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箱庭と精霊の欠片  作者: 日室千種
迷子の欠片

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8/10

希望と夢と

 薄暗い部屋にノックが響いた。

 侍女を下がらせて、ぼんやりと長椅子に臥せっていたミリアンネは、気怠く起き上がった。


「どなた?」


 姉は、夕食の席には来なかった。婚約者の姿ももちろんなかった。父侯爵は、姉からの欠席の言伝を受けて不機嫌そうに唸り、そのまま、夕食は会話もなく、重苦しい時間となった。母も思うところあるようで、取り繕ったような顔で、一言も口を開かなかった。

 そのあと、一人で部屋にこもっていたのだが。

 姉のことで頭がいっぱいのはずの父母が来るとは考え難く、姉でも、きっとない。


「夜分に失礼、妹さん」


 応えて扉を開けたのは、昼間に会った、眼鏡の女性だった。


「どうして、あ、姉の部屋は、あちらです」

「どうも取り込んでるようだから。今回は、これを君に渡しに来ただけだ」


 みごとな裾さばきでつかつかと近づいて、まだ長椅子に両足を伸ばしたままの状態だったミリアンネの膝の上に、片手で掴んでいた分厚い冊子を、どし、と置いた。

 硬い革の板で挟まれた紙片を、糸で綴じてある。それなりに時を経て、何度も見返されて来た冊子のようだ。革の手触りは滑らかで、やさしい。


「さっき言ってた、テラリウムの図版だ。参考になるだろうから、先に渡しておく」


 中身に思い当たり、その話が出た状況を思い出すより先に、指が動いて冊子を開いた。上質な紙のページにひとつずつ描かれた、円い器の中の草や木や、苔やきのこ……。思い描いたこともない組み合わせ、配置、そして見たことのない葉や花。

 はっと、ミリアンネが顔を上げると、女性は、少し離れたところで腕を組んでこちらの様子を見ていた。


「あの、これは私に……?」


 あのテラリウムを作ったのはミリアンネだとは、知られていないはずなのだが。


「ああ、そうだ、これも。おまけ」


 女性は問いかけには応えずに、たっぷりとした特殊な袖の中から、薄手の冊子を探り出し、それもミリアンネへと押し付けて来た。


「君に、というか、あのテラリウムの作者に。うちの土蜥蜴が、それはもう楽しみにしているんで、よろしくお願いしたくてね」

「では、姉に……姉に、伝えます」


 ようやくミリアンネは両足を下ろし、膝に冊子を二つ抱いて、かろうじてそう応えた。

 姉に、伝える。姉と、ちゃんと話ができるだろうか。こんなにぐるぐると悩みながら。


「ん……、できれば早めに願いたい。おまけのほうは、ミニチュアの図版。それも、役に立つならと思って。両方、納めてもらって。作者どのに」

「は、はい」


 ミニチュアの図版?

 突然、抱えた冊子が重たくなったかのようだった。びしばしと存在を主張してくる。

 目の前の女性が気のない様子で眼鏡を外して眺めているのを確認して、そっと、冊子を開いてみた。

 絵は、テラリウムのものほど精密ではない。けれど、ミリアンネの心臓がとまりそうになったのは、小さな釜の低い温度でも本物らしく焼き上げられる陶器の作り方や、小さくとも本格的な建築物を作るいくつかの方法の比較など、実際的な手法が、図入りで書き連ねられていたためだ。どう再現していいのか手がかりすらなく、苦しんでもがいて、一人思い詰めていた日々に、光が射した。

 息を忘れるほどにのめり込んで文字を追い、着想を得て、すぐさまティールームに走り込もうとソファから立ち上がったところで、じっとこちらを見る眼鏡の奥の目と、がっちり見つめ合った。

