表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銃のある風景  作者: MENSA
3/6

第三章

 

第三章

 

     1

 

 従業員の、手の疾患の有無について鵜飼から残念な報告を授かった。回答者の多くは、自分は問題ないと突き返し、怪我以外については、自分の問題の域を出ないと、審議の拒否に掛かってきた。もちろん、従業員数が少ないだけに、一人一人に当たって、個別にこの事実を求めることが小春にはできる。

 しかし、そうした報告を先にあげているだけに、反発は免れなかった。露骨に疾患の有無を隠すなど、防衛策に走ってくることだろう。これは、余計なことで会社の資産を潰したくないという、零細従業員ならではの配慮でもあるのだった。福利厚生や保障が充実している会社とは違って、その問題は自己責任であるという意識が強く根付いているのだ。これは、意識レベルで変えなければいけないことだ、と小春は思った。会社として、健康保険に加入するプランを考えなければいけない。

 その模索に頭を悩めている途中、何やら、工場から騒がしい声が聞こえてきた。窓が半開きにされているので、それははっきりとした感触で伝わってきていた。

 祝福モードだ。

 則昭が帰ってきたようだ、と小春はすぐさま察した。こうしてはいられなかった。ペンをおいて飛び出し、彼の元へと駆け込んでいった。

「社長さん!」

 四人の工員に囲われたそのさなかに、則昭の姿があった。

「よう、小春」と、彼はいつもよりも張りのない声で言った。「留守にしていて、悪かったな。やっと復帰だ」

 笑顔はなかった。聴取員に相当絞られたことが分かる、かすかな窶れがあった。目の色だって普段よりも精彩を欠いている。

「すいませんでした」と、小春は彼に対し、深々と頭を下げ、謝った。

「あん? なんで、謝るんだよ」

「このようなことになったのは、わたしが、下らないことを告白してしまったからです」

「いいから、顔を上げろよ」

 彼の言うままに、小春はのそりと、顔を振り上げた。

 叱りつけるときに見せる面相の彼がそこにはいた。目尻の皺がいつもよりも深いこともあってか、どことなく余所行きの雰囲気が強く表れているように感じられた。

「お前のその発言は……もし、事情が違えば、今回のこれは黙っていたままでいたってことなのか?」

「いえ……そういうことでは」

 小春は消え入りそうな声でながら、やっとの思いで返した。

「どうなんだよ」と、則昭は詰め寄ってくる。

「黙ってはいません」と、小春はもう一度頭を下げて言った。「今回、謝りましたのは、なんだか申し訳ないという気持ちがあったからです」

 長い沈黙があった。

 他の工員たちは、誰も助けてくれない。操業中の機械が、黄色灯を廻しながら自動運転に掛かっていた。

「おれのことを思って、申し訳ないという気持ちを持ってくれるのは、ありがたい」と、則昭はしみじみとした口調で言った。「だが、お前のやったことは、悪いことじゃない。だから、もっと堂々としていいんだ」

 胸のつかえが一気に下りていくのが分かった。小春は夢中で、則昭を見た。

「社長さん……」

 安堵感から洩れた言葉だった。あと少しの精神的揺さぶりがあれば、目から涙が零れそうである。

「お前に代行を任せたのは、約束ということもあろうが、第一は、素質があると見込んでのことだ。頼むからよ、一歩も引くな。社長というのは、怯んだらもうそこでお終いなんだ。従業員なんて引っ張るどころじゃない。逆に引っ張り返されて、それで何もなくなってしまう。威厳も、指導力も、立場も何もかもだ」

「……はい」

「まだ、お前には社長は無理だけれどよ」と、則昭は口許を掻きながら言った。「今回学んだことを大事にしてもらいたい。将来的に役に立つときがぜったいにくると思うからよ」

 気を溜めるなり、彼は気恥ずかしさを払拭して従業員を見渡した。

「言っておかなければいけないことがある」と、訓示のように言った。「おれは、警察に任意同行掛けられて、それで向こうに聴取掛けられた訳なんだが、だからといって、お前らからも疑われたら敵わん。はっきりしておくがよ、おれは何もやっていない。無関係だ」

「いや、社長。ぼくらが疑うわけないじゃないですか」ひよこ禿の那須が調子よく言った。 「度合いの問題だ」と、則昭は強気で言った。「ほんの少し疑わしいというのも気に入らん。おれは、真っ白なんだよ。……というより、疑われても仕方がない材料が揃いすぎているのは、確かなんだ。そこは、否定してはならんだろう。例の3Dプリンターは、事件に使われてしまったことはもはや確実になっているらしいし、今回起こった事件の被害者は、おれがかつて付き合っていた女だ。だから……それらについてだけは、受け容れなければいけないことなんだ」

 その時、自動操業中の機械の一つが停まって、自動停止のランプが点った。

「はっきり言えば、おれはもう事件に巻き込まれた男だ。お前たちもそうであるというぐらいに言っていいのかもしれん。となると、しばらくお互い疑心暗鬼の念と付き合わなくっちゃいけなくなるかもしれんが、そこは辛抱してもらいたい。おれは、自分が白であるということを、仕事に精いっぱい励むことで示したいと思っている。それを越えていければ、後はもう恐いものなしだ。おれらは、改めて仲間としてやっていけるはずだ」

「いよっ、社長。その心意気、ぼくらはどこまでもついて行きます!」囃し立てたのは、やはり那須だった。それに、追従する形で、拍手が起こった。小春もそれに乗っかかった。

 ところが、一人だけそれらに倣わない男がいた。細貝である。

 彼の沈黙に、則昭も気付いたようであった。

「細貝……お前、なんで、さっきから黙っているんだ? 気に食わないことがあったら、いまのうちに言ってくれよ」 

 盛り上がり掛けた場内が、一気に冷めた。細貝は、不機嫌な顔つきでじっと則昭を見ていた。

「このまま、何ごともなかったように仕事をするんですか?」と、彼は言った。

「どういうことだ」

「身の潔白をしっかり証明してからでも、遅くはないでしょう、そう言いたいんです。もちろん、おれは社長のことを信じていますよ。信じすぎているからこそ、今回のことが残念なんですよ。社長、おれらはいままで自分のためではなく、あなたのために働いてきた部分が大きくあるんです。だから、事件には無関心ではいられません。仕事に励むことで、自分の態度を示したい? 社長、恐れながら、それは間違ったことですと言っておきます」

 一気に、場内に険悪なムードが引き込まれた。この時、細貝の責め立てる攻撃的な雰囲気はなおも持続されていた。

「おいおい、細貝お前。それ以上言うと、おれが黙っていないぞ」と、島田が腕まくりをして言う。「いくらなんでも、社長が帰ってきた当日にこれはないだろ。お前には、恩義を感じる心がないのか?」

「心はある」と、細貝は威圧感のある目で、島田を睨め付ける。「あるからこそ、こうして攻めているんだろうが」

 彼の目には、溜め込んだ情念の塊が浮かんでいる。ぞっとするほどの底知れぬ暗い淵が、微かにながらのぞけていた。

 また、則昭に振り返って彼はつづけに掛かった。

「凶器に使用された銃が、うちの3Dプリンターを使って、作られたものだったんですよね? それについて、社長は、何か隠していることがあるんじゃないでしょうか?」

「何もないさ……何を隠すというんだ」

 則昭はすっかり呑まれている。思わぬ反発をくらって、気持ちが小さくなっているらしかった。

「銃のデータがここにあった上に、銃が製造されたとする事実関係があった……。つまり、ここで何度か銃がことあるごとに製造されていたということですよ。取引のようなことが行われていたとする事実関係があったのではないか……」

「てめえ、ふざけるなよ」

 島田が掴み掛かっていった。二人は絡み合って、足場に転がった。揉み合った後にチャンスを掴むなり、島田は何度も立て続けに細貝に拳を叩き込んだ。細貝もそれに対抗するべく拳を返すが、それらは防御も兼ねた消極的な返しでしかなかった。

「おい、止めろ」

 那須が取り成しに掛かり、彼の指示で、鵜飼があいだに入っていった。それでも、島田の拳は細貝の肉体を打ち付け続けた。

 この時、則昭は青い顔をして、茫然としていた。完全に自分を見失っている。小春はどうしていいか分からなかった。社長代行を務めた意地からして、ここは積極的に関わっていきたいところだったが、すでに出ていくタイミングを逸したように思われてならない。

 おたおた迷っているうちに、細貝と島田の取っ組み合いが終わった。島田が一方的に引く形だ。細貝は横倒しになったまま、自らの口許を押さえている。

「お前、今度社長を責めるようなことを言ってみろ。ただじゃすまんぞ!」島田は、悪態をつきながら去っていった。

 細貝は自分の足で立ち上がりに掛かった。殴られた箇所が痛むらしく、動きが弱々しい。鵜飼の手助けは、無視された。

「社長……」と、彼は三白眼を則昭に向けた。「いつかは、はっきりとさせて下さいよ。何も知らないはずがないんです。というより、社長がそれを打ち明けたとき、ここは終わってしまうんでしょうか」

「…………」

 則昭は口を固く閉ざしたまま、じっとうつむいていた。

 答えが得られないと分かると、見限るように目を伏せ、口を噤んだままに、細貝は外に出ていった。

「おい、どこに行くんだよ」                

 那須が太鼓腹を揺らしながら追い掛け、彼もまた場外へと消えていった。

 残されたのは、則昭と、小春、鵜飼の三人であった。どうすることもできないといった、重苦しい雰囲気が垂れ込めていた。

 小春は、則昭にすがりつきたい思いを、堪えていた。壊れて欲しくない環境がいつものように維持されるためには、黙っているのが一番のように思われていた。が、則昭は硬い顔をしたままに打ち沈んでいて、どうにも近寄りがたかった。目が合うなり、にっと不細工な微笑みを投げかけてきた。

「大丈夫だ」と、壊れそうな声で言った。

「社長……さん」

 彼はゆっくりと、うなずきに掛かった。

「問題ない、おれは、大丈夫だ」と、彼は繰り返した。「ここを閉じるつもりなんてない。おれは、社長だ。借金を返す義務と、従業員の面倒を見なければいけない義務があるんだ。それは、果たさなければいけない。どんなことがあっても、だ。だから、これしきのことで、へこたれてはいられない……おれは、大丈夫だ」

