姉の推理
「ま、私が気がついた事は以上よ」
言われるなり、姉は机を叩く勢いで立ち上がった。
何故か、綺麗な爪が割れはしないかとばかり気になって、ミリアンネははらはらとしてしまう。
「五分ちょうだい」
言い放ち、目を伏せ、立ったまま軽く腕を組んで。
綺麗な爪で、組んだ腕にリズムを刻む以外、彫像のように動かなくなった姉をよそに、店主はいそいそとお茶を入れ、茶菓子まで出してミリアンネにも勧めてくれた。空気でいたつもりが、彼女はきちんと認識してくれていた事に、ようやく気がついた。
「ねえ、ミリアンネさん。おうちでも、アリアルネってこんななの? 大変ね、妹も」
「い、いえあの」
歳が離れてて、今まで一緒に過ごす機会もなく——とは、何となく言いたくなかった。
「あの、いつも姉は完璧で……。でも今日は初めてこんな、こんな……そのままの姉を見られました。びっくりしましたけど、私は、嬉しい、と思います」
自分の中の言葉をそのまま口にすると、店主は、いい子や〜とお茶菓子を勧めてくれたが、眼鏡の女性は、冷めた目を隠さなかった。
「完璧な姉さんか。これだけできる姉がいると、息苦しいだろうに。随分と優しい感想だな」
「姉は、大好きです」
そこは、心の中に根を張っている部分だ。変わる事はない。
「姉は、今の私の歳には王宮勤めを考え始めてたって。家のため、国のためにできることを探してたって。そんな姉は、尊敬すべき人です。……息苦しいって言えるほど、私は比べるようなものじゃなくて。追いかけようにも、私の中は空っぽで、少しも、なにも姉のようにはできないから……。姉とは全然違って、父や母にも心配ばかりかけていて。どうしようって。このごろになってようやく、そう思ったところなんです。——どうしよう、って」
どうしよう。
私には、姉のようにはなれないのに。
俯いてしまったミリアンネには、眼鏡の女性が顔を顰めたのは見えなかった。十分、息苦しそうよね、と店主が声なく呟いたのも。
「うん、だいたい、わかったわ」
幕を引くように、姉が澄んだ声で宣言したのは、その時だ。
ふう、と勢い良く息をつくと、いささか乱暴に席に座り直し、店主が入れた茶を飲んだ。
「で、シロなの? クロなの?」
「面白がらないでよ。それに、わかったのはだいたいの流れ。決定的な何があるわけじゃない」
「のらりくらりと言っても仕方ない。君にとっての問題は、浮気が事実かどうか、だろう?」
姉が、ティーカップをぴたりと止めた。
舞い降りてくる鷹のような目で、答えを絞り出した。
「シロ、ね。限りなく」
ミリアンネは、体の強張りがほどけるのを感じた。婚約者が心変わりしていないのならば、姉の憂いは晴れるはずだ。
けれど、姉の表情は暗い。苦しげで、それでいて何者も逃すつもりのないような、鋭い顔。
「不特定多数の女性と密会の目撃証言。これが、ある時期にいきなり出て来た。おそらくそのうちの、少なくとも二人と街で会っているのも目撃されてる。その一人が、昨日私に突っかかって来た、子爵家の娘ね」
「街での目撃証言は、金の髪の娘と会っていた、というのが、三日分。それだけで二人以上って断定できるの?」
「最初の女性たち、目撃場所や時間、服装なんかからすると、すべて王宮勤めの下級侍女たちだと思う。上級侍女は数も少ないし、立場も身分もはるかに重いから、相手にされなかったのかもね。あるいは、さすがに私に近いからやめたのか。
ともかく、下級侍女の中で、遠目でも金の髪と分かる娘は、三人。子爵家の娘も下級侍女として勤めているし、金髪は見事ね。街で目撃された日のうち、子爵家の娘が休みを取った日は、一日だけ。となると、残り二日は、別の金髪女性が相手だ、ってこと」
もしかして、と店主が呆れた声を上げた。
「貴女、下級侍女のすべてを把握して、休みの日まで、頭に入ってるの?」
「城の女たちは侍女から下働きまで皆、王妃様の管轄だもの。補佐する私が把握してなかったら、何もできないじゃない」
「や、それ当然のような顔でできる事じゃないと思うけど。一体何人いるのよ」
姉はそんな情報屋に、眉を上げた。
