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死にたかったか、龍馬 その八

  同年二月十日(一八六七年三月十五日)お龍を伴い、長崎から下関に着く

  同年二月二十七日(一八六七年四月一日)下関。この日から三月上旬にかけて病気静養

  同年三月十四日(一八六七年四月十八日)長崎にて、土佐の福岡藤次・岩崎と会談する

  同年三月二十日(一八六七年四月二十四日)下関にて、鹿児島から立ち寄った中岡と会談

  同年四月十四日(一八六七年五月十七日)高杉晋作病死。満二十七歳八ケ月

 

 「この頃、後藤象二郎、福岡藤次の計らいで、亀山社中は土佐海援隊に改編されます。土佐藩を海から援けるという意味でこの名前が付けられました。この結果、龍馬以下隊員の給料は土佐から支給されるということになり、慢性的な財政逼迫という事態はここに解消されました。ちなみに、給料は月五両となりました。亀山社中時代の三両二分から見たら、かなりのベースアップです。まあ、それでも遊びたい盛りの若者たち、月五両でも足らず、会計係の岩崎弥太郎のところに行き、なんやかんやと理由を付けて、岩崎から金を引き出していったそうです。また、龍馬はこの時、二回目の脱藩罪を許され、土佐藩士に戻りました。辛い知らせも届きました。幕府で言うところの第二次長州征伐で一緒に幕府と戦った戦友とも言うべき高杉晋作が二十七歳という若さで、持病の結核が悪化して亡くなったのです。四歳下ではあるが、畏友とも言うべき友の死の知らせを龍馬はどのような思いで受け取ったのでしょうか」


  同年四月十九日(一八六七年五月二十二日)いろは丸で長崎を出港                  

  同年四月二十三日(一八六六年五月二十六日)瀬戸内海備後鞆の津沖で紀州藩船と衝突

  同年四月二十九日(一八六七年六月一日)下関に戻り、身辺整理を始める

  同年五月八日(一八六七年六月十日)三吉にお龍を頼み、下関を発す

  同年五月十三日(一八六七年六月十五日)長崎着。後藤に紀州藩船との衝突の顛末を報告

  同年五月十五日(一八六七年六月十七日)後藤を代表に立て、両船の当事者が会同談判

  同年五月二十二日(一八六七年六月二十四日)後藤と紀伊藩代表・茂田が会談

  同年五月二十九日(一八六七年七月一日)薩摩・五代才助の調停により、紀伊藩が賠償


 「大変なことが起こりました。龍馬を乗せて長崎を発ったいろは丸が瀬戸内海で紀州藩船と衝突して敢え無く沈没してしまったのです。これから、龍馬の一世一代の捨て身の行動が始まります。後藤象二郎を巻き込み、丸山遊郭を巻き込み、龍馬の面目躍如となる行動が切って落とされるのです。先ず、龍馬は最悪の場合は自分が死ぬ覚悟を定め、下関に帰り、身辺を整理し、自分亡き後、お龍が路頭に迷わないよう、伊藤助太夫及び三吉慎蔵にお龍の世話を頼みます。それから、長崎に行き、ぬらりくらりと龍馬の追求を躱す紀州藩を追い込んで行きます。この際、土佐藩お抱えとは言え、浪人結社に毛が生えた程度の海援隊を前面には出さず、あくまで土佐藩の重職である後藤象二郎を交渉の代表に立てました。そして、後藤はこの種の役回りにはまさに打って付けの人物でありました。押し出しが良く、貫禄十分に対応できる男でした」