 明らかに無理をしている風情が、彼から感じられていた。

 小春は、その悲壮感を認めるなり、泣きそうになった。さっきは、感極まって目頭が熱くなっていたというのに、今度はみじめに泣きそうになっている。今日の自分は、本当に気持ちが不安定だ。これ以上の追い打ちがないことを祈りたいところだったが、もし追加で起ころうものなら、その時はどうにかなってしまうのかもしれなかった。

「なんて顔をしている」と、則昭は鵜飼をしかり飛ばした。「このおれが、約束を破ったことがあるか? どのようなことだって、守るさ。こうだと決めたら、最後までやる男だ。そんなことは、てめえにも分かっていることじゃねえか」

 強がりばかりを顔に満たしたまま背を向け、彼は出入り口に向かって行こうとした。鵜飼が慌てて声を掛けに入った。

「社長、信じていますよ。わたしは……社長がいないと、何もできない男です。ですから、社長がすべてなんです」

 則昭は背中を向けたまま、足を停めていた。振り返った彼は、強張った気配が残ったままに、それでも健気な強気をたたえていた。

「信じてくれ。何度も言うが、ここを潰すつもりはねえ。没収されたままのプリンターがしばらくのあいだ、使えないなど条件は厳しいがよ、何とかしてみせるさ」

 それからどういう訳か、彼は苦しそうな顔つきで、うつむきに掛かった。いつの間にか、額には玉汗が浮かんでいた。

 もしかして、いましがた無理な約束をしてしまったとでも思っているのだろうか。いや、それとはちがう種類の苦しみだ。機微に敏い小春にはすぐさまそのことが読めた。この状況と、同じものを想起させる思い出が彼の中にあり、それがいま彼を苦しめているに違いなかった。

 則昭の過去――

 是非とも、紐解き、その中身を知りたかった。そういえば、足立金属の成り立ちなど、これまでに則昭から一言も聞いたことがない。もしかしたら社長代行を請け負う前に、歴史を知ることが必要だったのではないか。それぐらいに、足立金属が歩んできた履歴というのは大切なもののはずだ。

「さっきのことなんだがな」と、彼は目も合わせないままに、口を切った。苦しそうな気配ばかりがある。「おれには、隠していることがあるんだ。細貝の要請どおり、いつかは明らかにしなければいけない。そのことは、お前たちに言っておく。お前たちだけに、だ」

「社長……」と、鵜飼は帽子を手に握りしめた。「それとは、もしや……北山の話でしょうか?」

 鵜飼はいつもよりもおどおどとする気配が強まっていた。それは、ここでは禁忌に觝触する話らしかった。

「いや、ちがう」と、則昭は低い調子で言う。「そのこともあるんだがな……ここで言っているのは、それではない。おれ自身に関することだ。もしかしたら今回連れてこられた警察に言うべきことだったのかもしれない。しかし、おれは言わなかった。なぜか? それは、おれでもよく分からないことだ。まだ、抵抗感を持っているからかもしれない。いや、その事実は、そのうち自然と、そう、近いうちに自然と明らかになることなんだ。だから、あえて言うまでもないことである、という感覚がおれの中にはあったんだよ。だから、口にしなかった」

 額には新たに浮かんだ脂ぎった光があった。そんな状態になるまでに、彼が隠している事実とはいったいなんなのか。焦れったい気持ちが小春の中でいい加減高まっていた。

 すぐにでも、彼にそのことを問い質し、お互い楽になりたかった。しかし、それにしても彼の顔は苦しそうだった。追いつめるのは酷で、小春にはできそうになかった。思わず、感情の板挟みになって、予期せず涙が溢れ出てきた。

「おい、泣くな」と、則昭が言った。「不安になる必要はない。とくに問題ないことなんだ。おれらは明日からいつものように出勤して、ちゃんとやっていける。これまでどおりというわけにはいかないだろうが、苦しい生活はそんなにつづかない。それに、隠していることというのは、悪い方に転がっていくそんな疚しいものなんかじゃないはずだから、もう少し気を軽く持ってもらっていいはずだ」

 配慮の籠もったその一言に少しは気持ちが楽になったのだったが、それでもなかなか感情を制御するというまでには至らない。

「お嬢さん」と、鵜飼が背中に手を当てて慰めに掛かってきた。「社長を信じましょう。それしかないですよ。わたしが保証しますよ。この落ち込んだ状況から一気に逆転してくれるって」

 小春はうんうんうなずいて、彼に同意を示した。

「そうします。社長さんを信じます」言って、則昭をしっかり見た。「それで、いいんですよね? 応えてくれるんですよね?」

 彼はゆっくりとうなずいた。

 ある種の確信を持った、返事だった。

 何も言わないままに、今度こそ、工場から出て行った。姿が消えていくその一瞬前に、人影とぶつかり、二人はお互いに謝った。だが、則昭のほうは、まだ気持ちを立て直したばかりだったためか、ぎこちない挨拶となっていた。ほとんど他人行儀なありさまで相手から離れていく。

 その姿を、なにかしらといった風情で、その男は汗を拭きながら眺めていた。フレームの太い眼鏡を装着した、いかにも生真面目そうな男。顔から発される明るさを兼ねた勢いは、いかにも人当たりの良さを示しているようだった。事実、彼は足立金属唯一の営業担当をしている、大黒であった。

 小春たちの姿に気付くと、工場内にビジネスバッグを提げたままに、やってきた。

「なんだか、工場内静かですね」と、彼はのんびりとした口調で言った。「いま、休憩中でしたっけ?」

 普段から、ずっと営業回りに明け暮れている彼が、いま工場内であったことなど把握しているはずもなかった。彼としても、仕事外なことだけに、興味などはあろうはずもなく、その実、無関心そうな表情をしていた。

「いやあ、それにしても暑いですね」と、場違いに言って、のこのこと場内の作業場まで入ってくる。毛深い黒く焼けた腕を晒し、ぼりぼりと掻きむしっている。営業回りのきつさを表すかのように、掻いた汗が、首周りで結晶化している。それを擦ったためなのか、赤くなった箇所が首筋に認められた。

 小春の表情に気付くなり、じっと食い入るように見てきた。

「おや、叱られていたんですか?」と、彼は独自の解釈を口にする。「だから、なんとなくさっきの社長、やたらと険悪なムードだったんですね……」

 それでも、彼の関心は低かったようで、太い首を持参のタオルで押さえながら、何ごともなかったようにビジネス鞄を解放し、中に詰められていた書類を整理しはじめた。

「……と、ここ数日ずっと、ここに帰ってきていなかったわけですから、足立社長がずっといなかったことすら、知らないんじゃないでしょうか?」と、鵜飼が大黒に言った。

「もちろん、把握していますよ」と、彼は振り返りもせずに言った。「警察に呼ばれていたんですよね? さっきそこで会ったから、ちょっと事情を聞こうかと思ったんですがね、なんだかさっと行ってしまって、完全にチャンスを見逃しました。と、見逃したと言えば、ここ数日の営業は、取りこぼしばかりでひどいですよ。まあ、新規開拓だから、その程度は深刻ではないんでしょうが。全部、風評ですよ、どうもうちが事件に関わっているんじゃないかって、デマを吹聴して回っている輩がいるようで」

「それって、どういうことなんです」と、小春は涙の気配を断ち切って言った。

「多分、同業者のいやがらせでしょう。まあ、こういうことはよくあるんですよ。信頼関係が築けていないところは、そういう情報が端からガセだと分かっていたところで、妙な噂が流れている相手に警戒を持ってしまう……。うちは、少しずつ地元から追いつめられていますよ」

「もしかしたら、誰か、身に覚えがある人が動いているんじゃないでしょうか?」

「今日のお嬢さんは、やけに強気な感じがありますね。どうしたんです?」と、大黒は、眼をぱちくりさせて問う。

「実は……」と、鵜飼がおずおずと言った。「お嬢さんは、足立社長不在時の社長代行を務めていたんです。ですから――」

「ああ、そうだったんですか。それは失礼」と、大黒は眼鏡を直して言った。「やはり、次期社長としてあなたは扱われているんですね。いや、そういう素質がある人は羨ましい……と、そんな事はさておき、身に覚えがある人物が動いているというのは、まずないですよ。同業者というのは、えてしてそのようなものです。他社を蹴落とし、自分の売り上げを伸ばす――そうでもしない限りには、生き残っていけないところも多いんです」

 彼は、さして感情を表に出すようなことはせずに言っていた。その事実について、業界の慣例と思っているに過ぎないのだろう。

「それでも、なんだか放っておけないことです。こういうところに、落とし穴があったりするわけで……」小春は、きっと顔に力をこめた。「今度その手の情報に出会しましたら、誰が発信しているのか、特定してもらえませんか?」

 彼は苦い顔になった。

「そういうのは、苦手ですね……。だいいち、うちだって、そういう風に他社を出し抜いて仕事を勝ち取ってきたというような、そんな過去があるんです」

 小春は、ぽかんとした。

「ここにも、そういう過去……があったんですか?」

「いえ、今のは忘れて下さいよ」と、彼は鵜飼を気にしながら言った。何やらの合図を受けているのかもしれなかったが、小春は鵜飼の顔を確かめることはしなかった。

「とにかく」と、彼は仕切り直して言った。「情報を発信している人物が特定できるものなら、そうします。その時は、連絡を致しますよ。また、お会いしたその時に、話をしましょう。特定できたらの、話ですからね? 実際連絡を寄越すかどうかは、期待しない方がいいように思います。と、今日は、足立社長に話があったのです。わたしはこれで」

 彼はビジネスバッグを携えて、出ていった。

 鵜飼と二人きりになるとなんだか、どっぷりとした疲労感が身体全体にのし掛かった。

「……仕事熱心なんですよ、彼は。だから、あまり気にしないで下さい」と、鵜飼の方から、声が掛かった。

「初対面でもないですから、大丈夫ですよ」と、努めて明るく小春は返した。「こんな時でも、一番に落ちついているんだなって、そのことに少し驚いただけです」

「大黒さんは、なんでも合理的に行動する男ですからね」と、鵜飼は言う。「ここに来たときから、ずっとそうですよ。なんでも計算的に行動するんです。女性と交際しないことだって、合理的な計算に合わないからだって、いつだかに本人が言っていましたぐらいですから、こういうことは生活の隅々まで及ぶんでしょうねえ。あ、この手のことを伺ったのは、ずいぶんと前のことですから、ある意味今は違う場合もあるか、と……」

