久しぶりだね
タマにお願いをしてから、私は校舎の正面玄関の庇に座り登校してくる生徒を眺めていた。梅雨の終わりを思わせる青空の下、生徒たちは各々に登校してきていた。タマは、お願いを聞いてくれた。ありがたい。タマが心の広い猫でよかった。それとも猫は全般的に心が広いのだろうか。あとは瑞希が来てくれるのを待つだけだ。
校門から、白いエナメルの部活バッグを抱えた女子生徒が現れた。背は少し高めで、長い髪は一つにまとめてサイドに流していた。前髪はヘアピンを使って留めている。少し太めの眉と大きな目が特徴の瑞希だ。表情が少し暗いように見えるのは、まだタマが見つかってないからか、それとも私の気のせいか。
私は瑞希が玄関に入ると、庇から降りて着地し、歩いて瑞希を追った。教室に入ると、瑞希は自分の席に着く。おもむろにスマートフォンを取り出して、ホームボタンを押すと、待ち受けの画面が表示された。そこには白と黒の模様をした猫。タマだった。
「タマ……」
瑞希が小さい声で呟いた。その表情は今日の空とは対照的に曇っていた。力なくうなだれる瑞希の肩に思わず手を置こうとすると、当然のようにすり抜けた。……私はすり抜けた手を、ぐっと握る。
ごめん、待ってて瑞希。必ずタマに会わせるから。
朝のホームルームが終わり授業が始まるまで見守ってから、タマのもとへ戻った。一つ目の能力が使えればこんなうろうろしなくても済むが、それぞれの能力の使用は一回限りで、一つ目の能力はもう使ってしまったのだから仕方ない。それに、動くのが苦であるわけではないし。
タマはまだ寝ていた。猫は本来夜行性であると聞くから、別に不思議ではないが、よく寝るな。じっとしていてくれるのはやりやすいから助かるけども。とりあえずは、放課後まで待つ。そのうちにタマが起きたので、雑談や散歩をしながら時間まで気持ちを整えた。
――キーンコーンカーンコーン……
放課後開始のチャイムが鳴った。学校でのお決まりの単純な音色が繰り返される。
時は来た。
私はタマに目で合図を送る。タマはわかってる、と言うように私を見返す。私は浮いて、一直線に教室に向かう。窓をすり抜け、教室のドアもすり抜け、教室に辿り着いた。教室内は授業が終わったばかりで、ざわざわしていた。瑞希の姿を探すと、すぐに見つかった。窓側の、一番前の席。瑞希は、教科書類と筆記用具を鞄にしまっていた。みんなから見えない私は、堂々と瑞希の側まで歩いていき、たまたま休みらしい瑞希のとなりの席の机に座る。ほどなく担任の先生が教室に入ってきて、帰りのホームルームが始まった。特別な連絡はなく、ホームルームはすぐに終わった。その瞬間、風に吹かれたタンポポの種のように、生徒たちはそれぞれに散っていく。期末テストが近いため部活が休みになっている瑞希は、すぐには立ち上がらず、少し憂いを帯びた表情で窓から外を見ていた。無意識にタマを探しているのかもしれない。
「瑞希」
声のほうを向くと、篠田さんがいた。昨日と同じように心配そうな顔をしている。
「今日はどうするの?」
「うん……もう一回校内回ってみて、そのあと近所を探してみるよ。それで張り紙も貼ろうと思う」
「そう……。ごめんね、手伝いたいんだけど今日は帰らないといけなくて……」
「大丈夫だって。ありがとう」
少し無理を感じる瑞希の笑顔に、篠田さんは心底申し訳ないといった顔をしていた。篠田さんは優しい。ああ、それにしてもやっぱり朝に会わせるべきだったかな……。いやでももう会える。だから大丈夫だよ瑞希。
しばらく二人のやりとりを見守る。篠田さんが腕時計を見たあと、下駄箱まで一緒に行く? と提案するが、
「ごめん、職員室に用があるから。急いでるんでしょ、帰りなよ」
瑞希はそう言って促した。篠田さんは了解して、ああもうなんでこんな日に限っておじいちゃん倒れるのよ! と叫んでから急いで出ていった。篠田さんも大変らしい。
瑞希は立ち上がると、一度伸びをしてから、体をほぐすように腰を回した。
「……ふう」
瑞希は、バッグを教室に残すと、職員室へ向かう。私は数メートル後ろをついていく。職員室に入った瑞希は数分でそこを後にした。提出物があったようだ。それから玄関方向へ歩を進めた。それを確認した私は、横にステップを踏んで壁をすり抜け、タマのもとへ飛んだ。タマは、用具倉庫の前に座って待っていた。私はその側に着地して、タマに声を掛ける。
『瑞希、来るよ』
『了解にゃ』
タマはスクッと四足で立ち、少し早めのペースで歩き出す。私はそのすぐ後を追う。玄関が見える、少し離れた位置から様子を窺うと、玄関はほとんど人がいなかった。これは瑞希からタマを見つけやすく都合が良い。私はあちらからは見えないので隠れる必要はないが、なんとなくタマの側で物影に身を潜めてしまう。
瑞希とタマの再会を見届けなければならない。私にはその義務があるように感じた。
玄関を見張り始めて、三人ほど生徒の出入りがあったあと、とうとう瑞希が現れた。よし、タマ、今!
