僕と彼女と宝物Ⅲ
喫茶店の中ではボクと"くさか"の質疑応答が行われていた。
「私の父を知っているんですか?」
やっぱりそうなんだ。
「知ってるよ!不登校だったボクにまともに話しかけてくれた優しい先生だったもん」
今から数年前の中学生だった時、小学校の頃から学校が嫌で休みがちで、友達もいたけど本音で話せる気兼ねない子はいなかった。見つけようともしていなかったんだけどね。
授業でみんなと机をそろえて座って何かを学ぶことが必要なことだと思えなかった。ある日授業を休んで体育館へ繋がる渡り廊下の壁に意味もなく座って向かいの窓から外を眺めてた。
そんな時話しかけてきたのが副担任の久坂先生だった。
「こんにちは」
「…」
何を話されるのかだいたい予想がついてたから身構えてたら、普通に挨拶された。
「空が好きなんですか?」
道端で道を聞くみたいに先生は声を掛けてきた。授業に戻れとかじゃないの?何で普通に話しかけてくるの?と疑問しかなかった。
「僕も空が好きなんですよ、飛行機雲とかもいいですよね」
にこにことして警戒心をゆっくりと溶かすような顔。不思議とウソっぽくない。
「綿あめみたいなのが好き」
自然とボクの口から言葉が出た。
雲が好きなんて誰にも言ったことがなかった。
初めて好きなものについて話せたのが久坂先生だった。
「いいですよねぇ、雲」
先生が放つキリリとした空気がこの人にはない。
でもそれが安心できるものだった。そうして何回か遭遇するたびに他愛もない会話をした。
その中で、久坂先生に息子がいることを知った。
「君よりも少し年が上になるかな、頭がいい子でね。ふと言ったことを覚えていたりして」
にこにこがいつもより深くなる。家族のことを話す先生はいつもより、親ばかだった。
「名前は?」
「琉。妻が漢字を考えてくれてね」
体育館への渡り廊下がいつもボクたちの井戸端会議所だった。
「かわいい?」
「ふふ、かわいいよ」
「ふふ、先生ってばそういうの親ばかって言うんだよ」
「ばかで結構、」
ずっとにこにこしている先生がふと真顔になる。
「私にとってはもったいないくらい大事な存在だよ」
「自分の子どもだから?」
「そうだねぇ…唯一の宝物なんだ、妻が遺してくれた」
先生が普段笑顔な理由が知りたかった。
いつもにこにこして、辛いことなんか何もないかのような顔をしている先生の本当の顔。
「君には何でも話してしまいたくなるね…おじさんの戯言だと思って流してくれて構わないよ」
気のせいか目尻に薄っすらと浮かんだ雫を隠すように、遠くの空を見つめる。そんな先生の横顔がいつまでも心の奥に残っていた。
その子どもが今、目の前にいる。
「久坂先生は元気?進学して地元離れたから会えてなくって」
掴まれたままの肩から細かく震える久坂先生の息子の手の振動が伝わってくる。
「父は亡くなったよ。」
よく見れば、先生がたまにしていた眼鏡を掛けている。
宝物、と言っていた先生の大事な存在。
こんなにも手が震えて弱々しく、悲しい存在になっているなんて教えてくれなかった。
ねぇ、先生。ボクは何ができますか?
全部を理解したわけじゃないし、把握もできる気がしないけど。
先生にとってのボクはただの一生徒でしかなかったと思うけど、ボクにとっての先生はただの一先生ではなかったよ。先生の宝物が今目の前にいるこの人なら、ボクにとってもそれは大事な一部であるわけで。
「琉、さんは何がしたいんですか?」
「気安く私の名前を呼ばないでください、」
琉さんの目尻に薄っすらと浮かんだ雫は、心の奥にいる先生の記憶そのものだった。