ドッグフード
井上と名のる男が店にやってきた。本当の名前かどうかは分からない。しかし、そう名のって古本を買ってほしいと通天閣の見える古書店に入ってきた。
「田宮さん、千円でいいがぁ、買ってもらえねえかなぁ」
そう東北なまりの混じった話し振りだった。
田宮さんと声をかけたのは『田宮書店』と看板をかけてあるからで、接客したのは、本当は田宮じゃない、DJだ。田宮は前の店主の名前だろうか、よくわからない。アルバイトだから。
「買ってくれって、こんな本は買えないよ」
そう返事をしたところで、DJはふと思い出した。昔、日本中を流歩いていた時に、ふと立ち寄った福島県の食堂で無銭飲食をして逃げた店の主人ではないかと。よく似ている。DJは、こいつそれを知っていて無理やりに本を買わせようとしているのではないかと勘ぐった。
「ダメダメ、『化学ⅠB』とか『チャート式数Ⅲ』なんて学習参考書だろう。せいぜいキロ何円の紙の束にしかならないよ」
「そんなこといわねえで、買ってくれよ。津波で仕事も家族もなくして福島から流れてきたんで……」
「そんな同情を誘うようなことを言っても買わんよ」
DJは突き放した。あくまで正体は知られていないという態度で通した。
その井上が向かいの食堂によく顔を見せているなと気づいたら、そこの飼い犬を可愛がっているようだった。まだ、若い柴犬で愛想もいいので、通りすがりの客らがよく構っていく、その中の一人が井上だった。手ぬぐいを噛ませて、引っ張り合いをしたりしている。その姿は、もういい年をしているのに、嬉々として少年のように喜んでいるように見えた。
DJを見つけるとそばに寄ってきて
「あの犬、若いな。すごい力だよ。引っ張りあげてもまだくらいついてくるものな」
と言った。
「いいかげんにしとけよ」
そう口をはさんでみたが、いっこうに止める気配はなかった。
おそらく寂しいのだろうが、寂しいだけの奴ならこの西成区にはいくらでもいる。
「あまり関わっているとあとでつらい日がくるぞ」
そうとも言ってみたが、聞く耳をもっていなかった。
ともかくそれからも、井上が持ち込んでくる本は金になるようなものは少なかった。
DJは井上をあまり邪険にできずにいた。そうかといって本当に自分が無銭飲食の男と井上に気づかれているのかを確認することも、恐ろしくてできなかった。
ある日、どこで見つけてきたのか、推理小説や歴史小説の文庫本を多数持ち込んできた。そこで二千円で買い取ってやった。
二千円を持って呑みにでもいったのかと思っていたら、向かいの犬に餌を与えているようだ。
数週間が過ぎて井上が店に顔を見せた。
「犬に餌をやらねえでくれと言われたんだ」
そう、ぽつりと言った。
「だいじな飼い犬だから、やめてくれっていうんだ。汚いものじゃない、上等のドッグフードをせっかく買ったのに……」
本当に寂しそうな顔をした。
「あの柴犬は他人の持ち物なんだから、やめてくれといわれたら、やめるしかないでしょう」
「そうなんだ。そうして世間の奴らはいつもオレから取り上げていくんだ」
突然、DJが声を荒げた。
「そんな、甘ったれた事いってるから、家族も店もなくすんだよ」
井上は目を丸くしている。
「鬱っとしいやっちゃなあ。出て行ってくれ」
DJは井上の襟首をつかんで、放り出し、後ろから蹴り上げた。
「オレを無銭飲食で責めないのは、ドッグフードでもやったつもりなのか!」
前のめりに転んだ井上は、よろよろと起き上がったが、何も言わなかった。
その日のうちに、DJは店から姿を消した。