 そのことをかつて鵜飼に打ち明けたのは、彼自身も独り身だからだろう。二人は、各々のスタンスを顧みて、これからどうするか真剣に語り合った時期があったに違いなかった。

「結婚されていないどころか、自分から交際を断っていたんですね、大黒さんは」と、小春は彼のことをなんとなく考えながら言った。「それにしても、なんだかよく分からない考え方していますね」

「とくに、感情的なものを持たないで何でもやっているということですよ。だからこそ、割り切った付き合いが多い、営業なんかが向いていたりするんじゃないでしょうか?」

「そうなんですか……?」

 その日、午後からの操業は則昭の指示によって中止にされ、早くに切り上げられた。受注が止まっていたわけではなく、社長判断によるものだった。

 

     2

 

 講習開催のお達しが届いたのは、その日の朝だった。今日の昼頃に、市内の小立野一丁目にある、県警直轄の警察学校まで集まるように、ということだった。

 頃合いの時間になるのを待ってから、門脇は野武を伴ってそちらまで出かけていった。 正門玄関をくぐると、捜査員関係者の何人かと顔を合わせた。看板があがっており、射撃演習場にまで集まるよう指示が入っている。何もかもが懐かしい施設だった。そこは、警察官として初等教育を受けた所であった。初めて銃を握った場所でもある。その時に持った期待の混じった興奮の感情は、いまでも忘れていない。ここに立ち入っただけで、その熱がまざまざと思い出される。

「いったい、どういう講習が開かれるというんでしょうね」野武は、さして興味がなさそうな口振りで言った。思った以上に人が多く集まっているだけに、調子が整わないのかもしれない。

「わからん。とにかく、実用性のある内容の講習が行われるにちがいない。そう信じるとするよ」

 演習場の入口には、関係者と確認する受付係の警察官が二名いた。門脇はそのうちの一人に、身分証を示してから中に入っていった。

 射撃台に区切られて、長い通路が壁に面して続いている。その対面壁まで、二十メートルは離れており、仕切り板に区切られて、射撃用の的が横一列に並んでいる。今日のために準備していたのか、いずれも新しい仕様に取り換えられていた。

 そんなことよりも、射撃台の中央に銃が並べられているのが、目についた。四挺ある銃は、いずれも材質が異なっている。その一方で、形状はすべて同じだった。例の事件の凶器に使用された、コルト社製1911Aをモデルにした3Dプリント銃と同一ではないにしても、同型機であるようだ。

 一時間もすると、研究衣をまとった老年の男たちがやってきて、それらの前に立った。

 腕時計を確認してから、一先ず集まった捜査関係者に形式的な礼をした。

「一分二分早いですが、まあ関係者はそろったということですので、講習のほうはじめたいと思います」

 口ひげの生やした、大学病院の幹部といったような風体の男であった。肩書きは、科学捜査研究所の化学科研究センター所長。始まった説明の舌周りの早さが、この男の知性のほどを示していた。

 世界最初に制作が報告された3Dプリント銃、リベレーターは、プラスティックを固めて作る、インクジェット方式によるもので、九つの部品からなる仕様であった。唯一、調達しなければいけない部品があり、それらは発火装置に関するものであった。撃針(ファイアリング・ピン)

と呼ばれるものだ。スプリングの圧力が掛かった撃鉄のエネルギーを雷管に伝えるもので、火器の爆破装置の主要部品というべきものであった。

「3Dプリント銃の特質上、この部品だけが別に用意されなければいけない」と、彼はリベレーターの模型図を示しながら言う。「というのも、雷管を発火させるためには、強いエネルギーが必要だからだ。プラスティック製の撃針では、不十分であるといえる。この撃針が短かければ短いほど、撃鉄はフルストロークで降ろさなければ発火しないといういわゆる空射撃が起こってしまう。今回の3Dプリント銃も、短い撃鉄が採用されていたんだ。これは、部品調達に選択肢がなかったということではなく、モデルとなったコルト社製1911Aのそれを採用した結果だ。つまり、犯人は確実に1911Aの図面を持っているか、あるいはそれそのものを所有しているといえる」

 会場が、にわかにざわついた。

 3Dプリント銃のほかに、実物の拳銃を所有していると聞けば、その人物の危険度はずっとグレードが上がることになるから、これは動揺を与えて当然というべきだった。

「どうでしょうか?」と、野武が門脇の耳にこそっと言う。「見解の通り、今回の犯人が、本物のコルトを持っていたりする可能性はありますか」

「おれは、ないと踏んでいるが」

 彼が背後で、軽くうなずくのが分かった。「自分も同じです」

「あえていうなら、図面というか、3Dモデリングデータは持っていると思うんだ」

「別途必要な、撃針の部分だけ、別に製造するというパターンを採用しているということなんですね? その線で見ていけば、例の足立金属以外の外部筋から調達してきているという可能性が出てくることになります。協力者による弾の提供とは別の問題として考えるべき事ですよ、これは」                    

「外から調達してきていることは間違いない」と、門脇は言う。「協力者を別にすると、こういう考え方ができる。3Dプリント銃だけを足立金属所有の機で製造したのは、あえてそこで作ったと見せかけ、そこにたずさわる人間を事件の関係者に仕立て上げようとした

ということだ。銃というのは、どうしても本体だけに注目しがちになる。撃針のような重要な部品が外から調達してきたところで、そこで製造された以上は、それだって何かしらの方法でその場所で作られているのだと思い込んでしまう。……これを犯人は狙っていたと思うんだ」

「なるほど」と、彼は言った。「では、撃針の部分にこそ注目すべきなんですね」

「ちょっと、聞いてみようか」と、門脇は言って、挙手した。それでもって、熱を持った議場がぴたり、と呼吸を止めたように静まり返った。

「なにかね?」と、センター所長が言った。

「質問があるのです」

「構わない、聞こう。ただ、時間が押している。短くお願いしたい」

 門脇は承諾のうなずきを示してから、切り出した。

「今回の事件で使用された3Dプリント銃の撃針のことです。材質のほうが知りたいのです」

「チタニウムだが?」

「これは、一般的な材質でしょうか?」

「一般的に言えば、鋼鉄製が普通だ。だが、チタニウムを採用している場合も多い。軽く、強度も充分だ。フルストローク・タイプの今回の銃にも充分いけるだろう」

「それでは、チタニウムというのは、3Dプリンターで素材として使える種類の金属なのかどうか、お伺いしたく思います」

 彼の顔つきが硬くなった。

 門脇が考えている事を、その時点で察したらしかった。

「DMTテクノロジーというものを採用すればいい」と、彼は数拍遅れてから言った。「高出力レーザーでチタニウムの粉末金属を溶解させつつ、積層させていくラピッドプロトタイピングシステムだ。3Dデータから直截、現物を制作することができる。もちろん、金属だからといって、複雑な形状まで不可能であると舐めないほうがいい。精度はかなり高いんだ。機械システムは、レーザーの照射から、ヘッドの材料供給量まですべて同時に監視ができる高い能力を持っている」

 彼は自分の中で昂ぶった熱が冷めぬうちにつづけて言った。

「しかもだよ、一般的な金属用プリンターでは特殊に加工した金属粉末を使用しなければいけないが、DMT技術の場合は、産業用の粗末な仕様で充分なんだ。だから、手安く済むというメリットもある……と、ここまで語った所で、君の中の確信は高まったのかね?」

「いくつかの疑問がまた出てきました」と、門脇は言った。「それとは、機械本体のことです。今日、そちらに用意された機器のようなサイズのタイプとはまた違ったものということでいいのでしょうか」

 彼の背後にあった、3Dプリンターに注目が集まった。レーザープリンターにしか見えない小型機で、特に目新しく感じられる箇所はない。

「これとはまったくちがったものだ」と、彼はプリンターに触れながら言った。「それこそ、一般の工場に導入されるような大型機を想像してもらってけっこうだ。いや、プレハブ小屋に収まる程度の大きさだったら、それほどでもないかもしれない。ともかく、それぐらいになればモニターと、3Dデータの自動スライス機能が充実した、専用ソフトが付属した本格仕様になるのはいうまでもない」

 そうした機械を導入している市内近辺の会社といえば、かなり限られるはずだった。そこを割り出せば、あるいはすぐさま、捜査解決の道筋がひらけるのかもしれない。門脇はその線にいまから期待を持った。

「分かりました。聞きたかったことは、すべて解決しました。ありがとうございました」 門脇は言って、身を引いた。センター所長は顔色をうかがうようにして見ていた。事情を問い詰めたいらしい雰囲気があった。が、突っ込むと時間がかかることになると見込んだのか、すぐさま何事もなかったように説明に戻った。

「君たちに報告しなければいけないことがある」と、声を高くして言った。「それとは、例の事件についての鑑定、追加報告だ。御存じ、現場からは、3Dプリント銃が出てきたわけなのだが、それは単発発射式でしかなかった。使用された弾は、5ACP弾の改良型。これは、コルト社製の現行モデル、一般銃に採用されるタイプの一つ古い型だ。改良を加えることで、弾丸の殺傷能力を微弱ながら上げることに成功している。注目してもらいたいのは、なぜこの銃が、現場に放置されたのかという問題だ」

 センター所長は、息を吸い込んでから言った。

「銃が単発式であるというのは、犯人には分かっていたはずだ。となれば、使い捨て仕様であったということであって、犯人としてもそのつもりでいたということになる。事実、現場に捨てられていたのだから、流れとしては予定どおりに行動した、と考えられる。しかし、捨てていくという行為は、遺留品を残すという結果になるわけで、犯人としては自分の首を絞めるような行為でしかない。ここに矛盾がある。予定どおりに捨てたことで、自分の首を絞める結果を招いている……それは、つまるところ違う事実が二つ混じっていることを意味しているはずだ」

