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 一 宇治川

当作品を氷室冴子女史の霊前に捧げる。

 親戚の一人で、僕の義兄弟のような存在である頼光兄さんと一緒に、釣りをした帰り道でのこと。少し離れたところには、他の仲間たちも歩いている。

「おい、ツナ坊。川に飛び込め川に」

 兄さんは真顔で僕の目を見て、そう言った。

 いきなりなにを言い出すのか、この人は。

 僕がそう思って、これから渡ろうとしている宇治川にかかる橋の下を見ると。

 そこには、着物がメチャクチャになった若い女の人が一人、体の半分以上を川の水に浸しているところだった。

「う、うわ、兄さん、あれは身投げですかね」

「なんかようわからんが、とにかく助けてやれや。夏も終わったっちゅうのにあんなとこで水浴びしとったら、風邪ひいてまうであのねえちゃん」

 今、季節は秋。朝晩はすっかり冷えるようになり、もちろん川の水も冷たいだろう。流れだってゆるくはない。

「それはいいですけど、兄さんは?」

「イヤや。冷たそうやないか」

「そうですか……」

 駆け足で川岸に寄り、僕は冷たそうな水の中へざぶんと飛び込んだ。深さはそれほどでもない。それでも気を抜くと水の流れに足元が持っていかれそうになる。気をつけて、ゆるゆると女の人のもとへ。寒い、寒い。

「あの、大丈夫ですか? とにかく早く出ましょう。風邪をひいてしまいますよ」

 そう言って肩を掴むと、そこには死んだようにうつろな目をした顔があった。

「嫌……もうなにもかもが嫌なの。このまま死なせて」

 生気も意思も、すべてなくしているような有様だった。

 それでも、岸から必死に声援だけは送ってくれる頼光兄さんの手前、このまま見過ごすわけにも行かない。

「おーい、はよう上がってこんかい。今、火を起こしちゃるからなー」

 どんなときでもやたらと元気な人だ。この女の人に少し有り余ってる力を分けてあげたらいいのにと思う。

「僕の連れもああ言ってますし、なにか事情があるのなら力になれるかもしれません。とりあえず水から出ましょう、ね?」

 なだめるように女の人を説いて、その手を引いた。特に抵抗はない。そのまま、兄さんたちが火を起こしてくれている箇所まで、僕は女の人を連れて行った。

「おうおう、ツナ坊に姉ちゃんも寒かったやろ。火にあたって服を乾かしたらええ。こんな時期に水浴びなんかするんは、高野山の坊主どもだけで十分や」

「どうして、どうして打ち捨てて行ってくれなかったの。こんな私が今から生きてなんになると言うの。教えて、教えてよお……」

 口でそう言いながらも、女の人は濡れた衣服を必死で絞り、焚き火にくっつくんじゃないかと言う近さで暖を取っていた。助けてよかった、のだろう。

「ねえちゃん、よう見ると結構べっぴんさんやな。なにが楽しくてこの時期に川になんぞ入んねん。砂金でも落ちとったか?」

 僕は冷ややかな目線で頼光兄さんを凝視し、その後に続く言葉を止めた。少し空気読んでください。

「お姉さん、僕の名は渡辺綱といいます。こっちは僕の義兄で源頼光、清和天皇の末裔にして僕たち摂津武士団の若き頭目です。今は歳も若く微力な我々ですが、なにか困ったことがあるなら相談に乗りますよ」

 自己紹介がてら、女の人がなにに困っているのかを聞き出すために、僕はあえて自分たちの身分をはっきりと明かした。嫌な計算を若いうちに覚えてしまって気が重いけど、こっちの身分が高いと安心していろいろ喋ってくれる人は多いのだ。

