姉の婚約破棄
ミリアンネがクラークと出会う、数年前のお話です。
私室に繋がる専用のサンルームで集中していたミリアンネは、ふと屋敷が騒がしいことに気がついた。
扉を開けて名を呼ばれても気がつかないことも多いのに、と自分でも不思議に思いつつ、耳を澄ませる。
原因はすぐにわかった。
母が、泣いているのだ。泣きながら、普段には有り得ない大声で嘆いている。
母が高い声を出すと、ミリアンネは身が竦む。遠くかすかに聞こえる程度で、集中を破られる程度には、その声が苦手なのだ。
大貴族の夫人らしく、優雅でありながら、誇り高く意志が強く、そして——貴族女性の習いとして——涙もろい母だが、かつて聞いたことのない嘆き方をしている。
その対象は、どうも自分ではない。そう判断して、ようやく肩の力を抜いた。
父であるサリンガー侯爵は、最近忙しいようで、今日も早朝から出仕したはずだ。
あれほどに嘆くのは、父か、あるいは父同様王宮に勤める姉の身に、何かあったのだろうか。
それでもなお、躊躇したのだが、結局ミリアンネは立ち上がった。部屋を出て小走りに母の元へと向かう。声は遠いが、しっかり聞こえている。おそらくは、奥向きの談話室あたりにいるだろうと見当をつけたのだが、そこに至る前に、廊下で立ち尽くす侍女やメイドたちを見つけた。
そこは、姉の部屋の前だ。母の声は、その部屋の開け放たれた扉の中から聞こえてくる。
「……お姉様がお戻りになってるの?」
姉は、ミリアンネとは年が離れている。ミリアンネがもの心つく頃、社交界デビューと同時に王宮に上がり、侍女として王妃殿下にお仕えしてきた。現在まさに適齢期なのだが、仕事も充実しているらしく、母の再三の見合いの話も蹴って、滅多なことでは侯爵家に帰って来はしないのだが。
「お嬢様。今はお部屋にお戻りください」
ミリアンネを見つけて素早く寄ってきた副執事が、部屋に戻そうとしてくる。それに、ミリアンネはむっと不快げに顔を歪めた。デビュー前の子供は、お呼びではなかったようだ。まして、ミリアンネが姿を見せると、母がより激高する可能性だって少なくはない。
「悪かったわね。戻ります。黙って、部屋にいればよかった」
当てつけがましく呟くと、若い副執事が顔を強張らせた。怒らせた、と悔やんでも遅い。仕方なく、ぷいっと顔を背けたところへ、この屋敷の表を取り仕切る老執事がやって来た。右往左往していたメイドたちを嗜めつつ、指示を出して散開させ、侍女にも、それぞれ待機するように勧める。有能なこの老人は、きっとすでに、当主へと騒ぎを知らせる使者を送り出しただろう。
老執事は、そっぽを向いたままだったデビュー前の令嬢を、大人に準じて扱うことにしたらしい。甥にあたる副執事を抑えて、かいつまんで状況を説明してくれた。
「お姉様が、婚約破棄をされたというの?」
思わず大きな声を上げそうになって、慌てて小声で問い返した。姉が、王宮の廊下で婚約者から別れを突きつけられたという。あまりのことに、苛立ちも、すっかり忘れてしまった。
王妃陛下が心配をして休みを取らせてくださったので、姉は急遽宿下がりをして来たのだが、ほぼ同じ時に早馬によってもたらされた知らせに、母が取り乱しているのだそうだ。
王妃陛下もご存知となると、事はもう、公になったのだろうか。驚けば、老執事が、いいえ、と否定した。
「いいえ、ミリアンネお嬢様。家同士の約束事、そう簡単には覆りませぬ。が、あちらのご令息は、いささかおつむと操が軽いようですな」
父の幼少の頃から仕えてくれているこの執事は、まるで森の巨木のように皺だらけで、温かく、静かだ。子供たちの悪戯が過ぎても、使用人の失態にも、甥がこっそりとサボっていても、声を荒げることはない。
ただ時折、その皺に埋もれた灰色の目に、きらりと冷たい炎を燃やして、穏やかに、けれど苛烈に、鋭く尖った言葉の刃で致命傷を与えるのだ。
それを知っているから、首の後ろの毛が逆立った。
「このところ、アリアルネお嬢様という婚約者がいるにも関わらず、別の女性とよく密会をしていたようでございます」
「え、あの方が?」
姉の婚約者は、幼馴染みだ。領地が隣同士の、伯爵家の三男坊。
