表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
箱庭と精霊の欠片  作者: 日室千種
迷子の欠片
6/10

ミリアンネの一歩

 姉の反応を待たずに、部屋を飛び出て、追い出されたばかりの扉に飛びついた。


「お父様! お父様!」


 悲鳴のような声に、固く閉ざされていると思えた扉が開き、サリンガー侯爵本人が現れた。


「どうした、ミリアンネの声か?」


 いささか、慌てていたようだ。護衛や補佐官が、さらに焦った顔で追いすがって来たのを、侯爵が下がらせた。

 ミリアンネが、口を開く。


「お父様、お姉様におっしゃって。アリアルネは、侯爵家の誇りだと。王宮へいく覚悟を幼い時に決めて、国と家のために動くことのできる、優秀な娘だと。いつも、お母様とお話しされているように。——それだから、愛しくて心配でならないんだって。私の前でばかりおっしゃっても、お姉様が少しもご存知ないのでは、おふたりが通じ合えるはずがない」

「ミ、ミリアンネ。これッ」


 珍しく取り乱して周囲を確認した侯爵が、大きな息をついて、ミリアンネを中へと招き入れた。

「廊下でするような話ではない。アリアルネ、お前も、入るといい」


 姉も、追いかけて来てくれていたようだ。言葉を忘れたかのように棒立ちの、その手を引く。親子は、ふたたび、室内で三人となった。

 だが、それきり、三人ともが立ち尽くして、沈黙が続く。父と姉は、互いにどころか、ミリアンネとも視線を合わさない。

 固い空気の中、ミリアンネは困惑していた。脳裏によぎるのは、老執事の言葉だ。

 自分たち自身で通じ合えなければ——。

 その法則は、親子でも当てはまるのだろうか。だとしたら、随分とお節介で、余計な手出しをしたのかもしれない。


「あの、自分たち自身で通じ合えなければ、意味がないって、レイモンドが言っていたから、余計なことだったらごめんなさい」


 潔く謝る。謝った後も沈黙で、ひどく気が滅入った。やはり自分は子供で、配慮が足りない。こんな調子でいくら喚いても、二人、このまま平行線なのかもしれない。下手をすると、かえって拗れるのかもしれないのだ。

 姉は、動かない。父も妹も見やることなく、ただ、目を伏せている。その顔からは、ごっそりと表情が消えていた。

 ひとつの影も瑕もない純白の陶器に、幾筋かの深いひびが入っただけのような、そんな顔。 

 その醜いひびの顔に、ミリアンネは嫌という程、見覚えがあった。

 何日もかけて作ったものを、壊し尽くした時の、己の顔だ。絶望と、呼んでいい。


「お姉様」


 ささやいて取った手は、抵抗はしないが、握り返しもしない。

 手は、冷たい。尋常ではなく、冷たい。

 胸が千切れそうになったミリアンネの肩を、そっと温かい手のひらが覆った。


「レイモンド……あいつは、何を娘に吹き込んでるんだ。——意味はあった。確かに、私の言い方が悪かった」


 父の静かな言葉に、姉が弾かれたように顔を上げた。信じられないと驚くのに、父は寂しげな笑みを返した。


「信じられないか。そう思わせたことは、私の責任かもしれん。そんな顔をさせたいわけではないのだ。そしてお前も、私に突っかかりたいわけではないと、分かっている。

 お前は王宮へ出仕してから、常に自ら立とうとして来た。それを尊重して、距離を置くようにはしていたが、それでもお前は私の娘で、その身を心配する気持ちだけはどうにもならんのだ」

「……ご心配を、おかけしていましたか」

「お前が幸福な老婦人になっても、心配はする。それが親だ。政に関わることとは、別次元のこと。お前が王妃陛下にとってどれだけ必要な人間であっても、少しでも安全で穏やかな暮らしを、と望む気持ちは、消えない」