「おうよ、まだまだ俺ら、武人としては駆け出しやけどな。俺が一声かけりゃ、京の南から山を越え谷を越え、荒くれものどもが五万と集まることになっとるんやで」

「兄さん黙ってて。あと五万は言いすぎ。せいぜい五百だから」

 数字にハッタリはあるものの、頼光兄さんの言い分はあながち間違いじゃない。

 ずっと昔に亡くなった清和天皇。

 その男系本流である兄さんの影響力と人脈は、今でもバカにならないものがある。

 それを下地に、僕らは平安京の中に入れば都の治安を守る番犬となり、都の外で異変があればそれを撃退する弓矢となる。摂津の武士団というのはそういう集まりだ。もちろん、悪化する治安に対しての自衛組織と言う側面もある。同族同士が集まり、自分たちの領土を守っているのだ。

 京の周辺ではそれなりに知られている存在で、頼りにされることも多い。実際には、頼光兄さんのお父さまが実権を握っていて、それを頼りにしているわけだけど。主に動くのは僕ら若い衆である。

 そんな僕たちの紹介を聞いて、女の人は髪の毛の水を掌で丁寧に落としながら目を見開く。

「武士? 侍? あなたみたいな可愛い顔した男の子が? あ、申し訳ありません。高貴なご身分の方々に」

 僕の顔を見ながら女の人がまくし立てる。生まれつきの女顔で、こんなナリで刀を持てるのかとよくバカにされもした。

「男の子って……これでも二十になったんですよ」

「かっかっか。ツナ坊はどこに行っても女に可愛がられるのう」

 兄さんが茶化す言葉に、女の人もわずかながら笑って反応する。ずいぶん落ち着いてくれたようだ。

 僕はもう一度話題を戻して、女の人になにがあったのかをたずねた。

「平安京、南のはずれに住む特に身分もない町人の些細なことです」

 彼女はそう前置きして次のように語った。

「私は夫と二人で暮らしていました。ですけど、私のお腹に子供ができて体の調子が思わしくない日が続くと、夫は浮気してよそに女を作り、一緒に住み始めてしまったのです」 

 それを聞いて、兄さんが苦い顔をする。人妻だったことが残念なのだろうか。

「妊婦さんやったんかい。よう見るとお腹が少し膨らんできとるね。それやったら余計に、体を川で冷やしたりしたらあかんやないか」

「はい。でも私一人ではどうせ蓄えもありませんし、子供が生まれてきても、まともに育てることはできません。そこで近くの神社で何度も何度も、夫が戻ってくれることを願いました。そのとき、私の心に魔が入り込み、幻聴が聞こえたのです」

「なにかおもろいもんでも聞こえたんかいな。来年は豊作とか、そんなお告げやとええね」

 怨霊や物の怪の類をまったく信じていない頼光兄さんは、かえって興味本位でことの事情を探ろうとしている。真面目に聞く気があるのだろうか。

「どうせ戻らぬ夫なら、呪い殺してしまえ、夫を奪った女も、二人に関わる一族すべてを滅ぼしてしまえ。そんな声が頭の中に響き続けるのです。我にかえった私はなにもかもが恐くなって、もうダメだと思い、川に入ったのです。このまま生きていると私、本当に夫やその女を呪い殺してしまいそうで……ううっ」

 寒さのせいか、恐ろしさのせいか。それともまだ恨みを引きずっているのか。

 女の人は口元に手を当てて小刻みに体を震わせている。

 裂けた夫婦の問題か。難しい。法に照らしてこの問題はどうだったろう?

 奪った女が悪いのか。妻を見捨てた男が悪いのか。誰も罰するような罪ではないのか。いろいろな解釈があったはずで、正直よくわからない。手続きもなく勝手に平安京の内外で住居を替えたと言うなら、出て行った夫を罰することはできそうだけど。

 ただ、夫や奪った女が憎くて呪い殺そうとした、というのが本当なら、罰を受けるのはこの女性になってしまう。京の都では怨念を持って人を呪い殺そうとすることがかたく禁じられているからだ。途中でやめているので大丈夫だとは思うけど。

 話を総合して、少し考えてみる。

 僕たち摂津の武士団が動くには、鎮守将軍である頼光兄さんのお父さま、通称オヤカタさまの認可が必要になる。これが実に面倒な手続きを踏まなきゃならない。かと言って、こんなことをいちいち検非違使に知らせても、追い返されるよな……。