 「また、丸山遊郭という存在も徹底的に利用しました。唄を流行らせたのです。『船を沈めた その償いに金を取らずに 国を取る』という唄を故意に流行らせたのです。龍馬たち海援隊の若者にしてみれば、丸山遊郭というところは勝手知ったる我が家の庭みたいなところです。どこをどう押せば、どういう反応が出てくるか、熟知しています。丸山遊郭には長崎に駐在する、或いは、長崎を往来する諸藩の武士が遊びに来ます。そこで、このような唄が遊女によって面白おかしく唄われていれば、痩せ浪人が天下の紀州をやっつけているという痛快な構図で誰でも龍馬たちを応援する気持ちになります。まして、御三家ということで、知らずと鼻が高くなる紀州藩に関してはあまり快くは思わないのが一般の人情でしょう。紀州藩の担当者は大いに困りました。今も昔もマスコミを握った方が勝ちとなります。前回の衆議院選挙で大勝した民主党がそうですよね。圧倒的な勝利が約束されます。世論が龍馬たちの味方になり、紀州藩の旗色は段々と悪くなりました。もう、沈没の原因がどうのこうのでも無く、龍馬たちにも非があるといった議論は意味をなさなくなりました。その結果、国を取られるよりは金を取られた方がましとばかり、龍馬に顔がきく薩摩の五代才助という人に調停を依頼することとなり、紀州藩は全面敗北ということになったのです。賠償金は何と八万三千両です。一両を五万円としても、四十億円以上という巨額のお金を海援隊に支払うということを約束させられ、一ヶ月に及ぶ泥試合にも似た談判交渉は龍馬サイドの一方的な勝利で幕を閉じました。龍馬たちの得意満面の笑顔が目に浮かぶようです。龍馬は結構マキャベリストでありましたね。目的のためには、手段を選ばず、といったところでしょうか。しかし、惜しむらくは龍馬の命。龍馬の命の蝋燭は既に半年をきっています」


  同年六月九日(一八六七年七月十日)土佐藩船・夕顔に乗船し、長崎を出航

  同年六月十日(一八六七年七月十一日)下関着。後藤に船中八策を示す

  同年六月十五日(一八六七年七月十六日)京都に到着。中岡が来訪し、今回の事件を報ず

  同年六月二十二日(一八六七年七月二十三日)大政奉還の薩土盟約に立ち会う

  同年六月二十五日(一八六七年七月二十六日)中岡の案内で岩倉具視を訪問

  同年七月五日(一八六七年八月四日)土佐に向かう後藤らを大坂まで同行する

  同年七月七日(一八六七年八月六日)後藤象二郎、土佐藩船・空蝉に乗船するを見送る


 「さあ、龍馬の最後の仕事となります。大政奉還です。これは、龍馬独自のアイデアでは無く、当時大勢の人が声高に話していた政局混迷打開策案です。しかし、それを整理して、土佐藩を動かし、幕閣を動かし、果ては将軍をも動かし、二百六十年続いた徳川幕府政権を朝廷に返上させたこの一大プロジェクトの立役者となったのは龍馬であると僕は思っています。ただ、このプロジェクトを推進したが故に、西郷・大久保・桂といった薩長の大立者たち、及び、盟友の中岡慎太郎からもいつしか龍馬は煙たがられる存在となってしまいました。浮いた存在となっていきました。薩長及び中岡はあくまで幕府は武力で徹底的に叩き、徳川を完膚無きまで滅ぼすという立場を堅持しておりましたから、大政奉還などという形で徳川を残すという龍馬たち土佐の画策は非常に目障りなものであったのは間違いありませんね。龍馬暗殺の黒幕に、西郷さんたち薩摩がいたのではないかと疑われる理由ともなっています。さて、紀州藩との紛争に勝利し、勝利の美酒も醒め加減の頃、思わぬ事件が勃発します。長崎で起こった英国軍艦イカルス号の水夫殺害事件です。この事件は七月六日に起こりました。目撃者の話で、海援隊の隊士が容疑者として疑われました。英国公使のパークスが乗り出し、事件解決に向け、日英両国がいろいろと折衝した事件で海援隊士の容疑が晴れるまで結構な日数を要し、この間隊長である龍馬もさぞかしやきもきしたことでしょう。実際のところは、犯人の福岡藩士・金子才助という人が既に自決していたのですが、日英担当者には伝わらず、二ヶ月あまりの時間がかかったという次第です」


