第五章
第五章
1
舞台となる家庭裁判所は、思ったよりもずっと質素な佇まいだった。部屋の広さは、わずかに二十畳程度で、企業感覚で言う、中会議室ぐらいの広さしかない。段差がなく、裁判官の座る正面席だって、高い位置にあるわけではなかった。それは、弁護士という付き添い人を伴った原告席、被告席も同じくして言えた。
小春の座る傍聴席も例外ではなかった。長椅子がかなり近い場所に向かい合う形で並べ立てられ、ほとんどミーティングに参加するというぐらいの位置に取り込まれている。
すでに始まっていた裁判の進捗具合は、まずまずだった。余裕に満ちた表情の、隼斗。対する則昭は、まるで感情を閉め出した固い顔つきをしていた。まだ快復していない、精神上の弱りが、彼にありありと浮かんでいる。
「――それでは、次に認定業者による、私的鑑定の結果を、発表してもらいましょう」
中央席に一人腰かける裁判官がそう呼び掛けるなり、立ち上がる二人組の男があった。それぞれグレーと、紺のスーツを着た、ビジネスマン風の男だ。一先ず、虚偽を口にしないことの宣誓がなされた。つづいて携帯していた封筒を用意するなり、ゆっくりと封を解き、収めていた用紙を取りだした。
「――このたび、当方、石川鑑定社は、訴訟人、丸藤隼斗氏よりの要請を受けて、鑑定嘱託を請け負わせていただきました。先日、双方に送付した検出キットの返しを持って、厳密な鑑定をとどこおりなく進めさせていただきました。対象は、訴訟人、丸藤隼斗氏と、足立則昭氏の両名です。検査期間は、三日。抽出細胞による鑑定試行は、一度のみです。様式は、簡易DNA方式でございまして、これは各々の口腔内から綿棒でもって、頬の内側をこすってもらい、それでもって鑑定試料を取り上げ、そこから我らが科学的用法によって細胞を選定し、精度において基準をクリアした検査機に掛けるというものです」
延々と、形式的な前説がつづく。そのあいだ、隼斗は何度か身体を揺らして、思い出し笑いのような不敵な微笑みをたたえた。ちら、と則昭の顔を確かめ、余裕そうにやり過ごす。
「――鑑定したところに寄りますと、双方のDNA配列には、相似点が非常に少なく、親子であるという共通点を見出す事はできませんでした」
小春は思わず、立ちあがりそうになった。
共通点がない――
つまり、親子としての繋がりがないということだ。実にあっさりとした宣言だったため、思わず聞き間違いかと思ってしまうほどだった。
「ちょっと待て。デタラメ言うな」隼斗が声を上げて、進行を中断させた。「何を言っているんだよ。そんなわけないだろうが」
「原告席、静かにしなさい」
裁判官の冷静な注意勧告が飛んだ。だが、隼斗は抗議の声を上げつづける。それを受けて、裁判官の態度が硬化した。
「静かにしないと、退廷させますよ」
きつい口調を受けて、隼斗はとうとう黙り込んだ。いまにも、爆発しそうな感情を何とか抑えているといった案配だ。
「鑑定の続きを、読み上げなさい」
認定業者の男は、裁判官に対し、小さくうなずいた。また、書類に取りかかった。
「親子関係であるとする、共通点を、鑑定により判明したパターン配列からは伺うことはできませんでした。概要説明に入ります。ヒト染色体による判定、ゲノム二倍体の内実です。1ローカスに、足立則昭氏由来の配偶者との対立遺伝子と思しきパターンを見出す事はできませんでした。むろん、これは遺伝形質について、他種類の検査を実施した上での、検査結果です。他者との偶然の一致はありえません。また、両親の型の組み合わせからして、考えられる複数通りの表現型、遺伝子型の推定配列のいずれにも合致していません。
以下の情報を数値化したものが、提出される書類のとおりになります。これらの事実を持ってして、遺伝鑑定について、親子関係は否定されるべきものであり、ここに親子関係にはないものだと報告させていただくものであります」
「原告側には、数値化した書類を視認してもらう必要がある」と、裁判官は言った。「だが、これは任意によるもので、本人の選択に任せられることだ」
「その書類の視認は希望しませんよ」と、隼斗は言った。「その鑑定結果には、不満がある。もう一度やり直さなければいけない」
「厳正な検査の結果を受け止めなければいけない」と、裁判官は隼斗に対して言う。「これを不服とするのならば、公的鑑定に切り上げることとなる。それを希望するには、一旦すべてを白紙に戻し、原告の母親の当時の交際状況、生活環境などを、すべて法廷内で明らかにするなど審理を進めていかなければいけないこととなる。そのことの許可を、ここで得られるのかどうか?」
隼斗は完全に気後れしていた。足止めを食うことの予想がまるでなかったらしく、迫られた判断にすぐさま頭が回らないようだった。
「では……まず、被告側に公的鑑定への切り上げた場合、これに応じる意思があるのかどうか、伺うとしましょう」と、裁判官は則昭に対し、言った。
反応した則昭は、隼斗とは対照的というほどに落ちつき払っていた。
「お求めでしたら、後日改めて、佐貴子の近辺について語りましょう。それとは別に自分の意見を述べますと、鑑定結果について言えば、特に不満はありません。というより、この結果は当然であり、こうなることが自分には分かっていました。もし、追加で公的鑑定に持ち越され、裁判が長引くようなことがあっても、それは自分にとってただの時間の浪費でしかないといったところでしょうか」
「被告には、少し言葉を選んでいただきたいものですがな……」と、裁判官は言葉を濁した。「それで、丸藤佐貴子があなたと元内縁関係にあったことは、間違いなく認めるのですね?」
「それは、間違いありません」と、則昭は宣言した。「彼女は、自分にとって大切な女性であり、かつて志をともにした仲間でもあったのは、事実です」
「原告の丸藤隼斗は、いまから二十年前に出生を受けている。その頃、あなたは彼女と一緒にいたということも事実ですね?」
「彼女の周りにいた内の一人だった……これは、間違いないことであります」
「それで、あんたの子供じゃなければ、いったい、おれは誰の子供だって言うんだよ!」
隼斗が怒りの限り、訴え出た。
「言葉を慎みなさい」と、裁判官が隼斗を叱りつける。「これは、認知裁判です。あなたの父親を明らかにする裁判ではありません。現状のところ、延長の有無の選択権は、あなたにありますが、公的鑑定を認めるかどうかは、わたしの判断にもよります。今の応答は、そのことに関係するものです」
「父親を明らかにするもなにも、そいつはおれの父親だろう? いまの争点は、血の繋がりがあるかどうかの問題で、そこから先のおれの権利について話し合っているはずだよ」
「原告、送りつけた書類一式に目を通さなかったのかね?」と、裁判官は遅れてから言った。「法定上、両者は親子関係にはない。親子契約の第一手続きとして成される、あなたの出生届には、被告の名前はつづられていないんだ。弁護人と書類を見直して、そのことをもう一度確認しなさい」
「……んなことは、分かっているよ」と、隼斗が突っぱねる。「はっぱを掛けるつもりで、言っただけだ」
「そのような、相手の気持ちを侵害するような態度、発言は認めません。慎みなさい」
「……おれは、あんたの実の子じゃないって、ずっと知らなかった」と、隼斗は則昭を睨み付けて言う。「なんで黙っていた? こんな仕打ちをおれに与えて、楽しいのかよ?」
「原告、言葉を慎んで」
「おれは……」
「原告!」
隼斗は何かを言いかけ、それきり止めてしまった。睨みの目だけを則昭に送っている。注意されたことによる発言の停止というよりも、気力が減衰した結果なのだと思われる。
緊張だけが残されたままに、裁判は元の静けさを取り返した。
裁判官はもう一度、則昭に顔を戻した。
「彼女と、一緒に生活し、信頼関係を築いていたというわけではなかったのですか?」
「信頼関係は築けていたはずです……」と、則昭は消極的に言った。「が、それは表面的なものでしかなかったのかもしれません。というのも、自分には欠陥があったからです。そうです、自分は性的に不能だったんです。理由は言えませんが、精神的なショックがあり、そのことで子供恐怖症となり……その結果、その子供を作る原因行為としての性行為を嫌悪するようになったのです。正直なところ、これから再審理が始まり、自分のこの不能の部分について明らかにしなければいけないとあらば、気が滅入ります」
則昭は深刻ぶったため息をついた。落胆したような影を背負ったままに、うつむいた。
「いえ、持ち堪えられないかもしれません」と、消え入りそうな声でつぶやく。「その他、佐貴子のことについて、すべてを明らかにしなければいけないということもまた苦痛でありますことを打ち明けさせていただきます。もしかしたら、そのこと自体が彼女を侮辱するような審理になってしまうかもしれません。以下の理由からして、公的鑑定には消極的でいることを、申し上げさせていただきます。いえ、はっきりと言った方がいいのでしょうか? 延長は望んではいない、と」
彼はのそりと顔を上げた後、目をきゅっと細めた。
「ただ感謝していることが一つありまして」と、彼はつづけて言った。「それは、私的鑑定の落とし穴ですよ。仲間内から、それだけは相手に許すなと言われていたのですが、どうしてかといえば、任意で鑑定試料を採取し、これを郵送で提出することからいくらでも細工が可能なわけです。彼はそれをやらなかったのです。これは、父親が自分ではない事を知らなかった結果なのかもしれませんが、なぜ父親であることを信じていたとあらば、佐貴子のことをある程度信頼していたからであり、その上で、しっかり言いつけを守っていたからでしょう。二者のつながりが、そのことを確かに真実味を持たせたのです」
「すると、丸藤佐貴子さんは、原告の隼斗に対し、長いあいだ嘘を教えつづけていたとなってくるわけだが、それで間違いないのですか?」
「そのはずです」
裁判官は隼斗を再び振り返った。
「このあたりの事実が正しいのかどうか、明らかにしてもらいましょう。原告、答えなさい」
隼斗はまだショックが尾を引いているらしく、しばらく口先でもごもごと繰り返していたが、やがて言った。
「嘘だったのかどうかは、分からない。おれ個人としては認めたくない。だが、鑑定の結果が事実だというのならば、どうあっても嘘なのかもしれないな……。母さんは、おれに対し、父親はいま目の前にいる、その人だと言っていた。出生届の件にしたって、その人の名前が書かれているようなことは口にしてはいないが、そう信じさせるようなことを言っていたはずだ……」
母親が嘘を伝えていた事実関係を抑えた彼の精神的虚脱は途方もなく大きいようであった。目は疲弊しきって、焦点が合っていなかった。無理もない、それは彼の人生を大きく変えるだけの嘘なのだから、彼自身しっかりと受けとめられるまでになるには、時間がかかるはずだった。