 この矛盾には、誰しもが気付いていた。

 が、犯人像がはっきりと絞りきれないために、問題を棚上げにしていた。

「そこで、現場をもう一度思いだしてもらいたいのだが……」と、彼は用意していた写真を取りだした。

 五枚の写真だった。

 鑑識が撮った、現場証拠写真だ。科捜研に回された分を、彼も検分したのであろう。写っているのは、畳を拡大したような景色だった。

 現場の畳の窪みに散らばっていた、固形物群――

 門脇もずっとそれが何なのか気になっていたものだ。

「それが、これだ」と、写真を指差した後に、遺留資料用ビニールに収めた固形物を取り上げた。「これは、鑑定したところ、例の3Dプリント銃と同じ成分であることが分かった。つまり、銃の破片が散らばっていたということだ」

「現場に残されていた銃の破片なんですね?」と、捜査員の一人が言った。

「それがちがうんだ」と、彼は言った。「例の銃は、欠けている箇所はなかった。発射したことで衝撃を受けた部分はあるが、あと一発撃てるというだけの体力は残されたままだった。つまり、致命的な欠損はない、と」

「それでは、それは……?」

「おそらく、別の銃の破片ではないかと思われる」

 これは、恐るべき報告だった。

 銃が二挺用意されていたということなのだ。この事実は、現場状況をもう一度組み立て直さなければいけないだけのものであった。

「こうした報告は、早い内にださなければいけないのは分かっていた」と、彼は神妙な顔つきで言う。「が、3Dプリント銃というのは、内部までちゃんと作られた、精密なものだ。だから、報告に上げるまでには、部品の一つ一つを丹念に精査しなければいけなかったのだ。時間は掛かったが、確かな情報を届けられたということには、わたしは満足している」

 責任をそれとなくかわす彼に対し、非難的な見方をしている者は少ないようだ。

 むしろ、二挺の拳銃が用意されていたという事実を暴いたことについて、功績をたたえる気持ちのほうが強くあるようだった。それは、門脇も同じ思いであった。というのも、門脇自身、その見方はまるでなかったからだ。

「その固形物を遺留品として押収したのは、自分です」と、門脇は進み出た。「はっきり申し上げますと、自分もそれを拾い上げていながら、銃の破片であるとはまるで気付きませんでした。色がまるで異なっていたからです。別のなにかが、ここで零れた……それぐらいにしか思わなかったのです。ところがどうでしょう、センター所長は、同じ材質と口にしているではありませんか。これは、どういうことなのでしょう?」

「色が違ったのは、熱が加わった結果なのだと、わたしは思っている」と、彼は言った。「熱が加わったということは、火薬爆発の衝撃を受けたということだ。それしか考えられない。つまり、この事実から言えるのは、別の銃があり、そちらのほうが凶器にされていたということなんだ」

 落ち着かない動きをする者が多くなっていた。野武も眉間に深い皺をたたえて、深い思案に暮れていた。

「つまり、隠された計画性があったということなんですね」と、門脇は言った。「二挺の銃を用意するあたり、殺意は本物であったと指摘しなければいけません。何より、計画中の工作は、我々を意図的に誘導し、翻弄しようとするものです。相手は、かなりの強者なのでしょう」

「3Dプリント銃を素材に選んだ時点で、すでに計画性があることは分かっていたことだよ」と、彼はすぐさま返してきた。「それでなんだが、暴発の状況について語らなければいけない。硝煙反応を確認しているわけだが、そうした固形物ばかりではなく、置き去りにされた3Dプリント銃からもちゃんと反応がでていることを確認している。丹念に調べた所、銃筒の内側深部に、火薬爆発の痕があった。これは、すでに大勢が肉眼で観察しているとおりだ」

「二挺の銃が同時に凶器になったということなのでしょうか?」

「片方だけだろう」と、彼は目をつぶって言った。「現場に残された方は、事件当日には使用されなかったと見ている」

 つまり、使用された凶器は、散らばった固形物の原形である銃、ただ一つであるということだ。

 頭を整理しているうちに、門脇はもしや、という閃きが起こった。

「暴発があったんですか?」

 彼の目が開かれた。

「そうだと思っている。暴発……それがあったのだろう。銃本体から破片が零れるほどの爆発が起こったということだ。それが、固形物の真実だ。そして、犯人としてはそのことを予想していたのだろう。だから、破片を拾い集めた上で、あらかじめ用意していた別の銃を置き去りにしていったのだ」

「そういうからくりですか、なるほど」と、門脇は言った。「置き去りにした銃に撃った痕が残されていたのは、これだって作為ということになりましょうか。あらかじめ試射を繰り返していたのを持ち込んだのです。でも、なぜこのようなことをしたのかが、よく分かりませんね。犯人は自らが製造した銃の堅固さの程を示したかったのでしょうか?」

「計画性を悟らせたくなかったという考えもあります」と、野武が言った。「あくまで、これは感情にまかせて実行されたものだと思わせたかったのではないでしょうか」

「ある意味、どちらも正しいと思うよ」と、センター所長は言う。「だが、わたしとしては銃の堅固さを示したかったという方が、正しく言えるのだと思う。暴発だ。これを、犯人は悟られたくなかったのではないか。なぜか、となれば、暴発にはあらゆる証拠を残す恐れがあるからな。それは、手、だ」

 彼は自分の手を振りかざして、示した。

 門脇は、彼の言わんとすることが読めた。

「火傷、ですね」

「そういうことだ」と、彼は言った。「暴発すれば当然、火薬の熱が手に降りかかる。下手をすれば、弾丸が思わぬ方に弾けて、身の危険にまで及ぶ。実は、今回の3Dプリント銃でも、薬室の役目を兼ねた、銃身プロテクトカバーなる部品が追加されているのを確認しているわけだが、これが備わっているということは、暴発の危険があることの対策を念入りに実施していると考えるべきなんだ。もっといえば、暴発が起こるものとしてそれは装着されているとも見なせる」

「となれば、3Dプリント銃というのは、一般的に言いまして、暴発の恐れが高いんですね?」

「比較的高いと言っていい。それは世界最初の3Dプリント銃であるリベレーターが制作されたときの第一課題でもあったんだ。火薬爆発に耐えうるだけの、頑丈さ。安全度……。当然、それらについて言えば、精度上、単発式でしかないのは言うまでもない」

「では、置き去りにされたものは、けっこうな代物だったのですね。まだ、体力が残されているということでしたし」

「それは、その造りとしてみれば、脅威というべきだろう」と、彼は言った。「おそらくだが、何挺も製造して、それぞれ試したものの中で、生き残ったやつが採用されたのではないか」

「つまり、3Dプリント銃は、同じデータから作り出したものでも、皆造りが均一というわけではないんですね?」

「個性があるのは、やむを得ない」と、彼は言った。「それに、銃製造に使用された樹脂であるABSは、かなり成分のよろしくないものだと分かっている。少なくとも銃を製造するには、不適な素材だろう」

 センター所長はここで顔を改め直して、背後に待機していた所員に何やら指示を加え、準備に取りかかった。

「えー、あなた方をここにお呼びした理由はすでに分かっていると思います」と、彼は全体を俯瞰した上で、畏まった風に言った。「これから、3Dプリント銃の試射を御覧いただきたいと思うのです。いましがた、不安定なものであるということが論議されただけに、不安になられた方がいらっしゃるでしょう? 今回使用されるのは、しっかり安全が確認された3Dデータの銃です。ですから、暴発というような不測の事態は起こりません」

 あらかじめ約束を取りつけていたらしく、一人の警察官が耳当てをした状態で、背後から現れた。手に持っているのは、3Dプリント銃だ。工業製品としては完成品クラスと言っていいだろう。暴発防止のプロテクトカバーが銃身中央に被されていた。コルトの1911Aモデルタイプよりも、一回り大きい仕様だ。

「一応、彼には厚手のグローブを装着してもらっている」と、所長が紹介する。

 たしかに、警察官の手にはグローブが装着されていた。内側に特殊カーボンを縫い込んだものだろう。グローブの膨らみ具合からして、その下にまだ手袋を装着しているようであった。そればかりではない。目を保護するゴーグルに、軽量化された防弾チョッキが装備されている。さらには、それを見届ける講習生の安全確保のために、ポリカーボネイト製の透明板が、試射位置周囲に立てられていた。

 警察官が、発射の準備に入った。

「それでは、皆さん、試射の模様を見届けてもらいます」と、所長が五メートルは後退して、言った。「凶器と同じ、単発式の銃です。どれほどの衝撃が、銃本体に掛かるのか、それを観察していただきたく思います」

 沈黙が落ちた。

 誰ひとり、声を立てない。息すらも止めてしまったように静かだ。所長のうなずきを得ると、警察官は首肯でもって返した。的に向かって、照準を構える。扱いにくそうな仕様であったが、銃は彼の手になじんで見えた。

 撃鉄が起こされ、トリガーに掛けられた指に力が入る。一気に引いた。フルストロークだ。銃筒から赤い炎が噴き出ると同時に、弾丸は発射された。強い衝撃が後ろに掛かって警察官の手がぶれた。が、それはすぐさま復元された。

 硝煙が濛々と煙るさなか、警察官はゆっくりと手を下ろし、構えの姿勢を解いた。銃は無事だ。暴発で、破損するというようなことは起こっていない。破片だって、周囲には落ちていなかった。

「おっと、皆さん。まだ終わっていませんよ」と、所長が前に出て言う。「これからが大事なんです。いまから撃った銃をですね、解体して、その中身を見てもらおうと思うのです」

 所長の手にわたった銃が、待機していた職員の手に流れ、この講習のために用意された、円形鋸の備わったカッターマシンに掛けられた。プラスティック製だけに、それはあっさりとスライス形式に二等分された。分かりやすい銃内部の断面が露わになっていた。センター所長は、そのうちの一方を取り上げて講習生に示した。

「ここが、いわゆる弾が収まる位置です。そして撃針の衝撃を受け、雷管が起爆する場所でもあります」

 放射熱が瞬間的に弾けたことを示す、変色が認められた。内部の空洞部分に端から端まで熱放射が貫き抜けていったという具合だ。また、一部の補強材には変形があった。衝撃はかなりの程度であったということが分かった。銃に掛かる負荷が分かりやすい形で表れた模様といってよかった。

