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箱庭と精霊の欠片  作者: 日室千種
迷子の欠片
7/10

決別

「お姉様、もういいんじゃない?」


 ミリアンネの言葉は、そのとき部屋にいた侍女たちすべての心を代弁していたはずだ。

 帰りの馬車で、姉の涙はすっかり止まり、今度は何かが燃え上がって来たようだ。

 昼すぎに屋敷に帰るなり、姉は湯浴みの用意をさせて、全身を磨き上げ、泣いた跡も徹底的に冷やして抑え、落ち着いた色合いの優雅で美しいドレスを纏い、髪も顔も入念に仕上げて、それでもなお、横髪の流れが気になると、鏡から目を離さないまま、もう夕食の時間が来る。

 姉は髪を一筋撫で付けると、振り返ってにっこりと笑った。


「対決するからには、万全でいないとね。装いもお化粧も、すべてが武器であり、鎧よ」


 完璧な淑女として、誇り高く顎を上げるが、ミリアンネには虚勢に見える。

 王宮で姉の背に見えた、白く輝く靄が、なぜかちらちらと目の端をかすめる。姉の周囲を取り巻くのに、なぜかその背に戻る事はない。戻れない? そんな様子だ。それが、笑顔の仮面の奥で、姉が弱り切っていることを示しているようで。

 ふと、靄に手を伸ばしてみる。

 するりと、靄は手から逃げて、指の先で跳ねて、消えた。

 手に、一瞬乗っかった、羽のような泡のような、かすかな重みに、目を見張った。


「どうしたの? なにかいた?」

「え、ううん、なにも」


 気をつけて見ていた限りでは、姉にも侍女たちにも、この靄は見えていないようだった。咄嗟にごまかして、手を後ろに組む。手の中が、不思議とくすぐったい。


「そうだ、これね。気に入ってたんだけど。場合によっては、作り直してほしいの」


 ふと、姉が侍女に指示をして、寝台脇の棚の隠し戸の中から、両手に包めるほどのガラス容器を持って来させた。侯爵領の技術の粋を集めた、薄く均一で、氷のように透明な、涙型のガラス瓶だ。その中に、摘めるほどの小さな樹が、小さな緑の丘に佇んでいる。

 姉の婚約を祝って、かつてミリアンネが贈ったもの。

 ミリアンネは、久しぶりに目にするテラリウムを、そっと受け取った。

 樹の葉は瑞々しく、土台の苔も艶めいている。状態は良いようだ。

 そして、樹の根元には、指の先ほどもない小さな人形が男女一対、広げた敷布に座って、そっぽを向き合っている。当時は、初々しい二人を表したつもりで、照れて視線を逸らしているように作ったし、そうとしか見えなかった。

 けれど、今見ると、どうしても人形の顔が、険しく不満そうに見えてくる。


「ん、わかった。場合によったら、ね」


 言いながら、そっと封を開けてみた。ガラスの内側に少しだけ水滴が付着していたのが気になったのだが、その時、慌ただしい足音が廊下を走って来て、父侯爵の帰宅が告げられた。そして、父が伴って来た、客人の名も。


「来たわね」


 姉が、背筋を伸ばして、寝室からティールームに移動した。

 まるで今から剣で切り合うかのように、気迫が漲るようだ。けれど。

 その背に戻ろうとするかのような靄が、結局果たせずに薄くなって消えて行くのを見れば、それはきっと、表面だけのもの。

 ミリアンネはテラリウムを抱きしめ、固唾を飲んで姉を見送った。今からミリアンネが助けられることは、なにもない。同席するわけにも行かない。けれど、姉の寝室から廊下には直接出られない。ティールームを経由する必要があったのだが、その前に、ノックがやってきた。

 ミリアンネは、侍女に促され、寝室に残ってそっと扉を閉めた。

 姉の背に戻らなくてはならなかったはずの靄も同じく取り残されて、寝室の壁にそって漂い、優しく消えて行った。


「こんばんは、アリアルネ」


 姉の婚約者の声が思いがけずはっきり聞こえて来て、ミリアンネは困ってしまった。

 聞いていていいのだろうか。

 テラリウムを眺めて気を逸らそうとしてみたのだが。


「挨拶は良いわ。私、身を引くから。義理で婚約なんて続けないでいいと思う。今日は、そのことだけ言いたかったの。せめて、私から辞退したということにしてほしい。それだけ」

「アリアルネ!」


 扉が開いて、誰かが飛び出していく気配。

 ミリアンネは思わず寝室から顔を覗かせた。まさか、あの完璧な淑女として婚約者を迎え撃った姉が、ろくに話もしないうちに飛び出した?