隼斗は怯えの含んだ眼差しで、則昭を見た。
「そして母さんは、いつの日か、こうも言っていたんだ。自分たちは、あの人に捨てられた結果、離ればなれになっているけれど、いつの日か、また一緒になるときがくる、と――。それが意味するところはなんなのかは、分からない。今日まで、その兆候を得ることすらないままに、おれは、大人になってしまった。そのあいだに、何度もあなたと、母さんは会っていたみたいだし……、気持ちが移っていったことを何度か伝えられたのではないか、とおれはそう解釈したんだが……」
「あなたと、丸藤佐貴子さんが離縁になったのは、正確に言いまして、いつ頃なのでしょうか?」と、裁判官が則昭に問う。
「……正確となると、すこし戸惑いますが、十五年前ほどでしょうか」
「原告が、五歳ほどですか。それぐらいの時に、なぜ離れようと?」
「こちらから一方的に別れを切り出し……とうとう向こうが受諾する形で出て行ってしまったのです」と、則昭は言った。「子供恐怖症……その気が自分の中で高まりつつあり、それで神経を悩ませておりました。向こうも、悪い方に受け取っていたように思います。こういう病気は、意識すればするほど、良くないほうに向かって行くものなのです。ですから、一旦、離れる方が良かったのです。一番最初の別れは、自分としましては本当に顔もしばらく見たくないというような、破綻に近い別れだったと思います。それぐらい、自分の精神はまいっていたんです。回復してから以後も顔を合わせた訳なのですが、復縁とまでは至りませんでした。お互い、負い目を背負ってしまっていたんです。病気や、個人的な負い目……何より、暗にながらもお互い傷つけるような選択だけはするまいという気遣いの感情で一致していたんです」
則昭は、足腰に自信が無くなったのか、しおしおと崩れる具合に座りこんだ。が、近くに座っていた書記官の支えでもって、もう一度立ち上がった。
「これ以上の進行は、無理なようですね」と、裁判官は言った。
「いえ、問題はありませんよ」と、則昭は気丈を装ったが、裁判官は受け容れなかった。
「本裁判においての判決を申し渡します」と、裁判官は毅然とした口調で切り出した。「鑑定業者による、私的鑑定におけるDNA鑑定を認め、原告と被告の両者の間には親子関係の繋がりがないことを認定する。よって、民法779条における認知請求事件は、満たさなければいけない要件の不備があったとして、ここに却下されるものとする――。以下、公的鑑定への繰り上げについては、後日、原告側が申し立てすることにより発生するものであって、その期日は、訴訟発生の事実において思慮されるものとする」
裁判は、唐突に終えられた。
小春は、何とも言えない感情で法廷を見守っていた。
則昭には、子供がいなかった。性的に不能だった故に、内縁の妻とのあいだに愛子を儲けることができなかった。そのことを含めてもろもろの負の要素がその時集まって、二人を分かつ結果につながったわけだが、それらが自分の要因で発生したことだったにせよ、則昭としても不本意な結果だったのは言うまでもない。
しかし、それにしても出生届まで則昭の名前が書かれなかったというのは、どういうことなのだろうか。
その時、則昭が立ち上がるのが分かった。隼斗の方に振り返るわけでもなく、また小春の方を気に掛けるでもなしに、出口に向かっていった。
その様を、同じように見ていた隼斗が、何かを言いたそうに、口をぱくぱくさせていた。
2
その日の午後、則昭が工場内の待機所で一人ぽつねんといるのを見つけた。なんだか、哀愁の影を背負っていて、侘びしそうなありさまであった。
「もう、よろしかったんですか、体調の方」
小春はそっと声を掛けた。彼はゆっくりと気のない風に振り返ってはまた背を向けた。
「体調は問題ない」と、明らかに強がりだけでそう言った。「そんなことより、どう思ったんだ。裁判について」
「いろいろ、分からなかったことが分かりました。隠していることというのは、この事だったんですね。隼斗さんというお方は、社長さんの実の息子さんではなかった……」
それを確信していたからこそ、DNA鑑定について彼は恐れがなかった。さらに細工される事の恐れについてだって案じていなかったのは、佐貴子と隼斗のことを信用していた結果だろう。
島田や那須が私的鑑定だけを避けようとしていたのは、その信用がなかった結果だ。
「誰の息子なのかを、聞かないのか?」と、彼はまた振り返って言った。
「それは……プライバシーに觝触することであって……」
本当は、気になってならない。それに、この事実を押さえることは、足立金属の歴史を知るということと決して無関係ではないのだ。
「そのことは気にしなくていい」と、彼は言った。「いま、すべてを語るときがきていると言ったはずだ。何度言わされれば分かるんだ。おれ自身、いつまでも黙っていて、消極的な感情でいるのはまずいことだ。前向きになるためにも、語るべき事は語らなければいけない」
いつしか下がっていた目線が上がって、小春をしっかり捉えた。
「聞きたいことがあれば、先に問え」
「そんなことを急に言われても……」と、小春は渋った。
事実、内心には強い抵抗があった。
「ならば、これは社長権限で要請することにしよう。そうだ、いまより、代行は解約し、社長復帰を宣言させてもらう」
危なっかしさのある表情ながら、眼の奥には強い意思が滲んでいた。
権利を振りかざしてこられては、小春も逃げ道がなかった。どうせなら、思い切ってぶつかっていこうと思った。
「では、お訊ねいたします」と、最初に断ってから言った。「お相手の佐貴子さんは、その……お子さんをお産みになられたわけなんですが、状況的に考えまして、なんだか正規の形で儲けられたお子さんという具合ではないと思うのです。そこで次に考えついたのが、人工受精です。もしかして、これでもってして、隼斗さんは生まれたのではないでしょうか?」
「さすがは女性というべきなのか」と、則昭は言った。「そうしたことへの洞察力は、男よりもずっと優れているようだ。そのとおりだよ。隼斗は、提供精子でもって、人工受精を試みた結果に生まれた子供だ」
「それは、つまり精子バンクとかを利用したとかそういうことなのでしょうか」
「いや、提供者は、おれの身近にいる。その男は、大黒だよ。おれが隠していたことというのは、実はこれが一番なんだ」
大黒の顔がぱっと思い出されて、小春は目がぐるぐる回る思いに駆られた。
どうして、という疑問だけが胸の内にあった。彼とは、何度か顔を合わせている。しかし、そのことの話題を吹っ掛けてくるようなことは一度としてなかった。いつも素知らぬふりで、何となくやり過ごしていた。
「どうして、大黒さんなんでしょう?」
「おれの周りにいた人間だからだ。そう答えるより他はない。というより、こんなことを頼める人間なんて限られるだろう。あいつは妻もいなければ結婚願望もない。だから、そのことについてわずらわしい問題が発生することはなかったんだ」
「それでは、隼斗さんの実父は、大黒さん……ということになるんですね?」
「まあ、厳密に言えばそうだ。しかし、そのことを規定する法律上に認められた証書があるわけではない。まして、佐貴子はおれとの間に婚姻関係を示す契約をかわしているわけでもないんだ。だから、隼斗の父親は、誰でもない」
「そんなのじゃ、夫婦関係としても親子関係としても、元より上手くいくはずがないですよね……」
自分がその女性だったとしたら、いずれもまず選択しなかったことばかりであっただろうと、小春は思う。それでも、そうした選択をしたのは、よほどの確信と、相手への信頼があっての結果ではないか。そうでなければ、こんな繋がりのない関係など、不安で堪らないもののように思えてならない。
「上手くいくかどうかは、当人の問題だろう」と、則昭は言った。「事実、おれらはそれでやっていけると思っていた。が、問題がおれの方にあったんだ」
「子供恐怖症……ですか?」
「そうだ、それだ」
彼の顔が、強張っていた。
生理的に受け付けないといった不安がいま、彼の顔に示されている。それが当時の彼にも時折現れていたというのだったなら、伴侶として過ごす女性としては生理的に拒否されていると受け取ってしまうのは避けられないことのはずだった。
「それは、どうしても快復できないことなのでしょうか? ずっと、社長さんの苦しみでありつづけるのでしょうか?」
「ある意味、治ってはいけないことだろうよ」と、彼は感傷的に言った。「おれの近くに、北山という男がいた。その男については仲間から話を聞くことで、ある程度知っていると思う。昔のおれのライバルだ。競争をいつも繰り返していて、どちらがいつ奈落に突き落とされるかというまでの事態になっていた。おれは、そいつに勝った。結果、そいつは自殺し、家族が破綻に追いつめられたんだ。あいつには、小さな子供がいた訳なんだが、その子供をいつだかに見かけることがあった。とても可愛らしい子だったよ。しかし、その子を不幸にしたのが自分だと考えるとその可愛さの分、自分が憎く思えてね、一気に精神的にくるものがあった。この不幸について、おれは忘れてはならないんだ。だから、治ってはいけないんだよ」
それまでは、相手を蹴落としたことの競争について、これは正当行為だったのだと合理的に肯定していた。が、その時から考えが一変し、それができなくなった。結果、彼は自分が彼を殺したのだと追いつめるまでに至った。そのショックこそが、彼の性的不能の正体なのだ。
「向こうも、治っていくのだと期待していたのかもしれんな……」と、則昭は、ぼんやりと気味に言った。「しかし、それは無駄だった。おれは、向こうの希望に応えるだけの精神的タフさがなかった。乗り越えられないって分かると、なんだかその日から一気に消極的な感情ばかりに支配されていった。気がつくと、もう心が離れていたよ。大黒のやつから、精子を提供してもらってまで子供を儲けたというのに……。おれの甲斐性の無さが、あいつをずたずたにしてしまったんだ」
すんと鼻で息を吸い込むなり、彼は目元を歪めた。
「どうにもならないこともあるんだ」と、彼は言った。「仕事に夢中になることで、鬱屈のすべてを解消するしかなかった。だから、あいつへの思いの分だけおれは必死に働いた。だからこそ、今日の工場があるし、今日のおれがあるんだ」
「それでは、佐貴子さんとはその時点で、完全に離ればなれになったんですね……? どうにもならないっておっしゃいましたけれど、なんだかよく分からないことだらけです。まだ、どうにかなりそうな余地があるように思えてならないんですが……」
「むろん、佐貴子とはその後も何度か接触している」
「もしかして、復縁を迫ったとか、そういうことをされたのでしょうか?」