「はっきり言いますと、この銃は安全な設計です。何度も試行錯誤を繰り返した末に、一般の銃と同じだけの安全度にまで高められたものです。我らが、現在制作した3Dプリント銃のうちでもっとも堅固な仕様と言っていいでしょう。それで、凶器に使われた方なんですが、この銃の安全度の、五分の一以下というのが、自分の見解なんです。暴発が高い確率で起こるということです」

 凶器の銃について、安全度の高い3Dデータが使用されなかったのは、そうしたデータを手にする機会がなかったのではなく、妥協して既存の一時代古いものを選択したためだろう。これは、安く手に入るという点に重きを置いた結果だ。一方でその場合、在庫処理品扱いといった粗悪なデータのために、現行の流通品よりも精度がずっと劣るものとなるのは避けられないことだった。

「講習は、こうした3Dプリント銃の欠点を見ていくためでした。御覧のように、火薬爆発について言えば、かなり銃本体に衝撃が掛かることが分かったと思います」と、センター所長は言って、試射した警察官を見やる。「問う必要もなさそうですが、ここはあえて聞いてみましょう。一般の銃と比較してどうでしたか?」

「かなり、衝撃が襲い掛かる感じがあります」と、彼は言った。「火薬爆発を銃そのものがしっかり押さえ切れていないといった感じです。実は、これを試す前にも何度か撃っていたわけなんですが……今回のこれが一番、衝撃的だったように思えます」

 暴発に至る、感触のようなものを掴んでいたということでいい。やはり、3Dプリント銃を使用することのリスクは、かなり高いと言えた。金属製ではないだけに、構造上の問題が大きく存在している。

 関係者誘導による、質疑応答の時間に入った。門脇と野武はその中に加わらず、ただじっと見守っていた。特に、有用性のある情報の交換は行われなかった。

「このように衝撃性に弱いということが分かったと思います」と、センター所長がまとめに掛かった。「ここで注意したいのが、爆発事故と、暴発というのは区別するべきものだということです。衝撃性に弱いことが、爆発事故を生み出しやすいということにはなりません。そもそも、弾丸の中に装填されたガンパウダーは推進薬という程度の火薬力しかありません。銃が吹き飛ぶぐらいの破裂が起こるのは、銃筒の中にみる密閉空間が誘発する、異常高圧現象が引き起こされたときぐらいでしょうか。全体が爆発するぐらいの衝撃となれば、弾倉の弾に誘爆し、一気に弾けた時でしょう。ちょうど、グリップに弾倉があるわけですから、手が吹き飛ぶ事故が起こるわけです」

 講習生は、みな一言も洩らすまいといった風情で真剣に聞き入っていた。

「ところが、3Dプリント銃は、条件がまるで違います」と、彼は手振りを交えて言った。「単発式ですから、弾倉そのものが空洞なんです。誘爆の危険がまるでない。また、不発による弾の目づまりで爆発するという危険だってないのです。つまり、一発の弾に込められた推進薬の爆発力に耐えられればそれでいいわけです」

 門脇は、二等分にされた3Dプリント銃の断面を改めて見やった。弾倉部分はくり抜かれたかのように綺麗に空洞で、その上から補強材を差し込んでは、火薬爆発の衝撃の盾をいくつも作っている。これは、全体の強度を上げるための補強材でもあるはずだった。

 しかし、それでも銃は火薬の爆発力に耐えられるかどうかの危うい線にあるのだ。プラスティック製というのは、それだけ銃として不向きな素材であるということだ。センター所長は、講習でもって、このことを一番に伝えたいに違いなかった。

「それでは、暴発というのは何かと言いますと……」と、彼は思案げに言った。「銃の所持者が意図しない形で発射されることを言います。また、そうした事による不本意な怪我を負うことを指します。3Dプリント銃にこの手の危険があるのは、全体の強度や、仕組みに問題があるからです。何より、強度の低いパーツで組み立てなければいけないという点

には、厳しいものがあります。その他……どうしても、撃針をはじめとする発火装置だけは金属製にこだわらなければいけない。ですから、それを装着するために、組み立て式にしなければいけない。結果、全体の強度を設計努力で底上げしても足りない構造的な脆さが生まれてしまうわけです。さらに言えば、単発式設計なだけに、排莢口の付近が未完全な造りとなってしまうことも挙げておくとしましょうか。使い捨てのつもりで製造するならば、排莢口などはいらないと思われがちですが、やはり圧力の関係で、これは必要なものなのです。つまり、3Dプリント銃において、暴発事故は避けて通れない問題だという訳です」

 講習が終局に入っていることを示すように、準備人たちがこそこそと、後片付けに掛かっていた。

「将来的には、プラスティックに代わる、強度の確かな材質が3Dプリンターの資材に採用されるはずです」と、彼は生真面目に言った。「いつの日か、粉末金属による3Dプリント銃と同等か、それ以上のものが出てくるということです。その時、3Dプリント銃は、暴発の危険が抑制され、一般の銃と同じだけの安全性が得られることになります。そう遠くない日に、これは実現されるのでしょう。3Dプリンターというのは、それが約束されるだけ多くのマーケットに注目されているものですから、この時点ではっきりと申し上げることができます。多くの素材が試され、そこからマルチ化していくはずなのです」

 講習は、それから十分して終了となった。3Dプリント銃についての知識を得たいとする捜査員は多いようで、今回、講習用に製造された銃に寄り集まって、いつまでもその模様を検分に掛かっていた。

 

     3

 

「分かったことが、なにかあったんですか?」野武は、整理がつかない思案の答えを求めるように話しかけてきた。

「いろいろとある」と、門脇は言った。「見えていなかったことが、3Dプリント銃の構造を知ったところで見えてきた」

 二人は今、石川県警本部のロビー、パブリックスペースにいた。捜査本部からの使いとして小用を済ましてきたのだったが、現地に帰るまでには報告書の原案をまとめなければいけなかった。

「たとえば」と、門脇は言った。「構造上、技術、安全の問題からして単発式を選択せざるを得ないという事実を掴んだのは大きい。そして、センター所長が、現場に置き去りにされた銃について、こう言っていたのを思い出す。――何挺も製造して、それぞれ試したものの中で、強度が維持されたものが採用されたのではないか。これが事実ならば、あるいは犯人はかなりの数の銃を製造し、所有しているということになってくるわけなんだが、ここで矛盾があることに気付いたんだ」

「どういう矛盾です?」

 彼は前のめりになって、訊いてきた。

「分からないか?」と、門脇は言った。「例の置き去りにされた銃だ。それを構成しているプラスティック成分は、足立金属の3DプリンターのABSの成分と一致したということだったんだ。つまり、たくさん製造しているということは、ABSの供給量について管理している則昭が分からなかったということはあり得ない」

「あっ」と、野武は驚いた声を上げた。「そういえば、そうですね。そうなります……。

それでいったい何挺製造していたのかとなってきますが、置き去りの銃と、例の固形物の銃……この二つは、足立金属所有のプリンター仕様のABSと同じ成分であったわけですから、少なくとも二挺分は、あのプリンターから製造されたとなってきます。これだけは一先ず、確定ということでいいでしょう」

「少なくとも二挺……そこから考えてみるとしよう」と、門脇は指で二を示しながら言う。「一挺分の供給量が減っても、分からないかもしれない。二挺……これも、分からない可能性が高い。だが、飛び越えて五挺六挺となれば、さすがに分からなかったというのはおかしいとなってくるだろうな」

「低く見積もりまして三挺ほどが、ボーダー・ラインですか?」

「結果、そのラインに落ち着いてこよう」門脇はうなずいて言った。

「仮に、例のプリンターで三挺の銃が足立則昭氏の知らないうちに製造されたとします。そのうちの一挺は現場に置き去りにする用で、一挺は、殺害用……もう一挺は、予備品となりましょうか」

「現場に置き去りにする用の銃については、一発発射していたということにしておかなければいけないから、山の中か、どこか人のこないところで試射を実行したはずだ。それで暴発するかどうか……ということなんだが、とにかく、当日までにはしなかったものを用意できたことから、一応暴発はせずに成功したんだ。一発でできたのか、それとも数挺分掛けて、何回も試みられているのか、それが問題だ」

「難しい問題ですね」と、野武は腕組みをして言った。

「難しいも何も、答えは出ている」

「え、本当ですか?」

「置き去りにされた銃の堅固さ……それを君も確かめているだろう? 欠損はあったわけだし、亀裂の事実もあったのだが、発射基盤は問題なく維持されているレベルにあった。精度の低い3Dプリント銃にあっては、そういうのは、何挺か試した結果に選ばれたものだと考えるべきだ。三挺や、四挺ではつかない。十挺は試されたのではないか」

「では……?」彼は動きを止めて言った。「足立則昭は、我らに対し、ABSの管理量について虚偽を申請したということで、彼が犯人ということでいいんですね?」

 彼が犯人であると、みなせるだけの材料は揃っている。しかし、門脇は自分で言っておきながら、どうにも腑に落ちないものがあった。

 引っ掛かっているのは、例の3Dプリンターを思う存分、使用していいだけの立ち位置にいながら、どうして三木に管理担当を任せるようなことをしたのかということだ。それでは、目的外に使うことが知られてしまうではないか。まして、十挺分も製造したとあらば、さすがに三木も異常に気づかないはずがなかった。

「いや待てよ」と、門脇は目で考えを追いながら言った。「ここでふと思ったんだが、考えてみれば予備用と、仕掛け用の二挺分で、成功の一挺をこしらえることができたという余地は、ゼロではないんだよ。この線で筋立てしていく方が、なんだか合理的だったりはしないか?」

「……一応言いますと、十挺製造という線が採用される方が、我が方には都合がいいのです。と言いますのも、やはりというか、管理の問題からして足がつく可能性が高いという壁がありますし、何よりABSの使用量云々を逮捕の決め手とするには、弱い根拠でしかないからです」

 彼は早速、腕組みをして思案に暮れだした。

「それで、早速先程の続きを構築するとしまして……二挺分で、成功の一挺をこしらえるとなれば、成功確立はわずかに二分の一ですか。何度も撃てるなら、話は別なんでしょうが、こちらもなんだかかなり慎重さが要されることには違いなさそうです」

