ミリアンネの一歩
姉の反応を待たずに、部屋を飛び出て、追い出されたばかりの扉に飛びついた。
「お父様! お父様!」
悲鳴のような声に、固く閉ざされていると思えた扉が開き、サリンガー侯爵本人が現れた。
「どうした、ミリアンネの声か?」
いささか、慌てていたようだ。護衛や補佐官が、さらに焦った顔で追いすがって来たのを、侯爵が下がらせた。
ミリアンネが、口を開く。
「お父様、お姉様におっしゃって。アリアルネは、侯爵家の誇りだと。王宮へいく覚悟を幼い時に決めて、国と家のために動くことのできる、優秀な娘だと。いつも、お母様とお話しされているように。——それだから、愛しくて心配でならないんだって。私の前でばかりおっしゃっても、お姉様が少しもご存知ないのでは、おふたりが通じ合えるはずがない」
「ミ、ミリアンネ。これッ」
珍しく取り乱して周囲を確認した侯爵が、大きな息をついて、ミリアンネを中へと招き入れた。
「廊下でするような話ではない。アリアルネ、お前も、入るといい」
姉も、追いかけて来てくれていたようだ。言葉を忘れたかのように棒立ちの、その手を引く。親子は、ふたたび、室内で三人となった。
だが、それきり、三人ともが立ち尽くして、沈黙が続く。父と姉は、互いにどころか、ミリアンネとも視線を合わさない。
固い空気の中、ミリアンネは困惑していた。脳裏によぎるのは、老執事の言葉だ。
自分たち自身で通じ合えなければ——。
その法則は、親子でも当てはまるのだろうか。だとしたら、随分とお節介で、余計な手出しをしたのかもしれない。
「あの、自分たち自身で通じ合えなければ、意味がないって、レイモンドが言っていたから、余計なことだったらごめんなさい」
潔く謝る。謝った後も沈黙で、ひどく気が滅入った。やはり自分は子供で、配慮が足りない。こんな調子でいくら喚いても、二人、このまま平行線なのかもしれない。下手をすると、かえって拗れるのかもしれないのだ。
姉は、動かない。父も妹も見やることなく、ただ、目を伏せている。その顔からは、ごっそりと表情が消えていた。
ひとつの影も瑕もない純白の陶器に、幾筋かの深いひびが入っただけのような、そんな顔。
その醜いひびの顔に、ミリアンネは嫌という程、見覚えがあった。
何日もかけて作ったものを、壊し尽くした時の、己の顔だ。絶望と、呼んでいい。
「お姉様」
ささやいて取った手は、抵抗はしないが、握り返しもしない。
手は、冷たい。尋常ではなく、冷たい。
胸が千切れそうになったミリアンネの肩を、そっと温かい手のひらが覆った。
「レイモンド……あいつは、何を娘に吹き込んでるんだ。——意味はあった。確かに、私の言い方が悪かった」
父の静かな言葉に、姉が弾かれたように顔を上げた。信じられないと驚くのに、父は寂しげな笑みを返した。
「信じられないか。そう思わせたことは、私の責任かもしれん。そんな顔をさせたいわけではないのだ。そしてお前も、私に突っかかりたいわけではないと、分かっている。
お前は王宮へ出仕してから、常に自ら立とうとして来た。それを尊重して、距離を置くようにはしていたが、それでもお前は私の娘で、その身を心配する気持ちだけはどうにもならんのだ」
「……ご心配を、おかけしていましたか」
「お前が幸福な老婦人になっても、心配はする。それが親だ。政に関わることとは、別次元のこと。お前が王妃陛下にとってどれだけ必要な人間であっても、少しでも安全で穏やかな暮らしを、と望む気持ちは、消えない」
父は姉にも手を伸ばし、姉妹を緩く抱きしめた。姉も、父に身を寄せて、その言葉を噛み締めているようだった。
けれどすぐに、つと離れると「でも」と口を尖らせた。その回復の早さに、ミリアンネは唖然とするばかりだ。
「陛下の為の提案を幾つしても、こっぴどく突き返されるし、廊下で目が合っても素通りだもの。3年も続けば、お父様はもう私には呆れているんだと、そう思ってもしかたない」
「それは提案書に不備があったり、他の目があるからだろう。仕事で融通を利かせるつもりはない。そのかわり、屋敷に戻れば家族として絆を確認できるはずだろう。なのに、仕事にかこつけてほとんど屋敷に寄り付かないのだから、しかたない」
「王妃様には心を許せるお味方が少ないの! お一人にしては置けないの」
せっかく穏やかだったのに、姉の声音が高くなった。
「それをなんとかして両立できなければ、侯爵家当主としての采配となど、両立できるはずがないだろう。侯爵家が立ち行かなくなれば、王妃陛下のお近くに控えることなどできなくなるのだ。本末転倒であろう」
応じる父の声も、固くなる。
気圧されて一歩引いていたミリアンネは、ぶるぶると恐れを振り払い、お姉様、お父様、と声を上げた。
「あら、つい。……失礼を申しました」