彼はゆっくりとうなずいた。目は虚空に流されている。
「おれとしては、そのつもりだった。相談ということを口実に顔を合わせ、どこかそこかでつながれる線を探していた。しかし、佐貴子の方にはそういうつもりはなかった。ある日を境に、おれたちはもう会わないことにしようとなった。お互い、思いが通じている部分を感じていただけに、会う度に苦しい思いをしていた。だから、別れを切り出すのはやむを得なかったんだ。これきりにしよう、と……」
「いっそのこと、もう一度元の鞘に収まってみれば、よかったんじゃないですか? そうすれば、抵抗感だってなくなって――」
則昭はすべてを否定するように、首を大きく振った。
「お互い、精一杯の努力はした。だが、無駄だったんだ」
どうしても、結び付くことが出来ない壁が二人の前に立ちはだかっていた。そのことのもどかしさが小春には考えるほどに肌に伝わっていくように感じられた。
「それでは、隼斗さんは……」
言いかけ、小春はその先を失った。二人の決別の一番の被害者は、隼斗に他ならなかった。
「むろん、隼人には悪いことをしたと思っている」と、則昭は目許をひくつかせながら言う。「悪いことをしたというだけでは済まされない。だからこそ、おれの印象を佐貴子を介して、強く刷り込ませていたんだ。家族を捨てた父……そういうイメージを押し込み、存在感を隼斗の中で大きくさせていた。物心つく前に離れたことから、刷り込みはそんなに難しくはなかったと思う。隼斗の中の今のおれのイメージは、きっとじゃなしに、悪いものしかないはずだろう」
「どうして、そのようなことを?」と、小春は訝しい感情を抑えて問うた。「社長さんにとって、何の足しにもならないようなことでしかないと思うんですけれど」
「考えてもみよ」と、則昭は言う。「提供精子で儲けられた子供だ。その上、佐貴子との間は内縁の夫妻という形に留まっていて、言ってみれば法定上認められた正式な夫婦というわけではない。それが離縁してしまえば、隼斗という存在は空中に浮いてしまうことになるんだ。だからこそ、父親である自分という存在を主張するためにこれは必要なんだ。ならば、いい方のイメージでも良かったはずだとなるだろう? それは、逆に罪な行為だと思うんだ。期待を持たせることは、ある意味残酷な仕打ちだからな。……おれは、そばにいてやれないんだ」
「あの……」と、小春は勇気を絞って言う。「出生届についてなんですが、これだって繋がっていないんです。どうして、そんなことになっているのか、ちょっとよく分からないのです。書類について空欄にされたのは、なぜなんでしょうか? 何かしら、特別な理由でもあったのでしょうか?」
これ以上は、則昭の心証を害する質問でしかないと彼を配慮する気持ちと、明らかにしなければ後先、彼への不審への種となってしまいそうだという思いとが、このとき小春の中で交錯していた。
「出生の秘密というのは、誰しもが気になって仕方がない問題だろう」と、則昭は言う。「例えば遺伝的な父親が不在である子供は、時として育ての親を押さえ、父親探しに走り出す。育ての親に不満があるわけではない。だが、自分のルーツそのものにベールが掛かっているということに対して、不安を抱え持ってしまうんだ。ここで、出生届の父の欄に自分の名前を書き、隼斗の目をかわすのは簡単だ。調べても、その先がないようなものだ。普段から、自分の子供であると伝えているわけだし、書類でもその通りになっている。さらには、精子提供者の秘密は医療界では固く守られているから、この事実を彼に知らされることもない。完全な騙しが成立するんだ。しかし、性分的におれはそれを望んでいなかったんだ」
「いつの日かは、本当のことを伝える気でいた、ということですね?」と、小春は言ってから、首を捻った。「でも、矛盾がありますよ。隼斗さんが物心つく前までは一緒に生活していたわけですから、その時は、親子関係はその後も継続されることになっていたはずなんです。例え血の繋がりがなかったとしても、書類上で親子を証明する公式文書を残しておいたところで、特に、問題はなかったはずです。事実は、口頭でも伝えられるわけですし……やっぱり空欄にしておく理由はないように思えます」
出生届の、父親の欄を空欄にしたままでいるなど、あり得ない。察するに、他に理由があったとしか考えられなかった。それも、かなり入り組んだ理由がそこに絡んでいるように思われてならない。
則昭はしばらく何も言えないでいた。
思案に暮れるその顔がなんだか言い訳を考えつこうとしているように感じられて、小春は先手を打たなければいけないと咄嗟にそう感じた。
「子供恐怖症……それを言い訳にしては、困ります。書類を提出するぐらいなら、どこにも恐怖はないはずです。それとも、自分に子供ができたという事実そのものが恐怖だというのでしょうか?」
「その問題は、大黒が関係しているんだ」と、則昭はかすれ声で言った。「そう、大黒だ。彼が精子提供者であることは、関係者が教えないことには、隼斗に伝わることはない。区分的には個人的提供者に属し、匿名提供者とは違って、責任問題が生じる。そのことを承諾した上で、大黒は自分が遺伝的な父親であることを、いつの日にか隼斗に伝えて欲しいと願い出てきた。これは、おれとしては優先的に受け容れなければいけないことだった。それで、だ。出生届におれの名前を書けば、先に言ったとおり、検査で証明書を発行しない限りには、大黒がどんなに自分が父親であると主張したところで、そんなのは傾聴にも値しないおおぼらで封じめることが可能なんだ。この意味、分かるか?」
「大黒さんに、配慮した結果だったとおっしゃられるのですね? ……でも、それにしても納得いきません。出生届の欄はやっぱり書くべきだったと思いますよ」
小春は言いながら、裁判のことを思い出していた。私的鑑定をあえて受け容れ、隼斗とのあいだに親子的な繋がりがないことを、公の場にて彼は証明した。それをあえてしたのは、これだって、大黒への約束履行というべき行動だったというのだろうか。
だとしたら、隼人は大黒の血をひく子供であり、そのことを伝える前兆として、認知裁判という舞台をあえて利用したということになってくる。
そこまでして、配慮する必要は果たしてあったのだろうか。やることがあまりにも大掛かりに過ぎる。
「もしや、大黒さんに脅されているとか、そういうことはないですよね?」
小春は何となく堪らず、そう問いかけていた。あながち、でたらめでもなかったようで、則昭の肩がわずかばかり反応を示していた。
「例えば、出生届が空欄であるという事実について、このことについてはっきりと表になるのは、書類を取りだした時ですよね。その書類を取り出すというのは、戸籍について変更があったときとか、調査の手が入った時に限られます。よほどのことがない限りには、分からないままであると言いたいんです。つまり、ずっと守られてきた社長さんの秘密の一つだった、と。もちろん、佐貴子さんもこのことは分かっていたはずです。それ以外の人は、分からない……つまり、口頭での詐称は、そうした書類を手にする身内以外の人――第三者に対しても、可能だということなんです」
「小春くん、君は、何を言って……?」
則昭の下唇がひどく乾いていた。その様を見る限り、口の中は、もっと酷い状態に違いなかった。これは、ひどく緊張している証拠だ。
「詐称の対象は、もちろん大黒さんです」と、小春は勢いよくつづける。「なぜ、そうしたのでしょうか……? 彼の意図を見抜いていたからですよ。自分の遺伝子を受け継いでいると、子供への告知を願い出てきた訳なんですが、なぜ、告知が必要なのかというと、それは、成人してから隼斗さんに干渉していくつもりでいたからじゃないでしょうか? 自分が遺伝的な意味での父親であることを理由に、強請を掛けていく……そういう狙いがあったというわけです。それは、隼斗さんが社長さんの書類上の息子であることから、相続権を持っていることに起因する狙いなんです。社長さんとしては、彼の狙いを打ち消さなければいけない。だから、空欄にしたんです」
もしかしたら、その告知は、単なる軽い依頼ではなく、条件付で受け容れたものだったりするのかもしれない。そうでなければ、則昭が事後に取った行動の不可解さについて、説明できないように思われてならない。
「確かに、自分が隼斗の出生届の欄を空欄にしたのは、将来的に搾取が行われるであろう事を見込んでのことだった」と、則昭は観念した風でもなしに言った。「大黒の企みは最初から、分かっていたんだよ。あえて何も書かないでおいたならば、相続権は発生しない。そういうことなんだ。誰のためでもない。これは、自分のためにやったようなものだ。おれは、身勝手な男なんだ。しかし、それにしても隼斗にはかわいそうな事をしたと思う。出生届は空欄の上に、内縁の妻の子供という肩書きしか持っていない。それこそ、おれのことについて実質、捨てた父と見なされても仕方がない。事実、佐貴子とはもう会わないことにしたわけだし……何もかもが最低だ」
最後は、自分を罵るように言っていた。
彼としても、上手くゆかない現実に、これまでずっとやきもきしつづけてきたにちがいなかった。いましがた彼から吐き出された怨嗟の言葉たちは、そうした苛立ちの塊とも言えるものなのかもしれなかった。
「社長さんの、隼斗さんに対する心証を聞いても良いですか?」
目をあげた彼は、少し決まり悪そうな風情があった。
「もちろん、大切な子だ。というよりも、佐貴子のことをいまでも愛しているわけだから、……隼斗も愛しているに決まっているだろ」
ぶっきらぼうな口調になったのは、照れ隠しのためだろう。
「せめて、気持ちで繋がるしかなかったんだ」と、彼はつづけざまに言った。「どんなに離れていたって、想うのは自由だ。おれは、ずっとあの子のことを考えていたよ。ちょくちょく佐貴子の方に会いに行ったのは、あの子の成長を見守るためでもあった」
「もしかして、最近も見に行っていたりするのではないでしょうか? 内証の行動ですよ」
「なぜ、そう言う?」と、彼は顎を突き上げて言った。
「それぐらい思いがあるんですから、心で思うだけでは足りないと思うんです。やっぱり行動を取って、直截関わりたいと思うはずですよ。実際、物心つく前かそれぐらいまではずっと一緒にいた訳なんですし……」
「まあ、一度二度……そういうのはあったのかもしれん」と、彼は言った。「いや、正直に言おう。住所は分かっていたから近くを通る振りをして、顔を見に行ったことがあったんだ。回数は分からん……ともかくだ、ここ数日寝込んでいる間、あいつのことを考えていたよ」
裁判中、明かされる真実。
そのことで、隼斗が受けるショック。それについて、済まないと思う悔悛の念と、真実を知って欲しいという、慎み深い愛情の念とがあの時、彼の中でぐるぐる巡っていた。