 ——飛び出していた。

 部屋にはうろたえる侍女が一人だけ。婚約者も後を追ったのだろう。

 ミリアンネは躊躇って足踏みをしたが、やはり姉を放ってはおけなかった。同じく廊下に出て、二人を追った。

 すでに姿は見えなかったが、あたりに漂う靄の欠片をそっと手をのべて拾えば、さらにその向こうにもかすかに靄が漂う。それを、辿るだけで良かった。

 庭に出て、建物から離れる。王都内ながら広大な敷地の端の方、まだ柔らかな葉を湛えた樹の下だ。


 近づくにつれ、荒げられた声の応酬が耳に入ってくる。

 怖い。

 わき起こった気持ちは、それしかない。

 大人の、本気の言い合いは、予想もつかないほど速くて聞き取り難く、刺々しくて痛い。

 呼応するように、道々拾って来た靄が、震えて縮んだ。それが哀れで。

 持って来てしまっていたテラリウムの蓋を緩めて、ふっと指先から吹き入れた。

 そこが少しでも、安らげる場所であればいい。




 けれど話し合いは、安らぐどころではない。


「いい加減にしてくれ」


 苛々とした声で婚約者が言い捨て、姉の腕を掴んだ。


「離してちょうだい。婚約している時は、手をつなぐのだって躊躇っていたくせに、もう要らない女に気軽に触るなんて、おかしいと思わない?」

「それは。いや今は先に、婚約の話だ」

「そうやって、解決を先送りにできるところ、美点だと思ってた事もあったけどね」

「先送りにしているわけじゃないだろう。君は決めつけが酷すぎる」


 かつて気恥ずかしさに顔を背けながらも、同じ空間を共有して柔らかに笑っていた少年少女はそこにはいない。

 仇でも見るかのように険しい顔で、睨み合って、一歩も譲らない。そしてきっと、互いにその事に、深く傷ついているのだ。


「決めつけ、ですって? 婚約者が他の女性に身を引くように言われているその場から、そそくさと逃げておいて、すべて私の勘違いだって言うの?」

「身に覚えがない事で勝手に言いがかりをつけている女性を、私が横合いからどうできると言うんだ。あの場で私があちらを切り捨てれば、彼女はそれだけで、貴族として全うな生き方はできなくなる」

「だから、私の方を切り捨てたって事?」

「どうしてそうなるんだ。私があの場にいないことが、一番いいと思った。それだけだ。君があの場を解決できる事は、わかっていた。そう、思ってた」

「なぜ、とばっちりをくった私が、穏便にすべてを解決しなければならないの? 貴族として真っ当な生き方ができなくなる? ——ええ、いいじゃない。自業自得だもの」


 一瞬、二人の間を風が駆けた。


「……君は、無知ゆえの愚かさを叩き潰すほどに狭量ではないと思ってた」

「無知である事は、人を傷つける免罪符にはならない。それだけの侮辱を、彼女は私に与えた。いえ、本来は私たちに与えた、と言うべきだけど。あなたは、そうは思っていないというのね。それなら、やはり私は、もうこの婚約に意義を見いだせない」

「彼女は、私たちの関係に、いささかの影響力も持ってはいない」

「ええ、彼女はね」


 姉の顔から、表情が抜け落ちた。背筋が伸びる。

 婚約者が、戸惑ったように手を離す。

 ああ、姉は、最後の決断をしてしまう。拒否されたことを嘆き絶望する心を隠して、目一杯の虚勢を張って。


「婚約は、こちらから解消します。貴方に疾しい事はないのだろうけれど、城下に二人で出かけて楽しい時間を共有したことで、婚約者に無礼を働いても切り捨てるのを惜しむほどにあの女性に情を抱いたのは、充分に裏切りよ」


 婚約者は、言葉を失ったようだった。それが図星を指されたからか、姉の気迫に押されたからかは、読み取れない。

 ミリアンネから見えるのは、動かなくなった強張った肩先だけだ。


「私、彼女の言いがかりがあまりに不意打ちで驚いて、初めは何を馬鹿なことをと思っていたのだけど、貴方が逃げたことが証明だと思った。気を失うかと思った。最後、どうなってあの場が終わったのかも、あまり記憶がない。——それでも、貴方が選んだ人ならと、彼女を叩きのめさなかったことは確かよ。