 父は姉にも手を伸ばし、姉妹を緩く抱きしめた。姉も、父に身を寄せて、その言葉を噛み締めているようだった。

 けれどすぐに、つと離れると「でも」と口を尖らせた。その回復の早さに、ミリアンネは唖然とするばかりだ。


「陛下の為の提案を幾つしても、こっぴどく突き返されるし、廊下で目が合っても素通りだもの。3年も続けば、お父様はもう私には呆れているんだと、そう思ってもしかたない」

「それは提案書に不備があったり、他の目があるからだろう。仕事で融通を利かせるつもりはない。そのかわり、屋敷に戻れば家族として絆を確認できるはずだろう。なのに、仕事にかこつけてほとんど屋敷に寄り付かないのだから、しかたない」

「王妃様には心を許せるお味方が少ないの! お一人にしては置けないの」


 せっかく穏やかだったのに、姉の声音が高くなった。


「それをなんとかして両立できなければ、侯爵家当主としての采配となど、両立できるはずがないだろう。侯爵家が立ち行かなくなれば、王妃陛下のお近くに控えることなどできなくなるのだ。本末転倒であろう」


 応じる父の声も、固くなる。

 気圧されて一歩引いていたミリアンネは、ぶるぶると恐れを振り払い、お姉様、お父様、と声を上げた。


「あら、つい。……失礼を申しました」


 姉はごく自然に笑みを取り戻し、にっこりと笑うと父侯爵へと頭を下げた。

 父の方は、苦虫を噛み潰したような顔をして、黙ってしまう。

 どちらもわだかまっているようだ。姉など、ミリアンネから見ても、はっきりと作り笑顔だ。

 通じ合えた、と思ったのは一瞬だった。

 一瞬だけ。

 恨むがましい目にもなるというものだ。じっとりと、二人を見る。


「……儂も、つい気が高じた」


 やがて重たい口を開いて応じた父が、ちらりとミリアンネを見てから、もごもごと口の中で何かを呟く。そして、顔の下半分を、何度か手のひらで撫で下ろした。


「お父様、もう少し、お姉様にお言葉をかけて下さい」

「……何も、かける言葉などないぞ」


 差し出がましいかとは思いつつ口を出したのだが、父の声は思いがけず柔らかかった。屋敷で、皆で夕食を楽しむ時のように。初めに姉と会話をしていた時の、低く硬い音ではない。

 父はしっかりとミリアンネを受け止めてくれている。


「けれど、そのお口と顎を何度も撫でるのは、何かおっしゃりたいことがある時でしょう?」

「む……」


 侯爵は薄めの口髭を指先で整えつつ、ミリアンネを凝視した。その耳の先が赤くなっている事にも気がついたが、それは黙っておいた。


「……ミリアンネは、姉が王宮で懐刀などと呼ばれていることを、どう思う」

 問いかけの形だったが、侯爵はすぐさま言葉を継いだ。

「儂は、王宮ほど危険な場所はないと思っている。幼い頃から家を継ぐための、政に携わるための教育を受けて来た男たちにとってすら、心身の危機の珍しくない場所だ。そこに、女だてらに我が物顔で闊歩すれば、恐れられ、妬まれ、恨まれる。女だというだけで、その恨みは強くなることもあるだろう。

 侯爵家を継ぐと言うのならなおのこと、自らの命と家とを守る事を優先できなくてはならん。そうでなくては、ならん」


 姉は、言い返さなかった。

 強く打ち据えられたかのように、いくらか肩を落とした。静かに。

 そして、ぽつりと「でも」とこぼした。


「でも、王妃様は、否応なくお一人で立ち向かわなければならない」


 その声は細く、柔らかく。

 懐刀としての低く強い声とはまるで違っていた。


「王妃陛下の御身をお守りするのは、近衛の役目だ。——まず、聞け」

 侯爵は穏やかながら、反論を許さなかった。

「陛下は、国で第一位の女性だ。王宮全体が王妃様のお味方であるよう、まとめあげてくださるべきなのだ。それは理想に過ぎないと思えば、そこで終わりだ。その理想を目指さなければならないのが、陛下の重責、であるのなら、そのお心をお支えすることこそ、お前の果たしたいお役目なのではないか。