結果、隼斗は思ったとおりの反応をした。
その後、彼が一度も振り返るようなこともせず、まっすぐに退廷していったのを小春は見ていた。そのとき彼は、辛い感情を抱えていたに違いなかった。抑圧し、自分の外に表すまいと、懸命に耐えていた。だからこそ、素っ気ない態度を貫いているように見えていたのだ。
「裁判では、大黒さんの名前を出すことはしませんでした」と、小春は言った。「判事さんがそれを求めなかったということもありましたのでしょうが、社長さんもあえてそのことを黙っていたように思えるんです。きっと、メッセージを送っていたんですね、隼斗さんに。まず、出生届の中身を自分で確認し、その上で、本当の父親を捜す旅に出ろ――そういう風に、暗にながら伝えていたわけです」
則昭は何も言わず、口許をもぐつかせているだけであった。表情は、何を考えているのか読めない渋い調子を保っていた。
「しかし、大黒さんはそのうち、彼の前に現れることになっていました……。それで、事実関係が伝えられることになるのです。その時、先に出生届を確認していましたなら、事実関係の相違が判明し、そこで二人は立ち尽くすこととなります。そして、二人は手も足もでない状況にあることを、思い知らされるんです。その時、問題の原点に立ち返ることになります。それこそが、社長さんの狙いのはずです」
「原点に立ち返る――大事なことだ」と、則昭は強調するようにはっきりとした語調で言った。「法定上でむすばれた形式的な意味での愛情などは、無意味なものでしかない。愛情だ。愛情こそが、すべてなのだ。おれは隼斗を一番に思っている。その事実こそが、大事なのだって隼人に気付いて欲しかったんだ」
「それでも、隼斗さんは形にこだわりそうですね」と、小春は言った。「社長さんの行為を非難するつもりで言ったのではありません。ずっと、縁のないところで浮いたまま彼は育ってきたんです。ですから、そうしたものに憧れるのは当然でしょう。いくら、見えないところに愛情があったとしても、隼人さんとしてはそれで満足するとは思えません。そういうものは、確かな形で自分の傍にあって初めて、安心できるものなんです」
「わたしもそう思うよ」と、入口に立っていた男が言った。
ぬっと、姿を露わにしたのは、大黒であった。靴底をかつかつ鳴らしながら、二人がいるところまで迫ってくる。
「愛情に餓えた結果が、隼人のあのありさまなんだ」と、彼は二人の中間地点で止まって言う。則昭を舐めるようにねっとりとした視線を浴びせつけた。「出生届の空欄は、どうあっても書くべきだったはずだ。何より、それはわたしとの約束でもあった。あなたは、裏切った。嘘をついた。……ずっと、欺きつづけていた」
「確認しなかった、君が悪いんだ」と、則昭は悪びれずに言った。「いくらでも調べる手段はあったはずだ。君はしなかった。それは、君の怠慢だ。そんなことよりも、やはり君は、おれの遺産を狙っていたな? こんな工場をあの子が引き継いだところで、高がしれているというのに、なぜ隼斗に対し、そんな期待を持った?」
「たしかに、ここを経営しているのは、あんただ」と、大黒は怒りを含めて言う。「しかし存亡させてきたのは、わたしの功績によるものが大きい。はっきりいって、わたしの営業努力がなければ、とっくに潰れていたよ。せめて、土地から工場から、はては機械までもらっておかなければ気が済まない」
「お前さんの功績は認めるさ」と、則昭は言った。「優秀な営業マンだ。何度救われたか分からん。謝礼をしてやりたいにしたって、所詮零細だ。そんなものを出したところで、資金繰りが苦しくなるだけだ。だから、せめて親交を深め、居心地のいい場所を作ってやるしかなかった。それができたのかどうかは分からんが、今日まで一緒にやってこられたことを思えば、やりやすさはあったと思う」
則昭は粗い鼻息を繰り返しながら、大黒に対し、身を乗り出す。
「それでいうなら、なぜ、お前はこの会社にこだわったのか? お前さんほどの男ならば、ここじゃなくともやっていけたはずだ。一流企業の営業マンでもできたと思う。実際オファーはあったのではないか? それを断ってまでして、ここにこだわった事の理由がよく分からんな」
「何も知らんあんたは、本当に幸せな野郎だな」と、大黒は薄気味の悪い微笑みをたたえた。「なぜ、おれが隼斗にこだわるのか、そして、このちっぽけな会社にこだわるのか、そんなことは決まっているだろう。社長よ、あんたに対して、済まないと思う感情があるからだ」
「済まない? 何が?」
則昭の眉間には、切り込みを入れたような皺が二筋走っていた。
「佐貴子のことを考えれば分かる」と、彼は言った。「出生届の父親の欄を空欄にしていたことは、わたしにしてみればつい最近ようやく分かったことだが、佐貴子はそのことを知っていたはずだ。知らないはずがない。受け容れたんだ。社長の狙いを汲む形で、な。その後も内縁の妻のままでいるなど、振り回される形を受け容れていることや、隼斗に対し、律義に父の存在を言い聞かせるなど、あんたの言いなりになっている。普通だったならば、どこかで拒否していいようなことばかりだろう。結婚しない、産んだ子を子供と認めない……そんな馬鹿なことを易々と承諾すると思うか?」
「では、なぜ受け容れた、と?」
「負い目があったからだ」彼はさらに不敵さを深めるようににやりとした。「その負い目というのは、人工受精ではなかったということだ。そう、隼斗はわたしとの間の情交で生まれた子供だ。言ってみれば、わたしこそが本当の隼斗の父ということだ」
「なんだって……。貴様、本当のことを言っているのか?」
則昭の顔は、全力で疑うといった様相になっていた。
「事実だ」と、彼は言った。「そもそも、わたしが足立金属にやってきたのはどういう経緯だったか覚えているだろうか? そうだ、引抜きがあってのことだよ。佐貴子に連れられて、わたしはこの会社にやってきた。その時、わたしは彼女に惹かれていたんだ。だからこそ、工場に貢献するつもりでやってきた。しかし、わたしはあんたと佐貴子ができているのだと後から知って、愕然としたね。だが、そこから離れようとは思わなかった。佐貴子のことが、やっぱり好きだからね。佐貴子以外には興味は持てなかったし、佐貴子との将来以外は、想像できなかった」
彼の異性観について、実にあっさりとしていたのは、そういうことだったのだ。佐貴子以外、受け容れられる女性がいなかったのだ。小春はいつかに聞いた、鵜飼の話を思い出していた。
「お前、まさか……」と、則昭が呻いた。
「もちろん、関係を強要したというようなことはない。わたしは、ある一点に期待を持っていたんだよ。それは、社長。あんたが抱え持つ、治らない病のことだ」
子供恐怖症――
小春は、この時点で全容が見えたように感じられた。この時、則昭は蒼白になったまま、身じろぎできない様子でいた。
「彼女と交際していながら、そっち関係の繋がりはなかったようだな。何度か、試みたようだが、結局長続きはしなかった。〝愛情こそがすべてだ〟、〝隼斗を一番に思っている――〟実に、あんたらしい名目だよ。その裏には、性的不能というカードが控えている。そういう障害があったからこその発言ともいえよう。鬱屈がある人間は、なんでも理屈で押し切ろうとする傾向が表れるもんなんだ」
「社長さんの愛情を踏みにじるような事を言うのはよしてください!」
小春は必死に訴えた。大黒の濃い眼差しが差し向けられた。
「そうした言葉がどれだけ表面的で空っぽなのかは、佐貴子が一番に示してくれたよ」と、彼は卑屈な色合いをちらちら顔にたたえながら言った。「彼女は、性的に抑圧状態にあった。正直、社長以外の男は知らない女だった。だからこそだ。社長が不能であることに、ひどく落胆していた。愛情でどうにかなる問題だと、彼女自身そう思っていた時期があった。しかし、すべては駄目だったんだ」
「弱っているときに、あなたが付け入った結果でしょう……? 最低ですよ。心底軽蔑していい人です、あなたという人は」
「最低? それはどうかな?」と、彼はにやりとする。「生涯、まともな情交なしで、さらには子供を産まずにやり過ごす。そういう選択も一人の人間としてもちろんありだ。だが、一般的に言って、それは強い意思で貫徹されるものであって、その意思がない者にとっては、悲しい選択でしかない。生物である以上は、本能的にセックスと子供を欲求するものなんだ。……お嬢さん、あなたも男のことが気にならなかったことが一度もないとは言わせませんよ」
大黒から、全身を視姦されるような不快な視線を浴びているように感じられて、小春は思わず竦み上がり、身体を縮めた。
混じりけのない異様な、黒の瞳。
その眼は、一度ならず佐貴子の身体を呑み込んだのだ。そうした事実が確かであることを思わせるだけの吸引力が、そこには確かにあった。
「あなたに佐貴子のことを責める資格はありませんね」と、大黒は則昭と対峙して言った。「もろもろのことで、自分の都合の良い女として扱っていた。そのことの代償は支払わされるべきなんです」
則昭は顎を引いた状態で、背を老人のように屈めていた。ぜえぜえと喘ぐ息でも吐き出しかねない、体勢だ。その上で、激しい睨みが大黒に対し、差し向けられていた。
「お前が佐貴子を殺した……ということでいいんだな?」と、則昭はやっとの思いで言った。「ここまでくれば、もう引っ込みがつかんだろう。なぜだ。なぜ、佐貴子を殺したんだ。本当に遺産がためなのか? だとしたら、おれに直截言ってくれれば、なんぼか工夫ぐらいはしてやったはずだ。手切れ金を払わないほどの甲斐性なしではないからな」
「まあ、わたしが殺したよ」と、彼はあっさりと白状した。「ここにある、3Dプリンターを使って銃を製造し、それでもって、佐貴子を殺した。計画通りに進行したことから、案の定、わたしはまだ警察に尻尾を掴まれていないんだ。理由なんですがね、遺産ということもあるはずだ。そこは否定しないよ。てっきり、隼斗と書類上で繋がっていて、それで隼斗の方にごっそりと相続のあれこれが回ってくると思っていただけに、幾分の期待を持っていた。だが、わたしのやり口からして、佐貴子を殺す事で、取り分が大きくなるとかそういうことはないんだ」
「では、なぜ殺したんだ?」
則昭の顔は、気魄に満ちていた。もう許せないという感情が一番に高まっている。小春としても彼のそんな顔を見るのは初めてだった。
「ここまできたら、もう分かっているじゃないですか。……嫉妬ですよ」と、彼は感情を乗せずに言った。
則昭は訝しい眼差しを、差し向けていた。