「いま、なんと言った?」

「え、確立の方ですか?」

「その後だ」

「何度も撃てるなら話は別って……」

「それだ」と、門脇は言った。「何度も試し撃ちしていた――そうなのかもしれん。殺害用に使用した3Dプリント銃……それは、見事に暴発しているわけだが、内部破損まで起こるぐらいだったから、実は初発ではなかったとも考えられるんだ。つまり、殺害する前に試射を何回か実行していたということだ」

「ちょっと待って下さいよ。3Dプリント銃は、単発式ですよ」

「それは、理論上のことだ。無理をして、使ってやろうとすればその限りではないはずだ。

出来あがった三挺分の銃すべてについて試射を実行し、うち、一番状態が保たれたものを、仕掛け用に採用する。二番目に状態がいいものを、殺害用……三番目は廃棄だ」

「それだと、いかにも危なっかしいやり口になってきますが……」

「思いだして欲しいのは、かなりの至近距離から発砲していて、さらには心臓という急所を狙っている点だ。これが意味するところは、犯人には、強い不安があったということだ。これは確実に成し遂げられるかどうか分からないという不安のはずなんだ」

 野武はしばらく悩ましく考えていたが、考えを切り替えたようで、すっと受け容れたような顔つきを見せた。

「例の事件は、被害者が暴れたとか、叫んだという事実はありませんでした。近所への聞き込みに回った、捜査員たちが持ち帰った情報から分かったことです。この事実は、佐貴子婦人と、犯人が面識があったことを意味しています。至近距離まで近付いていながら、

直前まで殺されることが分からないというのは、これはよっぽどのことでしょう。つまるところ、油断していたのでしょうが、逆に考えますと、犯人はこうした油断を無条件で取り付けられる人間となってきましょうか」

「大筋で言って、その見方で正しいはずだ」と、門脇は言った。「親近者というべき人物が、犯人のはずなんだ」

「とりあえず、焦点は、単に面識があるという程度では収まらない、親交のあった人物ということでいいんですね? 報告書には、そうまとめておくとしますよ」

 則昭はABSの監視量について、嘘をついているのか、そうでないのか。状況的には嘘をついているという可能性のほうが大きくあった。

 しかし、門脇としては、三挺の銃製造だけで、仕掛け用の銃をこしらえることができたという線について信じたい思いが強くあった。つまり、その選択肢を採ることの意味が示すところは、第三者が足立金属の関係者に気付かれないよう銃はひそかにこしらえられたということであり、それは則昭が、佐貴子を殺したはずがないという線に間接的にながら結び付く。

 嘘などは、いくらでも捏造ができる。だからこそ、ここでは自分の信念を貫き通すべきだった。

 だいいち、あの男の顔は、それを果たしただけの、やりきった感じがないのだ。むしろ、憤懣の強い顔つきをしている。それは、事件とは関係のない別の種類のことのように思えてならなかった。刑事として、直感が訴えかけるものがないというのは、ともすれば重要なことであるとも言ってよかった。

 

     4

 

 従業員たちそれぞれの気持ちがばらばらになったままのこの現況をどうにかしなければいけなかった。このまま行くと、その先に待っているのは、破綻でしかない。小春は一人、勇気を奮い立てていた。

 今こそ、自分がこの会社に貢献するときだ。それができなければ、自分はここにいる資格すらない。

 島田と、那須の二人がいつも待機している部屋に入った。すると、二人は案の定そこにいた。しかし無気力にうつぶしたまま、まるで動こうとしない。かなり暗い感情にひたっているようであった。その二人を目の辺りにして、小春は気が怯みそうになった。が、立ち向かっていく気力を強く持った。

「島田さん、那須さん……お話があります」

 小春の声に、二人はのそり、と反応する。のたくった聞き取りにくい声が、島田の口から何やら吐き出されたがほとんど聞き取れなかった。なんだ、とでも気に掛ける言葉でも口にしたのだろう。

「訊きたいことがあるんです。それとは、社長さんのことです。実は――」

 則昭が隠していることがあると、自ら口にしたことについて小春は訥々とながら、説明に暮れていった。これは本人には公にはしてはならないことで、この三人だけの話なのだ、と告げると、二人の目にわずかにながら精彩が取り戻されるのが分かった。

「この隠していることについて、おれらが何か知っているとでも言いたいんだろう、お嬢さんよ」と、島田は食って掛かるような物言いで言った。昨晩、細貝と言い争いをしただけに、まだ気が立っているところがあるように思われて、なんだかかなり危うい感じがあった。

「そういうのはないねえ」と、那須が調子外れの声を上げた。「おれらの口は、そう締まりが良いもんじゃないんだよ。だから、黙っているということはない」

「いいえ、知っているはずだと思います」と、小春は引き下がらない。「これは、分かり切ったことなんです。ですから、知らないと口にしましても、白々しい言葉にしか聞こえません。いま、そのことの答えが必要なんです。この工場のために……わたしたちの将来のために必要なんです」

 二人は目を見合わせた。どうする? というような、示し合わせがあるように思われた。先に吐息をついたのは、島田だった。

「仮に知っていたとしても、そのことを打ち明けることがこの工場のためだとは思えないね。そういうのは、たいてい良からぬことであって、工場の未来を摘むようなものでしかない」

「よくない事なんですか、それは?」

 小春は気持ちをためて、島田を鋭く見た。彼ははっとした顔をした。

「いや、たとえばの話で……」

「話をはぐらかすようなことは、よして下さい。わたしは、真剣なんです。この工場全体をもう一度、立ち直らせたいんです。このままでは……ここは、無くなってしまいます。失いたくないんです。わたしなんかは、まだ未熟者でしかないんでしょうが、でも、ここと一緒にずっとやっていくって決めたんです。だから、こんなところで終わりだなんて、あんまりです」

「現実的な話よ」と、尻上がりに島田は言う。「3Dプリンターは没収されたままだし、業界では風評が広がっている……。このままだと工場を畳むしかない状況だ。ただでさえ零細でぎりぎり回っている所なんだから、一週間も仕事が滞れば、どうなるかは分かっていることだろうに」

「仕事のストップは、これ以上はつづきません。……つづかせません」と、小春は真っ直ぐに言った。

 へっ、と島田が小馬鹿にしたように笑う。

「気力で押したって駄目なものは駄目なんだよ」

「こうなったら、代用となる3Dプリンターを調達してくればいいんですよ。それで、また明日からいつものように働けるじゃないですか」

「代用を用意するって?」那須が、目を見開いて言った。

「それしかないと思うんです。このまま、それが帰ってくるのを待っていたところで、どうにもなりません。島田さんが言った通りの結果だけを招くでしょう。それだったら、自ら行動をしたほうがよっぽど、賢い選択ですよ」

「それで、お嬢さん、あてはあるの?」島田の目は、平たくなっている。小馬鹿にする気持ちはまだ抜けないようだ。

「これから、貸して下さるところを巡ることになります。それができないのでしたら、またもう一機買ってもいいでしょう。ううん、むしろ、二機目を導入すべきなの。これでもって、足立金属はやっていく方針を変えるの」

「それは、お嬢さんの意見だ。社長はうんとは言わないだろうな」

「拒否をさせるつもりはありません。それに、社長さん自身、気持ちが沈んでいます。立ち直らせるためにも、今回のこれは必要なことなんです」

「どうやら、本気みたいだぜ、島公さんよ」那須が、島田に言う。

「ふん、そんな絵空事みたいな話に、同調してはならねえ。二機目を導入したって、借金が増えるだけだ。そんな余計なことをするぐらいだったら、このまま社長指示がくるまで待機した方がいいに決まっている」

「あなた方がやらないんでしたら、わたしが勝手にやります」

「それは、規則違反というやつだろ、お嬢さん」那須が、甲高い声で言う。

「規則違反ではないですよ」と、小春は強気で言う。「社長さんは昨日帰ってきましたけれども、代行を任せていたわたしに対し、解任の指示を下しませんでした。つまり、わたしは、いまも社長代行なんです。ですから、二機目の導入は、自分の裁量で許されるんです」

「そんな権限、代行に許されているはずがねえ」と、那須が慌てふためきながら言う。「越権行為だよ。それに、代行の任は社長がこの工場に帰ってきた時点で解約なんだよ。そんなのは、いちいち言わなくたって分かっていることじゃないか」

「社長さんは、いまも職場復帰の士気が得られていません」と、小春は言った。「昨日のことがあったから……なんでしょうが、それにしても落ち込みがひどい様子です。ここは、わたしが代行続行するしかないんです。解約は、無効です」

「無茶苦茶だ」那須は肩を大きくそびやかして言った。

「ふふ」と、島田が声を上げる。「どうやら、かなりやる気でいらっしゃるようだ、お嬢さん。そういう無茶は、別にきらいじゃないよ。零細だからな、ある意味、強引なぐらいに掻き回さないと立ち行かないのかもしれん。いまの社長は、それができない状態だ。ここはお嬢さんに任せるしかないのかもしれん。というより、この状況を作ったのは、おれが一因でもあるからよ、反対する理由なんてないようなもんだ」

 彼はにっと微笑みかけてきた。

「協力するよ。……どうすればいいって? 足立社長代行」

「ありがとうございます」と、小春は彼の微笑みに適うだけの愛想で応じた。「まず、なんですが。島田さんは、細貝さんに謝りにいって下さい。従業員全員の士気。これを確保しなければいけないんです。ぎすぎすしたままでは、うまく行きませんよ。そんなこと、分かっているじゃないですか」

「そうだな」と、彼は随分と時間を置いてから言った。「おれの最初の仕事は、どうやらそれのようだ。だが、こっちもなんだか崩せないプライドっていうのがあるんだよ。向こうが妥協しなければ、こっちも妥協はしねえ。だいいち、あの野郎は、社長を侮辱したんだ。それについて、反省してもらわないと困るんだよ」

「そこは、島田さんが折れて下さい」

「なんだって?」彼の眉根がぐっと狭まった。「マジで言っているのか?」

「そうする形でしか、うまくまとまらないように思えます。細貝さんは、いつだって心を閉じたままの人ですから……。ああみえて、自分に厳しい所があると思いますから、今頃、すごく内心で反省しているんじゃないでしょうか。どうか、受け容れてあげて下さい」

