姉の突撃
翌日、朝日に目蓋をくすぐられながらも、温かな寝台で微睡んでいたとき。
「ミ、リ、アンネッ」
突然にしなやかなものに伸し掛かられ、顔にはいい香りの髪がばさりとかかって、ミリアンネは跳ね起きた。跳ね起きようと、した。
ぐっと胸を押さえて止められる。中途半端に首を起こした状態で、自分の上に乗った人を、呆然と見上げた。
「ふふっ、お寝坊ね。まあ、お母様もまだ夢の中でしょうけど。せっかくですもの、一緒に朝食をいただきましょう」
昨夜の涙の名残もなく、目蓋の腫れもいささかもなく、輝かしい笑顔なのは、とても良い。
けれど、淑女であるはずの姉が、ミリアンネの腹を跨いで膝立ちをしているのは、なんだか良くない。マナーの講義で、そうと学んだことはないけれど。
「え……、え、ええ? 姉様?」
「おはよう、ミリアンネ」
「お、はようございます……」
反射で挨拶は返しても、頭の中は疑問符ばかりだ。
そんなミリアンネの鼻をつつき、面白そうに覗き込んでから、姉はさあさあ、と促して来た。
「着替えて。何でもいい……これがいいかな」
ミリアンネのクローゼットから、適当に選んだ一着を押し付けてくる。自力で着替えられる普段使いの服を、半覚醒の状態で、もたもたと身につけた。
それから隣の部屋に移動すれば、すでにそこには姉妹用の朝食が用意されていた。湯気を立てて、美味しそう、なのだが。
ここはミリアンネの居室であり、昨夜寝台に入るまでは、こんなテーブルセットは置いてなかったように思うのだが。
「座って。食べましょう」
言われるがまま、指定された席に着き、勧められるまま、食事を始めた。
いつもより、品数が多いように思う。ひとつひとつの量はごく少ないので食べきれるだろうが、盛りつけはもちろん、味付けも、いつもより複雑でひと味違う。
時々、レシピの確認として家族の食卓にも並んだ事がある。サロン用の軽食のようだ。
また近くそんな予定があって、練習でもしているのだろうか。
ミリアンネは内心首を捻りながら、いつもより贅沢な朝食を楽しんだ。
「うん、さすが、侯爵家料理人。ぶっつけでここまで再現するなんて、さすがね」
姉は、さらに楽しそうだ。どうやら、姉の要望によるメニューらしい。そう気がつくと、厨房の張り切り具合も予想がついた。
姉はたまに家に戻ってくると、いつも家の空気を変える。皆が、ぴりっとした緊張と気合いとを漲らせるようになる。それは将来の女主人として、得難い資質だと、皆が口を揃えるものだ。
だが昨日あれほど萎れていたのは、夢だったのだろうか。そしてそもそも、こんなにあけっぴろげで、おおらかな人だっただろうか。
そう思って、ミリアンネはふと気付いた。
姉と二人きりで食事をした事など、一度もない。
「ミリアンネと、こんなにゆっくりするのは初めてね。もっと一緒に過ごせたらよいのにね」
まさに同じ事を言われて、姉を見る。じっとこちらを見る緑の眼。彩られた綺麗な指が、小さくちぎったパンを口に押し込んだ。
なんと答えるべきなのだろう。ミリアンネは忙しく瞬いた。姉と二人の食事は、少し緊張するが、純粋に嬉しい。けれどその嬉しさを前面に出すには、姉が忙しすぎることを知っていた。
「ね、姉様は、お仕事がお忙しいから」
ミリアンネの返答に、少し姉の眉が寄った。
「まあ、そうね……」
さらに少し声が尖っていたので、ミリアンネは思わず、歪な笑みを浮かべてみせた。それに、姉は少し首を傾げ、気を取り直したようだ。
「確かに家にあまり帰れなくて、疎遠になってしまうのは、申し訳ないけれど。毎日同じことはなくて大変だけれど、王妃様はとても良くして下さるし、楽しいのよ」
「楽しい、のね……」
「そう、楽しいのよ。ミリアンネは、王宮に出仕したくはない?」
無意識に言葉をなぞってしまったのに、姉から追求がかかってしまった。答えあぐねていると、たっぷりとクリームを乗せたビスコットを頬張って、姉がにんまりと笑った。
「出仕どころか、社交も好きではないのかな」
「そ、そんなことない」
否定を口にしたが、手は正直に震えて、フォークからベーコンが落ちてしまった。
なけなしの意地で、何ともないふりをして、カトラリーを置いて口元を拭った。
「そう? 別にいいのよ、好きでなくても。——もしかして、夜会で華麗な駆け引きができないと、侯爵家の娘として恥ずかしい、って思ってるの?」
さもおかしそうに、姉は笑った。
ミリアンネが、時に夜も眠れないほどに悩む事を、いかにもくだらないと言わんばかりに。
ぐらぐらと世界が揺れる。安らかにいられるはずの小さな小さな箱を、誰かが無遠慮に揺すっている。わんわんと、わめき声まで耳元で聞こえるよう。
「ね、それより、このごろ、進んでる? 一時は、作っては気に入らないって壊していたと思うのだけど」
姉の声が遠い。
「……うん、すこし」
嘘だ。ひどい嘘だ。作っては、思い描くものに及ばず、吐き気がするほど落胆して、それでもまた作る。何をどうして良いのか道も見えず、結局はまた自ら壊すと分かっているものを。
「そうなの。ね、後で、見せてちょうだい」
「……うん」
嫌だった。誰にも、見せたくない。見せるために作っているのでは、ないのだ。
悩みを塵のように笑い飛ばされたその後で、作品の事に触れられるのは、苦痛だ。叫んで、暴れたい。この衝動は、突発的に膨れ上がり、ミリアンネにはどうしようもない。いつもなら、一日部屋に篭って、気が収まるのを待つ。待つしかない。
けれど、慕う姉だから、姉が言ったことだから、ミリアンネは耐えた。
すっかり、食欲はなくなった。
しょげ返ったミリアンネに、姉はすこし苦笑いをしたようだったが、もう食事がいいのなら、と切り出した。
「少し、街につき合ってちょうだい」
不快な思いをしたとしても、姉は姉で、ミリアンネにとっては絶対だ。つき合えと言われれば、断るという選択肢はない。
数十分後には、姉は、二人乗りの小さな馬車を用意させ、なんと自ら手綱を握った。そしてまだ静かな屋敷から、ハラハラするほどの勢いで、街へと繰り出したのだ。