「そう、嫉妬。佐貴子は、わたしのことなんかは別にどうとも思っていない、二の次という程度の扱いでしか見ていなかった。社長について、隼斗には捨てた親……ということを言い聞かせて育てていた。それを徹底しているあたり、隼斗の父親は社長であるという認識が強くあったように思える。実際そうであったはずなんだ。つまり、わたしと交わったのは、一時の誤りとかそういうことばかりではなく、利用してやろうという計算があってのことだったということだ。本人の口からそう直截聞いたよ。そう、わたしらは一ヶ月前から会って、あれやこれややり取りをしていたんだ」
今度は、大黒の顔に怒りが満ち始めた。
「これは、出生届に記述が成されていなかったことに完成されるものだ。この事実は、ずっと後に分かった分、衝撃的に受けとめたよ。彼女に指示されてそれを取り寄せたのは、一週間ぐらい前のことだったか。確かにあれは、あんたらの強い愛情ってのが形にされたものだと思うよ。当時から、ずっと続けられてきたわけだし、それは、他人には介入の余地はないほどだったんだ……。住んでいる所はばらばらになっても、それでも気持ちは通じていた。そのことが分かった今のおれは、利用されたばかりではなく、徹底して骨抜きにされたようなもんだ。いま、どんな気分でいると思う? ……完全に抜け殻の気分だよ」
感情を抑え付けるような震えが、彼の手許にあった。空気は、その思いが伝播したように、やたらと重みを増していた。
どうあっても実ることのない横恋慕――。もし、彼が早い段階で出生届の細工に気付いていたとしたら、この憎しみは持続されなかっただろうか、と小春は考える。いや、彼としてはそれでも、理不尽なまでに自分への愛を信じ続けたことだろう。言ってみれば彼の中のエゴこそがこの事件の引き金だったはずなのだ。
「佐貴子がああなったのは、結局、このおれのせいでもあるということになってこよう」と、則昭が悄気返ったように身体を弛緩させて言った。「もっと、あるべき形に収まるべきだったんだ。時には、あいつの拒否さえも押さえて……」
則昭はとうとう耐えきれない一線を越えたらしく、涙を流した。同時に垂れ流れだした鼻汁に涙が入り混じって、くしゃくしゃのありさまになった。
最後には、四つんばいになり、悲哀に耐え抜く格好となった。小春はその身体にしがみついた。強く自分に閉じこもっており、どこから手を付けていいのか分からない状態だった。
嗚咽は、しばらく続いた。途中、まだ溢れる感情を止めずに、則昭は大黒に顔を振り向けた。
「お前は、これからどうするんだ?」と、鼻声の掛かった声音で問うた。「おとなしく警察にいくんだな? そうでなければ、佐貴子が浮かばれん。だというのならば、このおれも一緒にいく――」
「何を言っているのです」と、大黒は突き返す。「警察にはいきませんよ」
「それでは、どうするんだ」
則昭はゆっくりと膝を立てた。その時、大黒は懐手をして、何やらものを取り出しに掛かった。
差し出したのは、シンプルな構造で成り立っている、安価な造りの銃であった。
3Dプリント銃――
「あんたらに死んでもらうしかないだろう?」
銃口がゆっくりと則昭に差し向けられた。
3
隼斗は、何度も悔しそうに床を叩きつけ、自分の苛立ちをぶつけつづけた。情報をしっかり押さえていなかったことについての自分への怨みと、則昭に出し抜かれたことへの逆恨みの感情に支配されている。
志保里の自宅に追従でやってきた門脇たちは、その模様を為す術なく見守るしかなかった。今回彼らについて判明した事実は、かなり意外なことではあったが、その前から気付きに至る予兆はあったはずだと、すべてを思い返してみて、そういう結論にたどり着いていた。
「もう、済んだことはいいじゃない」と、繰り返しなだめるのは、恋人の志保里だ。 「おれのなかの決着はまだまだこれからだ。こんなことをされておきながら、黙ってなどいられるか」
「それじゃあ」と、志保里は間延びした声で言う。「やり返してやる作戦に出るのね」
「ちょっと待ってくれ」と、門脇が割って入る。「そんなことをすることに意味があるのかどうか、よく考えてくれよ」
「刑事さん、おれはえらい恥を掻いたんだよ。これをやり返さなくてどうするんだ?」
「たとえば、出生届の空欄についての把握だって、君の方に怠りがあったのは事実なんだ。だから、その点は、すべて君に責任がある。もっとも、それが空欄だったからと言って、すぐさま強制認知裁判が停止されるわけではないし、足立の責任が免れるわけではないんだけれどね。例の裁判だって、DNA鑑定が実行されたことから事実関係をはっきりとさせるという意味でも開かれたことの意義はあったんだ」
「それにしても、おれのオヤジは誰なんだよ」と、彼は不平を言った。「それだけははっきりとさせないといけなくなったよ」
「心当たりは?」
彼は首を振った。
「あるわけないでしょう。ずっと、母さんからは、あの人だって教えられていた訳なんだし……」
「これまでに、それが嘘であると分かるだけの材料は、あったはずだよ。君は、足立さんについて子供恐怖症であり、さらには、性的不能の気があるという風に聞いたことはなかったのだろうか?」
「ああ、なんだか、聞いたことがあったような気がするね。性的不能の方ではなくて、子供が嫌い云々の話だよ。でも、自分が小さいとき、それなりに可愛がられていた記憶がちらほらあるんだよね。だから、あれを思い出す限りには、それは当てはまらないような……」
その時、則昭は子供嫌いの症状について、ピークに達している頃合いのはずだった。しかし実際は違って、単なる子供嫌いからきた精神破綻ではなかったようだ。もしかしたら、自分の子供だからこそ可愛がらなければいけないという義務的な思いと、病気について治ってはいけないという使命的な思いとで葛藤し、彼の中で破綻した結果だったということなのかもしれなかった。
「刑事さん、調べておれに教えてくれよ、実の父を」と、彼は泣き言のように言った。
「それは、無理だよ」と、野武が代わりに言った。「私らの管轄ではないし、それに、これは自分の見解に過ぎないが、もし出生の秘密が、精子バンク利用の人工受精だったりすると、そういうのは報されないのが鉄則だったりする。それでも、希望はあるはずだよ。自主的に名乗り出るという場合がある。もし、人工受精という選択の内で、個人的協力という形だったならば、遺伝子上のつながりでいう父親が自ら出てくる可能性は高いはずだ」
「そんな人が突然現れても、なんだか不気味だよな」と、隼斗は言った。「なんのために現れたのかと思えば、強請るためでしかないように思える。こういうのは、あれかな。求めたりしない方が良かったりするのだろうか、こうなった以上」
「おや」と、野武が門脇を気にして声を上げた。「そんなに悩み深そうにして、何か気付いたことでもあったんですか?」
門脇は一旦、思案を解いて、居住まいを正した。
「ちょっと、父親について気に掛かることがあって、ね」と、門脇は努めて気のない風に言った。「その男が誰だかは分からない。だが、その男の立ち位置的にどういうところにいるのか、それについて答えを出さなければいけないように思える」
その男が、佐貴子の殺害犯人ではないのか――門脇はその疑念を持っていた。
もし、そうだというのならば、動機についてまず見ていかなければいけない。
隼斗は今回の裁判でもって、完全な非嫡出子であることが分かった。則昭の法律上の子供でもなければ、血の繋がりもない。
ならば、血の繋がりがある第三者が佐貴子を手に掛けて、被る財産的利益というものは存在するのだろうか? つまり、金銭目当ての殺人だったという可能性の有無だ。
佐貴子自身には財産などはない。さらには、現在婚姻関係にある兄弟関係もいないことから、この線は、端から否定せざるを得なかった。だいいち、現在隼斗の周囲に姿を現していない、第三者的人間が遺産相続目当てでこっそり名乗り出るというのは、利口な選択ではない。それは、隼斗についても同じように考察されたことだが、他者についても同じく言えることから、犯人の目的は金銭関係なんかではない、とここで断定していいはずだった。
こうなってくると、犯人は隼斗から近い位置にいる親近者であり、尚且つ、佐貴子を手に掛けて、金銭以外の利益を得られる者と落ちついてくる。
その人物は、あくまで隼斗の父的存在であるわけだから、相応に年をとっており、絶対条件として男性でなければいけない。
結果、足立金属の従業員しかいないではないか、と門脇はそう結論をだした。
「なんだか、不吉な気配を感じる……」と、門脇はじっとしていられずに言った。「犯人はすでに動いているのではないか? 今回の裁判で、第三者的存在である男がいることが公に公開される形で分かった。それがありながら、どうして行動を取らないでいられるというのか?」
「ときに、隼斗くん」と、野武がいち早く反応して隼斗を気に掛けた。「裁判以降、周囲に不穏な事が起こったりしてはいないか。誰かから電話が来る、車で追い回される、手紙が来るなど……なんだっていい」
「そういうのはないね」と、隼斗は首を一度振って言った。「それがあったら、その人がオヤジだって気付くはずだよ。さっきも言ったとおり、そういう心当たりなんていうのは、まったくないんだ」
「行こう」と、門脇は立ち上がって、野武に言った。彼は言下にうなずいて、すぐさま立ち上がった。
「ちょっと待ってよ。おれも行くよ」隼斗が、ぽかんとした具合のままに言った。
「それはできない」と、門脇は言った。「危険を伴う。相手は、3Dプリント銃とはいえ、殺傷能力のある凶器を持っている恐れがあるんだ。ここでじっと大人しくしていなさい」
「彼女を守るのが君の仕事だろう」と、野武がおっ被せるように言う。「なにかあれば、直通で掛けるんだ。それがあれば、すぐさまここに引き返すつもりでいる」
「いや、おれそんなの納得いかないよ」と、隼斗は譲らず立ち上がる。「こういう時行動しなくっちゃ、このままやり切れないだろう?」
「ちょっと、あんた」志保里が隼斗の喉元に腕を回して、自分に引き寄せる。「わたしを守りなさいって、刑事さんが言っているじゃない」
隼斗からの抵抗があるなりすかさず腕に力を込めて、身体をねじるように反り返った。頸動脈を締めつけられたことからか、隼斗は虚脱し、それきり抵抗をやめた。
「なあに、すぐ帰ってくるさ」門脇は言って、志保里の自宅を飛び出した。外に駐めていた公用車を駆りだし、足立金属に向かう。
道は空いていた。進行に妨げるもののないスムーズな移動。この分だと、予定よりも早く到着することができるのかもしれなかった。
「犯人の目星はついているんですか?」と、ハンドルを握る野武がしばらくしてから言った。