「あ、その、ご、ごめんなさい」

「忘れてた? わたしのこと」

「ごめんなさい。わすれて、ました」


 仕方がない。潔く謝ると、勢い良く吹き出された。


「……ははっ。こうして見ると、アリアルネに良く似てる」

「ど、どこがですか!」

「集中すると、周りが見えなくなるところ、かな」


 ぽかんとする。

 姉は、懐刀と称される姉は、そんなに抜けてはいない。いないはずだ。

 けれど、その姉の情報源として付き合いが長い、という女性は、いまだにやにやと笑いながら、言うのだ。


「今だってどうせ、破局にばっかり目が行って、状況が見えてないだろ?」


 は、と固まったミリアンネを、さらに笑い飛ばしてくる。


「で、妹はそんな姉ばかり見つめて、周りが見えない、と。ま、今は図版しか見てなかったけどね」

「……!」


 からからと笑う様子は、特にミリアンネを貶める意図はないようだ。

 笑いが収まると、おもむろにミリアンネを覗き込んで来た。


「正直なところ、婚姻なんて契約だから、よほどのことがない限り、誰が相手でもあまり変わらないとは思うけど。アリアルネにとっちゃ、あの婚約者が随分重要みたいだから。仕方ない。

 ——だれが、黒幕だ」


 そっと囁く唇が、とても赤い。


「それだけ、姉さんに尋ねてみるといい。うまくいくかどうか、わからないけれど」


 そして、美しい笑みを残して、女性は扉に向かった。部屋を出がけに、悪戯そうに振り返り。


「テラリウムには、願いを叶える力があることも、あったようだよ」


 祈ってみたら。

 侍女の案内もなく、迷う素振りもなく廊下を遠ざかる背中は、やはり女性にしては大きく広い。

 残されたふたつの図版を卓上に置くと、ぽつりと置かれていた姉のテラリウムの中で、ふわりと靄が動いた気がした。透かし見ると、もやっとはしながらも、なんとなく樹の上に落ち着いているような……気がした。

 その場所が気に入ったなら、とふと思いついて、テーブル上に飾っていた試作品の木彫りの木の実を、枝に付けてみた。

 封をし直して、改めて眺める。樹の茂みに輝いているのは、真っ赤な林檎のような実だ。季節感はおかしいけれど、夏色の濃い緑に、はっとするほどに映えた。


「願い事を叶えてくれるなら、お姉様に望む結婚をさせてあげて」


 真剣に祈って、ふと、苦笑する。

 テラリウムに、というよりも、姉の背からこぼれ落ちた靄に言っているような気分だ。姉に姉のことを祈って、果たして通じるのだろうか、と。

 けれどそれから、どんなに目を凝らしても、靄らしきものは見えなくなった。


「やっぱり、気のせいだった?」


 首をひねるが、もう夜は更けている。誰にも見えなかった靄のこと、なおさら誰にも相談できなくなった。

 そういえば、夕食も終わった他家の娘の部屋に、案内もなくやってきた先ほどの女性は、なんだか普通ではない。そう気がついても、姉も部屋に篭ったまま。まして姉妹といえど、たまの里帰りをしている、客に次ぐ扱いの姉の部屋に行ける時間ではなくなっていた。

 あれは何者だと尋ねることも、言伝を伝えることもできない。

 仕方ない。明日も、まだ出仕はしないだろう。

 急激に強まった眠気に、ミリアンネはそうそうに降参した。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 夜中に、はっとして飛び起きた。

 たった今まで走っていたかのように、心臓がたたたたたた、と駆け足だ。

 覚醒して、自分がすでに寝台に起き上がっていることに驚いた。と同時に、残念なような、安心したような、奇妙な気持ちになった。

 一番安心で心地よい場所にいるはずなのに、ひどく落ち着かない。

 体が揺れるほどの心音が響く。

 どうしてだろう、と思った。

 夢を見たんだ、と思った。内容を思い出す前に、心音がさらに速くなり。

 顔が熱くて、目眩がするようだ。

 病気、ではない。そう、意識の奥の方でわかる。

 ああ、確か……。

 そこで、ミリアンネは意識を飛ばして、ばたりと再び寝台に倒れ込んだ。



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