 しばらく、島田は困惑を見せていた。

「まあ、仕方がない」と、彼は息を呑んで言った。「この非常事態だ。もっと、そのことの深刻さをおれらは自覚しなければいけないのかもしれん。この工場を潰しちまったら、社長の名誉を守るもクソもないんだ。おれは、いまやるべき事をやらなければいけない。……と、二機目の導入の件、具体的にどうするというのか?」

 小春はポケットの中に畳んで入れていた、縦長の中型機の写真が添付されている用紙を拡げる。

「これは……?」

「ずっと、検討していました、光学造形方式の3Dプリンターです。もし買い入れするならこれだ、とちょっと前から絞っていたんです。低価格な上に、高性能。切削式のプリンターでは表現できない細かい造形が可能なんです。0.05ミリの薄い製品だって作ることが出来ますし、造形剤はフォトポリマーという素材ですから、ある程度の強度も期待できます。射出及び、成形方式なんですが、いくつかある様式の内、今回のは吊り上げ式というやつでして、専用液を満たした樹脂槽にレーザーを照射しながら、樹脂槽をプラットフォームから遠ざけていくんです。それで、プラットフォームに造形物がぶら下がる形でできあがるのです。これだと担当者は、製品の出し入れを管理するだけで済むんです」

 彼は用紙に食いつく形で見入っていた。那須も後ろから熱心に覗き込んでいる。

「樹脂槽に満たす樹脂液――フォトポリマーなんですが、少量でいいんです。わずかに百グラム程度ですよ。それで造形物ができちゃうんです。容量を少なくすることで、樹脂を一定温度保つヒーターを装備する必要を無くしたために、価格もぐっと下げられています。企業による製品のサポートも充実していますし、この商品は、何かと零細企業にとっては、親切な機械だと思います。何より注目すべき事は、この機会を提供している会社が、岐阜にあることなんです。契約してから短期間内に、機械を納入することができると思います」

「それはいいんだけれどよ、お嬢さん」と、那須が頭を押さえながら言った。「これを導入しても使い道が見つからなければ、どうにもならないよ」

「使い道は、いくらでも開拓できますよ」と、小春は強気で言う。「これだけの機械ですから、他社と差別化できないはずがないでしょう。なにより、普段使用している機よりもずっと納入を早くすることが可能なんです。ですから、受注してから、十時間以内に相手に引き渡すことを維持しつづければ、自然と発注は多くなるはずです。あとは、3Dデータと、製品管理、発送までの作業過程のシステム化、ですね。島田さんたちには悪いんですけれど、持ち機械の操業は止めてもらって、こちらを手伝ってもらうことになると思います」

「それで、この機械はいくらするんだよ」と、島田が口先を尖らせて訊いてきた。

「メーカーの管理費込みで、百二十万円ほどです」

「思ったよりも高くはないが、しかし、だからといってこの会社からそんなに簡単に出るようなもんでもない」

「労金の方から融資をしてもらおうと、思っているんです。証書貸し付けですよ。いわゆる、ローンです。それを組んでもらって……契約から一年以内に返済する計画です」

「けっこう、本気でいたんだな」と、島田が用紙を畳んで言った。「だが、あまいな。そんな簡単にうまく行くはずがない。つまずくということを知らないうちは、誰でもとんとん拍子に物事を筋立てしていくものだ。これは、本物ではないということだよ」

「そこは、気力ですよ」と、小春は言った。「うまくいかないことなんて、ないはずなんです。最後まで粘ってみせます」

「なぜなんだ」と、島田が背筋を伸ばして言った。「なぜ、そこまでして躍起になっている?次期社長としてやっていくことの覚悟がお嬢さんには備わっているということか?」

「そのことの責任感よりも、工場をつぶしたくないという思いだったり、ここで働きたいという自分の欲のほうが大きいです。愛情と受け取ってもらってもけっこうです」

 二人は何を思ったのか、ひそひそ話を開始した。声が荒っぽく、ときおり言い争うような掛け合いになった。

「協力するよ」と、那須が振り返って言った。「いえ、協力いたします。自分らも、この工場に愛着もっているんですわな。生活のためということもありましょうが、潰れてもらっては困ります。ここは、社長代行の意向に掛けてみようか、と」

「そんな、丁寧口調じゃなくって良いんですよ」と、小春は微笑みかけて言った。「いつもの那須さんでいいんです。そのほうがやりやすいでしょうし」

「おれらの扱い方……分かってきたみたいだ」と、島田が言った。「正直なところ、不良社員同然のような存在だから、扱いにくかっただろう? だが、こんなおれらでも使い道はあるんだ。それで、扱い方がなっていなければ、どうにもうまくはいかない。いまのお嬢さんは、きっとおれらをいかすやり口というのが、分かっているのだと思う。というより、ちゃんと指示には従うよ」

「ありがとう、島田さん」

「おれも、あれだよ」と、那須が照れ臭そうに言う。「エロ本とかさ、もう勝手に持ち込んで見たりしないからさ……。いや、完全にはできない。こそこそっと、影で見るぐらいにしておくからさ。いや、それも駄目か?」

 自分を律するなり、彼はしどろもどろになった。小春にとっては、悪くない愛嬌がそこにはあった。

「とりあえず、セクハラになるような言動は、わたしには止めて下さいと、言っておきます」

 彼はしゃきっと居住まいを正した。

「分かりました。言動を慎ませていただきます」

「おれのほうも注意しておきますよ」と、島田が急に神妙になって言った。「と、そんなことより、最初の質問に答えなければいけない。社長のことだ。これはある意味、この膠着状態脱出よりも大事なことだから、見過ごすわけにはいかないだろう」

「教えて下さるんですね」と、小春は言った。「隠していること。それとは、いったいなんなのでしょうか? 社長さんは、例の事件について関係することではないと口にしていましたから、私が思っているような暗いことなんかではないんでしょうが……、やっぱり気になります」

 いつしか、二人は暗い表情になっていた。部屋の明かり取りが高い位置にあるため、暗さ加減からして、憂鬱な気配すら差し込んでいるように感じられる。

 なぜか、二人はまたひそひそ話を開始した。今度のそれは、やけにあたりが強い掛け合いだった。 

「お嬢さん」と、那須がお愛想をたたえて言った。「協議の結果ですね、えー、それはいまは言うべきではない、とそういうことになりました」

 島田の口許が悔しそうにねじられている。那須が押さえこんだ形だ。どうしても不都合な事情が、あるらしかった。

「どうあっても、打ち明けられないんでしょうか?」小春は二人に迫った。

「いつまでも黙っているというわけにはいかない、それは分かっていますよ」と、顔色悪く那須は言った。「しかし、この状況では、明かすべき事ではないように思えるんです。これは、社長さんのプライバシーに觝触することで……」

「プライバシー……ですか?」

「おい、お前の口からそれを言ってどうする?」と、島田が那須の身体を押さえつけに掛かる。二人の言い争いがはじまった。

「やっぱり、社長さんの過去に関係することなんですね」と、小春は言った。「それは、会社のことにも繋がることなのでしょう。……気になります。が、打ち明ける段階にないと聞けば、しつこくは求めません、ただ、約束して欲しいんです。いつの日かは、そのことを語って下さる、と。というのも、なんだか社長さんには直截訊きにくいところがあるので……」

「まあ、それは約束するよ」と、島田が言った。「これだけ工場再起に情熱を傾けていることだし……、お嬢さんは無関係ではない。まして今回のことがうまく行けば、頭が上がらない存在にさえなるわけなんだから、求められれば、きっちり応じる必要がある」

「そうだな」と、那須も納得の顔つきで呼応する。「しかし、訊きにくいところがあるといのは、なんだかかなり遠慮している感じだ。社長だから、ある程度の距離感は保たなければいけないんだろうけれど、でも、それじゃあ駄目かもしれん」

「やっぱりこういうことは、勇気を奮ってでも、直截聞いたほうがいいのでしょうか?」と、小春は問う。「社長さんは、こう言っていました。これは、近いうちに分かることなのだ、と。どうしてそれが明らかになるのかは、分からないんですが、いずれにしても明らかになるなら、その日がくるまで待つしかないのかなと思いまして、いろいろ我慢していたんです」

「いずれ明らかになるというのは、どういうことだ?」那須が島田に訊いた。

「何か、起こっているということだよ」と、島田が渋い顔をして言う。「なんか、それに関することが最近、起こったっけ……?」

「何だか知らんが、ついこないだ寝込んでいる社長のほうに手紙をとどけたんだが、その中に家庭裁判所からの通知が入っていたのを見たわけなんだが……」

「なに? ついこないだって、いつの話だ」と、島田が血相を変えて、那須に問う。

「三日前、それぐらいだったか? ボックスのほうに突っ込んでおいたわけだけど、これまで休んでいた分、溜まったままでいるから、復帰した今頃、それを読んでいる頃だと思う」

「ばっか。なんで、そういうことを報告しないんだよ」

 那須の顔が弱った。

「ほら、警察に呼ばれて出て行っているわけだし……そっち関係のあれかな、とか勝手に思い込んでしまったんだ」

「家裁からの通知……」と、島田は顎に手を当てて、考え込みに入る。「いったい、何が届いたんだろうな? 事件はつまり、元内縁の妻が殺された形なんだから――」

 結論に達したのか、島田ははっとした顔になった。

「あれだ」と、声を上げる。「認知についての、調停の報せだろう。そうだ、隼斗だ。そいつから、申し立てられたんだ。認知をしろということで、書類でもって催促してきたんだ」

「なんで、いまさら……」那須は、顔をしかめてつぶやいた。

「いまだからこそ、そいつが動いたんだよ」と、島田は勢いよく言う。「そうだ、相続権だ。非嫡出子から嫡出子と繰り上がれば、社長の立派な法定相続人となり、相続財産について恩恵を受ける一人となれる。というより、社長は独り身だから、相続人がいないわけで今回隼斗が相続人になれば、だよ。まるまる遺産が転がり込んでくる計算になるんだ」