  同年七月二十九日(一八六七年八月二十八日)京都を発ち、容堂宛春嶽親書を携え大坂へ

  同年八月一日(一八六七年八月二十九日)薩摩藩船で神戸出航

  同年八月二日(一八六七年八月三十日)高知・須崎に入港

  同年八月十二日(一八六七年九月九日)須崎を出港

  同年八月十四日(一八六七年九月十一日)下関着港。佐々木にお龍を紹介する

  同年八月十五日(一八六七年九月十二日)長崎に上陸

  同年八月二十日(一八六七年九月十七日)桂を佐々木に紹介する。大政奉還に桂は懐疑的

  同年九月十日(一八六七年十月七日)イカルス号の件、真犯人不明のまま、嫌疑は晴れる

  同年九月十八日(一八六七年十月十五日)ライフル銃を積んで、長崎を出港

  同年九月二十日(一八六七年十月十七日)下関着。伊藤俊輔に会う            

  同年九月二十二日(一八六七年十月十九日)下関を発す。お龍とは永訣となる

  同年九月二十四日(一八六七年十月二十一日)高知・浦戸に入港

  同年九月二十九日(一八六七年十月二十六日)高知・上町・坂本 家に六年振りに帰宅し、歓談する


 「この間、龍馬関係の本を読んでいたら、坂本家の領地石高が記されておりました。郷士ではありますが、ちゃんと石高は与えられていたんですねえ。土佐の郷土史家の調査に依れば、郷士・坂本家の領地高は百六十一石八斗四升であったそうです。昔、何かの本で読んだのですが、槍一筋と言うのは百石取りの侍を指し、騎馬の身分というのは三百石取りの侍を指す言葉だそうです。そして、由緒正しい家柄の侍を新規に抱える場合は、とりあえず、三百石で抱えるのが殿様のマナーであったとか。そう言えば、去年、僕たちが調べた松賀騒動でも、磐城平の二代目藩主の内藤忠興が松賀族之(やがらの)(すけ)のお父さんである大野市左衛門を新規に召し抱えた時に与えた石高はやはり三百石でしたねえ。大野市左衛門は、大野治長と荒木重堅という高名な武将の子孫ですから、とりあえずの石高は三百石とし、騎士の身分として仕官をさせたのでしょうね。大野市左衛門の子で三男の松賀族之助は三代藩主の義概に仕え、小姓から二千石取りの筆頭家老まで出世するわけですから、まさに当時としても破格の出世で、内藤譜代の家臣からは大いに嫉妬されたことでしょう。まあ、それは余分として、龍馬の家の百六十石というのはそう低い石高ではありません。長州藩の高杉晋作の家の石高は二百石であり、桂小五郎は百五十石の桂家に養子に行った男ですが、萩藩ではかなりの家柄の武士として処遇されています。ちなみに、石高百六十石は、五公五民という年貢で考えれば、実質手取りは八十石程度となり、一石を大体の米相場で一両と換算すると、年に八十両の現金収入となります。幕末当時は、下女の年季奉公が年で三両二分という相場であったと云われています。一両を現代でどのくらいのお金に見るかが難しいところですが、お米の相場で言えば、大体四万円から六万円といったところ、人件費の観点から言えば、一両は二十万円の値打ちがあったという見方もあり、仮に、二十万円という説を取れば、下女は一年で七十万円稼ぐこととなり、一方、坂本家は八十両ということで年間千六百万円の所得があったという計算になります。一両が四万円ならば、三百二十万円の所得にしかなりませんが、いずれにしても、本家の豪商・才谷屋も後ろに控えていることでもありますし、内福な家であったと考えて良いと思っています」


  同年十月一日(一八六七年十月二十七日)浦戸を出港

  同年十月六日(一八六七年十一月一日)大坂着。薩摩藩邸に入る

  同年十月八日(一八六七年十一月三日)京都の薩摩藩邸で薩長芸三藩の討幕密議

  同年十月十日(一八六七年十一月五日)京都白川村・土佐藩邸に中岡を訪問。福岡の紹介で若年寄・永                    井玄蕃守(尚志)に面会、大政奉還建白書採用を説く