 きっかけがうちの父だと言うのも皮肉だけれど、ご縁なのだから、お幸せに」


 硬い、硬い声で繋ぐ。

 もう、姉の背から漂い出す靄は、すっかり尽きたようだ。

 しん、と空気が凪いでいる。


「貴方のこと、大切だった」


 姉は、涙をこぼさない。

 きりりと顔を上げて、うっすらと微笑みすら浮かべて。けれど硬く、冷たい声が、凝った心を映し出している。


「アリアルネ……」


 名を呼ぶのに、手を伸ばせば届くのに、婚約者はそれきり、動かない。

 姉は冷たい笑みのまま、優雅に一礼を残して、屋敷へと戻り始めた。

 立ち尽くしているミリアンネに気がつき、かすかな一瞬だけ、寂しげに眉を下げて、そして、再び美しく、歩いて行く。

 姉は、こんなときでも、本当に美しく、完成されていて。

 これはこうなるべくしてなった、結果なのだ。別れるべくして二人は別れるのだ。そう、信じかけて。


 はっと思い出したのは、微笑みという仮面を落とした、姉の顔だ。ひび割れて崩れかけた、心の顔。決して、彼女は完璧でもなく、強くも美しくもない、ただの女性なのだと、訴えてくる、顔。

「お、姉様、待って! まだ、まだ、言わなきゃいけないことがある!」


 気がつけば、ミリアンネは姉の前に走り込み、抱きつくようにしてその足を止めた。

 子供が、大人の話に、しかも恋人同士の話に嘴を突っ込む。父の時とは違う。明らかな暴挙だと、ミリアンネにだって、わかっていた。


「ミリアンネ」


 取りつく島のない冷たい声。姉のそんな声を初めて受けて、ミリアンネはたじろいだ。


「戻りましょう」


 低い声。相手が従うことを、疑わない声だ。ミリアンネは小さく、はい、と返事をした。

 全身が冷たくなる。自分が、他愛のない存在であることを思い出す。姉のように華々しい活躍をできようもなく、この家で、ひとり部屋に篭る、ひっそりとした存在。

 家族でも、屋敷でも、一人、異質な……。


『……ミリアンネはミリアンネ、アリアルネはアリアルネだ』


 ぎゅっと、テラリウムを握る手に力がこもる。

 そしてもう一度、姉の前に回り込んだ。


「お姉様、だめです。途中で逃げてしまっては」


 言った瞬間、姉の動きが、ひたりと止まった。

 冷たく、美しく白い面に、バリバリと裂け目が入った。心が痛む。姉の心は、きっとさらに痛んでいる。

 けれど同時に、どうしようもないほどの愛しさが溢れた。何故かはわからないが、姉を守りたいような気持ちになったのは、初めてだった。


「肝心なことを、聞いていない。聞かないでいては、きっと後悔します」

「……肝心なこと?」

「あの方の、お気持ちです」


 黙ってしまった姉にしびれを切らして、ミリアンネは樹を振り返り、呼びかけた。必死の思いだった。姉のために、と。


「ちゃんと、お話しして下さい。ずっと姉を見つめていたはずなのに、貴方はそれでいいんですか?」


 けれど、答えたのは婚約者ではなかった。


「ミリアンネ、言葉だけが、信じられるものではないのよ。行動だって、充分に気持ちを伝えられる。——彼は、追いかけて来なかった。その後も、会いに来なかった。私の急な里下がりの、形ばかりの見舞いすらしなかった。だから、それが答えなの。——そうよね」


 突如として、空間が広がったようだった。姉と婚約者との距離が、とても、とても遠くて、姉の言葉が空気を震わせ、相手に伝わるのに、いつもの何倍もかかっているような。

 それくらい、長い沈黙だった。


「ど、どうして、違うって言わないんですか?」

「ミリアンネ、もうやめなさい」

「だって。ねえ、お義兄さん——」

「やめてちょうだいってば!」


 姉が、ぐしゃり、と結い上げた髪を掴んで、叫んだ。


「ご、ごめんなさい」


 ミリアンネは、完全に気圧された。さきほどまでの、高揚した気持ちは嘘のようだ。

 上目遣いで姉をうかがい、ごくりとつばを飲んだ。

 目を閉じて、しばらく俯いていた姉は、やがて息をついて手を下ろすと、何事もなかったかのように微笑んだ。


「いいのよ、さ、行きましょう」


 ひびを覆い隠して、かすかに微笑む姉の、完璧に整えていた髪がほつれて落ち、白い頬にかかっている。

 哀しさが、一気に押し寄せた。

 往生際悪く、もう一度、樹を振り返る。婚約者は、こちらに背を向けて、追って来る様子はない。

 ミリアンネの目の前で、ふつりと、二人と繋いでいた糸が切れたようだった。


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