姉はごく自然に笑みを取り戻し、にっこりと笑うと父侯爵へと頭を下げた。
父の方は、苦虫を噛み潰したような顔をして、黙ってしまう。
どちらもわだかまっているようだ。姉など、ミリアンネから見ても、はっきりと作り笑顔だ。
通じ合えた、と思ったのは一瞬だった。
一瞬だけ。
恨むがましい目にもなるというものだ。じっとりと、二人を見る。
「……儂も、つい気が高じた」
やがて重たい口を開いて応じた父が、ちらりとミリアンネを見てから、もごもごと口の中で何かを呟く。そして、顔の下半分を、何度か手のひらで撫で下ろした。
「お父様、もう少し、お姉様にお言葉をかけて下さい」
「……何も、かける言葉などないぞ」
差し出がましいかとは思いつつ口を出したのだが、父の声は思いがけず柔らかかった。屋敷で、皆で夕食を楽しむ時のように。初めに姉と会話をしていた時の、低く硬い音ではない。
父はしっかりとミリアンネを受け止めてくれている。
「けれど、そのお口と顎を何度も撫でるのは、何かおっしゃりたいことがある時でしょう?」
「む……」
侯爵は薄めの口髭を指先で整えつつ、ミリアンネを凝視した。その耳の先が赤くなっている事にも気がついたが、それは黙っておいた。
「……ミリアンネは、姉が王宮で懐刀などと呼ばれていることを、どう思う」
問いかけの形だったが、侯爵はすぐさま言葉を継いだ。
「儂は、王宮ほど危険な場所はないと思っている。幼い頃から家を継ぐための、政に携わるための教育を受けて来た男たちにとってすら、心身の危機の珍しくない場所だ。そこに、女だてらに我が物顔で闊歩すれば、恐れられ、妬まれ、恨まれる。女だというだけで、その恨みは強くなることもあるだろう。
侯爵家を継ぐと言うのならなおのこと、自らの命と家とを守る事を優先できなくてはならん。そうでなくては、ならん」
姉は、言い返さなかった。
強く打ち据えられたかのように、いくらか肩を落とした。静かに。
そして、ぽつりと「でも」とこぼした。
「でも、王妃様は、否応なくお一人で立ち向かわなければならない」
その声は細く、柔らかく。
懐刀としての低く強い声とはまるで違っていた。
「王妃陛下の御身をお守りするのは、近衛の役目だ。——まず、聞け」
侯爵は穏やかながら、反論を許さなかった。
「陛下は、国で第一位の女性だ。王宮全体が王妃様のお味方であるよう、まとめあげてくださるべきなのだ。それは理想に過ぎないと思えば、そこで終わりだ。その理想を目指さなければならないのが、陛下の重責、であるのなら、そのお心をお支えすることこそ、お前の果たしたいお役目なのではないか。
そしてそれは、侯爵夫人としてでもできる。できるはずだ。昼も夜もくっついて、お前が直接体を張って守るなど、さほど役にも立たん。お前はお前で、侯爵家として揺るぎなく足場を固めて初めて、王妃陛下をお助けする事ができるのだ。陛下と王宮を、陛下と国とを、分ち難く結びつけることも、できる。できたなら——それが、翻ってお前を守る事になる」
「……」
姉は、じっと父を見つめていた。張り付けた微笑みの表情の裏から、そっと覗くように。
父もまた、姉を見守っている。
ふと、なぜか姉は一度ミリアンネを見て、そして再び、父に向き直った。
「お父様は……ずっと心配して下さっていたのですね? 私が生意気で手に負えないから呆れていたのではなくて」
小さな声は、泣くのを我慢する幼子のようで。父は、当たり前だ、と即答した。
それきり、不器用な沈黙をミリアンネも息をひそめて見守った。
やがて、姉は無言で、深く、一礼した。
顔を上げた時には、いつもの姉に戻ったようだ。気のせいか、目元から頬の肌が輝くように、明るい。
「お父様のお話、胸に刻みました。これまで、確かに私は、王妃様の苦難を率先して薙ぎ払い、代わりに恨みをお受けする事も厭わなかった。けれど、それが、王妃様の行かれる道を狭めていたのかもしれません。私自身も、さぞ危うく見えていたのだろうと思います。
考えを、改めます。
——ただ、やはり私は、できる限り王妃様のお側に。けれどこれからは、私自身のこともよく考え、長く、末永くお支えしていけるよう、知恵を、力を振り絞ります。ですから」
もう一度、完璧な作法で、深く礼をした。
「お願いいたします。当主の職務と王宮での勤め、どちらも、やりたいのです。わがままを、どうかお許しください。……たすけて、ください」
父がなんと応えたのか、ミリアンネはすっかり聞きそこねてしまった。
決然と頭を下げる姉の背から、水面の靄のような、柔らかな湯気のようなきらめくものが、ふうわりと立ちのぼって、執務室の高い天井に溶け消えていったのだ。水蜥蜴の鱗を何枚も風に揺らしたような音が、聞こえたような気がした。
どこかで、聞いたような。
いつもそこらで、親しんでいるような。