  同年十月十三日(一八六七年十一月八日)慶喜、二条城において大政奉還の意を表明

  同年十月十四日(一八六七年十一月九日)慶喜、大政奉還を朝廷に奏聞する

  同年十月十五日(一八六七年十一月十日)大政奉還上表が聴許される

  同年十月十六日(一八六七年十一月十一日)後藤を訪問、新官制擬定書を作成する


 「いろいろと紆余曲折はあったものの、後藤が山内容堂に建白し、山内容堂・松平春嶽などが将軍慶喜に建白する形で、大政奉還という政治案件は進みました。最終的には、慶喜が判断して大政奉還を決めたんですが、龍馬は英断としてこの慶喜の判断に感激しております。『将軍家今日の御心中さこそと察し奉る。よくも断じ給えるものかな』と言って、落涙したと伝えられています。これで、国内での戦争は避けられ、無血革命は可能となった、としみじみ感動したのでしょう。その後も、龍馬の真骨頂が発揮されることとなります。船中八策から発展させた三職制、新官制擬定書案、新政府人事案を策定したり、新時代の議会政治を円滑に行うための仕組みをあれこれ考えています。あの時代、ここまで考えていた人はほとんどいなかったのではないかと僕は思っています。まさに、龍馬は良きアイデアマンであり、政治においては良きブレーンとなる能力を十分に備えた人だと思います。後、龍馬の命は二十日ほどとなりました」


  同年十月二十四日(一八六七年十一月十九日)京都を発し、岡本を伴い、福井へ向かう

  同年十月二十八日(一八六七年十一月二十三日)福井着。村田を訪問する

  同年十一月一日(一八六七年十一月二十六日)春嶽に拝謁。後藤からの上京要請を伝える

  同年十一月二日(一八六七年十一月二十七日)三岡八郎(由利公正)と会談する

  同年十一月三日(一八六七年十一月二十八日)福井を発す

  同年十一月五日(一八六七年十一月三十日)京都着。新政府綱領八策を起草する

  同年十一月十一日(一八六七年十二月六日)永井玄蕃守を再訪する

  同年十一月十三日(一八六七年十二月八日)風邪のため、床に臥す

  同年十一月十四日(一八六七年十二月九日)風邪気味で近江屋土 蔵から母屋二階に移る

  同年十一月十五日(一八六七年十二月十日)刺客の襲撃を受け、殺害される

   ※この日は朝から氷雨が降っていて、夕方まで止まなかったと云われている

  同年十一月十六日(一八六七年十二月十一日)下僕・藤吉、死亡。享年二十五歳

  同年十一月十七日(一八六七年十二月十二日)中岡、死亡。享年三十歳

  同年十一月十八日(一八六七年十二月十三日)東山・霊山に三人を埋葬する。桂が墓標を記す

  同年十一月二十六日(一八六七年十二月二十一日)永井、近藤勇を訊問。龍馬暗殺を否定

  同年十一月二十七日(一八六七年十二月二十二日)長崎・海援隊に龍馬暗殺の報が伝わる

  同年十二月二日(一八六七年十二月二十七日)下関・自然堂のお龍に悲報が伝わる


 「忙しく動いた龍馬の動きは、早過ぎる死によって不意に中断されました。暗殺前後の状況に関しては、先般お見せした小説の中に記載されています。僕は、龍馬暗殺は武力行使に反対する龍馬を排除しようとした勢力、つまり討幕派が何らかの形で絡んでいたものと見ています。ただ、予想外だったのは、中岡慎太郎がたまたま同席していたことであり、討幕派としては中岡の死は大きな損失であったと考えています。実際に手を下したのは幕府見廻組であったとしても、龍馬暗殺に関係した人たちの口は堅く封印されて現在に至っております。しかし、それにしても、龍馬の不用心さ、警戒心の無さには呆れてしまいます。大政奉還という一大事業が済んで、気が抜けて腑抜けになってしまったかのような無警戒振りです。まるで、自分の果たすべきこの世での役割は全て終わった、後は早く死ぬばかりといった、死にたかった男のようです。なぜ、それほど早く、死にたかったか、龍馬!という気分ですね。新政府の役人にはならず、世界の海援隊をやる、と言って陸奥宗光を感動させたのも有名な逸話として残っていますし、功労者として、あまりにも無欲恬淡としているのも気になります」


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