ミリアンネは年が離れていたので親しくはない。彼が遊びに来ると、姉はミリアンネの相手をしてくれなくなるので、幼いミリアンネはむしろ厭っていたように思う。姉と彼との関係を理解できる頃には、姉は王宮に住まいたまにしか顔を会わさず、彼とはそれ以上に疎遠だ。
それでも年に何度か、姉とともに同席する機会には、胸焼けするような甘さを隠しもせず姉を見ていたのだが。先日婚約が整ったときには、周囲の、ようやっとまとまったか、という呆れ気味の空気を気にもとめず、ただただ幸せそうに笑っていた。
すべてにおいて秀でた姉が、彼と、愛と幸せに満ちあふれた家庭を持ち、侯爵家を継ぐのだ、と、そう思っていたのに。
「ほんとうとは思えないけどね……」
「ミリアンネお嬢様、この老骨も、今は枯れたりといえど、昔はそれなりに。その経験と老婆心から申し上げれば——真実など、何の意味もございません」
「え、そ、そうなの?」
「その通り。もしも真実は、ご令息が裏切ってもおらず、何らやましいことがないのであっても、それをアリアルネお嬢様にしかと伝えられなければ、お二人の心が通じる道理はない。——そういうものでございます」
サリンガー侯爵家筆頭執事、レイモンド・テス。まだ恋の何たるかを想像したこともないミリアンネには、到底太刀打ちできない人生の重みのある言葉だった。
「なにそれ、そういうものなの? 誤解だとしても、それで別れてしまうのならばしかたない、ということ?」
「冷酷なようですが、まさに、その通り。ご自分たち自身で通じ合えなければ、ご結婚が成った後も、常に同じ危機が付いて回りましょう!」
はるか年長者の恋愛観に、ミリアンネは複雑な顔で黙り込んだ。
しかし、婚約は家同士の約束事だ、とレイモンドも言った通り、たとえ自分たち自身で通じ合えなくとも、それでもその相手と結婚しなければならないのだ。
せめて円満にいくべく、周囲は、助けてもいいのではないのだろうか。
もやもやとしていると、老いてなお美しく伸びた背を曲げて、レイモンドがそっと、覗き込んで来た。
「何か、お考えですな。どうされました。なんなりと、おっしゃって下さいませ」
この老執事は、いつもミリアンネの言葉を引き出そうとする。
形を為していない思いの欠片をぶつけるしかできなくても、ため息をつくようなことはない。それがわかっていても、いやわかっているからこそ、苛立ちがわき上がって来た。
「うまくいかないことなんか、たくさんたくさん、いくらだって世の中にあるのに。周りがそんなに突き放すべきなんて、そんなの、変、よ。……どうせ私みたいな子供の言うことなんでしょうけど」
嗜められるのが嫌で、自分で自分を否定した。だが、意外なことに、老執事はにこやかに頷いた。
「ごもっともです。お嬢様が心配なされてるのは、お二人の徳というもの。では、代わって私が、お二人のためにひと肌脱ぎましょう。お任せください。……しかしお嬢様、まだ御年十二歳であられるのですから、大人になられるのはゆっくりでもいいのですよ」
あくまで生真面目に言う。だがその十いくつの子供に暑苦しい恋愛持論を主張したのは、彼である。
呆れと困惑とが混じった顔のミリアンネに、彼は改めて恭しくお辞儀をした。
「ですが今は、ミリアンネ様が頼りでございます。私も、ここにしばらくは控えておりますので、奥様とアリアルネお嬢様を、お願いできますかな」
「……私が?」
「はい。お話を聞いて差し上げるだけで、きっと落ち着かれますとも」
「私が話を聞いても……」
日頃頼りにならない子供がのこのこ顔を出しても、きっと良い事にはならない。
そうは思ったものの、老執事だけでなく、廊下中の困った視線が集まっている事に気付いて、断る事もできなくなった。
自信はないし、正直、嫌だ。けれどもう、抗えない空気がある。
口をへの字にするかわりに、ぎこちなく、笑みを浮かべた。子供らしくないと母にいつも言われる、歪な笑みになったと思う。
「……お父様はいらっしゃらないのだもの。しかたないものね。お話を聞いてみる。聞くだけよ。聞くだけしか、できないんだから」
「それで充分ですとも」
言い切る執事の白い眉の下の目をじっと見上げてから、ミリアンネはとぼとぼと、姉の部屋に入った。
「……お母様、お姉様。……その、どうなさったの?」
「ミリアンネ!