「鵜飼か、島田か、那須、大黒、……それと定年した三木も含めて五人のうちの誰か、だ。一番近いのは、大黒だろう。経営を立て直しに入ったその頃に、佐貴子に連れられて入社している訳だし、五人の内、もっとも特殊な位置にいるように思える。もし、彼が隼斗の父親だというのならば、環境について考えなければいけない。あの状況下で、個人的協力という形で、精子を提供するようなことができるのかどうか。則昭は性的に不能だった。だからこそ、助けてやらなければいけない。しかし、こういうことが助けになるかどうかは、悩ましいところだ。それで言うならば、君が立てた見解の一つである精子提供バンクを利用すれば良い選択だったのではないかと思うわけだが、それだったら、佐貴子がその事実について隠す必要はなかったはずなのだ、と思う」
「これまでずっと、隼斗には真実を隠していたという事実は大きいですね」と、野武は言った。「まして佐貴子は、隼斗に対して、則昭氏の心証を害するようなことを注ぎつづけていたんです。なぜ、こんなことをやったのかまず説明しなければいけません」
「そういうことは、ちゃんとした狙いがあってのことだ」と、門脇は言った。「まず、考慮しなければいけないのは、出生届について則昭氏の欄が空白になっていたことだろう。その事実について、佐貴子が知らないはずがない」
「怨んでいたんですか? 空白にしていたことを?」
「そんな単純な事ではない」と、門脇は声を高くして言った。「もっと、深い理由によるものだろう。それが分かっていたら、則昭に対して、決して悪い印象を刷り込むためではなかったという逆の答えが導かれる。となると、それが導かれる過程として考えられるのは、最終的に則昭が父親ではなかったと明らかにするつもりでいたということだ」
「明らかにする、というのはどういうことです?」
落ち着かない気持ちでいるのが、野武の顔にありありと表れていた。
「憎しみの対象でも何でもないということをひっくり返すのさ。すると、どういうことになるか。隼斗の中に残るのは、則昭氏の存在感だけだ。それこそが狙いだった。関係がゼロだと分かった状態からでも、付き合っていけるベースが彼にできあがるようなものだ。こうとも言えるのかもしれんな、これは将来的にうまく付き合っていけるための下準備のようなものでもある、と」
「しかし、そういうのは、隼斗自身に掛かっていることですよね……」彼には腑に落ちない感情があるらしかった。「それに、新しい父が現れた状態で、則昭氏とも付き合って行くとなれば、彼自身混乱が深くなりますよ。父という存在は、一人だけでいいのでは?」
「育ての父と、突如現れた、遺伝子上の父……。厳密に言えば、則昭は育ての親どころか、憎しむ対象でしかない男だが、それでも母が言っていたことが誤りだったとあらば、幾分、則昭に対する心証は変わるはずだ。つまり、物心つく前まで一緒にいた育ての父である則昭に心は傾いていく……そうなるはずだ。もっとも時間が経ちすぎているから、穴埋めするまでにはかなりの時間が必要なんだろうけれどな」
「ともかく、精子バンクの事実は否定されるということでいいんですね」と、野武は改まって言った。「でもだからといって、大黒の精子提供が表沙汰にされているというわけでもない。隼斗の出生は、やはり、彼女の態度からしてずっと隠されたままなんです。これについては、どう考えているのでしょう?」
「精子バンクは利用していないから、隠すことでもなかった。一方で、大黒の件は、やましい事実があったから、表沙汰にするわけにはいかなかった。そういうことではないか」
「そのやましいことというのはなんです? まさか、情交があったとかそういうことではないですよね」
「それしか考えられないだろう。そう、隼斗は佐貴子と大黒との間に産まれた子供だ。則昭の性的不能が、一種の過ちを生んだんだ。佐貴子が則昭から離れていったのは、もしかしたら、そのことを隠すためだったのかもしれん。むろん、これは則昭には秘密にされなければいけない。しかしながら両者にはまだ切っても切れない情愛があった。それは、身体では繋がらない、精神的な愛だった。だからこそ、大黒が遺伝的な父だったとしても、則昭に実質的な隼斗の父になってもらいたかった」
「それで、佐貴子による、則昭の心証をがらりと変えるという、長い長い、嘘を言い聞かせる工作が生まれたということなんですね?」
「どこまで本当かは、当人に聞くしかない。直截聞ける人間が限られてしまったわけだが、
手遅れという段階にまできているわけではない」
「大黒が、派手なことをやらかしていなければいいですが」と、野武は言ってから、口許を歪めた。「3Dプリント銃……、まさか、その凶器が自分らにも振り向けられるかもしれない恐れが出てくるとは、これまでに想像したこともありませんでしたよ」
「安心しろ」と、門脇は言った。「よく思い出してみろ。例えば、大黒は、足立金属のいち従業員だ。となれば、発火装置以外は、足立金属の例の没収プリンターで銃を製造したということになってくる。そこで、おれらが予想した三挺がボーダーという推理をここで持ってくれば、すでに二挺は押収されていることから、残りは一挺だけだ、となる」
「しかもその一挺は、厄介な一挺なんですよね」と、野武は興奮気味に言う。「製造銃はいずれも試射を繰り返し、発射痕の鮮やかで綺麗な順から、例の事件の仕掛けと、小道具に採用されています。残りの一挺は、一番駄目なものです」
「さらにいえば、二番目にいい銃ですら、暴発しているわけだ。順当に考えれば、一番精度が悪い銃がうまく発射してくれるはずがない。彼が所持しているのはその程度のものだ」
撃った瞬間、暴発――
そのような、怖ろしい結果が起こると分かっていながら3Dプリント銃を発射するようなことがあるだろうか。門脇としてはそれはないと思うが、しかし頭に血が昇った実行犯というのは始末が悪い。危険を顧みない蛮行に走る可能性は、決してゼロではないはずだった。
「自分としては、弾の方が気になっていますよ」と、野武は言った。「これがなければ、いくら銃を所持していたところで、恐るるに足りませんからね」
「買い付けた当初は、ある程度の数を所持していたはずだ。しかし試射でけっこう撃っていることを想定すると、ほとんど持ち合わせなどはないはずだ。それでも、やはり予備分は残されていると考えるべきだろう。計画性のある事件なんだ。万一の事態を想定していると見なすべきだ」
「――だとしましたら、総合勘案で、せいぜい残されているのは、一発ということになってきましょうか。もともと、3Dプリント銃は、単発式なわけでそれで充分なんでしょうから、その線は固いと思います」
一発――
それに、大黒は賭けてくるはずだ。となれば、本当に憎い相手にこそ、それはとっておくものだ。
足立則昭の身が危険だ。すぐに飛び出して正解だったように思える。だが、油断してはならない。間に合わなければどうにもならないのだ。
車内の時計は、午後の七時過ぎを指していた。ゆっくりと暗くなっていく頃合いだ。あと一時間もすれば、工場周辺は真っ暗になる。その闇は、犯罪行為に手を出そうとしている人間にとっては、何かと都合の良い環境をもたらす闇だ。
「いそいでくれ」と、門脇は唸りながら言った。「暗くなるその前に、到着しなければ、すべては後の祭りだ」
胸騒ぎは、一段と厳しさを増していた。仲間を駆使して応援を請えば、それで即解決に違いなかったが、根拠がないことには、人を動員することは許されなかった。所持している銃のことだって、あくまで個人的に組み立てたという、非公式な見解に過ぎない。
ここは、二人だけで解決するしかなかった。
4
工場周辺の照明は落とされていた。街灯だけが辺りをオレンジ色に染め上げている。寂れた油圧式エンジンの連結口が洞穴のような闇をのぞかせて、スレートの一番光が当たる箇所に存在感を示して横たわっていた。
「いるんでしょうか?」野武がサイドウィンドウから覗き込んで問う。
「静かだな。まるで、人がいないようだ。行ってみるしかない。むろん、銃の携帯はできない。帯革から抜くのは、危険を確認してからだ。まずおれが行く。だから、手をあげたら、直ちに銃を構えろ」
「分かりました」
二人はクラウンを降りた。
門脇はまず工場の出入り口に立ち寄り、中を確認する。奥の部屋のドアが薄く開いており、そこから光が漏れていた。光源はそこだけだった。それだけにその部屋に至るまでの通り道は、かなり危険だった。工具やら、資材が道を区切っており、どう考えてもその配置を覚えている人間でない限りには、通れそうにない。
ここは一旦引いて、事務所の人間を呼ぶしかなかった。
「いなかったんですか?」と、後方待機していた野武が問う。
「いるように思える。だが、中はかなり足場が不明だから、条件が悪い。やり口を変えよう。ここは、人を求めるしかない」
事務所のほうに寄って、人の姿を捜し回った。だが、窓にカーテンが掛かっていて、不在は明らかだった。念のため、軽くノックしてみた。沈黙。誰かが出てくる可能性は、なさそうだった。
どうしたものか、と悩んでいる内に、人の叫ぶような声が聞こえてきた。場内からだ。
門脇は走った。一旦工場から引き返したことを後悔したが、ここは次の選択を間違えないことを心掛けるしかなかった。
「おい、警察だ。中の者、でてきてくれ……!」
入口する傍にあるスイッチパネルに手を伸ばし、いくつかのボタンを一気にオンにしていった。ぱらぱらっと、照明が灯った。コードを束ねたものが思った以上に足場を埋めていて、照明なしに出ていったら、予想どおりに危険な目に遭っていただろう事が分かった。 「返事をしてくれ。……でなければ、強制突入の措置を取ることになる」
しばらく経った後だった。
部家の奥に通じるスチールドアがゆっくりと傾いて、その奥に立っている男が現れた。3Dプリント銃を手にした、大黒であった。思いつめた顔で、じっと門脇を睨み付けている。銃口は、こちらを向いていたが、照準は少しずれていた。
「うるさいよ、あんた」と、彼は言った。「返事をしたところで、強制突入をするのは分かっているんだよ。適当なことを言ってくれるな」
銃口の照準が、ゆっくりと門脇に定まっていく。玩具のようなちゃちさがあったところで、銃口付近だけは実物と同じだけの迫力があった。一度、熱を放射する乱暴な発射があったからだろう。しかし、持ち前の強い精神が門脇を芯から支えていた。
銃は、帯革に控えてある。それを取り出すまでには、五秒は掛かる。こちらがさっと用意する動きをしたところで、その間に向こうに撃たれるのが見えている。ここは、話し合いに持っていくしかなかった。
「奥に、足立社長がいるな?」
「足立社長もいるし」と、彼は門脇からは見えない部屋の奥手をちら、と見やった。「次期社長との呼び声が高い、足立小春嬢もいる」
足立小春――
まだ、入社二年目の若い従業員だ。ショートカットの愛くるしい容姿の持ち主だが、自分の意思を保った、力強い目つきをしている。自分の将来について希望を持っているらしく、そこに宿る光は、決してぶれない真っ直ぐなものがあった。