「ただ、彼の能力に関しては、お父様は思い違いをしていらっしゃいます。侯爵家の本分である『情報』を扱うのは、彼には無理です。そも私は、彼にそんな事、期待していません。
——けれど、そのお話をお父様とする前に、私は、結婚を白紙にする覚悟で彼とお話をしなければなりません」
そう言う姉の悲壮な声と表情に、ミリアンネはようやく我に返った。
父が、眉間に皺を刻んだ。ばつが悪い時の表情だと、母に以前指摘されていたのは忘れたのだろうか。
「いやあれは、もうお前も察しているようだが、儂がだな、その」
「侯爵家に婿に来るなら、奥宮の情報でも集めてみろ、とおっしゃったんですか?」
「む、まあそうだ。まさか」
「まさか、あそこまで下手を打つとは、ですよね」
父の眉間の皺が、深くなった。
「お前は、ほんとうに可愛げがない」
「お仕事でもありますので、申し訳ございません」
「それが可愛げがないと言うのだ」
「ミリアンネがいるから、いいではありませんか」
父の視線が、ミリアンネと交わった。うっすらと、細められた、柔らかな眼差し。
「……ミリアンネはミリアンネ、アリアルネはアリアルネだ」
目とは違って、口はへの字で、不機嫌そうだ。厳めしいふりをしてそんなことを言う父に、ミリアンネは思わず、ふふっと笑いをこぼした。
姉の方は、父と鏡のようだ。口をすぼめて、いかにも不愉快そうに、照れている。
「変なお父様。お仕事用のお顔に戻しておかないと、後で不審がられると思いますけど。……それに、可愛げがないから、こうして婚約者に捨てられかけているのは、わかっております」
「捨てられかけているのか?」
心底驚いたように、父が声を高くした。
姉は黙り込んでしまって答えない。代わりのように父から視線を寄越されても、ミリアンネにも、何も分からない。
結婚相手の父親に、婿の資格有りや無しやと迫られて、情報を得るために女性たちと密会したらしい婚約者は、浮気と言う点では無実のはずなのだが。
「お姉様、何を心配しているの?」
腕に手をかけて、俯く姉を覗き込めば、意外にも、潤みのない、剣呑な緑の眼にぶつかった。
「金の髪の美しいあの子爵家の娘が、私に向かって『彼との婚約を解消して。私たち、愛し合って結婚の約束までしたのだから』と言ったとき、彼は否定しなかった、って言ったでしょう?
——本当はね、否定や弁明をしないどころか、私と目を合わせることさえせずに、『すまない』って言って、踵を返して逃げたのよ」
「……」
言葉を失う。
仕方がない。年輪を重ねた父だって、無言だったのだ。ミリアンネが、何を言えるだろうか。
「浮気したかといえば、してないんでしょ。でも、あの時、私から逃げたのよ、彼は。信頼関係を踏みにじったかどうかで言えば、真っクロよ!
しかもそこから、丸一日音沙汰がないって!? 婚約者として有り得ない。私を捨てたも同然よ。信じられない。そんな不実な男、問い詰めて、詰り倒して……!」
きりきりと吊り上がった瞳が、燃え盛っていた炎を、ふいと一瞬で消した。
「でもはっきり、要らないって言われたら、どうしよう……!」
緑の目に、今度は滝を作り出す。混乱を極めている姉をどうすることもできず、ミリアンネは父に救いを求めた。
「儂との話を終えて、気が抜けたのだろう。案内を付けるから、今はとりあえず屋敷に帰るのがよい。貴奴との話し合いの場は、屋敷で必ず設ける。——ミリアンネ、アリアルネを頼む。今日はお前がいてくれて、助かった」
ありがとう、と頭を撫でられた。
腰が抜けるかと思った。まったく意図しないところで、体の余分な力が抜けて、ずしっと急に重たくなる。じんわりと温まるような心地もして、倒れて眠り込みそうな気がした。
これが、気が抜けた、と言うのなら。
たしかに、姉がおかしくなるのも頷けた。
ミリアンネだって、おかしくなりそうだ。体が軽くて、どこまでもいけそうな。
「お父様、レイモンドにお願いして、調べてもらったことがあるの。……あの、勝手にごめんなさい。でも、さっき出がけに耳打ちされただけなのだけど、大事なことなのかなって。『侯爵家にとってのあの方の価値を、旦那様はご存知ないかもしれません』って。お父様は、『彼が王宮勤めの傍ら、3件の爵位持ちの家の財政を立て直した』ことをご存知ないって本当? 『十大爵家のうち三人の当主は、彼に頭が上がらないでしょう』って」
え? と固まった父が、なにか慌てていたが、ミリアンネはもう、すっきりとして聞いていなかった。
ふと見ると、自分の飾り気のない爪先からも、靄のようなものが一筋、朧に漂っていた。チリチリとどこかに響く高い音は、気のせいだろうか。
正体を見極める前に、ミリアンネは姉を追って、執政棟の専用通用門から出て馬車に乗り、屋敷へと戻ったのだった。