで、頼光兄さんはそう言った。
僕たち摂津武士団の責任者であるオヤカタさまは鎮守将軍も務めていて、京にある邸宅に住んでいる。
正直に言うと、僕はオヤカタさまが苦手なのであまり会いたくはない。ついて来いと言われなくて良かった。でも兄さんを一人にするのも心配だ。
「わかりました。道に迷うといけないから、何人か分けて同行させましょうか?」
「アホウ! 右と左の区別がわかっとったら、京で道に迷うわけないやろ! 俺をなんやと思っとんねや!」
怒られた。確かにその通り。平安京は碁盤の目のように綺麗に区切られているからな。
兄さんと別れた僕たちは羅城門を後にし、山崎を越えて摂津にのんびりと帰った。
その道すがら、僕は京の都がこれからどうなるのかということを考えていた。安倍晴明や兄さんが言うように、闇夜の時代を迎えるのだろうか。そんな中で、僕たちにいったいなにができるのだろうか。