どうなさったの、なんて。あなたはいつも、どうしてそんなにのんびりなの。もう少し周囲を気にしていなさい」
聞き慣れた小言が飛んで来るも、それはいつもの勢いに欠けていた。
久しぶりに姿を見るアリアルネは、悄然とソファに腰掛けているだけだ。そしてミリアンネに向けてきりきりと眦を吊り上げたサリンガー侯爵夫人、二人の母は、しかし、すぐに押し黙り。そして、まだ自分の肩ほどの娘に抱きつき、すがりつき、揺すりながら嘆き悲しんだ。うわごとのような嘆きが、そう間を置かず、近頃家に帰って来ない夫への恨み言に変わり始める。
相槌すらうてず、ミリアンネはなされるがまま、抱き人形のようにおとなしく。やがて目を回しそうになったのを、少し離れて控えていた古参の侍女が、正確に見て取ったらしい。
「奥様、お嬢様方は奥様のお味方ですとも。旦那様も、次の休養日にはお茶をご一緒しようとおっしゃっていたことですし、お茶葉を何になさるか、お決めなさいませ。その席で、アリアルネ様のこと、奥様の偽りのないお気持ちを、お話なさればよいのではないでしょうか」
できる侍女である。
夫人は、ええそうね、と呟き、ぼんやりとしたままミリアンネの頭にキスをして、それから背中を支えられて自室へと去って行った。
軽く礼をとって見送るや否や、耐えきれず、ミリアンネはソファにどさりと座り込んだ。ただひたすら、話を聞いて、頷いきすらほとんどしていないのに、どうしてこんなにも疲れるのだろう。けれど今日は、抱きしめられたし、キスももらった。そっとおでこを触る。
何だか、くすぐったい。
だが、同じソファの反対端に、久しぶりに会う姉が萎れて座っていた事を思い出し、ミリアンネははっと姿勢を正した。アリアルネも、ようやくその白い顔を上げ、笑顔になり損ねた半端な表情を浮かべた。馴染みのない表情。知らない姉だ、とミリアンネは小さくはない衝撃を受けた。
「ごめんなさいね、ミリアンネ。お母様の相手を任せてしまって」
「い、いいの、お姉様。私だと、お話を聞くしかできないから。たいした事はしてないもの。……そう、もっと早くレイチェルに任せた方が良かったのかもしれない」
「そんなことない。お母様、レイチェルにさえ意外と気を使われるから。貴女がよかったのよ」
レイチェルとは、先ほどの古参の侍女である。彼女のように、上手に母の気持ちを受け止めて逸らしてあげられるなら、少しは役に立ったと思えるだろうに。執事や侍女に褒められたのなら、そう拗ねたかもしれない。けれど姉に慰められると、何故だか心がふわっと跳ねた。
ミリアンネは、潤んだ姉の眼差しからそっと目を外し、俯いた。自分の手を眺めたまま、少しずつお尻をずらす。そして姉の隣に寄り添って座り、体温を分け合った。
慰めるというつもりはない。自分も、くっつきたかっただけだ。姉は温かくて、いい匂いがした。手は、白くてとても柔らかそうだ。爪を伸ばして、綺麗な明るい赤に塗り、金の縁取りをつけている。
ミリアンネの手は、爪は伸ばさず、色もなく、全体的に肉付きの薄い、子供っぽい手だ。しばらくそれを眺めて比べて。
すると姉は、逆にミリアンネに寄りかかって、ふう、と息をついた。息と一緒に、何かを吐き出すように。
それから、ぽつ、ぽつと語り出した。さきほど廊下で聞いた一幕が、姉の視点でなぞられるのを、静かな相槌だけを心がけてじっと聞き続ける。やがて姉の言葉が途切れたとき、ミリアンネは疲れきった顔の姉に、休むように促した。
「お姉様。少し休んで。心が、とても傷ついたのだもの。そういうときは、寝るのが一番良いのよ。朝になると、ほんのすこし、きっと元気だから」
顔色の薄いアリアルネが、ふるふると首を振った。
王宮でも一目置かれると言う、立派な淑女が、まるで子供のように首を振る。
何かを怖がっているのだ。きっと、婚約者を。それとも、別れが決定的になる事を。
ミリアンネは、お腹の底が、ぎゅっと押しつぶされたような気持ちになった。
姉は、ミリアンネの記憶の限り、常に完成されたレディだった。兄弟喧嘩はした事などなく、姉の怒る姿も、泣く姿も見た事がない。
常に強く、賢く、美しく。
いつもその姿を遠目に見て、憧れる、そんな対象だったのに。
その姉が泣くと、こんなにも寄る辺ない気持ちになるのだと、初めて知った。
姉妹お揃いの緑の眼から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれていく。それがとても綺麗で、目が離せず、ミリアンネはじっと、鏡合わせのように見つめていた。
顔を見合わせて、もたれ合って。
やがて、姉が瞬きをして、目に溜まっていた涙をすべて落とし、「もう休むね」と呟いた。
「明日、考える」
ミリアンネは、うん、と頷いた。