「なんだって……!」那須は唖然とした顔つきで言った。「そんな怖ろしいことを実行しただなんて……。というより、事件があってから直後に行動するって、どういう神経しているんだ?」

「もしかして、社長の隠している事って、このことに関係することなんですか?」と、小春が横から問うた。

「いや、それは……」と、島田は鼻白んだ顔を見せた。「関係しているようないないような……」

 その後、彼は思案に暮れ、思いつめたような顔になった。なにやら、よからぬ事に気付いてしまったといった案配であった。

「調停って、どういう風にするんだろうか」と、那須がそちらに振って話を逸らした。「話し合いで決着するというのだったら、社長は拒否をするに決まっている。それとも、社長にとって具合が悪いようなことがあったりするのだろうか」

「調停というのは、話し合いに決まっているだろう」と、島田が乗っかかって彼に言う。「おれの友人が離婚協議をするに当たって、裁判所に呼び出されたから話を聞いて、いらんほどに知っているわ。拒否をしたら、社長にとって具合が悪いことになるのは当然だろうな。応じなかっただけで、調停不成立になって、今度は同じ家庭裁判所に訴状を出す流れになるんだ。そのとき、ただのもめ事から、事件に昇格になるってことだ」

「それで、どうなるんだよ」

「裁判だから、ちゃんとした闘いになるってことだろ。ここで、鑑定申立書というのが、同時に出されていたら、DNA鑑定が行われることになる。これだって、応じないとますます立場が悪くなるな」

「ほう、DNA鑑定ねえ」と、那須は表情を軽くした。「もし、訴えられることが分かっていたなら、社長側としてはあえてここに至るまで待つとなるか。いや、鑑定様式ってどうなっているんだ? そっちが気になるわ」

「それには、二通りある」と、島田は二本指を立てる。「一つは、公的鑑定というやつで、もう一つは私的鑑定というやつだ。公的のほうが、かなり変わっている。裁判所内で、対象者それぞれの口の中から、綿棒か何かでDNAを直截採取し、鑑定してもらうんだ。実行者は、出張鑑定人というやつで、裁判所が認定している提携業者だ」

「DNA鑑定って、その場で結果が出るんだっけ?」

「もちろん、時間がかかるんだろうが、そこは大幅にカットできる簡易鑑定キットというのがあるんだろうよ。それで、私的鑑定のほうだが、こちらは同じ業者が発送する、郵送キットというやつに自分で採取した粘膜を送り返せばいいってやつだ。こちらのほうが、公的の費用よりも半分ぐらいで済むし、わずらわしくないから一般的だと思う。が、こいつには欠点があるわけで、郵送の段階で細工しようと思えば、それはいくらでも可能なんだ」

「なんだって」と、那須は慌てた反応をした。「それだけは、社長にはよしてもらったほうがいいに決まっているよ。と、社長、このこと知っているかな?」

「知らないはずがないだろう。しかし、いま社長はいろいろと弱っている。だから、念のため、付き添ってその事を伝えてやらないと駄目だろうな。と、今日、おれまだ社長に会っていないよ。お前、見かけたんだろう? どんな感じだった?」

「いや、知らん。おれも会っていないんだ」那須は、首を振りながら言った。

「さっき、いまごろ手紙を読んでいる頃だろうって言ったのは、お前だ」

「それは、想像の話だよ。話し聞いてたら分かるだろ」

「社長は……」と、小春が口を挟んだ。「まだ寝込んでいるみたいです。もっとも、いまから三時間前の話ですから、いまどうなっているのかは分かりませんけれど」

「寝込んでいる? そりゃ、いけない。ちょっと様子見に行ってくるわ」島田は慌てて、事務所のほうへと飛び出していった。那須も、その後を追い掛けていった。

 一人取り残された小春は、慌ただしい二人から解放されて長い息が洩れた。

 気持ちを取り直して、自分が打ち立てた3Dプリンターの導入計画のことを頭に浮かべた。

 早々に実行しなければいけなかった。足立金属は零細企業なのだ。行動に遅れを取ると、その分だけ損害額が大きくなってしまう。こういう時だからこそ、思い切った行動が必要なのだ。                          

 則昭に対し、申告しなくても大丈夫だろうかという懸念については、ここでは深く考えないものとする。反対されれば、窮地に陥るのは目に見えているのだ。だからこそ、ここは、強引にでも押し切っていくのが得策のはずだった。

 気掛かりなことがあるとすれば、一つだけあった。

 それは、融資の相談に持ち掛ける際、社長代行という肩書きが、契約する上で認可されるかどうかということだ。

「お嬢さん……」と、頼りない声がのそりと忍びこんできて、小春は思わず悲鳴を上げそうになった。

 声がしたほうにいたのは、鵜飼であった。

「鵜飼さんだったんですか。いつからいたんですか? いたなら、声ぐらい掛けて下さいよ。吃驚するじゃないですか」

「すいません、お嬢さん」と、彼は言った。「けっこう前から、いたんですけれどね、どうも話しかけるタイミングが……」

 彼は辟易しつつ言って、手に持っていたものを小春に示した。それは、普通口座の預金通帳であった。印鑑まで用意している。名義は、彼のものとなっている。

「融資の件で、これから労金まで相談に行くのでしょう? というより、時間を争うわけですから、即日融資を頼むんですよね? まあ、金額的に見て少額でしょうけれど、でもだからといって申請がすんなり通るとも思えません。これは、同じ労金の口座ですから、何かと役に立つはずです。持っていって下さい」

 彼は印鑑とともに通帳を差し出してきた。家の中に大事に仕舞われているもののはずだ。それがいま、彼の手に握られているのは、慌てて家に引き返して、持ちだしたからだろう。つまり、ずっと前の時間から傍にいて、やり取りを見聞きしていたのだ。

「駄目ですよ、受け取れません」と、受け取りを拒否しつつ、小春は厳しい口調で言った。「鵜飼さんの口座じゃないですか。鵜飼さんはここの従業員ですよ? どうして、従業員さんからお金を受け取らなければいけないんです?」

「そうは言わず、使ってやってください」と、彼は言った。「わたしは、教養というやつがありませんからね、それに趣味もないんです。ですから、お金の使い道について、いつも持てあましているんです。こういう時にこそ、使うべきでしょう。この通帳には、こつこつ貯めた、六百万が入っています。なんでしたら、それで機械を買ってもいいんですが、お嬢さんが頑なに拒否なされるのでしたなら、担保に使ってもらえればそれでいい」

 鵜飼は小春の手を取って、何とか握らせてこようとする。小春は抵抗した。

「駄目です。担保でも、それは使えません……」  

「会社の命が掛かっているんですよ?」と、鵜飼は柄にもなく、厳しい口調で言う。「潰れてしまえば、当然皆、路頭に迷います。他に当てがあればいいんですがね、しかし、お嬢さんの預金にしたって、社長の蓄えにしたって、当てにならない。というのも、お嬢さんは働いてからまだ年季が浅いし、社長はああ見えて自分の財産を工場に注ぎ込んでいるタイプでしょうし、まとまったお金などどこにもないのです。それに、担保としての六百万は、融資額を大きく上回っていますから、相手としても二つ返事で決めて下さることでしょう。押していけるだけの、材料になるということです。こういうのは、一気に決めてもらわないと、駄目ですよ」

 最後には、彼の顔が爽やかになっていた。その様を目の辺りにするなり、小春は全身の力が抜けるのを感じた。いつしか、彼の仕向けによって通帳を握らされている自分がいた。

「額面の確認を」

 彼から言われるままに、小春はおそるおそる通帳を開いた。六百万円を超える数字が最後尾に記帳されてあった。一覧はお預り金額の欄の記帳のほうが、断然多かった。こつこつと貯めたというのは、本当のようだ。

 ますます、この通帳を使えないという気分になった。

「忘れていませんか?」と、彼は言う。「ここの資金繰りの方は、そううまくいっている方ではないことを。少し、支払いが遅れて、借金返済の遅延が発生しているほどなんです。当然、土地と工場はいまだ抵当に入ったままです。社長は口にしていませんが、その他の資産についても担保に入れられたままのはずでしょう。マイナス条件がそろっているということです。このままだと、融資は厳しいんです」

 借金返済が遅延していることは、小春にも分かっていた。それは、程度の浅いもので、経営に影響するものではなかったが、しかし融資という点においては、かなり不利に回る材料であることにはちがいなかった。

「ですから、それを使うしかないのです」と、彼は言った。「わたしも協力しますよ。みんなで、幸せになりましょう。それができると知っているから、わたしは通帳をあなたに預けるのです。それに、社長は今が一番に落ち込んでいるとき……。助けなければいけないのは当然です。この工場を潰したくないのは、お嬢さん、あなただけじゃないんですよ」

 彼はまた、小春に微笑みかけてきた。

「しっかり、後ろで聞いていましたよ」と、彼は言った。「工場をつぶしたくないんだ、ここで働きたいんだ……お嬢さん、それを聞いた時は、嬉しかったですねえ。あんなに強い口調でおっしゃるものですから響きましたよ、胸に。こんな年ですがね、目頭が熱くなって、涙が出そうになったほどです」

「鵜飼さん……」

 気持ちにはまだ迷いがあった。通帳は預かれない。これは返すべきものなのだ。しかし、それをすると今、気持ちが昂ぶっている鵜飼いの気持ちを踏みにじるという、侮辱行為になってしまうように思われた。

「わたしも闘いますよ」と、彼は言った。「営業のやり手であります、大黒さんは今日もいません。ですから、融資の相談は、わたしが同伴します。通帳の持ち主ですから、その資格がありましょう。というより、労金には知り合いがいるんです。こういうのは信用問題ということもありますし、力にはなれるはずです」

 受け取れないという気持ちが彼には伝わっていたためなのだろう。だから、それを拒否させないために、彼は同伴すると申し出てきたのだ。

 もはや、断る理由はなくなったようなものだ。

 受けるからには、しっかりとやらなければいけない、と小春の気持ちがこのとき引き締まった。

「鵜飼さん、ありがとうございます。なんとか、この危機を乗り越えて、社長を……工場を盛り上げていきましょう」

 返ってきた鵜飼の柔らかな微笑みに、小春は声を上げて泣きそうになった。

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