「耳に入った噂話を一字一句覚える人が何を言ってるの」
「うん、お話としては覚えられるけどさ。名前と日付だけ、とかだと無理無理。——まあいいとして、それ、それでもシロなの? 浮気無し?」
きりりとした顔が一転、ぐしゃりと歪んだ。
口はへの字になり、眉は垂れ下がり、鼻の頭に皺。そんな顔で姉はミリアンネを見て。そして、涙を飲み込んで、再び前を向いた。
「シロ、だと思う。希望じゃなくて。何か、必要に迫られての行動だと思う。浮気を意図しては、いなかった。
執政宮の方で、何かなかった? 昇進に必要な条件、資格審査、あるいは、意味不明な圧力……」
姉と店主の視線が、眼鏡の女性を向く。
ここまで、情報を提供して来たのは店主だけだ。店の客、品物を納めに行く屋敷、王宮の客室……そんな場所で、軽いおしゃべりにちりばめられた真実の断片を、まるごと暗記する、情報通だそうだ。
では、眼鏡の彼女は。
「ずっと記憶を探っていたが、特に変わったことはない。彼の勤務態度としては、ここのところ少し気鬱な様子だったようだが——昨日は、あの後、使い物にならなかったので、家に追い返されたと聞く」
少し面白そうに、片頬で笑う。姉が眦を吊り上げた。そうすると、母ととてもよく似ているし、穏やかにいてほしいと思うミリアンネだが、さすがに少し気持ちがわかった。仕事ができずに追い返されたなら、アリアルネを追いかけて、謝罪に来てもいいはずだったのに。
実際は、手紙すら来なかったようなのだ。
ぐぐっと、姉の頬に力が入った。
「楽しそうよねえ、執政宮。繰り言愚痴に恨み言、喧嘩に議論に、牽制の仕合! 一般人が入れないのが残念。どうしてあんたはそんなに淡白でいられるのやら」
店主が、酩酊したように薄く頬を染めて、うっとりと問う。眼鏡の女性は、冷たく鼻を鳴らした。
「知識を整理して蓄積させるのが、私の趣味だ。仕事上の理解が広がるし、深くなるから、その点においては、実益も兼ねている。個人の感情には興味はない。愚痴も喧嘩も、その中の知識だけを抽出して、私の中で再構成するだけだ。
どこで男女がくっつこうが、それが仕事に影響を及ぼす場合以外は、単なる個人の私事。まったく興味がわかないな……」
ふと、眼鏡を煌めかせて、彼女は思考を巡らせたようだった。
「——そうだ。私は興味がなかったから、無意識に記憶から追いやっていたが。勤務時間中に、サリンガー侯爵が彼を呼び出していた」
ぽろりとこぼれた名前に、姉妹が顔を見合わせた。
『お父様が?』
声がきれいに重なった。
「ああ。税率の微調整があった、特に忙しい時期だったから、主力を引っ張られて室長がぼやいていたのを覚えてる。三ヶ月ほど前だ」
「ちょうど初めの目撃証言が出てくるころね。——つながるわね」
王妃陛下の懐刀は、触れずとも切れそうな声で、呟いた。
夜会の黒百合とも呼ばれているというが、そちらは嘘かもしれない。
「ありがとう、ルージェ。思い出してくれて」
「礼は、さっきのテラリウムでいい」
「え、でもあれはひとつしかなくて……」
「両腕を広げたくらいの広さのを、作ってもらいたい。うちのジョイを入れてやりたい」
う、と姉が顔を引き攣らせた。
「ジョイ、ってまさか、あの?」
「そう、土蜥蜴。これだけ緑の気が強い環境なら、少し穏やかに過ごせるようになるだろう」
「う、うーん、ちょっと、作り手に尋ねてみるわ。あまり期待しないで」
頼む、と追い討ちをかけたルージェは、ちらりとミリアンネを見てから、そっと人差し指で眼鏡の位置を直した。
「もし作ってもらえるなら、祖母が集めたテラリウムの図版を譲ろう。参考になるだろう」
にやり、と片頬で笑う様子は、まさに悪役。
その肩に、店主がぽんと片手を置いて、こちらもにんまりと、人を食ったような笑顔を浮かべた。
「とにかく、けりをつけてよ。感傷に浸るうちに蹴落とされてました、なんてへま、しないでよ」
「君に、我々の命運もかかっているわけだからな」
言い放つ彼らは、どこまでも真剣なのが、伝わる。
姉は黙ったまま、その激励に、優雅な一礼を返してみせた。