 そしてそれは、侯爵夫人としてでもできる。できるはずだ。昼も夜もくっついて、お前が直接体を張って守るなど、さほど役にも立たん。お前はお前で、侯爵家として揺るぎなく足場を固めて初めて、王妃陛下をお助けする事ができるのだ。陛下と王宮を、陛下と国とを、分ち難く結びつけることも、できる。できたなら——それが、翻ってお前を守る事になる」

「……」


 姉は、じっと父を見つめていた。張り付けた微笑みの表情の裏から、そっと覗くように。

 父もまた、姉を見守っている。

 ふと、なぜか姉は一度ミリアンネを見て、そして再び、父に向き直った。


「お父様は……ずっと心配して下さっていたのですね? 私が生意気で手に負えないから呆れていたのではなくて」


 小さな声は、泣くのを我慢する幼子のようで。父は、当たり前だ、と即答した。

 それきり、不器用な沈黙をミリアンネも息をひそめて見守った。

 やがて、姉は無言で、深く、一礼した。

 顔を上げた時には、いつもの姉に戻ったようだ。気のせいか、目元から頬の肌が輝くように、明るい。


「お父様のお話、胸に刻みました。これまで、確かに私は、王妃様の苦難を率先して薙ぎ払い、代わりに恨みをお受けする事も厭わなかった。けれど、それが、王妃様の行かれる道を狭めていたのかもしれません。私自身も、さぞ危うく見えていたのだろうと思います。

 考えを、改めます。

 ——ただ、やはり私は、できる限り王妃様のお側に。けれどこれからは、私自身のこともよく考え、長く、末永くお支えしていけるよう、知恵を、力を振り絞ります。ですから」


 もう一度、完璧な作法で、深く礼をした。


「お願いいたします。当主の職務と王宮での勤め、どちらも、やりたいのです。わがままを、どうかお許しください。……たすけて、ください」


 父がなんと応えたのか、ミリアンネはすっかり聞きそこねてしまった。

 決然と頭を下げる姉の背から、水面の靄のような、柔らかな湯気のようなきらめくものが、ふうわりと立ちのぼって、執務室の高い天井に溶け消えていったのだ。水蜥蜴の鱗を何枚も風に揺らしたような音が、聞こえたような気がした。

 どこかで、聞いたような。

 いつもそこらで、親しんでいるような。


 「ただ、彼の能力に関しては、お父様は思い違いをしていらっしゃいます。侯爵家の本分である『情報』を扱うのは、彼には無理です。そも私は、彼にそんな事、期待していません。

 ——けれど、そのお話をお父様とする前に、私は、結婚を白紙にする覚悟で彼とお話をしなければなりません」


 そう言う姉の悲壮な声と表情に、ミリアンネはようやく我に返った。

 父が、眉間に皺を刻んだ。ばつが悪い時の表情だと、母に以前指摘されていたのは忘れたのだろうか。


「いやあれは、もうお前も察しているようだが、儂がだな、その」

「侯爵家に婿に来るなら、奥宮の情報でも集めてみろ、とおっしゃったんですか?」

「む、まあそうだ。まさか」

「まさか、あそこまで下手を打つとは、ですよね」


 父の眉間の皺が、深くなった。


「お前は、ほんとうに可愛げがない」

「お仕事でもありますので、申し訳ございません」

「それが可愛げがないと言うのだ」

「ミリアンネがいるから、いいではありませんか」


 父の視線が、ミリアンネと交わった。うっすらと、細められた、柔らかな眼差し。


「……ミリアンネはミリアンネ、アリアルネはアリアルネだ」


 目とは違って、口はへの字で、不機嫌そうだ。厳めしいふりをしてそんなことを言う父に、ミリアンネは思わず、ふふっと笑いをこぼした。

 姉の方は、父と鏡のようだ。口をすぼめて、いかにも不愉快そうに、照れている。


「変なお父様。お仕事用のお顔に戻しておかないと、後で不審がられると思いますけど。……それに、可愛げがないから、こうして婚約者に捨てられかけているのは、わかっております」