彼女も、その中にいたとは、これは不幸なことだった。かなり、条件が悪いと考えるべきだった。
「それで、二人とも無事なのか?」
「縛り付けているよ。用意した縄でぐるぐる巻きさ。これから、車を用意して運びだそうというときに、あなたがきたんだ」
おそらく、銃を突き出し、それでもって相手の動きを差し止めたままに、拘束具をかけたに違いない。いや、二対一であったことを考えれば、どちらか一方を自分の言いなりにさせ、もう片方を拘束させたのかもしれない。
「車で運び出してどうするつもりだったんだ?」
「そんなことは、あなたに言うことではないだろう」
「お前さんの、目的は分かっているんだ」と、門脇は言った。「足立の社長だ。彼だけが目的なんだよ。彼をどうにかするつもりでいるんだろう? よしとけと言っておく。行為自体が愚かであるし、お前さん自身、目先のことについて見失いすぎている。だいいち、彼を手に掛けたところで、それでどうなるというのか。抱えている葛藤など、解消されることはない。それは、お前さん自身の問題でしかないからな」
「このわたしが、例の事件の実行犯だって、もう分かっているのか?」
門脇に差し向けられた銃口が、小刻みに揺れ出した。手に緊張が走ってきた証拠だ。
「たしかな、証拠を得たわけではない。だが、裁判の結果を経て、因果関係を突き詰めていくと、あなたの存在が出てきた。ここの古株であり、その中で、この会社に加入した時期が北山の事件以降という所が一番の根拠だろうか」
「そんな時期だけで……?」
彼は眉根を寄せて言った。
「大事なことだ」と、門脇は言った。「それだけ、足立金属にとっては、北山の一件は大きなものなんだ。伝聞で押さえているのと、実際その現場と付き合ってきた人間とでは、行動様式が異なる。……全体の空気をも無視する形で、会社を立て直しに入った頃の佐貴子さんにお前さんは手を出した。そういうことでいいんだな?」
「そこまで捜査は進んでいたんだな」と、彼は感心した風に言って、ひとまず銃を握る手を緩めた。「その通りだ。隼斗は、わたしと佐貴子の間に産まれた子供だ。我らの愛情で、この世に生を享けてきた命なんだ」
「しかし、そのことを佐貴子さんに認めてもらうことはできなかった」と、門脇は彼の顔色を確かめながらゆっくりと言った。「彼女の心は、足立社長一筋に向けられていたんだ。お前さんとの間には愛情はなかった。あったのは、情交という事実だけだ。それ以上のものはなかった。だからこそ、時間を飛び越えてそのことがはっきりと分かった今、お前は佐貴子さんを殺したんだ」
「分かり切ったことを、繰り返すな」と、彼は目に怒りを湛えて言った。「さっきも同じような事を語らせられて、わたしはうんざりしているんだよ」
「自分がやったことを、繰り返し理解することは大事だろう?」
「わたしを挑発するのか?」
銃の構えが立て直され、銃口がしっかり門脇を捉えた。怯みの感情が一瞬、肩を揺らした。
「それを撃つな」と、門脇は言った。「罪を深めることになる。いや、暴発する恐れの方が高いから、お前さんの命が危ない」
「だったら、暴発するかどうか、試してみるか?」
彼は言うなり銃口を下げ、部屋の奥手に闊歩していった。
門脇はすぐさま追い掛けに入った。戸口まできたところで、部屋の模様が飛び込んできた。設えられた戸棚の横に並ぶ形で、則昭と小春の二人が布を噛まされた上で手足を縛られた状態にある。そのうち則昭の側頭部に、大黒は銃を突きつけていた。
「3Dプリント銃だからって、精度を舐めているんだろう?」と、大黒は言う。「答えを見せてやるよ。どれほど恐ろしいものなのかを、そして素晴らしいものなのかを、ここに示してやるよ」
手つきにひどい興奮が認められた。
「おい、よせっ」
飛び出していこうとするなり、銃口が門脇を捉えた。しかし、手つきの具合からして撃ってくる気配はごく薄いように感じられた。
門脇は少しずつ恐れを断っていく。次に、彼の手元を注意深く観察した。あるべき火傷の痕跡は認められなかった。その代わり、彼の焼けた顔に繋がる首筋には、赤くこすれたような炎症があった。それこそが、3Dプリント銃による暴発事故の痕跡というべきだった。講習では爆発事故と、暴発の中身について語られた。とくに後者については、3D銃の構造上の脆さこそが、事故を誘発する原因になっているということだった。
彼の場合は、どのような状況で暴発したのだろうか。試射を何度も繰り返したと分かっているのだから、一先ず、暴発事故に遭う一定の条件を満たしているということでよかった。また、使用した銃には排莢口の部分に暴発防止のプロテクトが噛まされていることが分かっている。もし、全体の強度不足がゆえに暴発が発生し、プロテクトがこれを吸収したとしたら、反射波こそが彼を襲ったはずで、その時は手や胴部などではなく、それよりも上部に怪我を負っていなければいけなかった。彼の首の痕などは、まさにその手の怪我に該当する。
ともかく状況から考えても、彼が佐貴子を殺した実行犯であるのは、もはや間違いないと言えた。
「いいから、下がれよ」
「分かった、下がる」門脇は指示どおりに、大きく後退した。それでも、部屋の中から出ていくことまではしなかった。
「銃を舐めているわけではないよ」と、門脇は言った。「その銃は、良く作られたものだ。実際の銃と、遜色がないというまでではないにせよ、威力は充分だ。性能については、充分に分かっている。分からないのは、弾と、撃針を含めた発火装置のほうを、どうやって調達したのかということぐらいか」
「分かっているじゃないか」と、彼は得意になって、銃を上向きに持ち上げた。「そこまで調べ尽くされているなら、話は早い。そうだ、別途用意しなければいけないものがあった。指摘の通り、弾と、撃針のほうだ。これだけは、金属製品でなければ威力を発揮できない。ちょうど、わたしには営業を通して押さえた、マーケットがある。そのうちの黒い所と通じて、これらを仕入れる機会を得たんだ」
「黒いところというのは、ヤクザか何かか?」
彼はかぶりを振った。
「マニアルートだよ。御存じ、この世には、コレクターというやつがたくさんいるだろう?そういう彼らは、時には法を逸脱してまでして、本物を求めたがるものだ。その筋の愛好精神が強すぎるあまりに、鑑賞や、レプリカ収集では物足りなくなってしまうパターンだ」
「なるほど、ガンマニアのルート……」
彼の営業担当は、機械部品だ。だからこそ、そういった人間と出会す機会があったのだ。
その手の人間を捜し求めているうちに、彼の悪意は膨らみ、やがて感覚がおかしくなっていった。行き着いた先で、不利な条件が突きつけられたとしても、彼は諾々と応じるしかなかった。こうして、計画は自然と組み立っていったのだろう。
「本物の武器を輸入すると、検閲で引っ掛かる」と、彼は言う。「しかし、弾であったり、銃部品であったりと、それぐらいのものならば、紛れ込ませても通ってしまうルートというのがあるようだ。その男は、部品をせっせと集めていた。それで持って、安価な予算でレプリカ品を、自前の金属粉末も扱える3Dプリンターで大量にこしらえた。その一部を大枚をはたいてわたしは買い取ったんだ。弾だけは、本物仕様ながら古い型になったのは、そいつにとって用済みだったものを譲り受けたからだ。どうもこだわりがあるらしいね。現役仕様の弾については、譲れないということで、どんなに頼み込んでも売ってくれなかったよ」
「それで、いくらで買い取ったんだ? あと、数量については?」
「それは、黙っておくとしよう」と、彼はほくそ笑んだ。「警察さんもある程度は、予想しているはずだろう? もしかしたら、十、二十の単位かもしれないし、それ以上かもしれないな」
「我らを、挑発するのか?」
これは、聞き流せない発言だった。大量の銃が流されたと伝えられれば、その情報が不確かなものであったとしても、警察側は目を皿にして調べ尽くさなければいけない義務が発生するのだった。それだけ警察は公務目的外の銃という存在を、忌み嫌っていた。
「それで、この話を信用するのかどうか?」
「信用するかどうかの問題ではない。……だが、自分としてはその銃こそが、最後の一挺のはずだと、信じているよ」
彼の顔が軽く怯みを見せたところで、門脇はつづけざまに言った。
「そういった一式を買い付けたのは、データごとということでいいんだな? お前さんには、そうした3Dデータを作製する技術は持っていないはずだ。だから、やはり販売ルートに頼るしかない。さらには、撃針を装備する技術だってない。だから、データを譲り受けてプリンターで製造したところで、それは、機能を持たないものでしかない。となれば、その人物に送り返し、最後の仕上げをしてもらわなければいけない」
「マニアというのは、本当に恐ろしいものだね」と、彼は言った。「自分でこそこそ製造する分には、いくらでもやってのける。しかし、無尽蔵に製造し、これを楽しむというわけにはいかない。資金がなければ、やはり製造環境は維持できないんだ。しかし、だからといって自分製造の愛器を譲ってこれを用立てするわけにはいかない。足がつく恐れがでてくるからね。そこで、考えついたのが、相手の方に銃本体を製造させる条件をつけるということだ」
なるほど、と門脇は思った。相手にも犯罪に足を突っ込ませることで、仲間内に引きずり込ませる手法を採っていたようだ。それで、自分の安全を確保し、交渉しやすい条件を整えたのだ。これは、お互いの信頼関係を深めるという点でも、有効な手段のはずだった。
何にせよ、ガンマニアが協力者であり、その人物の全面バックアップの下、3Dプリント銃を手に入れたということでいい。
モデルになった銃は分かっている。コルトの1192Aだ。これが選ばれたのは、その男が所有している弾丸の形式を意識したためだろう。3Dモデリングの技術さえあれば、どのような銃をモデルにしてもいいということにはならないのだ。おそらく、その男が所有している、他の3Dプリント銃も、形式はどれも同じものを採用しているはずだった。
「その男について、ちょっと興味あるな」
「それは、わたしの口からは教えられませんよ」と、彼は言った。「彼のことは、秘密にしなければいけない。というよりも、その男についてあまり詳しく知らないのです。ただの、商売仲間といったぐらいなものだよ」
これが真実かどうかは、確かめるまで分からない。商売相手というのは、ともに守秘義務を背負っていることから、嘘を述べていることの方が確立としては高かった。
いずれにせよ、大黒の身元を洗うことで、その男を自力で掘り出さなければいけないようだ。銃の部品と、製造について、いくつの銃刀法違反が積み重ねられるのか。注意しなければいけないのは、制作されたデータの方だろう。これは、まだ規制が緩い現状では、立件していく材料に仕立てあげていくことは難しかった。いくつもの試作機が作られ、そのたびにデータが改良されているというのならば、違法銃製造において悪質性認定についての証拠にはなるという程度に留まる。