『じゃ、行くにゃ』
タマは歩き出した。瑞希の方へまっすぐ向かう。瑞希はまだ気づいていないようだが、もう秒読みだ。
瑞希がタマを見つけた。みるみる表情が変わっていく。最初は目を見開いて驚き、そして柔らかく笑い、そのまま泣きそうになりながら、
「タマ!」
駆け寄った。瑞希は膝をつき、タマを抱き上げて、抱きしめた。
「探したよ、もう……!」
その目に光が満ちたように見えたのは、涙がそれを濡らしたからだろう。
良かった……本当に良かった。
さて……。
私がタマにお願いしたのは、ここからのことだ。このお願いごとは私のエゴだ。でも今を逃すともうチャンスはきっとない。だからごめんねタマ、私に瑞希との時間を少しだけちょうだい。
私はその場で軽く地面を蹴る。すると私の身体は宙に浮く。私は学校の二階、正面玄関の上の辺りの窓をすり抜け中へ入る。そのとき、一瞬だけタマのほうを見た。タマも私を見ていた。タマは、
『任せにゃ』
と言うような顔をした、ように思えた。そしてそれは恐らく正しい。
頼んだよ、タマ。
私は校舎二階の職員室近く、あまり生徒が利用しないと思われるトイレを目指す。トイレは扉がなく、一歩入って左右に男子用と女子用で分かれている。私は女子のほうに入った。
もう一つの花子さんパワーを使う。
それはとても花子さんらしい力だった。私がトイレの個室内にいるときノックしてきた人と会話ができるというものだ。会話できるのは私が個室に入ったあと最初ノックしてきた人のみ。そしてこの力を使うとき、私はトイレの一つの個室の扉とその鍵のみ触れて動かせる。個室に誰かが入っている状態を演出し、誰かにノックを促せるというわけだ。これだけでは特定の誰かと話そうとするには難しいが、今ならタマの力を借りて瑞希をここまで誘い出せる。タマに頼んだのはそのことだ。猫が本気を出せば、人間に捕まらないように逃げるのは簡単だろう。タマにうまいことここのトイレに瑞希を誘導してもらい、女子トイレの私がいる個室に逃げ込んでもらう。ここのトイレの個室の壁は下のほうの隙間が割とあるので、猫ならば通れるだろう。それは昨日、タマが寝入ったあとに確認した。その時点では実行するかは迷っていたが、本当はやることを決めていたんだろうと今は思う。
うまくいくかはわからないが、成功すれば瑞希はノックせざるを得ないはずだ。そうすれば私は、瑞希と話すことができる。
私は一番奥の個室の壁に寄りかかるようにして立っていた。あとはタマを信じて待つしかない。私は制服のポケットに手を入れて、深く息を吐いた。緊張している。体中を微弱な電流が流れる膜で覆われているようだ。心臓が脈打っている感覚がはっきりとわかる。もう私に肉体はないのに、どういう仕組みなんだろう。
瑞希はどんな反応をするだろうか。それが一番怖かった。気味悪がって逃げてしまう可能性だって充分にある。というか、それが普通の反応だろう。でもきっと瑞希なら私と話してくれると思う。しかしその淡い希望はあっけなく砕かれるかもしれない。でもそれはまだ現実にはなっていない。やってみないとわからない。だったら、もう本来なら、後悔すらできない死んだ身なのだから、できることはすべてやってみたい。それがどんな結果になるとしても。
ふいに遠くから声がした。そしてそれはもう一度、さっきより近くではっきり聞こえた。瑞希の声だ。焦りの混じる、やっと見つけた飼い猫の突然の行動に戸惑う声だ。
「ちょっとタマ! どこいくの待って!」
さらに近くではっきりと聞こえた。それとほぼ同時に、白と黒に配色された猫の顔が個室の壁の下から覗いた。タマだった。するりと壁と床の隙間を抜け、個室の中に入ってきた。私は自然と壁に寄りかかるのをやめて、手もポケットから出していた。タマが私の足元に座りながら、
『これでいいにゃ?』
となんでもないような顔で言った。
『仕事ができる猫だね、まったく。ありがと』
私はおどけてそう返しながら、しゃがんでタマを撫でるように手を動かした。触れれば、高い体温と毛の感触が気持ちいいのだろう。すると個室の外で、バタバタと足音がした。そして、
――コンコンコン
少し躊躇いがちな、ノックの音が響いた。
「すみませーん……、その、入ってますか……?」
続いて申し訳なさそうな瑞希の声。
――コンコンコン
私は立ち上がって、おそるおそるノックを返した。瑞希のノックと、同じ音が響いた。
一呼吸おいて、緊張で強張る声帯から声を搾り出す。
「……入ってます」
震えてしまっている。でも私の声は瑞希に届いていると確信する。瑞希は返事しないが、明らかに動揺しているのが扉越しに伝わってくるから。
さあ、一言発してしまえばもう引き返せない。あとは逃げられようが叫ばれようが、語りかけ続けるだけだ。小学校の頃、花子さんの話を聞いたときは恐怖しか感じなかった。花子さんの気持ちなど考えなかった。もしかしてこんな気持ちだったのだろうか。かつて自分のいた世界にすがるように、かつての自分の友達に気付いてほしいと懇願するように、必死に手を伸ばしていたのだろうか。
私は言葉を紡ぐ。大切な友人に向けて。その飼い猫が見上げる前で。
「……久しぶりだね、瑞希」
瑞希は逃げない。叫ばない。そこにいる。私の言葉を聞いている。