「捨てられかけているのか?」


 心底驚いたように、父が声を高くした。

 姉は黙り込んでしまって答えない。代わりのように父から視線を寄越されても、ミリアンネにも、何も分からない。

 結婚相手の父親に、婿の資格有りや無しやと迫られて、情報を得るために女性たちと密会したらしい婚約者は、浮気と言う点では無実(シロ)のはずなのだが。


「お姉様、何を心配しているの?」


 腕に手をかけて、俯く姉を覗き込めば、意外にも、潤みのない、剣呑な緑の眼にぶつかった。


「金の髪の美しいあの子爵家の娘が、私に向かって『彼との婚約を解消して。私たち、愛し合って結婚の約束までしたのだから』と言ったとき、彼は否定しなかった、って言ったでしょう?

 ——本当はね、否定や弁明をしないどころか、私と目を合わせることさえせずに、『すまない』って言って、踵を返して逃げたのよ」

「……」


 言葉を失う。

 仕方がない。年輪を重ねた父だって、無言だったのだ。ミリアンネが、何を言えるだろうか。


「浮気したかといえば、してないんでしょ。でも、あの時、私から逃げたのよ、彼は。信頼関係を踏みにじったかどうかで言えば、真っクロよ!

 しかもそこから、丸一日音沙汰がないって!? 婚約者として有り得ない。私を捨てたも同然よ。信じられない。そんな不実な男、問い詰めて、詰り倒して……!」


 きりきりと吊り上がった瞳が、燃え盛っていた炎を、ふいと一瞬で消した。


「でもはっきり、要らないって言われたら、どうしよう……!」


 緑の目に、今度は滝を作り出す。混乱を極めている姉をどうすることもできず、ミリアンネは父に救いを求めた。


「儂との話を終えて、気が抜けたのだろう。案内を付けるから、今はとりあえず屋敷に帰るのがよい。貴奴との話し合いの場は、屋敷で必ず設ける。——ミリアンネ、アリアルネを頼む。今日はお前がいてくれて、助かった」


 ありがとう、と頭を撫でられた。

 腰が抜けるかと思った。まったく意図しないところで、体の余分な力が抜けて、ずしっと急に重たくなる。じんわりと温まるような心地もして、倒れて眠り込みそうな気がした。

 これが、気が抜けた、と言うのなら。

 たしかに、姉がおかしくなるのも頷けた。

 ミリアンネだって、おかしくなりそうだ。体が軽くて、どこまでもいけそうな。


「お父様、レイモンドにお願いして、調べてもらったことがあるの。……あの、勝手にごめんなさい。でも、さっき出がけに耳打ちされただけなのだけど、大事なことなのかなって。『侯爵家にとってのあの方の価値を、旦那様はご存知ないかもしれません』って。お父様は、『彼が王宮勤めの傍ら、3件の爵位持ちの家の財政を立て直した』ことをご存知ないって本当? 『十大爵家のうち三人の当主は、彼に頭が上がらないでしょう』って」


 え? と固まった父が、なにか慌てていたが、ミリアンネはもう、すっきりとして聞いていなかった。

 ふと見ると、自分の飾り気のない爪先からも、靄のようなものが一筋、朧に漂っていた。チリチリとどこかに響く高い音は、気のせいだろうか。

 正体を見極める前に、ミリアンネは姉を追って、執政棟の専用通用門から出て馬車に乗り、屋敷へと戻ったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
web拍手 by FC2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