「時間が経ちすぎたよ」と、大黒は大きく息を吸い込んでから言った。「そろそろ、けりをつけなければいけない」
また、則昭の後頭部に銃口を突きつけた。則昭は、諦めたように大人しくしている。布を噛ませられているだけに、恐怖さえもが内側に押し込まれているように感じられる。一方、小春はチャンスをうかがうように、縛られた状態のまま、あちこち目を移動させていた。
「撃つな」と、門脇は声を上げた。「とりあえず、落ちついてもらおう」
「無駄だよ」と、彼は言う。「わたしは決めたんだ。こいつと心中するってね。あんたさえこなければ、もっと別の選択があったように思えるが、それはもう叶わぬ望みとなった。ここらで、決別しなければいけない」
「そもそも、なぜ、彼を殺さなければいけないんだ?」
大黒はゆっくりと顔を上げた。
「憎い感情があるからだ」
「佐貴子の心を自分のものにできなかったことの憎しみを彼にぶつけるってわけか? だいたい、これまで傍にいたわけなんだから、いつだってそのことを持ち掛ける機会がお前さんにはあったはずだろう? なぜ、今なのか?」
「なぜ今なのかというのは、ナンセンスな質問だ。おれの嫉妬は、当時からずっと尾を引く形で存在しているものだ。それが、隼斗が二十歳になったその時、動くきっかけができたというだけのことなのだ。……しかし、すべては無駄だった。佐貴子は、おれからずっと遠い存在だった。結局、自分が抱いていた希望は、すべて泡粒のようなものだったんだ。そうと分かれば、なんのために生きているのかも分からなくなった。だから、これはそうした実感を取り返すために実行する事でもあるんだ」
彼のトリガーに掛けられた指にゆっくり力を掛けられていくのが分かった。
「よせ、いいから銃を置くんだ……!」
飛び出しても間に合わないだけに、声を張り上げるしかなかった。
その時、部屋の屋根に面した位置にある明かり取りの窓が、勢いよく割れた。内側に向かって割れたガラスが飛び散り、派手な音を立てた。窓の外に鉄製の棒が見えている。なかなか出て行けないでいた野武が、タイミングを見計らってチャンスを作ってくれたようだ。
門脇は機を逃さず、飛び出した。
大黒の胸元にタックルをかます。
「くそっ」
彼の呻きとともに、銃は上向きになり、門脇は手首を押さえた上で取り上げに掛かった。が、その途端に、引き金は引かれた。
銃は、排莢口から火花を飛ばして、ものの見事に暴発した。弾けた銃身のかけらが勢いよく門脇たちの顔と身体を打ち付ける。散弾銃が近くで炸裂したかのような礫の雨だった。
目をやられたところで、門脇は足場によろけた。
「門脇さん……!」
野武の声が飛ぶなり、駆けつけてくる物音を聞いた。しかし、門脇は目が潰れたまま何も見えない。闇の中で、野武が対処に掛かる動きを想像した。
しばらくして、何とか視界を得た。目は痛んでいるが、血が出ているわけではなかった。軽い炎症を起こしている程度だ。視界にぼやけている箇所はなかった。
倒れている男がいた。
大黒だ。額の中央から、赤黒い血が垂れ流れ、網を掛けたような模様を作っている。明らかに、絶命している様子だった。
「彼らを解放してやってくれ」と、門脇は則昭たちを野武に任せてから、大黒の遺体を前に茫然とした。
溢れだした血はどんどん床の上で広がっていた。
この男は、こうなることが分かっていたのではないか。持っていたのは一番精度の悪い銃だ。どうあっても、凶器の威力を発揮するかどうか頼りない代物でしかない。
何より、則昭たち二人を縛り付けたことが不可解な行動でしかなかった。実行するならば、銃の脅しでもって車に移動させ、そのまま彼の目的の地へと連れ去る選択が賢明なはずだった。そのための銃なのだ。彼はそれを実行しなかった。単なる時間稼ぎとして、二人を拘束したように思える。
なぜ、そのようなことをしたのか?
彼の中で、迷いがあったからだろう。その迷いとはしがらみで、時間を掛けて則昭とのあいだに育まれた友情の念だったりはしないか。長らく怨みは続いていたとはいえ、それにしても行動を取るのが遅すぎたということだ。
「門脇さん、二人を外に連れて行きますよ」と、野武がぽつりと言った。
「そうしてくれ。これから、自分が仲間を呼ぶ」
野武の引率により、二人は戸口まで向かったが、則昭だけは途中で引き返してきた。門脇と並んで、大黒を見下ろした。
仰向けのまま、死に顔を晒す大黒は、ただ虚無を見つめていた。
「すべては、自分の愚かさがまねいた結果です」と、彼は言った。「彼は何も悪くなかった……本当に、罪深いですよ、自分は。佐貴子を傷つけ、大黒を傷つけ、そして……隼斗を傷つけたままでいる」
暗い表情は、立ち直れないだけの絶望感をにじませている。大黒の唐突な死に強く同情を寄せているらしかった。
「彼は、本気で佐貴子さんを想っていたようですね」と、門脇はぽつりと言った。「しかし、望みどおりにならなかったことで、彼の中の何かが崩れてしまった。その瞬間、彼の信じていた世界は閉じられてしまった。結果、攻撃的な性格が生まれるに至った……そういうことなのでしょう」
「当時、この男が佐貴子を想っていたのは、まったく知らなかったことだった」と、則昭は哀れみを、大黒に注ぎながら言う。「知っていたならば、彼に対し、精子提供を求めるような事はしなかっただろう」
「応じたときの彼の様子は覚えています?」
「本当に、気持ちがいい返事だったと思うよ。おれを助けてくれるという献身の気持ちでいっぱいだったように思えたんだが……」
大黒から精子提供に当たって条件がつけられたのは、きっと事後だったにちがいない。
なぜ後からその条件を持ってきたのか則昭が考えたとき、ようやく彼の中の嫉妬の念に気付くことになるのだった。しかし、すべては後の祭りだった。両者は、すでに睨み合っていい立ち位置に就いてしまっていた。
とはいえ、その後、両者は破綻行為に走るようなことはしていない。
これは、大黒としても隙に付け入る形で、背徳行為に手を染めていたからだ。関係は危うかったが、問題を先送りにすることで均衡は何年も続けられることとなったのだ。
「一つ聞きたいんだが」と、門脇は穏やかに持ち掛ける。「あなたは状況的に、今回の事件について彼が実行犯だと分かっていたのではないか。もしそうなら、早い段階で、これを我らに打ち明けるべきだったように思える」
「おれは、信じていたよ。これは、何かの間違いなんだってな」と、則昭は言う。「おれらのあいだには、ずっと均衡が保たれていたんだ。二十年間以上ずっと、だ。この事実がありながら、どうして彼が動いたのだと疑えるというのか。それは、3D銃を製造するなど、この男が取り扱えるはずがないという根拠の元に、成立したことでもあるから決していい加減な思い込みによるものではない。大黒がやったとは、最後まで信じなかったんだ。信じられなかったんだ。しかし、例の会社の3Dプリンターが使用されたのは確実だったことからしても、どこかでそうかもしれないとは思っていたから、そこは言い逃れはできない。刑事さんよ、その点について、おれをしつこく責めてくれ……。だが、いまだけは、それを許してくれ。この男を、心から弔ってやりたい気持ちが強いんだ」
「彼のことを信じていたのでしたら、葛藤していたわけですよね。ならば、責める理由はないということになりましょうか。あなたが従業員を本気で信じているというのは、最初の聴取の段階で、庇うような発言をしていたことからして分かっているんです。そのあたりはご信用いたしますよ。とりあえず、いまは彼についてだけ、考えるとしましょう。こうなったのは、自分にも責任があるんです」
「あなたには、責任はない」と、則昭は門脇をちら、と見て言った。「すべて、おれが悪い。おれが請け負うことなんだ、これは」
やがて視線を落とし、ぼんやりと大黒の遺体をじっと見つめに掛かった。感傷的な気配が強くなっていた。
「ちょっと、訊いていいですか?」と、門脇は彼にそっと問う。「大黒について、今あなたの中には、どういった感情があるというのでしょう? 彼に手によって、愛しい人が奪われたんです。本当ならば、憎らしい感情があって当然のはずでしょう」
「憎い……そういう感情が、ないわけではない。殺したばかりじゃなく、佐貴子と情交に走るなど、裏切り行為があったのは事実なわけだしな……」と、則昭は静かな口調で言った。「しかし、そのことは水に流さなければいけない。怨むなんていう感情はもう持ち込んではならないんだ。とくに後者については、いい加減過去のことだし……何より、おれの性的不能について負った佐貴子の苦しみを理解しているからだ。だから大黒について、憎らしいどころか、申し訳ないという感情の方を強く持っている。おれの内にある弔いの精神は、純粋なものだよ。おれは……大切な人間を失ってしまったんだ」
次々に手元から零れていく、繋がった人たち……。彼を見ているだけで、その儚さが身に沁みて分かるように思われてならない。
大黒から広がる血は、いまや止まっていた。虚しい気配だけがあたりに広がっていた。
「とりあえず、これ以上、あなたはそうした大切なものを失うようなことをしてはいけない」と、門脇は強い口調で言った。大黒の死に、誓わせるつもりでいた。
「それは、間違いない」と、言わんとすることを受けとめたように、則昭は重く応じた。
「それでは、隼斗のことを、守っていただけるんですね?」
「そのつもりだよ」と、言って彼は引き締めた顔を見せる。「隼人を、この会社の従業員として指名しようと思っていてね……」
「ほう、そうでしたか。それは、朗報ですよ。……この男が、残した一人の子供です。また、佐貴子さんの忘れ形見でもありましょう。手元に置いておくことは、彼らへの感謝の示しにもなりましょう」
いまや則昭は、隼斗の裏側にある、もろもろのしがらみについて囚われない、突き抜けたものを持っている。いまの彼ならばわだかまりなく付き合っていけるはずだった。顔を見やれば、全面委任で任せられる安心感が、彼の面体にしっかり認められるのだった。
「いまだけは、この男に謝りたい」と、則昭は大黒に対し、手を合わせた。「大黒の苦しみを、懊悩をもっと受けとめてやるべきだったんだ。それができなかった……。おれはもっと変わらないといけないよ。大黒に許してもらうためには、もうそれしかないんだ」
彼の決意は、きっとずっと続いていくはずだった。それが彼の後悔を打ち消すだけになるまでには、まだ時間がかかるのだろう。
見守っていくしかなかった。
それから、すべての愛が、隼斗へと昇華されていくことをひたむきに願った。事件は、そうした思いが形になったときに、初めて終わるのだ。