「そいつは難儀やなあ。俺らがその男をボコボコにするんは簡単やけど、んなことしても、根本的な解決にはならんしなあ」

 緊張感のない表情で兄さんは言う。周りの仲間も、どうしたものかわからずになにも言い出せないで黙り込んでいた。

「よっしゃ、こうしよか。姉ちゃん、俺の女になりや。大事にするで」

 その一言に、場にいる全員が驚いて固まった。

「ななな、なにを言っているんですか兄さん!」  

「なんやツナ坊。なんか文句があるんかいな」

 まるで野良犬を拾って帰るみたいな言い方じゃないか。

「お、恐れ多くも源氏の若さまにそんなご迷惑をかけるわけにはいきません。私のお腹には夫との間にできた子供もおりますし」

 女の人がそう言うのも無理はない。

「なにが迷惑やねんな。姉ちゃん、あんたさっきまで死のうと思って川に入っとったんちゃうんかい。こんなとこで水死体になって付近の人を恐がらせる方がよっぽど迷惑やろ。俺んとこは、奥さん一人や二人増えたってぜんぜん大したこたあないし、あんたも、腹の中にいる赤ん坊も、見捨てるようなマネは絶対にせえへんよ。子供は好っきやからな、俺」

 そんな口説き文句もないもんだ。しかも身分だって違いすぎる。突っ込みどころが多すぎて逆になにも言う気がしない。

 彼女も、頼光兄さんの口調があまりにも冗談っぽいのでまともに応対せず、苦笑いをしたり慌てふためいたり、言葉を選んでやんわりとかわしている。

「お言葉だけで十分に救われました。なんとか頑張ってみようと思います。いざとなれば、親元に帰ることもできますので」

 兄さんの誘いを受け流しながら、女の人は気分がいくらか軽くなった表情でそう言った。

 

 あたりはすっかり暗くなっていた。

 僕たちは釣った魚を焼いて食べたり、妊婦さんの体に障らないよう暖をとって野営した。平安京方面に戻るのは日が出てからでいい。

 つわりが少し重いという彼女だったけど、仲間の一人が山菜や川海苔をたくさん採っていたのでそれは抵抗なく食べられるようだった。絶え間なしに続く兄さんのバカ話を聞いているうち、彼女もすっかり元気になったようだ。

 明けて朝。

 京の南、羅城門まで彼女を送り届けた際、別れ際にこう言われた。

「実は私、死のうと思っていたのには別の理由もあるんです。最近、京の周りでは盗賊なども多いと聞きますし、京から他の土地へ逃げるように移り住む人もたくさんいるようです。検非違使のお役人さまたちは、私どものような下々の暮らしまで手を回してくれません。こんな時代で子供を生んでも、幸せにできる自信がありませんでした」

 耳の痛い話ではある。

 京に常駐して治安維持と訴訟関連を取り扱う検非違使。

 それと僕たち武士団の役割は多少はかぶっていて、それでも多少は異なる。あくまでも僕たちの本拠地は摂津であり、京ではない。僕たちが行動するのには、いちいち偉い人の裁可を仰がねばならない。

 とは言っても、僕たちだって世の中の秩序を守り、みかどを守り、民を守る立場の人間には変わりないのだ。

「それでも、頼光さまや綱さま、周りの方々はとても気持ちのいい方です。武士の方ってもっと恐ろしい人が多いのかと思っていましたけど、皆さまのような立派な方々がこの国を守ってくれると考えましたら、少し未来に希望が湧いてきました。どうかこれからご栄達なさって、民に優しいまつりごとを行ってくださいますよう、なにとぞよろしくお願いいたします」

 礼儀として耳障りのいいことを言ってくれているんだろうけど、それでも悪い気はしなかった。兄さんも鼻を高くしてカラカラと笑っている。

「おお姉ちゃん、任しとき。俺は将来、大将軍になるつもりやからな」

 言うことばっかりは大きいんだけどな。



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