お願いがあるんだけど
次の日、私は用具倉庫で目を覚ました。屋外で使う掃除道具などが収納されている大きめの物置だった。まだ夜明け近くのようで、倉庫の扉の隙間から入ってくる光は弱い。側にはタマが丸くなって寝ていた。触れられないが、撫でる真似をした。私は立ち上がると、猫がギリギリ通り抜けられる隙間があいた両側にスライドさせるタイプの扉をすり抜けて外に出た。辺りは深海に沈んだような深い海色に染められ、静寂が横たわる。それにそっと触れるように、遠くでバイクの走行音がした。朝刊を配達しているのだろう。
私は昨日、寝る前にタマと話したことを反芻する。
作戦はこうだ。
今日、放課後まで待ってから私が瑞希の動向を窺い、下駄箱を出るタイミングでタマと瑞希を再会させる。それならばそのまま一緒に帰れば良いだけだ。朝に会わせる案もあったが、それだと瑞希は学校を帰るまでタマにいてもらう場所に困るだろう。瑞希が昨日のようにタマを探すにしても、必ず靴を履くために下駄箱に来るのでそこで会えばいい。
『にゃるほど。納豆を食うにゃ』
『納得ね。納得』
タマも賛成してくれたので、この案を採用することにした。瑞希にもう一日タマの心配をさせてしまうのが唯一心苦しいが……。
朝日が稜線から顔を出した。辺りは深海から浮上し、色を取り戻していく。私は太陽の光に目を細めた。空を仰ぐと、下腹部を橙色に染めた雲と淡い青に視界が満たされる。
『……やっぱり一つ、タマに頼もうかな』
私は昨日、タマから瑞希の話を聞いたときから、どうしようか迷ってたことを実行する決意をした。
それは、花子さんパワーの二つ目を使うこと。
私は用具倉庫に戻って、タマの近くに腰を下ろした。タマはまだ、さっきと同じように丸くなったまま眠っているようだ。
タマは、私の知らない瑞希をたくさん教えてくれた。タマは私よりもずっと長く瑞希の側にいた。タマは瑞希が幼稚園年長の頃に瑞希の家にきたらしい。それからタマが見てきた瑞希は、充実した人生を送っていたようだ。少なくとも、中学二年生までは。
瑞希は、中学三年生で新しくなったクラスで発生したいじめ騒動に巻き込まれた。
見て見ぬふりをすることをせず解決しようとして、いじめの標的になっている子を庇おうとした結果、その矛先が瑞希に向いてしまった。
……よく聞く話だ。しかし瑞希はめげず、担任の先生に訴えもしたが、取り合ってもらえなかったそうだ。そこでゴミ箱に捨てられた上履きや、心ない落書き、仕掛けられた画鋲などを写真で撮り先生に見せた。しかしその先生は、あろうことか自作自演ではないかと言ったらしい。それに瑞希はキレて、怒鳴ってその先生を殴ってしまった。そこで大問題に発展し、もともといじめられていた子とクラスの生徒からの証言も得られ、問題は明るみに出て、学校ぐるみでの解決を必要とされる事態になった。
結果として瑞希は謹慎をくらい、その先生は転勤になった。その後、事件のせいでクラスメイトは瑞希に腫れ物を触るように接してくるようになった。親しかった友人は親身になってくれたようだったが、それぞれの進路や受験が迫るにつれ忙しくなり、その関係も希薄になっていった。
これは私の推測だが、それだけではないように思えた。瑞希の味方をすることで、新たに標的にされないか恐れていたのではないだろうか。事件は解決していじめはなくなったそうだが、そのしこりが簡単になくなるとは思えない。
瑞希にはスポーツ推薦の話が来ていたがそれは取り消しになり、行きたかった高校には行けなかった。同時期、瑞希の家では父親が仕事の関係で単身赴任をしていたが、もう戻れなさそうということでそっちに引っ越すという話が出ていたそうだ。そんな中この事件があったため、話は一気に進んだ。瑞希は、自分の学力でギリギリ行けそうな、引っ越し先から近い高校をいくつか選んで受験し、なんとか合格した。それがここ、区立芹澤高校。
高校に入る前の休みに越してきたとは聞いていたが、そんな理由が……。中学時代大変だったこともなんとなく聞いていたが、ここまでとは知らなかった。事なかれ主義の私には想像し得ない壮絶な事態だった。タマは『にんげんはいろいろ大変そうだにゃ』とか言っていたが。猫にとっては文字通り他人事なのだろう。
そんな事件を経て、高校で最初にできた友達の私を、瑞希は私が思ったよりもずっと大切に感じてくれていたらしい。家に招かれたとき、母親を含めてやたら歓迎してくれるなと思ったことに合点がいった。
タマが言うには、私は今までの瑞希の友達とは系統が違うんだとか。口数は多くないし無愛想だけど、本当は気配り屋で、思いやりに溢れていて熱いものを秘めている、らしい。そんな風に思っていたんだ……それは買い被り過ぎだよ瑞希。そんな風に言われたことない。私はそんな立派なものじゃない。てか恥ずい。
……うん。でも嬉しい。私はただの一人が好きなわりに寂しがり屋の捻くれ者だけど、だからこそ瑞希が積極的に、でも押し付けがましくなく仲良くしてくれるのはすごくありがたかったし楽しかった。……もっと一緒に楽しいことしたかったよ、瑞希。ごめんね。
タマがぴくっと動いた。それで私は我に帰る。いつの間にか、外はすっかり朝になっているようだった。
『おはよう、タマ』
『……にゃ……。もう朝かにゃ……』
タマがもぞもぞしながら言った。誰かにおはようと言える朝も久しぶりだな。相手が猫だったとしても、そのじんわりとした温かさは変わらない。
『そうだよ、おはよう』
『……動くのは放課後にゃ? ならまだ余裕だよにゃ……』
タマはまた眠る体制に入った。緊張感ないなぁ。タマは瑞希に会うだけだから、それもそうか。でもちょっと仕事してもらうよ。
『ねぇタマ、お願いがあるんだけど……』